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資料紹介 湾岸戦争で米軍の兵站家が指摘した作戦兵站の課題は何か?

1990年にイラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争が始まったとき、アメリカ陸軍軍人ウィリアム・パゴニスはアメリカ軍の戦力投入を指揮した兵站家として知られています。回顧録が有名ですが、自らの経験をもとにして作戦兵站の特性を論じた報告書「作戦兵站と湾岸戦争(Operational Logistics and the Gulf War)」の著者でもあります。クラウス・ミッチェルとの共著の報告書です。そもそも、作戦兵站がどのようなものであるかというところから議論を始め、湾岸戦争で自らがどのようにそれを運用したのかが述べられています。

Pagonis, William G, and Michael Krause. 1992. Operational Logistics and the Gulf War. Washington DC: The Institute of Land Warfare, Association of the United States Army.

軍隊が大規模になるほど、それを支える兵站システムは鈍重になります。それは単に大量の補給品を部隊に輸送しなければならないためだけではありません。補給品の管理を適切に保つためには、補給品の質と量に応じた人員が必要であり、また兵站部隊の間の連携を確立することも必要です。この問題がはっきり現れる領域として、著者らは作戦兵站を取り上げています。

アメリカ陸軍は、1980年代に部隊運用の階層として戦略と戦術の中間に作戦術(operational art)を追加しました。基本的に戦略は政治的な目的を達成するために戦争を遂行することに関係しており、戦術は戦闘を遂行することに関係していますが、作戦術は軍事的な成果によって戦略を遂行することに寄与するものです。著者らはこの作戦術の階層における兵站、つまり作戦兵站(operational logistics)の特性については十分に検討されてこなかったことを問題として提起しています。

作戦兵站が重要である理由は、特定の作戦地域に対して部隊を集中することを可能にするために、兵站を適切に運用する必要があるためです。著者らは「兵站は戦闘力を集中的に投入する能力を提供する。それは戦闘、戦役、戦略の条件を整える方法であり、将来の戦力の使用を可能にするために計算される。兵站は、戦域において部隊がどのようにして、いつ、どこに到達するかを決め、戦闘力をどこで、いつ集中できるかを決める。兵站は作戦構想と機動の方向(scheme of maneuver)を下支えするものであり、大きな力を生み出すための支点である」と説明しています(p. 4)。

1990年に勃発した湾岸戦争において、アメリカはサウジアラビアを防衛すること、クウェートを解放すること、そして敵対するイラクの武装、特に大量破壊兵器を破壊することによって、中東地域の安定化を図ることを戦略として採用しました。この戦略を踏まえて作戦の立案を任されたのが中央軍司令官ノーマン・シュワルツコフであり、彼はイラク軍の勢力の源泉となっている重心をイラク共和国防衛隊とイラク軍の指揮統制システムの二つに絞り込んでいます(p. 6)。そこから導き出された作戦構想としては、まず敵のイラク軍の情報通信機能を低下させることが目指されていました。この役割を担うのは空軍です。空軍の作戦が終わり次第、クウェートの領土を占領するイラク軍の部隊を二つの方向から機動打撃することが構想されました。一つ目のアプローチは、ペルシャ湾の海路から作戦部隊を接近させるもので、二つ目のアプローチはサウジアラビアから陸路でクウェートに接近させるものでした。これら二つのアプローチでクウェートにいるイラク軍の部隊を孤立させることによって、イラク軍が予備として後方に残していたイラク共和国防衛隊を誘致させることが狙いでした。イラク共和国防衛隊に決戦を挑んで撃破できれば、イラクに甚大な打撃を加えることになるとシュワルツコフは期待していました。

このような作戦構想を実行するため、兵站に責任を負うパゴニスが考えなければならなかったのは、サウジアラビアとイラクの国境地帯に沿って兵站基地を設定することでした。少なくともアメリカ軍の軍団2個が展開するために必要な兵站基地を速やかに構築しなければならないと見積もられました。しかし、現地は港湾、空港から遠く離れており、交通路も限られていました。さらに、すでに現地に展開していた軍団の位置は作戦構想に適していなかったので、多くの部隊を再配置する必要がありました。しかも、その一連の動きをイラク軍から秘匿することが強く要求されました(p. 8)。

前もって兵站基地を構築するために兵站部隊を動かせば、そこに戦闘部隊が移動してくることが明らかになってしまい、奇襲の効果が薄れてしまいます。このため、兵站部隊はクウェートからの撤退を要求した国連安保理決議が定めた1991年1月15日の期限が過ぎるまでは、兵站基地を構築するための行動をとることができない状況でした(p. 9)。パゴニスはこの制約を受け入れた上で以前の計画を見直し、1990年12月29日までに1991年1月16日から動き始め、18日間で軍団の移動と兵站基地の構築を完了させる計画を作成しました(Ibid.)。

こうした経験から作戦兵站が作戦術といかに密接な関係にあるかが分かります。シュワルツコフの作戦構想の内容にイラク軍が気が付いていれば、クウェートを守るイラク軍の部隊が防御線を西に向かって延伸する恐れがあり、それによってアメリカ軍の作戦機動が制限される可能性ありました(p. 10)。著者らは作戦術としての火力運用を可能にする上でも作戦兵站の成功が前提であったと指摘しており、弾薬の事前集積が特に大きな問題であったとされています。作戦機動を促進するには、火力発揮の基盤となる弾薬の集積が重要ですが、限られた時間で港湾から離れた位置に40万トンを超える弾薬を輸送し、集積することは大きな挑戦でした(p. 11)。

短期間で複雑かつ膨大な兵站活動を律するため、シュワルツコフは戦域内の兵站活動を第22支援コマンド(22d Support Command)の司令部に統制させています。戦域の兵站活動をすべて一元的に統制できたことの効果は大きかったと評価されており、革新的な取り組みであったとされています。

「戦域支援コマンドでは、計画と運用に関する指揮が集権化されていたが、実行については分権化された。これによって、努力の集中が可能となった。コマンド全体のコミュニケーションが新旧両方の手法により、革新的で想像力が豊かな管理を通じて実現された。(3×5インチのカードを使って、すべての兵士が自分を指揮する将官と意思疎通できるようにしたことはユニークな取り組みであった。この単純で有効な媒体によって、一兵卒のアイデアがすぐに司令官にまで届くようになったのである)。ブリーフィングと徹底的なレビューは毎日行われた」

(p. 13)

1月以降に54万名の兵士と11万7000両の車両、1万2000両の戦車および装甲車両が展開または再展開されました(p. 13)。著者らは湾岸戦争の兵站活動では既存のドクトリンから逸脱しなければならないことがあったと指摘しており、不測の事態に即座に対応できる柔軟性が重要であることを強調しています。兵站組織の内部において迅速で革新的なコミュニケーションが問題解決を保証することも重要な教訓とされています(p. 14)。

戦争を遂行する上で兵站が重要であることは常識的なことですが、兵站活動をどのような体制で統制することが必要なのか、その際に作戦術と兵站が見せる相互作用は十分に認識されているとはいえないと思います。例えば、作戦術の原則として、敵部隊の縦深地域を機動打撃するにしても、湾岸戦争の事例で見られるように、打撃部隊を展開するためには大規模な基地を設定しなければなりません。兵站活動の先行性、効率性が作戦術の有効性に与える影響は極めて大きなものであるといわなければならないでしょう。

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