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論文紹介 独裁者の軍隊は短期間の改革で戦闘効率を急上昇させる場合がある

1980年9月、イラクのサダム・フセイン大統領は、隣国のイランに対して武力攻撃を発動し、イラン・イラク戦争を開始しました。この戦争は短期で終結に至らず、最終的に1988年8月まで戦闘が続くことになりました。冷戦期の中東情勢に大きな影響を与えた地域戦争として現在でも調査研究が進められています。

イラク軍は湾岸戦争(1991)イラク戦争(2003年)でアメリカ軍を中心とする多国籍軍に敗北を喫したことから、無能で非効率な軍隊のように見なされがちです。しかし、Catilin Talmadgeはそのような前提でイラン・イラク戦争の歴史を解釈することには大きな問題があると指摘しています。特に末期のイラク軍は模範的な指揮統制のメカニズムを確立し、戦場で効果的な諸兵科連合運用が実行されていたと主張しています。

イラン・イラク戦争におけるイラク軍は、独裁的政権の下では軍隊の効率性が犠牲になると説明する政治学の理論を反証する重要な事例であるとも述べられています。

Talmadge, C. (2013). The Puzzle of Personalist Performance: Iraqi Battlefield Effectiveness in the Iran-Iraq War. Security Studies, 22(2), 180–221. doi:10.1080/09636412.2013.786911


基本的戦術・複合的作戦の視点

軍隊の能力は、人員の規模や武器の性能だけで測定することができるほど単純なものではありません。軍隊が組織として任務を遂行するために、人員や武器を戦闘力として組織化し、それを効率的に運用できるかが能力水準を規定します。軍事分析では、軍隊の能力を戦略、作戦、戦術という異なる次元、あるいは単位で把握することが一般的ですが、著者が注目しているのは作戦から戦術の次元にかけて観察される戦場効率(battlefield effectiveness)であり、具体的には基本的戦術(basic tactics)と複合的作戦(complex operations)の二つの能力です。

どちらも著者が導入した用語であり、イラク軍の基本的戦術は「イラク軍の部隊が武器の操作、射撃、地形を活用した隠蔽と掩蔽などの初歩的な軍事的技能を習熟していたかどうか」によって判定されており、複合的作戦については「戦術的に熟練したイラク軍において、下級部隊が主動的に動き、また上級部隊が異なる部隊間の連携を要する作戦を遂行できていたか」で判断されています(p. 186)。これらの評価を踏まえることで、歩兵部隊と戦車部隊、戦車部隊と砲兵部隊、陸上部隊と航空部隊などの能力を組み合わせる諸兵科連合運用の実態を明らかにすることができれば、イラク軍が軍事的観点でどれほど効率的であったのかを評価できます。

イラン・イラク戦争の略史

当時、イラクが開戦した理由は、ティグリス川とユーフラテス川が合流し、ペルシャ湾に注ぐシャットゥルアラブ川をめぐる領土紛争とされていましたが、実際にはイランがイラクの政治体制を「非イスラム的」と非難し、イラク国内で反体制派を扇動していたことが問題となっていました。イランは、イラクの北部で少数民族のクルド人を支援し、イラクの中部に位置するナジャフではシーア派の聖職者を「イラクのホメイニ」と宣言して宗教的権威を与えました。1980年4月に、バグダッドの大学でシーア派の反体制派組織であるイスラーム・ダアワ党がフセイン大統領の下で副首相を務めていたターリク・ミハイル・アズィーズの暗殺未遂事件を起こしたために、フセイン大統領はイランを大きな脅威として認識するようになりました。

フセイン大統領は、開戦直後からイラク軍の部隊をイランの領土の奥深くに前進させる作戦をとり、1981年の初めまで攻撃を続けさせていました。しかし、イラン軍は多くの犠牲を出しながらも組織的な抵抗を続け、時間的猶予を確保して反攻に転じました。この反攻が成功したことにより、イラク軍は多くの占領地を手放して後退することを余儀なくされています。イラン軍の反攻は1982年の夏まで続き、イラク軍は一時的に占領したほとんどの地域を失いました。この段階でイラクは停戦を提案していますが、イランはこれに同意せず、イラクの領土にまで兵を進めてきました。

1982年から1987年にかけて、イラク軍はイラン軍の攻撃を食い止めるための防御戦闘を繰り広げています。1987年にイラク軍はようやくイラン軍に反攻し、戦いを主動するようになりました。1988年にイラク軍は5度にわたってイラン軍に対する反攻を連続的に実施し、それまでにイラン軍に奪われた領土を次々と取り戻しました。イラクは、この決定的勝利を踏まえて再び停戦を提案し、イランがこれを受諾したことにより、イラン・イラク戦争は終わりました。

軍事的観点で興味深いのは、1980年から1986年までのイラク軍と、1986年以降のイラク軍とでは、軍事的効率性に大きな違いがあるということです。著者の調査によれば、イラク軍が開戦から6年にわたって軍隊の規模と武器の効率において優位に立っていたにもかかわらず、その作戦は効率的ではなく、戦術的に稚拙でした。1980年9月に最初の攻勢作戦を発起したとき、イラク軍はイラン軍に対して大きな勝利を収めたこともありましたが、これはイラク軍の作戦運用が優れていたというよりも、イラン軍を奇襲できたことによるものでした。この奇襲の効果は時間の経過に従って減退しました。

しかも、イラク軍の兵士がイランの領土を前進するにつれて、市街地で多くの戦闘が生起するようになりました。そのような環境では歩兵部隊に高い戦術能力が必要であり、戦車部隊との連携や砲兵部隊の支援も必要でした。しかし、イラク軍の歩兵部隊は偵察斥候を送り込むこともせずに市街を前進し、主力は激しい抵抗に晒されることがありました。イラク軍の砲兵部隊の射撃は不正確であり、イラク軍の戦車部隊はイラン軍の戦車部隊よりも操縦と射撃の技量で劣っていました。

最も致命的だったのは、イラク軍の作戦計画が十分に研究されたものではなかったことです。驚くべきことですが、当時のイラク軍の作戦計画は1941年に立案されたものを基礎としており、適切に更新されていませんでした。

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