見出し画像

メモ 開戦準備を進めている指導者は、どのような嘘で自分の意図を隠すのか

1935年5月21日、ドイツで政権を掌握した指導者であるアドルフ・ヒトラーが国会で行った演説は、開戦の準備を進める指導者が、自らの意図を覆い隠す際に用いる嘘にどのような特性があるのかを考える上で格好の事例を与えてくれています。

「我々の全般的な、ヨーロッパの苦境の本質を除去するためには、いかなる戦争も不適当なものであり、却ってこの苦境を増すだけであるという、簡単で原始的な認識から、ドイツは平和を欲するのである。現在のドイツは、国内の損害を回復するという大事業の中で生活しつつある。我々の物的計画は今後10年や20年では終わらないであろう。我々に課せられている精神的な任務も、その完遂は今後50年、否恐らく100年では済まないであろう」(邦訳、ホーファー、241頁)

この平和主義的な演説はヒトラーが1933年に政権を掌握した直後から国防軍の増強に乗り出していたことを隠蔽することが目的であり、この演説を行う2か月前には「国防軍建設のための法律」(1935年3月16日)を制定し、国防軍の兵役をドイツ国民の義務としただけでなく、ドイツ陸軍の平時編制を12個軍団、36個師団に拡大しています。

ヒトラーが平和主義者であるかのように振舞っていたのは、周辺諸国から警戒されることを避ける必要があったためです。もしドイツの軍備拡張が完了する前にフランスがドイツの意図を察し、先んじて武力攻撃を加えれば、ヒトラーには対処するための兵力がなく、危機的状況に追い込まれる恐れがありました。

このことは1933年2月3日に陸海軍の将官に向けてヒトラーが述べた非公開の訓示の中でも言及されており、「最も危険なのは国防軍建設機である。その時には、フランスに果たして政治家がいるか否かが明らかになろう。もし政治家がいるならば、我々に時を籍さず、フランスから攻撃をかけてくるだろう」と述べています(同上、244頁)。ヒトラーはフランスから危険視され、攻撃されることを避けるため、軍備拡張の意図を察知されないように注意していました。

政治学者ハンス・モーゲンソーは、ヒトラーが政権を掌握してから、戦争の準備を進め、1939年に開戦するまでの経緯を同時代人として目撃しています。彼は当時の様子を念頭に置きながら、国際政治では指導者の意図がイデオロギーによって偽装されていることがあり、それを識別することは容易いことではないと述べています。

「ところで、これらイデオロギー的偽装を見破り、その背後にある実際の政治的諸力と諸現象をとらえることは、国際政治を学ぶものにとって最も重要でむずかしい問題のひとつである。この仕事が重要なのは、それができなければ、たまたま問題にしている対外政策の性格を正しく測定することが不可能だからである。帝国主義的傾向とその特定の性格を認識できるかどうかは、一般に帝国主義的欲望を広く否認するイデオロギーのみせかけと、追求されている政策の実際の目標とを明白に区別できるかどうかにかかっている。しかし、これを正確に区別することはむずかしい」(邦訳、モーゲンソー上巻7章)

多くの人々は生活の中で相手の言葉が嘘偽りであるかもしれないと警戒することはあまりないかもしれません。そのため、政治学の研究者は政治家が自らの意図を隠そうとして嘘をついている可能性をはっきりと意識しておくことが重要です。

嘘をつくことは、支持を失うことに繋がる場合があるため、政治家にとってはコスト、つまり観衆費用(audience cost)を支払わなければならない場合があることも忘れてはなりません。ただ、ヒトラーのように独裁的な権力を確立した指導者にとって、嘘をつくことの費用は、民主的な政治指導者に比べてより小さくなるため、より頻繁に内外の関係者を欺くことが可能となるでしょう。政治家の発言内容に関しては既存の情報と照合し、その整合性を確認することが大前提になりますが、その国の政治体制の特徴を手掛かりとすることによって、その信頼性を大まかに判断することもできます。

参考文献

ワルター・ホーファー著、救仁郷繁訳『ナチス・ドキュメント』ぺりかん社、1982年
モーゲンソー、原彬久訳『モーゲンソー国際政治:権力と平和』全3巻、岩波書店、2013年

関連記事


調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。