記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

【映画コラム/考察】『ベルイマン島にて』ミア・ハンセン・ラブ監督「母性の幻影によって残されたパターナリズム(父権主義)②」《2022年印象に残った映画》

『ベルイマン島にて』ミア・ハンセンラブ監督
『ロスト・ドーター』マギー・ギレンホール監督
『仮面/ペルソナ』イングマール・ベルイマン監督

※この記事は、『わたしは最悪。』と一部、関連させて考察しています。

『ベルイマン島にて』におけるパターナリズム(父権主義)


 『ベルイマン島にて』は、イングマール・ベルイマン作品の撮影現場でもあり、ベルイマン自身が後半の人生を過ごした場所でもあった、フォーレ島を舞台にした作品です。

 主人公のクリスは、新進気鋭の映画監督で、年上のパートナーであるトニーは、既に名を成している著名な映画監督で、この二人の微妙な距離感が、作品の軸になっています。この二人の関係は、ミア・ハンセンラブ監督自身とオリヴィエ・アサイヤス監督の関係を連想させます。そして、クリスとトニーの関係は、『わたしは最悪。』のユリヤとアクセルの関係と類似しています。

クリスは、トニーに、助言を求めるにも関わらず、トニーの言動に反発を覚えています。フォーレ島のガイドバスに参加しないことは、まさに象徴的な行動です。これは、パターナリズム(父権主義)に対する抵抗・嫌悪感を感じさせる描写となっています。


『ベルイマン島にて』『ロスト・ドーター』における女性と"母性"の幻影の葛藤

また、クリスの脚本の主人公エイミーは、『ロスト・ドーター』同様に、女性としての欲動を抑えきれない女性であると同時に、パターナリズム(父権主義)に立ち向かう女性として描かれています。そして、ヨセフ役の俳優とクリスとのただならぬ関係を匂わせる劇中作となっています。

《過去の記事》

しかし、トニーとの関係を思い留めているのが、『ロスト・ドーター』と同じく、娘の存在です。これは、『わたしは最悪。』と同様に、母性の幻影によって、パターナリズム(父権主義)から逃れられない構図が浮かび上がります。




『ベルイマン島にて』における"母性"の幻影に取り憑かれたベルイマン


この母性の幻影は、実は男性側にも影響をもたらしています。トニーも、『わたしは最悪。』のアクセルと同様に、助言をあえて避けるなど、パターナリズム(父権主義)を押し付けない配慮が見られます。ただ、映画の構想メモのように、アクセル同様に、有害な男性性を持ち合わせている一面もあります。

実は、クリスのトニーへの反感は、そのまま、クリスのベルイマンに対する反感や疑念に向けられます。特に、クリスは、ベルイマンが子どもの世話など家庭のことをすべて妻に押し付けていたことの非難しています。

しかし、さらに作品で強調されているのが、そんな妻を心から愛していた点です。これは、ベルイマン自身が、母性の幻影に支配されていたことを暗示しているのかもしれません。パターナリズム(父権主義)の根底に母性の幻影が大いに影響を与えていると言い換えることもできます。



ベルイマン『仮面/ペルソナ』と"母性"の幻影


フォーレ島で撮られた作品の一つに『仮面/ペルソナ』があります。精神病を患った女優が、療養先で看護師と過ごすという話ですが、実は、その看護師は、女優の別の人格(ペルソナ)であったと解釈ができるような作風になっています。この人格の分裂が起こった理由として、女優としての自分(ペルソナ)と母親・妻としての自分(ペルソナ)との葛藤が暗示されています。『ベルイマン島にて』のクリス、『ロスト・ドーター』のレダも、同様に、母性の幻影によって二つのペルソナの葛藤に悩まされる人物であると言えます。



『ベルイマン島にて』『ロスト・ドーター』のラストにおける"母性"の幻影による一時の安らぎ


『ベルイマン島にて』の最後の場面は、トニーに連れられて来た娘と再会する場面です。この場面は、『ロスト・ドーター』と同様に、"母性"の幻影にゆる一時の安らぎを得るシーンになっています。
ただ、これは同時に、"母性"の幻影によってパターナリズム(父権主義)から逃れられない女性の物語と見ることもできるのではないでしょうか。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?