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【映画コラム/考察】『わたしは最悪。』ヨキアム・トリアー監督「母性の幻影によって残されたパターナリズム(父権主義)①」《2022年印象に残った映画》

『わたしは最悪。』ヨキアム・トリアー監督
『あのこと』オードレイ・ディヴァン監督
『テルマ』ヨキアム・トリアー監督
『ロスト・ドーター』マギー・ギレンホール監督


 

『テルマ』とパターナリズム(父権主義)からの解放


『わたしは最悪。』について語る前に、ヨキアム・トリアー監督の前作『テルマ』について触れておきたいと思います。

 『テルマ』は、ジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』がそうであるように、一見、だだのオカルト・ホラーテイスト作品のようで、本当は、テーマ性を持っていて、寓話的によく錬られた作品です。

 その『テルマ』におけるテーマ性とは、パターナリズム(父権主義)からの解放です。

『テルマ』は、パターナリズム(父権主義)によって抑圧された欲望を、超常現象という形で表現した作品であり、テルマのラストでの行動は、まさに、テルマの母親を含めた女性のパターナリズム(父権主義)からの解放を達成するものです。


『テルマ』から『わたしは最悪。』への深化

 そして、『わたしは最悪。』では、そのテーマ性は引き継ぎつつも、さらに深化しているように感じられます。

この作品において、一見、主人公のユリヤの気まぐれによって、ユリヤに最悪な状況がもたらされ、さらに周りを振り回しているように思われます。

でも、実際は、逆で、ユリヤは、『テルマ』の主人公テルマとは異なり、一見、自由意志(選択)を行使しているように見えて、実は、パターナリズム(父権主義)のループから逃れられない様子が描かれています。

主人公のユリヤは、優秀で、器用で、行動的なキャラクターとして設定されているにも関わらず、パターナリズム(父権主義)から解放されないのです。


『わたしは最悪。』と『あのこと』における"妊娠"

その原因として、最も大きな鍵になっていると思われるのが、ユリヤの妊娠をめぐる葛藤です。同じく、2022年に公開された、アニー・エルノーの『事件』を原作とした、オードレイ・ディヴァン監督『あのこと』と同様のテーマ性を持っています。

まず、グラフィックノベル作家として成功している年上の恋人アクセルとの関係に歪みが生じる契機となったのが、アクセルに子供が欲しいと言われた場面です。グラフィックノベル作家として成功している年上の恋人と設定自体が、パターナリズムを匂わせていますが、この場面でのアクセルの発言も極めて、典型なパターナリズムを感じさせる言動です。これは、『テルマ』におけるテルマと父親との関係に類似しています。アクセルには、作品の内容を通して、有害な男性性の影を感じさせる描写もあります。ただ、アクセル自身にも自覚がなく、むしろ弱い人間を感じさせる描写も多く、アクセルの個人的な問題ではなく、パターナリズム(父権主義)が残る社会的な背景を問う姿勢が感じられます。

そして、そこにアイヴィンという社会的な地位がない青年というパターナリズムを感じさせない新しい恋人が現れます。アイヴィンはユリヤにとってちょうど良い相手のように思われますが、この関係に歪みが生じるようになった契機も、やはり妊娠という出来事だったわけです。

そもそも、妊娠という一見喜ばしい出来事は、予期していない妊娠の場合、女性にとっては日常に断絶を起こす重大なインシデントとなります。

 これは、男性には決して起こらない、女性が一方的に押し付けられる事象である点で、大きな問題を生じさせます。


『わたしは最悪。』『ロスト・ドーター』と"母性"の幻影

 パターナリズム(父権主義)においては、このような妊娠も、女性の幸福な人生モデルや母性という幻影によって、受け入れさせようとしてきました。

このような問題をテーマにした作品は、映画界で現在最も大きい潮流の一つだと感じられます。特に、2021年にNETFLIXで公開されたマギー・ギレンホール監督の『ロスト・ドーター』は同じテーマ性の作品として、衝撃を与えました。

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『わたしは最悪。』のユリアも、『ロスト・ドーター』のレダと同様に、自分でキャリアや人生を切り開くことのできる女性であるがために、母性という社会の幻影に大いに苦しめられる女性として描かれています。

さらに、『わたしは最悪。』で追い打ちをかけているのは、男性の遺伝子を残すという妊娠という行為が女性にしかできないと問題が、アクセルの病気によって暴力的にもたらされています。ここで、ユリヤに暴力的な罪悪感を抱かせることになります。 


『わたしは最悪。』のラストに見える逃れられない"母性"の幻影

そして、最後の場面も、ユリヤにとってやや残酷です。ユリヤはアイヴィンとの子どもを産まず、アイヴィンとの関係を解消する決断をします。そのアイヴィンが女優との子どもを世話をしながら、幸せそうな生活を送っている姿を目にします。

ユリヤが、自由意志でキャリアを選択したかのように見えて、実は母性の幻影によってパターナリズム(父権主義)から逃れられていない、『テルマ』とは違う、厳しい現実が描かれています。

 実際は、わたし(ユリヤ=女性)が最悪なのではなく、わたし(ユリヤ=女性)の置かれている状況が最悪なのであると、言うことができるのではないでしょうか。

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