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【映画コラム/考察】『ロスト・ドーター』『パワー・オブ・ザ・ドッグ』などに見るジェンダーフリー映画の潮流「"男らしさ"による抑圧/母性社会の肯定から"母性"による抑圧へ」

『荒野にて』(2018)アンドリュー・ヘイ監督/『ROMA/ローマ』(2019) アルフォンソ・キュアロン監督/『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(2021)ジェーン・カンピオン監督/『ロスト・ドーター』(2021)マギー・ギレンホール監督

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Netflix『パワー・オブ・ザ・ドッグ』『ロスト・ドーター』とジェンダーフリー映画の潮流

 年末に近づくと、アカデミー賞を意識した作品が全米で公開ラッシュになりますが、ここ最近は、特にNetflixの年末の配信ラッシュが目を引きます。

 そして、2021年も、年末に、有力作品が、次々と配信され、特に、アカデミー賞有力候補になっているのが、ジェーン・カンピオン監督の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』です。個人的にも2021年のベスト映画の一つという実感を持っています。

 この『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、保守的な"男らしさ"や父性社会(父権社会)を否定的に捉え、母性社会の肯定を、映画の主題に持ってきています。これも、2010年代後半の、"me too"運動を始めとした、ハリウッドでのジェンダーフリーの潮流を受けた作品と言えます。

 そして、さらに衝撃的だったのが、2021年の最後にNetflixで配信された『ロスト・ドーター』です。さらに上を行く、母性社会や“母性”そのものによる圧力を明らかにする野心的な作品になっていたからです。

 ここからは、近年、アメリカ(共同製作国を含む)で製作された3本の映画を例に、ジェンダー・フリー映画の現在の潮流と、それに対する『ロスト・ドーター』の考察を記します。

(ここからは、一部ネタバレを含みます)

『荒野にて』

 アンドリュー・ヘイ監督の『荒野にて』は、保守的な土地で、少年チャーリーと愛馬に次々に試練が降りかかる作品です。ウィリー・ブローティンの2010年の小説が原作です。

一見、少年チャーリーの成長譚のように思われるストーリーですが、ラストからも分かるように、そうではありません。

 チャーリーは、最終的に、"男らしさ"を要求する保守的な場所ではなく、心優しい少年を受け入れてくれる、同じく保守的な場所から逃れてきたと思われる叔母の元で安住することを、決意します。

このことからも、この作品から、アンドリュー・ヘイ監督の父性(父権)社会に対する批判的な眼差しと母性社会への肯定的な眼差しを汲み取ることができます。

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『ROMA/ローマ』

 『ROMA/ローマ』は、NETFLIXにアカデミー賞をもたらした、アルフォンソ・キュアロン監督の半自伝的作品で、映画のラストにある「リボに向けて(捧ぐ)」のメッセージでも明らかなように、監督の幼少時代の家政婦に捧げられたものです。

映画は、家政婦クレオに光が射す構図でも明らかなように、キュアロン監督の母性に対する礼賛の眼差しを強く感じることができます。それと同時に、一貫して、父性社会(父権社会)に対する批判的な眼差しで、男性たちが描かれています。その犠牲者として、家政婦クレオや母親のソフィア夫人の存在が中心にあり、それらを克服するストーリーになっています。

そして、最後からも明らかなように、祖母・母親・家政婦の女性だけで、家庭を再建していこうとする場面で映画が終わっています。ここからも、キュアロン監督の母性社会の肯定の強い眼差しが感じられます。 

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『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、『荒野にて』同様に、古典的な"男らしさ"の生きづらさや有害さを描いています。トマス・サヴェージの1967年の小説が原作で、ジェーン・カンピオンが、今、映画化しなければならない作品だと思ったというのが、納得させられる作品です。

 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』の題名が表すように、犬(狼)の力により古典的な"男らしさ"によって支配されている土地に閉じ込められている男たちちとそれらに抑圧された人々を描いた物語です。

 この映画のプロットは、「序破急」の「急」で見事に、彼らを犬(狼)から開放させ、完結させます。

 これが、この作品の主題なわけですが、作品を芸術的に更に高めているのが、完結に付着させた味付けです。『ブロークバック・マウンテン』のような男性が持ち合わせている繊細さと『ノーカントリー』のような新たに舞い降りた曖昧な不穏さ(ドッグ)といった要素をも含んでいる点で、絶妙なストーリー性を成立させています。

『ロスト・ドーター』(考察)

 上の3作品を例に、見てきたように、ハリウッドで高まった"me too"運動の中で、有害な"男らしさ"が抑圧する父性(父権)社会の否定かつ母性社会の肯定がジェンダー・フリー映画の一つの潮流になっていることが理解できます。

 特に、それらの潮流に敏感なNETFLIXにおいては、LGBTQ映画と共に、『ROMA/ローマ』や『パワー・オブ・ザ・ドッグ』などに代表されるよう製作国を問わずに、多く配給されています。

 それらの潮流の根底を覆すような大胆な作品が、マギー・ギレンホークの監督デビュー作で、NETFLIXによって配信された『ロスト・ドーター』です。

 そもそも、オリビア・コールマン、ジェシー・バックリー、ダコタ・ジョンソン、アルバ・ロルヴァケルの個性派女優の豪華共演だけでも、不穏な雰囲気を醸し出していますが、この映画で、終始一貫しているのが、不条理である点です。

主人公レダに次々に、不条理が襲い掛かります。そしてこのストーリーにおいて最も大きい不条理が、母性であり、そして、その母性に対するレダの強迫観念によって、このストーリーのプロットが成立しています。

過去のレダと似た境遇にあるニーナから、母性を補っている人形を取り上げることで、回顧される物語の中で、自己を正当化しようとします。

 一見、過去のレダと同様に、ニーナが、人形に欠落した母性を押し付けているように見えますが、本質はそこではありません。

 男性が、人形と同様に、女性に、母性を押し付け、女性を苦しめていることに、この作品の本質があります。

 レダは、母性がない人間だと自分を責めていますが、それは決して、レダが特異な女性ではなく、現代女性が置かれている状況を表象する存在として受け取ることができます。

 レダには、母親としての欲求もありましたが、女性としての欲求や社会的な地位を求める欲求と葛藤を起こし、不条理に、母性を押し付けられる状況の中で、母性に対する強迫観念に囚われるようになります。つまり、レダは、母性によって抑圧された存在であったと言えます。

レダに、母親として欲求があることは、娘を必死に探す様子や結局娘たちのもとに戻った事実や、ニーナの娘を心配する点からも明らかです。そして何よりも、それを確信するのは、ラストの場面です。

 レダは、海岸で翌朝目を覚ますと、突如、手元には、ネーブルがあり、そこに娘たちから心配の電話があります。娘たち(特にビアンカ)は、ネーブルを蛇のように剝くことを幼少期にリクエストする場面が回想シーンとして再度登場します。ネーブルの名前の由来が、へそのような頭であることが劇中でも説明されていますが、これは、母子の絆を表すへその緒を表しているのは明らかです。

 レダは、罰を受けるとともに、娘が心配をして電話をしてくれた事実に、本質を悟り、一時の安らぎを得るです。

 この作品は、母性の礼賛や母性社会の肯定というジェンダー・フリー映画の潮流を覆し、母性による女性の抑圧を大胆な構成で扱った点で本作は価値のある作品と言えます。

最後に、日本で劇場非公開であるのはかなり残念な点であり、アカデミー賞後に再度劇場公開が検討されることを期待しています。




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