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▼哲頭 ⇔ 綴美▲(5枚目とモンテーニュ)

(哲学を美で表現するとしたら?美を哲学で解釈するとしたら?そんな思いをコラムにしたくなった。自分の作品も含めた、哲学と美の関係を探究する試み。)

今日の1枚は、フランスの画家であるユベール・ロベールの『ローマの大火』である。
この作品は紀元64年7月、ローマ帝国のローマ市内で起こった火災の様子を描いたものである。このときローマの皇帝であったネロは、この事件をキリスト教徒だとして多くのキリスト教を処刑した。当時、キリスト教徒の数はそれほど多くはなかったが、ユダヤ教の教義を否定する教えであったため、儀式を重んじるサドカイ派からも、律法を重んじるパリサイ派からも異物として見られていた。その結果、ローマ各地で対立が起こっていた。そのようなネガティブなイメージが利用され、キリスト教徒が社会を混乱させるために火を放ったのではないかと犯人扱いされたのではないだろうか。この大火の真犯人はネロ帝ではないかという説もある。彼がローマの街の再開発を望んで火を放ち古い建物を一掃しようとしたという噂が広まったため、ネロがキリスト教徒に濡れ衣を着せたのではないかとも考えられている。

このローマの大火だけでなく、例えば、ヨーロッパでペストが広まったときユダヤ人が流行の原因ではないかと疑われ迫害されることがあったり、日本で関東大震災が起こったとき朝鮮の人々が混乱に乗じて暴動を起こすのではないかと疑われたりと、「相互不信」はエスカレートすると「排除の論理」に繋がってしまうことが、歴史上繰り返されてきている。

「己の慣習でないものを、人は野蛮と呼ぶ。」
「人にとって人以上に恐怖となる獣は世界に存在しない。」
これらは、フランスの思想家でモラリストの一人であるモンテーニュの言葉である。モンテーニュは、当時起こっていた宗教戦争というものは、自分の知識や常識だけが正しいものであり、それとは異なるものは間違っているとする「偏見・独断・不寛容」から生じていると考えた。他者という存在は自分とは異なる要素を色々と持っているのが当然である。しかしそういった異なる要素と出会うと、人間は未知なるものへの恐怖から防衛本能が働き拒絶しようとする。しかしそれがエスカレートしていくと、「排除の論理」に繋がっていってしまう。モンテーニュはそのような状態から脱却するために、「寛容の精神」が大切であると考えた。

現在、ウクライナで起こっている出来事は、まさに「偏見・独断・不寛容」によって引き起こされている。そして「相互不信」はエスカレートし、軍事行動という「排除の論理」に到達してしまった。いまこそ、モンテーニュが説いた「寛容の精神」に各国は立ち返る必要があるだろう。しかし、この精神は決して表面上の宥和政策のような「事なかれ主義」を意味するものではない。実力行使によって既成事実とされた状態を仕方のないこととして流すような姿勢は「寛容の精神」とは言わない。正当と不当の峻別を恣意的なものにしてはならない。そして不当という評価が下される側が、それによって自暴自棄になってしまわないような働きかけも大切である。「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、不当は不当としても、それが仲間外れのレッテルになってしまっては、「排除の論理」のターンが変わっただけになってしまうので、全ての国が国際平和の実現に関わる運命共同体であるという意識で対話していくことが大切であろう。それこそがモンテーニュが説く「寛容の精神」ではないだろうか。

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