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❖足元美術館XXⅦ(リアルゆえの欠点を乗り越えたところに生まれた無限なる美)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2023年10月2日)

【記事累積:1756本目、連続投稿:743日目】
<探究対象…美、仏教寺院、影、実と虚、色即是空・空即是色>

本日ご紹介する足元に展示されていた美術作品のタイトルは、「リアルゆえの欠点を乗り越えたところに生まれた無限なる美」である。一体どんな作品なのだろうか。【課題の設定】

ラオスはタイと同じように上座部仏教の国なので、散歩しているとすぐに仏教寺院が見つかる。大きな寺院もあれば、こんな脇道の奥になぜという感じでひっそり佇む小さな寺院もある。この日はBan Fai Templeの近くを歩いていた。この寺院の正面はDongpalane Roadという大きな通りに面しているが、左側は川沿いの小道、右側は小さな脇道に挟まれている。【情報の収集】

時間は夕方になろうとしていた。脇道を通り抜け、Dongpalane Roadに出ようとしたそのとき、自分の後ろを振り返ると、脇道には素敵な光景が広がっていた。沈み始めた太陽の光が寺院の外壁に設置された柱とぶつかって、脇道に大きな影絵を作っていたのである。【情報の収集】

かつてプラトンは主著『国家』の中で、太陽の光によって映し出された影の不完全さを述べた。そして影という虚像から解き放たれ、振り返って実像を見るためには哲学が必要であることを説いた。【情報の収集】

これまでプラトンの話を素直に受け止めていた私だが、この日の光景を見たとき、彼の話に反論してみたい気持ちが生まれたのである。確かに影は実像ではない。光とそれを遮る何らかの実像によって作り出される相対的な現象である。だから光と実像との距離、光の強さ、光の角度などあらゆる条件によって、その姿を変えてしまう。影自身の意志で姿を変えているわけではないから、その相対性や受動性からみれば、影というものがポジティブに評価されないというのは分からなくもない。【整理・分析】

だがどうだろう。相対性や受動性を伴うことをポジティブに評価してはいけないのだろうか。影という虚像が実像に依存している以上、どこまでいっても虚像は実像に頭が上がらないものなのか。実像には明確な形があり、大きさがあり、色がある。それゆえ虚像とは異なり、完全なるものであると捉えられている。そして虚像は、様々な条件の変化に引きずられて姿が変わるから不完全であると見られている。しかしそのように考えると実像も不完全と言えるのではないだろうか。虚像に適用した様々な条件の中に、時間の経過、天候や気温、圧力などを加えてみると、実像だって条件に引きずられて姿が変わるはずである。【整理・分析】

時間の経過は、人工物にしても自然物にしても風化や劣化を引き起こす。風化や劣化は突然訪れる風雨や季節の移り変わりでも起こりうる。さらには動物や昆虫たちの活動で及ぼされる圧が、実像の姿を変えることは当然にありうる。だから、様々な条件の変化に引きずられて姿を変えるものは不完全であるというならば、実像も虚像も同じであってそこに差はなくなる。【整理・分析】

こうしてプラトンの話の中にあった実像の優位性への一定の反論ができたと思う。プラトンが「洞窟の比喩」を用いて述べた虚実の関係性を単純化するならば「実>虚」になるだろう。しかし実にしても虚にしても、先ほど述べたように様々な条件の変化に基づく不完全なものと考えるならば「実=虚」となるのである。【まとめ・表現(第一段階)】

しかしこの日見た光景が私に与えてくれた印象に基づくと、反論はそれで終わらない気がしてきたのである。【追加された課題の設定】

外壁の柱は金色や赤色に塗られていて、とても鮮やかである。そして等間隔に設置され、整然としている。さらに空に向かって伸びており、迫力もある。【情報の収集】

だが、着色から鮮やかさを、位置関係から整然を、高さから迫力を感じるのは、それらの情報による受動的なものなのである。私が能動的・主体的に感じ取ったものではないのである。どうしてそうなってしまうのかというと、原因は実像そのものにある。実像が備えている色や形が足枷となり、私は何ら想像力を働かせられないわけである。金色・赤色、等間隔、空への伸び。そういったリアルは、リアルゆえの欠点をもってしまっているのである。【整理・分析】

しかし地面に広がる影は違っていた。太陽の光に押し出される形で地面に現れはしているが、リアルゆえの欠点は影たちには無縁であった。実像を縛っていた足枷は虚像にはない。影たちは大きさにしても形にしても色にしても、私の想像力の中で自由自在であった。その大きさは、寺院の柱くらいにもなれば、ヒマラヤにもなり、さらには宇宙すら飲み込むほどの大きさにすらなることができる。その形は、お好み次第でシンプルにも派手にもできる。それは色も同様で、赤色・金色で物足りなければいくらでも自由に色を着けることができる。しかも気に入らなければ、一瞬で大きさも形も色も変更可能である。【整理・分析】

だから実像と虚像の関係性は逆転するのである。それを単純化するならば「実<虚」である。これがさらに一歩進んだ反論である。この実と虚の新たな関係性は、「色即是空、空即是色」とも言えるのではないかとさえ感じている。リアルゆえに限界がありそれが明確に表れたとき、実なるものがそれまで保持していた価値は、いつの間にか虚しいものになってしまう。一方で虚なるものは、本来ならば価値は無いに等しいはずなのに、想像力の助けを借りて実と肩を並べるどころか、もともとの実を凌駕して、実など意にも介さない高みへと駆け上がっていき、崇高なる価値を持つのである。つまり、「色(実なるもの)即ち是れ空(虚しい価値)なり、空(虚なるもの)即ち是れ色(実を凌駕する価値)なり」なのである。そうした崇高なる価値を備えた美しい光景が、この日の私の足元には広がっていた。【まとめ・表現(第二段階)】

ちなみに「影」はラオ語で「ເງົາ(ガオ)」という。同じくタイ語では「เงา(ガオ)」になる。

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