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❖ラオス見直す益々カオス(2)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2024年2月25日)

【記事累積:1956本目、連続投稿:889日目】
<探究対象…ラオス、ルアンパバーン、托鉢>

♪サバイディー(ສະບາຍດີ、こんにちは)
寝坊しました。
明日の昼にはビエンチャンに戻るので、ルアンパバーン名物の托鉢を見ることができるチャンスは、今日の朝と明日の朝の2回しかなかったのですが、アラームをかけ忘れていたため、目が覚めたのは6時30分くらいでした。ビエンチャンの家の近くだと、托鉢は6時30分くらいに回ってくるので、ギリギリ間に合うかなと思い、急いで宿から出てみたものの時すでに遅し。道端には観光客の托鉢体験用に置かれているイスやゴザはまだ残っていましたが、すでに終了したようで誰も座っていませんでした。

しかし諦めきれない私は、メインストリート以外のところでまだ托鉢が続いていないかウロウロしてみました。すると一組の親子連れが座ってお坊さんたちを待っていたのです。そして向こうからお坊さんたちの列が近づいてきて、何とか托鉢の様子をリサーチできたのでした。あの親子には感謝です。

ビエンチャンの家の近くで毎朝行われている托鉢の場合は、施しを受ける量も限られているので、お坊さんたちはそれをその日に食べることが多いと思います。しかしルアンパバーンの托鉢の場合、毎回大勢の観光客がやってきてご飯や水やお菓子などを施してくれるので、とてもその日のうちに消費することはできないのではないでしょうか。この日は、そんな疑問に対する一つの答えを知ることができました。さてそれは一体どんなものだったのでしょうか。

托鉢の様子を見ることができてホッとした私は、仏教寺院が集まる市街地を引き続き散策することにしました。道端の托鉢ゾーンでは粛々と片付けが行われていて、たくさんのイスが積み上がっていたり、施し用の竹で編んだ入れ物が一カ所に集められていたりします。所々にあるゴミ箱を見ると、お菓子の空き箱がたくさん捨てられていました。このお菓子の箱には見覚えがあります。ラオスやタイのコンビニで売っている小さなロールケーキで、個別包装されているのでたくさんのお坊さんに1つずつ施すには便利なのです。

しかしこうしたお菓子を毎朝の托鉢のたびに受け取ると、かなり膨大な量になります。そしていつもお菓子を食べて過ごしているわけではないですし、同じタイプのお菓子だと飽きがきてしまうのは仕方のないことだと思います。最初に食べたときに得られていた効用(満足度)がいかに高くても、いつも同じお菓子を食べているとその効用(満足度)は徐々に減っていきます。経済学ではこれを「限界効用逓減の法則」と言います。

食べるたびに効用(満足度)が減っていくにも関わらず、毎回の托鉢ではそのお菓子を大量に受け取り続けていくと、托鉢での施しはありがたいもののはずなのに、受け取るたびに複雑な心境になってしまうかもしれません。ただ、托鉢はお坊さんにとっては施しを受けること自体が修行であると同時に、施しを行っている側も功徳を積むという修行になっているので、決して施す側が優位ということではありません。そうはいっても、お坊さんにとって、物をいただくことはその人の心をいただくことでもあるので、やはり大変ありがたいものだと思います。

そのように理性の部分ではそのようにありがたいものとして捉えられるわけですが、本能の部分では限界効用逓減の法則のような気持ちになるのは、人間も生き物なので仕方がないのも分かります。それが実際の行動として表れていた場面を、今日の午前中に目撃したのです。私が途中の商店で飲み物を買おうとしていると、まだ幼いお坊さんがビニール袋を持ってお店にやってきました。ビニール袋は半透明だったので、中にあるものがはっきりと見えて、それはたくさんのお菓子でした。おそらく托鉢の際に受け取ったものだと思われます。そしてお店の方と二言三言会話を交わすと、そのお坊さんはドリンクコーナーから、チョコレート味のジュースを持ってきたのです。そしてそれを見せると、お店の方が頷き、代金のやり取りはないまま、そのお坊さんは店を出ていきました。おそらくお菓子とドリンクの物々交換が行われたのだと思います。

このやり取りを単なる物々交換として見るならば、当人同士が納得しているので特に問題はないと思います。しかしそのお菓子は托鉢によって受け取ったものだと考えるとちょっと違和感があります。托鉢で受け取ったものよりも、他に良いと思うものと交換しているわけで、単純な交換法則だけで処理されてはいけない何かがある気がしてモヤモヤが残りました。

今回はそんな托鉢にまつわるカオスを体感できました。単純な交換法則では、同価値と両者が考える物体同士を交換することは、問題なく成立します。しかし托鉢で施されたものは無機質な物体ではなく、そこに施した人の心が宿っていると考えると、それを無視した交換が行われている気がします。とはいうものの、非常に信仰心に篤い上座部仏教の信者の方がお坊さんに施したものと、観光客が思い出作りに道端で売っているお菓子を購入し、そうして施したものとでは、その「心」という部分にも大きな開きがありそうです。もし思い出作りとして施され、ほとんど「心」を伴っていないお菓子の集合体が、別のものと物々交換されているのならば、そこまで違和感はないかもしれないと思えてきました。

しかし今日の朝見かけた親子の托鉢において、小さな女の子が施したものには、しっかりと「心」が宿っているのではないかと感じています。

ちなみに「お菓子」はラオ語で「ເຂົ້າໜົມ(カォノム)」といいます。タイ語では「ขนม(カノム)」です。

♪ポップ・カン・マイ(ພົບກັນໃໜ່、また会いましょう)

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