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【小説】 猫、担々麺を食べに行く 【ショートショート】

七時間のうたた寝から目覚めた猫はグーッと背伸びをして、自身のとある妙な異変に気が付いた。
なんと、人のように二本足で突っ立って背伸びをしていたのである。

猫は焦った。焦りに焦り、部屋中を走り回り、何故か飼い主の雄介にはバレたくないと思いながら、姿見の前へ駆け出した。
鏡に映っていたのは、やはり二本足で立つキジ白猫の自身の姿であった。
うん、これはきっと二歩足で歩けるようになったのだな。

猫はそう理解し、猫として不審ではないように四つん這いになってみると前脚がプルプルと震え出すのを感じた。
自分は猫のはずなのに、猫らしい姿勢をしてみると果てしないほど姿勢が辛く感じたのである。

これは参った……と思案し始めた猫であるが、あることに気が付いた。
二本足で歩けるということは、そうか。人間のフリをして外へ出れば、猫である自分も少しは人間社会が体験できるのでは? そう考えたのである。
この猫には、とある夢があったのだ。

飼い主の雄介が宅配で週に一度注文する「担々麺」という、何とも旨そうなゴマ薫る味噌風味らしきあの麺を、一度は食べてみたいとかねてから思っていたのである。
実に旨そうに麺を啜る雄介に「くれぇ! くれぇ!」と声をあげて傍へ寄ったり足元に擦りついて愛想をみせても、ケチな雄介はただの少しも猫に担々麺を分け与えようとはしないのだ。

時刻は夕方を回ったばかりで、帰りの遅い雄介の帰宅はまだ先である。
猫は茶色のフェイスタオルを一枚羽織り、台所にあったお椀を帽子代わりに被ってみた。姿見でその立ち姿を見て「これは人間と変わらないぞ」と確信した猫は夢を果たすために部屋を脱走した。

二本足で歩く猫はラーメン屋を目指してずんずん進んで行く。
場所はかねてから目をつけていたので熟知していた。家を時々脱走してはそのラーメン屋へ向かい、店の横で担々麺が恵まれるのを来る日も来る日も待ってみたのだが、願い虚しくいつも失敗していた。

商店街を歩きながら、猫は人間社会が織りなす景色の不可思議さを改めて実感していた。
ひとつのお店の前で行列を作って並んでいたり、旨そうなものを買っているのにその場ですぐに食べる訳でもなく持ち歩いたり、何の用事があるのか急ぎ足でどこかへ走って行ったり、やはり人間社会は分からないと思いながらも歩き続けた。
その間中、猫は「かわいい!」と何度も指をさされたり、その珍妙な姿を写真に撮られたりしていたのだが、猫は何も気付いてはいなかった。

いよいよ念願のラーメン屋にたどり着くと、猫はフェイスタオルを翻しながら堂々と入店を果たし、四人掛けのテーブル席へ座った。
店主の妻である女性店員は大の猫好きであり、二本足で歩く猫の来店を不思議とも思わず、とても微笑ましい様子で眺めていた。
猫はそんなことにさえ気付きはしないのであったが、店員を呼んで注文をする、という光景はテレビで何度も見ていたので真似してみることにした。 
人間らしくメニューに目を落としつつ、担々麺を発見した猫は前脚をひょいっと挙げた。

しかし、ここで猫に予期せぬ問題が発生した。

「にゃん!」

注文をしようと声を挙げてみたのだが、人間の言葉で話すことが出来なかったのである。

「にゃん……にゃん!」

もう一度試してみたものの、出て来る言葉はやはり「にゃん」とも変わらず猫言葉なのであった。
猫はここで一気に焦ってしまった。このままでは永久に担々麺が注文出来ない。
しかし、猫の様子に気付いた店員が笑顔を浮かべながらこちらへやって来る。

「ねこちゃん、注文できるの?」
「にゃん、にゃん、にゃん」
「これが食べたいのかな?」
「にゃんにゃんにゃん!」

猫はメニューの写真を何度も叩き、必死に訴え、店員の言葉に頷いてみせた。
すると注文が通じたようで、店員は厨房へ向かって行った。 
ほっと胸を撫で下ろした猫は冷えたグラスを前脚に取り、水をチロチロ舐め始める。

どんなもんだ! 猫だって注文くらいは出来るのさ。そんな風にも見える堂々とした様子で猫はリラックスしながら担々麺が運ばれて来るのを待っていると、ついに待望の品が運ばれて来た。

「はーい、猫ちゃん! お待ちどうさま!」

テーブルの上にドンッ! と置かれたものを見て、猫はたちまち仰天した。
目の前に置かれたのは担々麺ではなく、汁なし担々麺なのであった。

「にゃん、にゃんにゃん!」
「あらー、嬉しいのねぇ。やったわねぇ」
「にゃにゃんにゃんにゃん!」
「そんなに喜んでくれてねぇ、おばちゃんも嬉しいわぁ!」

違う、違うんだ。猫は必死に訴えたが、まるで伝わらなかった。
注文の際に焦って必死に写真を叩いたのだが、叩いていたのは担々麺の隣にあった「汁なし担々麺」なのであった。
これではないのだ。と思いつつも、猫は麺の上に乗っている玉子を見て少しだけ気が変わった。

うーん、これはこれでなんだか旨そうだ。
猫は箸でものを掴むことをすぐに会得し、器用に箸を使って麺を混ぜてみた。
それを一口、パクッとしたのだが、たしかに旨かった。
けれども、求めていたのはコレジャナイ感に猫は堪らなく悲しい気持ちになった。

自分が不完全な人間のなりそこないだから、担々麺のひとつも注文できないのか……声が人間じゃないばっかりに……自分だって話せるならば、もっと色んなおいしいごはんを食べに行きたいんだ……ギョコウという場所に行って、海を泳ぐ魚だって食べてみたいんだ……そう思って落ち込んでしまったのだが、猫とは実に忘れっぽい生き物なので、その数秒後には再び「にゃん!」と勢いよく手を挙げていた。
猫は汁なし担々麺ではなく、食べたい物が担々麺であることを必死に写真を叩いて伝えた。

「あらぁ、普通の担々麺も食べたいの!? 食欲旺盛な猫ちゃんねぇ!」

どうやら今度こそしっかり伝わったようで、しばらくすると待望の「汁あり」担々麺が運ばれて来た。
熱いぞ! と訴えるように湯気が立つゴマ薫る担々麺を前に、猫は感動していた。
これがあの、雄介がいつも旨そうに啜っていた担々麺なのか。
思う存分堪能してやろうと思いながら箸をつけて麺を口に運ぶと、猫はまたまた仰天した。 

「ぎにゃああああ! シャアアアアーッ!!」

熱過ぎたのである。忘れっぽい猫は自分でさえすっかり忘れていたのが、文字通り猫舌なのであった。
猫は汁が冷めるのを待つ間、汁なし担々麺を「仕方ない」といった様子でボソボソと口へ運び始めた。
箸でつまんだ麺が左に右に揺れるのを見て、心の奥から湧き上がる衝動が抑え切れなくなり、麺に向かって猫はパンチを繰り出していた。

弾かれた麺がさらに大きく揺れると、猫は臨戦態勢になり、その瞬間に本来の目的が麺で遊ぶことではないことに気が付いた。 
担々麺の汁はまだ冷めず、かと言って汁なし担々麺では遊んでしまうし、せめてと思って叉焼を食べてみたらそれはそれでとんでもなく旨く、けれど汁なしの麺で遊びたい欲求に駆られていると、次第に猫は自分でも何がしたいのか分からなくなって来てしまった。

ラーメン屋へ訪れる前に考慮しておくべきだったのであるが、この猫はあらゆる猫界の中でも至極小食な猫だったのである。
叉焼を食べた猫は腹が満たされるのを感じると、途端にあれほど切望していた担々麺への興味をスンと失くしてしまった。 
そこへ店員がやって来て、こんなことを言った。

「猫ちゃん。お金はあるのかな?」

猫は何を言われているのかさっぱり分からなかったのであるが、何やら深刻な事態であることだけは店員の表情と空気で理解出来た。
何を言われているのか一応は考えてみようと店員から逸らすように目をぐるっと店内に向けてみると、厨房へ向かって走る一匹の鼠が目に留まった。

二本足ではあったものの、猫はほとんど反射神経だけで漫画のような恰好で鼠へ飛びついて捕獲すると、その習性のために捕まえた鼠を店員のところへ運んで行った。
どうだ、こうやって捕まえるんだぞ。
そんな気分で鼠をぽとりと落とすと、店員は猫を褒め倒した。

「わぁー! 猫の恩返しよ! お父さん、やっぱり鼠いたのよ! 猫ちゃんがね、今捕まえてくれたの! 猫ちゃん、ありがとう! すごいわねぇ!」

こうして、猫は金を払わずに済んだ。
それどころか鼠を捕った礼として土産に猫用おやつの入った紙袋を首に掛けられ、褒めちぎられてる間も猫はやたら眠くなっていたので大した反応も見せず、二本足で歩いて帰宅した。
家へ帰り、まだ雄介が帰っていないことを確認して安堵すると、猫はいつものベッドの上で眠りについた。

二時間後。

「ええっ!? なにこの紙袋……誰が持って来たん!? こわっ! えっ、うちに誰か入って来た……?」

雄介はおやつの入った紙袋を手にしたまま、戸惑いと恐怖の声をあげていた。
その声で起き上がった猫であったが、すっかりいつもの四つん這いの恰好で背伸びをすると、無事に帰って来た雄介の足元に擦り寄った。

「え……? まさか、おまえじゃないよな?」
「にゃーん」
「えー……こわぁ……」

雄介は真相を知らないまま、猫を抱き上げた。腕の中で丸まった猫は二本足で歩いて担々麺を食べに行ったことさえ忘れ、もう二度と思い出すこともないまま、平穏な夜は過ぎて行った。

翌朝、ニュースでこんな映像が紹介されていた。

『なんと、商店街を二本足で歩く猫ちゃんが撮影されましたぁ!』

「へぇー」と思いながら朝食を摂っていた雄介であったが、確実に見覚えのあるフェイスタオルとお椀を頭に乗せた猫の姿を見た瞬間、盛大に味噌汁を噴き出した。
しかし何も覚えていない猫は呑気に二度寝をしており、雄介の驚きの声に起き上がることはなかった。

唇の端にワカメをつけた雄介が驚きの声をあげている間、夢の中で猫は自身が二本足で歩いていることに気が付いて、不思議と懐かしい気分になっていたのであった。

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