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【小説】 談話室 【ショートショート】

 内科での血液検査を終え、会計へ向かおうと通路を進んで行く。
 リノリウムの床が蛍光灯の灯かりを反射して、無機質さを際立てている。
 壁も、床も、着衣も全てが白い。これは万が一患者から血が噴出した場合、すぐに気付ける為の配慮なのだろうか。無機質な空間を染める赤い鮮血を思い浮かべると、妙に薄ら寒い感覚が背中を襲った。

 階段を下って一階の角を曲がれば会計受付なのだが、私はその前にトイレに寄ろうと思った。だが、そこにあったはずのトイレは消え、代わりに「談話室」と書かれたプレートが貼られた小部屋が作られていた。

——この病院にしばらく来ていない間にこんな物を作ったのか。

 そう思いながら、中の様子が気になって私はそっと扉を開いて入ってみることにした。

 部屋の中は学校の教室の半分ほどの広さだろうか。とにかく物という物がない部屋で、中央には茶色く質素な木造りのテーブルが置かれており、向かい合わせで椅子が二脚ずつ並んでいた。
 入院患者専用の談話室なのだろうと思い、引き返そうとすると背後で扉が開く音がした。

 振り返ると年は五十くらいだろうか、あきらかに病院職員ではなさそうな男が立っていた。

 前頭部が禿げ上がっている牧師のような格好をした痩身の男は、眼鏡の奥で冷徹そうな眼差しを私に向けている。
 こちらを一瞬だけ睨んだようにも見えたが、男はすぐに微笑んだ。
 どことなくぎこちない笑顔だったが、私は小さく会釈を返した。

「いやー、久しぶりに来たらこんな部屋が出来ていたんですね」

 男はテーブルに腰掛けると一冊の本を取り出し、私の言葉に相槌を打った。

「ええ、つい最近なんです。どうぞ、お座り下さい」
「いや、どんなもんかと思って覗いただけなので」

 私が手刀を切って談話室を出ようとすると、男は低く尖った声で言った。

「いいから、お座りなさい」

 男の暗い目の奥が、じっと私を捉えている。とてもではないが逆らえる雰囲気ではなく、私は言われた通り男の向かいに腰掛けた。
 椅子に座ると男の背後から入ってくる陽射しのせいで、その姿はややシルエットのようにも見える。
 神父のような格好をしているが、男から漂う空気は私に真っ黒な悪魔を連想させた。
 男は手元の本のページを捲りながら、私を時折眺めている。

「談話とは、何だと思います?」

 突然そう聞かれ、私は返答に詰まった。

「あのう……リラックスしてよく話し合うこと、ですか?」
「全く違います、よく考えてみて下さい。考えないフリをするのはお止めなさい。山岸さん」
「え……あなた、何故私の名前を」
「いいから答えなさい。答えが出ないなら、考えなさい」

 そう言われても……と口に出そうとするが、それを男の空気が阻んでいる。なるべく正解に近い答えを出さない限り、男は私を許さないだろう。

「談話……よく政治家の話なんかで出ますよね?」
「出ますよ。それで?」
「分かった! 大事な話し合いだ」
「正解は「話しをすること」です。シンプルでしょう。政治家が思い浮かんだのは、ある事柄などを非公式に述べたりするという意味から来たんでしょうが……ここは何処です?」
「え、病院ですよ」
「談話室ですよ。山岸さん、何故当たり前のことを当たり前に捉えることが出来ないのか、今一度考えてみませんか?」

 この男は一体、何を言っているのだろうか。そもそも今の状況自体、当たり前とは程遠いではないか。それに、この男の名前すら私は知らないのに、この男は私の名前を知っている。どう言うことなのだろうか。

「すいません、考える前にこちらからも訊ねたいことが」
「ええ、何かに興味を持つのは非常に良いことです。どうぞ」
「あなたは誰なんです? 一体何者なんです?」
「……お忘れですか? それとも、本当に覚えが無い?」
「私は今日初めてあなたにお会いしましたよ。この病院に来ることだって久しぶりなんだ」
「……そうですね。分かりました。まず、私と簡単なお話からしませんか?」
「はぁ……まぁ、いいでしょう」
「山岸さん、ご趣味はありますか?」
「趣味……妻とハイキングへ行くことと、最近は囲碁を少々」
「なるほど。奥様とのハイキングは楽しいですか?」
「そりゃ楽しいから趣味にしているんですよ。つまらないのに行くはずがない」
「そうですよね、これは失礼。それでは、最近ハイキングに行ったのはいつ頃ですか?」
「高尾山の方へ……行ったが。あれは、確か……いつだったかな。近頃は暑くなってしまったので足は遠退いていますけどね。季節が来たらまた行きますよ」
「囲碁は最近いつやりました?」
「今朝だね。一日一日が鍛錬だからね」
「ありがとうございます。それでは、別の質問を。あなたは無宗教者ですか?」
「そんな格好している人の前で言うのもあれだがね、私は無神論者ですよ。神も仏もいる訳がないんです」
「分かりました。では、悪魔はいると思いますか?」
「……悪魔?」
「ええ、悪魔です」

 目の前の男の目線が、私を掴んで離さない。感情の胸倉を掴まれたような感覚になり、悪魔、悪魔、悪魔、悪魔、悪魔、悪魔、悪魔と頭の中で男の声がこだまする。
 やがてその声に耐え切れそうになくなり、私は発作的にテーブルを握り拳で叩き付けた。

「やめろ!」

 気付けばそう叫んでいたが、男はピクリともせず、こう続けた。

「何をやめろというのか分かりませんが、落ち着いていないように見えますね」
「うるさい!」
「大丈夫ですか?」
「うるさい! うるさいうるさいうるさい! 悪魔なんか、悪魔なんかなぁ!」
「分かりました。本日の談話はこれで終わりにしましょう」

 一体こいつは何のつもりなんだ。はらわたが煮えくり返りそうになりながら、私は部屋を飛び出すようにして廊下へ出た。
 左の方で看護師二人が立ち話をしているのが聞こえて来る。

「悪魔払いとか言って奥さん刺しちゃったんでしょ? カウンセリングも全然ダメだって」
「あぁいう人って本当に無罪になるんだなーって思ったわよ」
「あ、出て来たわよ。お願いしまーす」

 看護師が何やら廊下の端へ声を掛けると、屈強な男性職員二人が現れ、私を突然羽交い絞めにした。

「何をするんだ! 離せ! 私は、これから会計を済ませなければならないんだ! やめろ!」

 そのまま廊下を奥へ奥へと連れて行かれると、鉄格子の入った門らしきものが廊下の途中にあるのが見えて来る。
 職員がガチャガチャと鍵を回す音が廊下に響く。その間も、私は何かを喚いている。
 やがて重たそうな扉が開く音が辺りに響き、それから豪快に閉まる音が私の耳をつんざいた。

 その途端、私は不思議と安らいだ気持ちになったのだ。
 そうして知らぬ間に「ただいま」と呟いて、ガラス張りに反射した私の顔は微笑んでいた。


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