見出し画像

【小説】 凍える鼓膜 【ショートショート】

 あまりにも幸福なこの日常を、私は何と呼べば良いのだろう。現代人達には到底手に出来ないそんな幸せが、今のこの瞬間も私の手の中に握られている。
 青色の湖畔の傍で、私は運命を共にする彼と静謐な暮らしを始めて五年になる。柊の木漏れ日で目を覚ます朝、そして梟の子守唄で眠る夜までの間、私は一切の隙間なく幸せな時間に満たされている。

 私達に時間の概念は無い。ただここで自由に暮らし、一日が通り過ぎるのを眺めているだけ。
 ティーポットから注がれる赤茶の優雅なせせらぎは、午後の香りを私の鼻腔に運ぶ。

「里穂。夕方になったら湖畔へ出ようと思っているよ」
「寒くなって来るわよ。どうしたの?」
「僕は気付いたんだ。あの湖の主はどうやら陽が傾いてからじゃないと出てこないらしい。ずいぶんシャイな性格みたいなんだ」
「あら、あなたと同じじゃない」

 私がそう言うと、彼は薄青のセーターの肩を揺らしながらまるで子供のように無邪気に笑った。
 いつまでも可愛い人が釣竿を持って玄関を出て行く。傾いた夕陽からわずかに吹き込んで来る風に一日の終わりを感じ、私は夕食の準備を始めた。

 マッシュポテトとベーコン。鮭とアスパラ、そしてエノキのホイル包み。オニオングラタンのスープ。それらを食卓に並べ、私は彼の帰りを待つ。

 玄関が開く音がして、彼が悔しがる声が聞こえて来る。結果はきっと残念なものに違いないのだろうけれど、それは明日の楽しみへ繋がる声にもなる。

 蝋燭を灯した食卓を囲みながら、私と彼は尽きない話を繰り返す。言葉のひとつひとつが胸の奥にまで響いて、私は悦びで満たされて行く。私達の会話を邪魔するものはここには何もない。たった二人で作り上げたこの世界に、他の誰かの存在も言葉も、何も要らないのだ。

 それでも、時折この場所を訪れる者達がいる。
 私はこの暮らしを羨む者がいる事は理解出来たとしても、わざわざ足を踏み入れる者を良しとはしない。
 彼はとても繊細で臆病な性格なのだ。
 今日も訪れた二人組。鷲鼻を持つ老人の男の方が声を掛けて来る。

「その……どうだろうか。最近はよく眠れてはいるかね?」
「突然来たかと思ったら……人様の家のベッド事情を聞きたいの? 勘弁して頂戴」

 隣に立つ唇のぶ厚い若いだけの女。この女は彼の事を気に掛けている。言葉はなくても、部屋の奥を覗くその目の様子で私には分かる。

「里穂さん、ご飯は食べられてますか?」
「だから、何度も言うけれど一々詮索しないで。私は彼と二人、ここで静かに暮らしたいだけなの」
「あの……お話ししたくなったらいつでも言ってくださいね?」
「ふざけないで。出て行って頂戴」

 話したい事はたったひとつ。
 「二度と来ないで頂戴」
 それ以外に何もないし、何か伝えようとも思わない。 

 老人は何かを諦めたような顔で、そして女は物欲しげな顔を浮かべながら去っていった。たまたま出掛けて不在だったものの、私は彼の片鱗をあの女に犯されたような気がして穢らわしく感じた。木造りの柔らかな室内に雌の蒸れた性液の匂いが立ち込めた気がして、私はすぐに窓を開け放った。

 夕飯になっても彼は食事に手をつけない。それはいつもの事で、決して私の食事の味付けに文句がある訳ではない事は知っていた。

「話をしていると食べる事をつい忘れてしまうんだ。もちろん、美味しいのは分かってるんだけどね」
「出掛けてる時、ちゃんと食べているの?」
「あぁ、心配しないで」

 そう言って彼は優しく微笑み、私の頭をそっと撫でる。その瞬間にささくれのように生まれた不安は丸みを帯び、柔らかな心の中に溶けて行くのだ。
 少食な彼と眠る夜を、私はこれから何度だって繰り返せる。そう思うだけで、私には生きている価値があると信じる事が出来る。

 ある夕方、彼が主を釣りに行くと言って湖畔へ向かってから三時間が経った頃だった。そろそろ帰って来るはずの時間になっても彼が戻って来る様子は無く、私はパニックに陥った。
 何か重大な事故にでもあったのではないだろうか。彼はとても繊細だから突然何かに嫌気がさしてしまったのかもしれない。それとも、私よりももっと優れた女の元へ駆けて行ってしまったのではないか。すると、すぐにあの唇のぶ厚い女の顔が思い浮かんだ。きっと私の知らない場所で唆していたに違いない。殺してやろうと思った。しかし、連絡先は知らなかった。

 夜が明けても彼は戻る事は無かった。私は電話で警察に捜索願いを依頼したのだが、警察官のやる気がないのか

「もう少し落ち着いてから考えましょう」

 と一蹴されてしまった。
 彼が消えた部屋の中で一人で過ごしていると、誰も彼もが下らない人間に思えた。テレビに映る顔の五月蝿いタレントと、真昼間に並ぶゴミの行列。動く不燃物共。記号のような腐った言葉と、脂塗れの臓物が生む糞尿を必死に掛け合う連中。もう、目に映すのも懲り懲りだった。辟易として、存在を認知するだけでも身体が怠くなった。

 私に唯一喜びを与えられるのは彼しか居ないのだと思い知った。分かっていた事だが、それは想像を遥かに越える実感だった。

 彼の言葉を聞けなくなってしまってから二日後。目を覚ますと私はすぐに部屋の中の異変に気が付いた。
 部屋の中を見回すと、彼がここに居た形跡が全て消え去っていたのだ。ティーポットの横にはティーカップがひとつしか置かれていないし、彼の愛用していた数本の釣竿も跡形もなく消えていた。彼が戻って来た? いや、そんなはずがない。私は薄目を開けながら、虚ろな意識の中で短い睡眠を繰り返していたのだ。帰って来たならその音で気が付くはず。

 一体何が起こったのかと思っていると玄関のドアを叩く音がした。その音に聞き馴染みがあるばかりに、私は福音を受ける気持ちでベッドから飛び出して玄関へと急いだ。神の国へ迎え入れられる瞬間、人はこんな気持ちになるのだろう。

 しかし、玄関を開けるとそこに立っていたのは例の老人と馬鹿女だった。私は意識するよりもずっと先に、悪態が口から飛び出していたようだった。

「あんたが彼の事を隠したのね!? ずっと怪しいと思ってたのよ! この腐れマンコ!」

 すると、女は口元を手で覆って笑い始めた。

「ちょっ……あー、可哀想」
「かわい、そう?」

 老人は女の肩に手を置き、にやにやと粘ついた笑みをこちらに見せている。女は恐らく、その笑みに気が付いていないかもしれない。そして、老人は私の目を見つめながらこう言ったのだ。

「芹奈ちゃん、それは患者さんにあんまりだよ」
「だって、あまりにも惨めなんですもの」
「それは彼女が患者だからだよ……さぁ、次の棟へ行こう」

 患者? 一体何の事を言っているのだろう。まさか、この私が何かの患者だと思っているのだろうか。それは何かの間違いで、絶対に訂正しなければならない。

「待ちなさいよ!」

 必死に声を張り上げて呼び止めてみたけれど、あの二人は玄関を閉じて何処かへ行ってしまった。

 あれ、何これ? 何よ、これ。

 玄関に取っ手がないじゃない。これじゃ中から玄関が開けられない。外から帰る彼を出迎える事が出来ない。そんなはずがない。ここには木造りでお洒落な、彼が親友の木工職人に作ってもらった可愛い小人をあしらった取っ手があるはずなのに!!
 木造りだったドアは次に目を開けると小窓のついた白い鉄の扉に変わっていた。

 恐る恐る振り返ると、彼と暮らしていた形跡どころか生活の跡さえ微塵も残されておらず、そこにあったのは蛍光灯の下で無機質に照らされたベッドが一脚と、剥き出しの便座があるだけの真っ白い空間だった。

 この世界は可笑しい。彼がいないのは可笑しい。私はこんな所にはいないはずなのに。私には彼だけが居たはずなのに。

 私は叫び声を上げながら、ドアをめちゃくちゃに叩きつけ、蹴り上げた。音が止んだ一瞬の隙間に、誰かが猿のような笑い声を上げ始めた。ひぃ、ひぃ、と、きぃ、きぃ、の間の声。その声は私の鼓膜を見事に凍り付かせた。
 
 その声が彼の声だと気が付くまで、そう長い時間は掛からなかったからだ。


 

サポート頂けると書く力がもっと湧きます! 頂いたサポート代金は資料の購入、読み物の購入に使わせて頂きます。