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【小説】 特殊雨予報 【ショートショート】

 三月すらまだやって来ていないというのに、日中の気温は二十度を上回っていた。

 蒸し暑いとさえ感じる部屋で昼頃に起き、カーテンの隙間から見た曇り空。
 その重たさに、私はふと違和感を覚えた。なんというか、雲に粘り気があるように思えたのだ。
 これはもしや、と思いテレビを点けてみる。
 やはり、予想通りだった。

『本日夕方頃から関東を中心に雨予報となっておりますが、今回の雨は実に九年ぶりの特殊雨予報となっております』

 あぁ、やはり滑り雨になってしまうのか。すると、しばらくは外にも出れなくなるだろう。
 九年前の滑り雨も、ちょうど二月のこんな異様に暖かな日であった。

 あの日、私は妻と娘と三人で休日のドライブへ出掛けていた。
 当時娘の帆夏はまだ小学校六年生で、春に中学生になることを非常に楽しみにしていたことを今も忘れずに覚えている。

「ねぇ、パパ。ハロープレイスに連れてってよ。見たいコスメがあるんだよね」
「コスメって、化粧品か。まだ早くないか?」
「ええ? 古っ。今の中学生は、化粧するなんてフツーなんだよ」
「帆夏はまだ小学生だろ」
「もう中学生ですぅ」

 そんな会話をしながら、ハロープレイスというショッピングモールへ向けて私達家族は車を走らせていた。
 妻はスマホの買い替えをしたいと言っていて、それに私も連れ添う形となるはずだった。

「せっかくだから、あなたも買い替えなさいよ。その間に帆夏はゆっくりお化粧品見て来ればいいじゃない。ね? よし、決まり」
「化粧見るんだろ? 吉江がついて行ってやらなくていいのか?」

 私の疑問に、帆夏は楽し気に軽口を叩く声を弾ませた。

「パパ、おばさんと若者じゃ使う化粧品だって違うんだよ」
「実の母親をおばさんって、おまえ……あれ、雨降って来たな。なぁ、傘持って来たか?」
「あら、いけない。ねぇ帆夏、折り畳み傘持って来てなかった?」
「えー、持って来てないよぉ」

 極々当たり前の、なんてことのない会話だった。
 そんなどうでも良いような最後の会話が、今も耳の奥にこびりついて離れやしない。

 その会話の数秒後。降り出した滑り雨の所為で私達家族が乗る車も、周囲を走る車も一斉にスリップを起した。

 短い衝撃が起きた次の瞬間に、私は意識を失った。
 目が覚めたのは四日後のことだった。
 体育館に作られた臨時病院のベッドの上で、私は吉江と帆夏の死を知らされた。

 特殊雨を知らせる気象キャスターに続き、政府による臨時会見が行われた。
 とにかく家から出ないこと、そして特殊雨対策部隊が各地域を回るので、それまでその場から絶対に動かないことを繰り返し繰り返し告げていた。

 前回の時は、あんなことになろうとは誰も予想していなかった。 
 まさかローション状の雨が降り、全交通網が完全に使い物にならなくなるなんて思いもしなかったのだ。

 テレビを眺めていると、外のあちらこちらから大きな衝突音や悲鳴が幾重にも続いて聞こえて来た。
 知らぬ間に滑り雨が降り出していたようだ。

 私のような苦しく長い経験をする人間が少しでも減ることを願いながら、私は部屋のカーテンをそっと開け、外を覘いてみる。
 しかし、雨は降っていなかった。

 では、あの衝突音や悲鳴の数々は一体何が原因なんだろうか。
 逡巡してみて、すぐに答えにたどり着いた。雨雲がまだこちらへやって来ていないだけなのだろう。
 備蓄していた食料と水がどれだけ持つか計算しようと台所へ向かおうとすると、今度はテレビから聞き覚えのない耳障りの非常に悪い警報音が発せられた。

 男女の悲鳴を不協和音調に加工し、AMノイズを混ぜたようなとにかく不気味で、聞いた途端に背中が寒くなるような、悲しく悍ましい警報音だった。

『只今、未確認の特殊雨による被害が多数報告されているようです。前回の滑り雨とは異なる特殊雨です。危険です。とにかくその場から動かないよう、建物の中から一歩も外へは出ないでください。至急、命を守る行動をとって下さい。繰り返します。只今、未確認の特殊雨による被害が多数報告されているようです。前回の滑り雨とは異なる雨です』

 アナウンサーの語句がどんどん強くなって行くが、詳細は不明のようであった。
 滑り雨以外に、どんな恐ろしい雨が降るというのだろうか。

 世の中の気象がこんなに狂ってしまったのは、ある分岐点で人類が誤った選択をしたからだと言われている。
 しかし、それに気付いて行動を起こした時には既にそれは始まっていたのだ。

 とにかく、どんな状況になるかは分からない。 
 台所を確認してみると、十日分は持ちそうな食料と飲料水が確保されていた。賞味期限も問題なさそうだ。
 あんな目に遭ったら、誰でも警戒を怠らなくなるのが当たり前だ。

 来る日も来る日も、私は吉江と帆夏の写真を抱き締め続け、癒えることのない悲しみと今も向き合い続けている。
 いくら目を逸らそうとしても、悲しみは私を回り込んでいつでも目を合わせようとして来る。
 分かっていても、悲しみと目が合っていることにいつも目が合ってから気付くのだ。

 この辺りに特殊雨が降るのはいつ頃なのだろう。時間の問題なのだろうが、詳細が分からない限りは対策の仕様がないのが現実だ。
 私は不気味な警報音を発し続ける居間のテレビの前に腰を下ろし、続報が出るのを待った。

 しばらくしていると、玄関のドアを激しく叩く音が聞こえて来て立ち上がった。
 こんな時に誰だろうか。もしかしたら、外を歩く人が雨にやられて助けを求めているのかもしれない。

 そうであれば大事だと思った私はすぐに玄関へ行き、ドアを開けた。
 目の前に立っていたのは隣家の奥さんだった。
 肩で息をしながら、血走った赤い目を見開いて突然叫んだ。

「あ、有田さん! 大変、大変! 帰って来たのよ!」
「帰って来た? 一体、どうしたんですか」
「だ、旦那が帰って来たの!」
「えっ、義之さんが?……だって義之さんは」
「そ、そうなのよ! で、でも本当なの。わ、私びっくりしちゃって……そ、それでね」 
「もしかして」

 義之さんは私のふた回りも上の穏やかなご主人だった。私達家族をいつも気に掛けてくれていて、困ったことがあればすぐに相談に乗って頂ける地域の頼れる年長者だった。
 しかし、九年前の滑り雨で義之さんも帰らぬ人となった。 
 その義之さんが帰って来た。つまり、吉江も帆夏も……。

 全てを悟った私は奥さんが何か叫ぶ声を無視して、話の続きを遮るようにして玄関のドアを閉めた。
 幸福の知らせは嬉しいものだが、他人の家だけに幸福を与えられては堪ったものではない。

 私は居間へ駆け足で向かったが、そこには吉江の姿も、帆夏の姿もなかった。
 ただただ、やかましい警報音を発し続けるテレビが『そとへでないで!』というテロップと共に煌々と光を放っていた。

 私達家族の家は、こんなに薄暗い家だったのだろうか。そんなことをふと思ってしまうほど、私しか居ない家族の居間の風景は仄暗く見えた。

 まさか、先ほどの奥さんの話しだが。
 雨が関係しているのだろうか。
 前回も雨だった。なら、今回も雨が起因となるはずだ。

 私は微かな期待を込め、カーテンをそっと開いてみた。
 期待が電光石火で確信へと変わり、私はカーテンを鷲掴みにして思い切り開け放った。

 どす黒く、重く垂れた雲を背景にして、庭先には吉江と帆夏が並んで立っていた。
 あまりに変わり果てた二人の笑みを見た私は、たちまち意識を失った。 

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