見出し画像

血の繋がらない父と僕 【エッセイ】

先日両親に会いへこの夏以来、久しぶりに実家へ帰った。実家とは言っても夏に元々住んでいた家を引き払って公団住宅に越したから、僕にとっては全く「帰ってきた」という感覚にはならない。

以前エッセイでも書いたけれど、うちの父は間質性肺炎に罹っていて半年に一度の割合で二週間からひと月入院する、というのをここ何年も繰り返している。身体が大柄なので幸い体力だけで何とか寝たきりにはなっていないが、大工の仕事はもう引退してしまった。
そしてもうひとつ、うちの父と僕との間に血の繋がりはない。
僕が十才の頃にある日突然、戸籍上の父になったのだ。

戸籍上の父はこれで二人目で、家に寄りつかなかった元の父の代わりをしてくれた人物を含めると、実質三人目になる。

こういう話をすると大抵「苦労したんだね」と言われてしまうことが多いけれど、僕が生まれた時から既に家庭は壊れていたので実はピンと来ていなかったりする。
僕にとっては家庭が壊れている状況こそが「普通」だったからだ。

今の父だが、絵に描いたような職人気質の無骨な人なので他人とコミュニケーションを取るのが絶望的に下手なのだ。
自営で大工(建設)業を営んでいたのだけれど、世の中の不況の波が我が家にも押し寄せると我が家は大変困ったことになった。
父は人に頭を下げるのが大嫌いな人間だったので、営業活動らしいことをまるでしなかったのである。
周りの仲間達はなんとか助け合って仕事を回していたようだが、父は「あんな日曜大工みたいな仕事してられねぇっちゃ」と、東北訛り全開で彼らを否定し続けた。
我が家は路頭に迷った挙げ句、当時住んでいた持ち家を抵当に入れられ、一家は我が家を失った。

それからは貸家住まいだったのだが、兄弟が多い(五人)というのもあって、家にはひっきりなしに誰かしらが出入りしていた。
兄は出て行っていたため、基本的には両親と僕と妹二人の五人暮らしだった。たまに一番上の兄が人生に迷ってうちに居候していたりもしたけれど。
そんな状況を父は否定も肯定もあまりしなかった。

だが、父は基本的に人を褒めるということをしない。典型的な頑固親父な性格なのである。
妹達も大きくなり、そんな頑固も女系家族の中だと通用しなくなって来た。
酒が大好きなので飲む量を控えろと女達にワーワー言われるとそっと焼酎ボトルをテーブルの横に戻すのだが、姿が見えなくなると「しーっ」と言いつつ舌を出して酒をグラスに入れる茶目っ気さも持ち合わせてはいた。
それがバレると「たけしの相手してやってんだ」と僕をダシにしたりするのだが、気分は悪くなかった。

機嫌が悪くなるとひととき何も喋らなくなるので、小中学校の頃なんかは父が家に帰って来るとあたりに響くワゴン車のエンジン音が空襲警報のように聞こえる時もあった。
そんな時は大体母と妹ふたりとダラダラ喋りながらお菓子を食べているのだが、エンジン音が聞こえた瞬間に皆一斉に立ち上がって片付け始めるのだった。あれは今思い出しても「電光石火」という言葉が実に合う。

ある日、何かのドキュメンタリー番組で一人の少女が病気を抱えながら夢に向かい、最終的には夢半ばで亡くなってしまう話が紹介されていた。
無念だっただろうなぁと思ってふと横を見ると、父が腕組みをしたまま号泣していた。

家族はその姿を見て腹を抱えて爆笑した。鬼の目に浮かんだ涙が想像以上に面白かったのと、この人も人間なんだな、と思えてホッとしたのだ。

僕達兄妹が大人になったある冬、父が病気になって運ばれた。すぐに入院することとなり、医師からは「覚悟しておいて下さい」と告げられた。病状はかなり悪く、血中酸素濃度が急激に下がって顔色も紫色に変色していた。
僕は当時埼玉を離れていて、これから先の実家の生活が心配になった。
すると、母と父から「戻って来てくれ」と頼まれた。そして、戻った。

それからは父の具合の管理や耳が若干遠くなっている母の代わりに医師の説明を聞いたり、薬のことを調べたりするのが日常になった。
段々と力が老いて行く父の代わりに家の中ですることも増えた。
けれど、ある程度の時期が過ぎると父は僕になんとも忌々しい表情で

「いつになったら出て行くんだ」

と言うようになった。戻って来いと言ったり出て行けと言ったり忙しい人だ、と思ったが、日に日に父の具合が悪化して行くとそんな言葉も強くなった。

「早く出てけ。いつまで家にいるんだ? 情けねぇやっちゃ」

そんなことを日曜日の朝から言われるもんだから、腹が立って喧嘩にも何度かなった。
家のことをしようにも、父は息が上がってしまいほとんど何も出来なくなっていたので「俺がやるから」と言っても、父は「何もするな」とムキになって僕に手伝わせることを拒否し続けた。

コロナが流行し始めた辺りで、医師の勧めもあったので僕は父のお望み通り家を出た。
だが、家を出てからはそんなにうるさいことを父から言われなくなって、初めて気が付いたことがある。
父はきっとだんだんと弱って行く姿を見られること、そして僕に負担をかけさせ続けさせることが嫌だったんじゃないかと気が付いたのだ。

頭に来ていたことも沢山あったはずなのに、そんな思いはいつの間にか治っている傷口のように、音もなく綺麗に無くなっていた。

先日実家に帰ると、持ち運びの出来る酸素吸入器から伸びた管を鼻に着けている父が僕を出迎えた。しゅこー、しゅこー、と音が鳴る機械と父の姿に母は

「ほらぁ、こういう人がスターウォーズにも出てくるだんべぇ!」

とダースベイダーに例えてゲラゲラと笑っていた。つられて僕も笑った。
父の実家のある宮城から米が届いているが体力的に取りに行けず、局留にしてあると聞いたので郵便局へ二十キロの米を取りに行った。
帰って来てから米の入ったバンド留めしてある箱を父の前で下ろすと、父は「ちょっと待ってろ」と家の中を何やら探し始めた。
持って来たのは大工仕事用のゴツいカッターナイフだった。

箱の端と端、そして真ん中を切る手元の動きはまだ現役の職人そのものだった。
そんな大きなカッターナイフじゃなくても箱は切れるはずだけど、父はそうしたかったんだと思う。その証拠に手元を見詰める表情は真剣だったから。

幼い頃、父の現場に足を運んだことがある。大きな教会の内装を父は一人で作っていて、とても静かな空間の中でステンドグラスの陽に晒されながら、教会の壁を作っていた。
その時の光景をふと思い出して、今まで色々あったし、血も繋がっていないけれど、この人の息子でいれて良かったと僕は感じたりしていた。

帰り道で秋に取り残された冬の黄色い葉っぱを見つけた。
葉は木々から芽吹き、鮮やかな緑に成り、やがて黄色や赤に染まると最後には枯れて落ちてしまう。

身体は黄色いけれど、父の手元だけはまだまだ緑なんだな。
あと何回、会えるんだろうか。
そんなことを考えながら歩いて帰った。

サポート頂けると書く力がもっと湧きます! 頂いたサポート代金は資料の購入、読み物の購入に使わせて頂きます。