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【小説】 雨ざらしの夜に 【ショートショート】

『野原様。お世話になります。

寮費の前払いの件ですが四月、五月の二ヶ月分の入金を確認致しました。
入寮当日はどうかくれぐれも気を付けてお越し下さいませ。
新宿駅に到着されましたら、ご連絡下さい。

萩原』

 大田区での仕事をする為、生まれて初めて東北を出た。
 私は四十五を迎え、まだ屋根にさえ雪が残る実家を父方の親類よって叩き出された。
 当の父はとっくに死んでいたが、一昨年に亡くなった母の遺骨を墓に入れず、部屋にそのままにしていたことを激しく責められた。
 実家は親類に取られた挙句、それまで働くことをまともにして来なかった私は人間以下だと罵られた。

 続々と去来する虚しさを手土産に新幹線で上野まで出て、山手線で新宿駅まで出た。
 ぼんやりと「都会」の景色を眺めながら、今日から早速入寮して明日から全く見知らぬ土地の工場で働くことを想像すると、不安で胸が潰れそうになった。
 しかし、それはすぐに束の間の杞憂に終わった。
 私は派遣会社の担当だと名乗る萩原という男に、まんまと騙されていたのだった。

 新宿に着いて萩原に電話を掛けてみたら、繋がらなくなっていた。
 何かの手違いだろうと思い、何度も何度も掛け直してみたが繋がることはなく、私は苛立つ反面、働かなくて済むという湧き上がる微かな安堵が癪で、通り過ぎて行く目の前の知らぬ人間達へ向けて不機嫌を装った。

 夕方から、未練がましい冬めいた霧雨が降り出した。
 どこへ行こうにも土地勘も分からなかったので、目についた飲み屋へ足を運んだ。
 薄暗い店内には若い大学生風の男女が多く、私は選択した店を間違えたことに気が付いた。赤提灯が良いな、とも思ったが巨大迷路にも思える繁華街の何処へ行けばその手の店が在るのか想像もつかず、黙って飲み続けることにした。

 これから先、どうやって生きて行こうか考えた。
 母の生命保険から受けた金がまだ残っていたが、私の迷いを解消するのはきっと金の問題ではない気がした。
 働いて金を得たところで、それが一体自分の何になるのかを考えてみた。
 答えは実に簡単で、ただ死なずに済むということは分かったものの、「何」という部分に関しての興味や希望というものが、一体何なのかを見つけなければならないのだろう。

 私は親に愛された経験のないまま育った。殴られたり、納屋に閉じ込められたり、貶されたり馬鹿にされたり、そんな経験は山のようにあった。
 母も、父も、私を貶める時は実に活き活きとした表情を浮かべていた。

「孝はな、橋の下で拾って来たんだ。だから、私が生んだ覚えはないんだよ」

 そんな言葉を毎日毎晩聞かされ続けたので、私には自信という概念、というよりその機能が備わずに成長した。
 しかし、社会の勉強が好きになった。中学二年のある日、テストで満点をとって嬉しくて堪らず、私は母にテスト用紙を見せた。
 テスト用紙は火鉢の中へとすぐに捨てられ、力任せにビンタを食らった。

「勉強出来る人間がえらいとでも言いたいのか! この薄情者が! おまえは異常者だ、精神異常者だ!」

 そんな言葉を投げつけられた挙句、三日間食事抜きになった。
 私はその日から、学ぶことを放棄した。

 どんな事情かは分からなかったのだが、私はどうやら本当にあの父と母の子ではないと知ったのは二十歳を迎えた夏のことであった。
 私の家は干柿を作る農家だったので、その手伝いをしていたある日に農協の職員から聞かされた。

「孝もかわいそうだいなぁ。おめぇ、親が生きてる限り一生あの家から出られねもんな」

 私が何も言わないでいると、職員は涎でも垂らしそうな恍惚とした表情に打って変わり、私だけが知らなかった私の真実をデリケートやオブラートを知らない世界住人の姿のまま、私に伝え聞かせた。

 私はその時に私自身が金を生む道具に過ぎないと知ったことで、住み慣れた小さな村の全てに絶望した。
 金だけを渡し続ける生みの親に会いたいとも思わなかったし、その場所が世界に過ぎなかった私の中からは、人間というものが全て消え去った。

 これから先、どうしようかと思ったがしこたま飲み続けて尿意を感じ始めたので、先ずは便所へ行くことにした。
 巨大な笑い声が等間隔でテーブルから聞こえて来る。大きなジョッキグラスでビールを飲む男を囲む人間達が、声を揃えて吠えている。

「おいっ! おいっ! おいっ! おいっ! おいっ! おおおおおおおおおお!」

 あんな風な年代の頃の私なら、あの場所に居たら何を思うのだろうか考えてみたが、何ひとつ浮かんで来ることはなかった。
 そもそも、呼ばれる機会もないだろうし、居ても異物となることは目に見えている。

 便所のドアを手に掛けると、鍵が掛けられていた。
 先客がいるのだろうと思い、しばらく待ってみることにした。
 ガタコトと扉の向こうから音が聞こえて来たかと思ったら、すぐに女の喘ぎ声が聞こえて来た。

 あん、あん、あん。おう、おう、おう。

 女は何故、「あん」と喘ぐのかを思慮しながら押し寄せる尿意を堪えてみた。
 身体の勝手が利かず、快楽が止められないので赤子のように簡単な言葉しか吐けなくなるのだろうか。
 私の身体でそれを感じたとしたなら、一体どれほどの快楽なのか一度は体験してみたいと思い始めると、男の声が女の声量を上回り始める。

 おおう、おおう、おおう、おおう。
 あん、あん、あん、あん。
 おおう、おおう、おおう、おおう。

 そのテンポで繰り返す言葉がそのうち私の耳には「覆う」「安、安、安」と聞こえて来て、性交というものがそれぞれに覆われながら安堵を得る行為なのかもしれないと気が付いた。
 便所の若者達はきっと、寂しさや苦しさに耐え兼ね、自制が効かないが故に便所でおっ始めてしまったのだろうと思っていると、声が止まって便所の扉がゆっくりと開かれた。

 このような機会に遭遇して意外だったことは、互いの身体にしかぶつけようのない若者達の寂しさや苦しさを想像した時に、物語でしか見聞きしたことのない父性のような感情が芽生えかけたことであった。
 きっと、そう……きっとそれは愛おしいという、そんな感情に……。

 扉が開かれ、のっそりとした動きで出て来た男の姿を見て、私は愕然とした。
「覆う」と声を発していた男は私の年齢とそう変わらなそうな金髪の若作りをした中年で、その背後に立つ女は薬物患者のように目が落ち窪んだ、ガリガリの疫病神のような風貌をしていた。真っ赤なドレスが、似合わないどころか否が応でも無残な人の死を連想させた。

 男はズボンのチャックを閉めながら、私の顔をゆっくり覗き込んで来た。 
 酒の匂いよりも、歯槽膿漏でやられた口臭がプンと鼻を突いた。
 私の目が男にはどのように映ったのかは不明だが、男は左手で女を守るような仕草をした。
 原始人の住む巣穴に偶然入り込んでしまい、たまたま居合わせた原始人に巣穴に隠した餌を狙っているとでも勘違いされれば、飽食の現代を生きる人間達は多少なりとも怒りを覚えるだろう。
 それと同じ感覚が私を包んだ。

 男は私の顔を覗き込んだまま、こんな言葉を掛けて来た。

「なんだよ、オッサン。あぁ?」

 病気女はバサバサに伸びた陰毛のような髪を触りながら、へらへらと贅肉のような笑みを浮かべている。
 私はなんだと聞かれたので、ここへ来た用件を素直に伝えることにした。

「小便、しに来たんだけども」

 男は私の顔から歯槽膿漏発生装置の顔面を離し、女の肩を抱きながら笑った。

「立ち聞きしてんじゃねぇーよ、キモっ」

 そう呟いて、無遠慮に私の肩にぶつかりながら、前を通り過ぎて行こうとした。
 女は私の知らない「自信」に満ちた表情で、目の前を過ぎるとすぐに振り返り様にこう言った。

「お兄さん、タイプじゃないから遊んであげな~い」

 堪ったもんではなかった。便所から出て来たのは若者でもないし、若作りの中年男は歯槽膿漏の臭いを吹っ掛けて来る上、女は人を不幸にする病的な何かを放射能のように辺りに撒き散らすバケモノだった。

 家を追い出された。あの家はすぐに売りに出されるらしい。
 架空の派遣会社に払った寮費は戻らず、当然ながら仕事もなかった。
 遠路遥々東京にやって来たものの、良いことなど一つもなかった。
 元から期待などしていなかったが、裏切られたような気分は元来持ち合わせていた虚しさへ、より拍車を掛けた。

 これから先、どうしようかと考えていた。 
 小便を放つ前に、やりたいことが見つかった。

 便所へ続く二、三段の小さな階段を男が女の肩を抱きながら降りて行く。
 私は扉に掛けていた手を離し、振り返る。
 階段を降り切った男の背中はあまりに無防備で、私と同じように他人を想像し得ない愚かさを背負って揺れている。

 その背中目掛けて、私は自分のやりたいことを成すために左足を踏み込んだ。
 そして、だらしなく揺れる背中を思い切り自由に蹴飛ばした。

 すぐに警察官に連れ出された私は、パトカーに押し込められた。
 男は歯槽膿漏臭い息を吐きながら何か吠え続けていたが、私は気分が良かった。
 私を乗せたパトカーがゆっくりと、繁華街を走り出して行く。
 明日突然吹っ飛んでも、誰も困らないような店が延々と続いている。

 未練がましい雨は続いていたものの、今夜は雨ざらしになることなく晩を越せることに気が付いて、私はそっと仄暗い喜びと安堵を得る。



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