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どこでも知的に向上できる

人間、知的向上が大切だと常々思っているのだが、昔から親に高額な学費を出してもらって大学に進みながら、遊び倒した挙げ句、その後も読書すらしない人が多いらしく、他人事とはいえ頭が痛い。

それはそうと、人間は学ぼうと思うとどこでも学ぶことが出来るし、知的向上も図れる。

極端な例になるが、受刑者だった永山則夫や見沢知廉も、獄中で読書&執筆を続け、文学賞を受賞したし、アメリカの公民権運動のリーダーのマルコムXも、獄中の読書で知性を蓄えた。

極論を出したが、いわゆる人はやる気になればどこでも知性を伸ばすことが可能なわけで、最近静かなブームの大人の学び直しも、自己の知的能力の向上という点を考慮すると無駄どころか大いに価値あることだと思う。

小学生の頃から50代半ばまで、欠かさず読書を続けてきた身としては、知的に成れたかどうかは不明だが、世界の捉え方が細やかになったし、理解力もかなりアップしたと思う。

そういう点で放送大学やその他の通信制大学や大学の夜間部、定時制高校や通信制高校をバカにする風潮も世間に少し見られるが、本人にとっての学びの価値を考えるとかなりの意味があると思う。

実際、現実に対する見方が変化すると思うし、相手にちゃんと意思疎通できるようになるし、文章を書いて相手に示せるようにもなれる。学歴社会と言われるが、あれも肩書だけの空虚な側面があると思うし、実際はどのように知的に自分を高め続けるかという点に焦点を当てるべきだと思う。

先日、理系の学び直しをしようと、高校レベルの物理と数学の入門書を買ったが、自分のやることを絵画制作と俳句に写真撮影、noteのエッセイといった創作活動に全振りすることに決めたので少々残念だが、科学的概念を知るのと知っていないのとでは、認識がかなり違ってくるので、そのうち入門書だけは済ませておくかもしれない。

昔、作家村上龍の「すべての男は消耗品である」というエッセイシリーズがあり、その中に「人が自分を変える方法は、猛勉強するか引っ越すしか無い」と書かれてあって、思わず膝を打った記憶がある。猛勉強すると知能は格段に上がるし、引っ越すと環境が変わるので、発揮する能力も変わってくる。自分の好きな学問の行動遺伝学に沿った考え方だ。

話を元に戻すと、読書を始めとして、文筆活動や学習も場所を選ばなくなってきた。学習をする意味は自分の知力を向上させるという意味もあるが、世界認識が確かに変わるし、考える内容も変わってくる。夜間中学に通う人に限定すると、社会生活を送るのがスムーズになるという利点がある。

孔子の言った「学びて時にこれを習う、また悦ばしからずや」というように、勉学の価値はいまも消え失せていないと思うのだ。



















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