ホラー映画から見る現代社会① 悪魔が吐かせようとしている本音

昨年、「ソーシャルスリラーとホラー映画から見る現代社会」という連載をしてみたが、今度は、ソーシャルスリラーを離れて、ホラー映画を横断的に考えてみたい。

悪魔映画から読むアメリカ

ホラー映画はその背景となる社会を映し出す。故に、アメリカで発明された悪魔祓い映画はアメリカ人の集合意識そのものだと思う。悪魔映画≒概念としてのアメリカにこれだけ惹かれている私は、本音ではめちゃくちゃ親米主義者なのだと思う。私の認知が衰えたら、私の本音≒親米主義者は何を言い出すのだろうか。認知症は悪魔憑きと同じで、その人の本当の姿をさらしてしまう、恐ろしく悲しいものだ。

悪魔映画についてだらだらツイートをしていたら、ふと思いついた。

『エクソシスト 信じる者』は、悪魔祓いをコミュニティの力でやってのける点が肝だ。助け合いと連帯に社会的な意義があるという。ブラムハウス・プロダクションズはそれがウケると読んだ。同作は興行的にいまいちだったり評価や満足度が低い。天下のブラムハウスが読みを外している可能性もあるので、今後の続編の展開に期待したい。

ところで、数ある悪魔祓い映画でコミュニティがある一家の悪魔を祓うと示したケースはどの位あるだろうか。あんまりないような気がする。悪魔に憑かれた人のケアは多くの場合、家族が担当している。それこそアメリカネスの要である「家族主義」のなせるわざだと思う。家族の愛で悪魔や困難に打ち勝つべきなのだ(後述の通り『へレディタリー』は真逆の対応をして見せる)。

家族に内在する問題は悪魔のせい?

悪魔憑きは、家族の問題行動を何とか家族として受け止める方便である。ママが、パパが、娘が、息子が、おばあちゃんがおかしい。お医者さんに見せても原因不明、家で介護するしかなく、家族は困り果てる(『ペットセメタリ―』(1989年)では家庭内介護の記憶によって作品の闇に深みが加わっている)。医療の頼りない対処療法=鎮静剤は気休めに過ぎないし、また暴れる…そんな苦しみの渦中にある一家にとっては、「これは悪魔のせい」だとでも思いたいだろう。最後の手段として聖職者=専門家を呼ぶ一家。か弱き人間に勝算はあるのだろうか…悪魔憑き映画は概ねこの流れである。

周囲の者の体験を中心に考えると、悪魔憑きとは、外聞が悪い、みっともない、世話が大変、つらい、家が汚れる、暴言を聞かなきゃならない、元気だった頃のことを思い出しては毎晩悲嘆にくれたり酒に逃げたりという一連の苦しみの連続である。一家は崩壊の危機にまで追い込まれる。

悪魔というのは、極めてせこいやり方で人間を虐め、神への信仰を思い出させる神の外部組織だ。やり過ぎてアンチ・クライストになってしまったら、それこそ悪魔は存在意義を失う。『ダーク・アンド・ウィケッド』は、家族の終焉を悪魔のせいだと思いたい、という欲望も垣間見えて、哀しくやるせない手触りを感じたのだが、悪魔の側から見ると、家族を追い詰めるやり口がせこくてコメディですらある。クライブ・バーカーはそこを更に逆手に取った「下級悪魔とジャック」という短編を書いている。イギリスとアメリカの悪魔に対するスタンスの違いのようにも思えて楽しい。

さて、外聞の悪い「家庭の事情」に対し、日本では、他人は基本的にタッチしないで傍観することを選ぶ。悪魔憑き映画(悪魔憑きではない『ポルターガイスト』も同じ構造を持っている!)の顛末から考えると、問題を抱えた家が孤立し、家庭内で蟲毒を育んでしまう状況は、核家族を基本とするアメリカでもそう変わりないことがうかがい知れる。また、悪魔憑き映画の場合、子供に対する暴力ではなく、子供自身の狂暴化(バーサーカー化!!)も起こり得る。故にアメリカ社会も、子供の悪魔化に介入する術が無いと見える。

リベラルアメリカではサタニストは安泰か

ところで、現在のリベラル・アメリカでは、十代や二十代の若者たちが「傷つく」のを恐れるあまり、親たちが彼らを指導するに当たって二の足を踏んでいる節がある。『13の理由』というドラマは(シーズン3までは)、その問題に大人としてどう取り組むべきかと問うていたと思う。

一方、そんな状況をおちょくっているのが、ハリウッドの伊藤潤二、アリ・アスターの傑作ホラー『へレディタリー 継承』である。死亡事故を引き起こした高校生の息子に向かって大人げない憎悪をぶつける母親と、一族の男を悪魔に捧げて繁栄を手にしようとした祖母の欲を描いたということで、映画研究者の鷲谷花は『サスペリア』リメイクと併せ、「フェミニズムが勝利した後の世界への恐怖」を描いたと批評した。そういう読み方もできると思うのだが、あのアニーの異様とも思える憤怒と憎悪は、Z世代に対する大人世代の代弁にも思えてくるのだ。

系譜としては、『へレディタリー』は、『魔鬼雨』(1975年)のようなサタニズムコミュニティを捉えた映画だ。70年代の同作と違って21世紀のサタニストコミュニティは天罰を食らわなくてもいいらしい。

70年代の『魔鬼雨』のラストは恐ろしい。一度でも悪魔に触れてしまった魂は全員地獄行きで恐ろしい末路を迎えねばならない。雨でどろっどろに溶かされる人々の惨いこと!しかし、そうやって「秩序のために犠牲になっていただく逸脱者」がはっきりしているときの方が、社会全体は安泰だ。例え70年代というアメリカネスがひどく動揺していた時期にあっても。結局その後80年代・90年代は安定した。映画の描いている通り、皆が『フォーエバーパージ』したがっているような2020年代の動揺とは質が違うという気がする。あくまでホラー映画からの推測ではあるが、今のアメリカは「次に誰に犠牲になってもらうか」の貧乏くじを巡って戦争しているようにも見える。

また、『へレディタリー』は、新自由主義的なリベラル・アメリカの節操のない本音をよく捉えている。どうせみんなやってんだし、社会はサイアクだし、金と名声が手に入れるためにちょっとくらい悪さしたっていいじゃないかという裏の本音。裏の本音だからこそ悪魔につけいられるのである。そこが『ハスラーズ』のような、似非フェミニズムによって犯罪を正当化する映画とも一脈通じている。あれは、金持ちセレブから一般人へのチャリティであろう。我らは、「お前たちも私のようにきらきら贅沢したいだろうが、お前たちの能力ではどうせ無理だから、軽犯罪くらいは大目に見てやんよー」と、ジェニファー・ロペス様からじきじきに贈り物を賜ったのである

尚、サタニストならLGBTQ∞にも寛容だろうし、リベラル・アメリカ支持者はアニーの母親の行動を本質的に非難できまい。アニーの母は虐げられた被害者だったかもしれないじゃないか。『ハスラーズ』の女たちのように。だからこそ、悪魔に力を求めて何が悪い。サム・スミスも『Glory』という歌で、モンスターや悪魔によるエンパワーメントを歌っていたように、悪魔は抑圧的な秩序に対するプロテストの象徴でもある。アニーは「母は難しい人だった」と語っていたが、それは、社会の犠牲者にありがちな「生きづらさ」の言い替えの可能性もある(冗談です)。

アリ・アスターの意地悪センスはそこをおちょくっているとしか思えない。「ペイモン万歳!」で終わるとは、ブラックユーモアたっぷりだ。ホラー界のごりごり保守派ラルフ・サーキなら何て言うかな。

結論

悪魔は我々を生きやすくしてくれてもいる。キリスト教の信じる神様の与える秩序は基本的に厳しく、憎悪に満ちており、天使たちは人間を処罰して苦しめたくて仕方がないようである。マイケル・ギルモアが自分の体験からアメリカ中流層の家族の虚構を暴いた『心臓を貫かれて』は、そうした過酷で冷酷なキリスト教的価値観についても言及していたと記憶している。そうした状況からの離反が、結局は様々な反発を呼び、「次に犠牲になってもらう層」を巡って文化戦争が起きていると見える。犠牲になるのは「悪魔」そのものではなく、悪魔に淫した「モンスター」である。アメリカは、悪魔と神様と一緒に発展してきた。当然、これからもそうだろう。アメリカの一風変わった発明である悪魔祓い映画がどんな犠牲の羊を映し出してくれるか、楽しみである。

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