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ソーシャルスリラーとホラー映画から見る現代社会

長らくホラー映画に関する考察をしたいしたい夏(サセコさん)だったのだが、ようやくまとまって二万文字くらい書いた。これから少しずつ出していこうと思う。細かい出典は後から付け加えたい。私の中にある、アメリカ映画への強い憧れと賛美、そして反発と蔑視という屈折した思いが書けたらいいなと思いながら書いてみる。

①ソーシャルスリラーの冒険

2017年にアカデミー賞脚本賞を受賞した『ゲット・アウト』は、ソーシャルスリラーという新しいホラー映画のサブジャンルの代表作である。同時期にアカデミー賞の受賞候補に挙がった様々な作品と並べてみると、特定の社会的なテーマを取り上げる作品が高く評価される傾向にあった中で、ホラー映画もそのトレンドに乗ったと言える。また、弱者と強者の緊張関係から湧き出してくる集合的な恐怖の記憶は、まさにホラーにうってつけと言えよう。一方で、ある特定の解釈までも観客に求めるような傾向も帯びてきており、この点もその他のジャンルの映画と足並みが揃っている。

ソーシャルスリラーとはどんなものなのだろうか。

まず第一に、ソーシャルスリラーにおいては、ポリティカリーコレクトが正義であるという価値観を観客が共有していなければならない。現実の社会集団を強者・弱者に分け、前者が後者を脅かしているという状況を描いていることが鑑賞前から了解されており、尚且つ娯楽として楽しまれることが想定されている。つまり、現実に存在する属性、白人で、シスジェンダーで、異性愛者の男性は、有色人種でトランスジェンダー、同性愛またはその他の形を取るセクシュアリティの女性に対して一定の脅威になる…というような考え方を前提に作られている。その形で、観客が映画の中の力関係の中に引きずり込まれるのである。不思議なことに、リーマンショック後一時流行した貧富の格差を読み込ませる流れは、ある時期からほとんど見えなくなった。アメリカのホラー映画では貧富の差こそが問題だとする描写は、『パージ』第一作以降あまり見えなくなっている。

第二に、強者の持つ攻撃性・暴力性を現実の社会集団にはっきり紐づけている点が、ソーシャルスリラーの特徴である。弱者属性(有色人種、性的少数者、女性、高校でいじめられている等)と強者(白色人種、異性愛者、男性、運動部でいじめっ子等)が対置され、強者によって弱者が常に公共空間でも私的空間でも追いやられているということが確認される。ブラムハウス製作の人気シリーズとなった『パージ』シリーズでは、シリーズが進むにつれ悪役の属性が少しずつずれていく。本来は貧富の差と安全確保が比例関係にあることを指摘する映画であり、その線も守られてはいる。しかし、第三作目では「白人男性の集団」による暴力こそが問題の中心であると表現されている。シリーズ最新作ではパージが終わらない中で主人公たちがメキシコに逃亡する物語であるらしい。ハリウッド映画の中の「メキシコ」がどのような場所であるか考えさせられる。

ところで同シリーズの「ある時間帯だけ犯罪が合法化される」という設定にはそれ特有の魅力があるのかもしれない。木下恵介『楢山節考』の中で、貧しさから盗みを働いた家族に対する制裁は狂気の祝祭であり、村にとって数少ない余興となっているように読める。あれも祝祭としての暴力で、『パージ』と同じだ。この設定には、腹の底からにじみ出る欲望を刺激する何かがあるのだろう。ソーシャルスリラーの前に流行した、いわゆる拷問ポルノジャンルのホラー『ホステル』のことを思い出すのだ。立場が転倒し、加害者に反撃する被害者の視点から暴力が展開する『ホステル』終盤の展開に快感を感じるとき、我々は一体何に寄り添っているのだろう。

ところで、今のところ私は、ソーシャルスリラーとは、アメリカに特有の現象であると理解しているが、各国のホラーをきちんと確認しなければならないため、反証となる作品があれば是非観たいと思っている。今のところ、英語圏やスペイン語圏、フランスやイタリア、日本、韓国、インド、マレーシア、タイ等を確認中である。今は世界的な傾向として映画がソーシャルスリラー的なものを描く傾向にあるが、後で考えてみるようにアメリカのソーシャルスリラーとは多少力点が異なっているような気がする。他国の場合、米ホラー映画の中で退潮した経済格差に基づく階級格差の問題の方にフォーカスしているように思われるのである。また、日本の恐怖映画『東海道四谷怪談』や、数々の韓国映画やインドでも見られるような、「主に男性の暴力によって非業の死を遂げた女性の霊が復讐のためこの世に留まっている」というモチーフもまた、弱者と強者の間の緊張関係の末路を描いていると言える。これはソーシャルスリラーとは違うのだろうか。『四谷怪談』は伊右衛門の男性特有の優柔不断さと、自我の弱さ、また武家社会の仕組み(男尊女卑)がお岩に悲劇をもたらすとはっきり描いているが、数ある類似した怪談物語の中に埋もれている。観る側が男尊女卑的な価値観に染まっていて自覚的ではなかったのだろうか。また、日本の文化の中に、「耐えて、耐えて、爆発する」という忠臣蔵的な美学があることが、男女の力関係に目をやりにくくしているのだろうか。または、超自然的存在になった女性の凄惨な復讐を観ることで、観客は「気が済んで」しまうのだろうか。

これを考えるためには、ホラージャンルにおける文化的想像力の違いについて考える必要があると共に、ホラージャンルをそれぞれの文化の構成員がどう消費してきたか、という点も検証が必要と思う。もう少し踏み込んで言えば、ソーシャルスリラーを生じさせるような深刻な緊張関係が日本では表面化しにくいということかもしれない。またインドでは社会的葛藤が常にあちこちで可視的に発生しているため、敢えてホラーで見る必要は無いのかもしれない。翻ってアメリカは、自国内の葛藤を娯楽として消費できる層がそれなりにいるということが言える。

よって、他国のことは一旦おいておき、ソーシャルスリラーは、インド系アメリカ人のディネシュ・デスーザが「アイデンティティー社会主義」と揶揄的に指摘した、アメリカ特有の現象として捉えてみる。多民族・多文化状況を一つの価値観(プロテスタント的な価値観・勤労と独立)でまとめあげることは常に困難だったはずだが、ソーシャルスリラーは、敢えてそれとは異なる価値観を打ち出すという冒険に出ている。


この後のラインナップ

ロビン・ウッドの論から見たソーシャルスリラー

「差別する人」だと思われたくない

フェミニズムとソーシャルスリラー

ブラムハウス社の様子見

アメリカホラー映画の立役者、悪魔

非ソーシャルスリラー的だが近い領域を扱うホラー映画

陰謀論と共鳴するアメリカホラー映画の発想法

「悪」はいつもすぐそばに




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