竹美映画評65 インドのホラーはマラヤーラム映画にあり?『Kumari』(2022年、インド、マラヤーラム語)
悪鬼に憑かれた女が踊るインドホラーの傑作を未見のわたくし。
ホラーなのに怖くないよと言われ、そして私の実感としても怖くならないように作られているような気がするインドのホラー映画。その歴史に燦然と輝く名作があるらしい。マラヤーラム語映画『Manichitrathazhu』である。
同作は複数の言語でリメイクされた。最近もヒンディー語版リメイクの更にリブート版とも言える『Bhool bhulayaa 2』が、ヒンディー語不振の2022年の公開作としては健闘した。私も観たが、コミックリリーフと悪鬼の恨みが交互にバランスよく配されていて、やっぱり全体としては怖くなかったが、演技もよかったし面白かった(とは言え後でNetflixで英語字幕付きで観てやっと意味が分かった次第)。
最近見た興行成績では、『Brahmastra Part One: Shiva』と『The Kashmir Files』(未見だが非常に観たいし、相変わらず揉めている…)に続く、ヒンディー語映画では第三位だったらしい。
https://boxofficeindia.com/boi_pages.php?year=2022&pageId=4
しかし私が他で観た興行成績の数字や順位が微妙に違っているため、一体何を信じたらいいのか全く分からない(私の見方がおかしいのだと信じたい)。
さて、インドホラーがいまいちだと思われる(私が思ってるのよ!)中で、こんなにランクが高いってことは、やっぱり…みんな幽霊とか悪鬼の映画が好きなんだと思う。
さて、そんな『Manichitrathazhu』だけど、まだ観ていない。また、本作は原作よりもタミル語版リメイクの『Chandramukhi』(ラジニカーント主演)の方が知られているのではあるまいか。ラモジ・フィルムシティに行ったとき、ガイドさんが「ここはチャンドラムキを撮影した家です」と言っていた位だから。
それから、最近見たヒンディーのホラー映画『Phone Bhoot』でも、明らかにラジニカーントの物真似のシーンが出て来た。恐らく『Chandramukhi』を意識してのことだろう。その形である以上、同作はコメディの材料となって生き残っていることになり、過去の名作ホラーへの言及ではないのである。
また、ヒンディーリメイクの『Bhool bhulayaa』に関しては、これまた本作を観てないが、幻想の中で踊り狂うヴィディヤ・バランの鬼気迫るダンスシーンだけは知っている。
見なきゃいけないのかな…やっぱり避けられないよね…今読んでる『Indian horror cinema』でも出てきそうだし。
しかしインド疲れした私は同じ内容を三本も観なきゃいけないというプレッシャーから逃げ、Netflixにあったマラヤーラム語映画『Kumari』を観た(あんた結局…)。
マラヤーラム語ホラー『クマリ』評(結末に触れています)
悪鬼の呪いに憑かれた旧家に嫁いできたクマリが体験する恐怖体験を描いており、私としては、『Tumbbad』(ヒンディー語、2018年)との類似性を感じたために、それに匹敵する「ちゃんと怖いインドホラー」と思えた。
ストーリーの中で大事な役割を果たすのが代々続く名家の欲望である。また、欲望がクマリの夫ドゥルヴァンに及ぼした変化は地味だが本作の中心をなしている。ドゥルヴァンは最初、精神疾患が疑われ、皆から見下されている存在だった。心のきれいさもあると同時に攻撃性も兼ね備えた存在だ。クマリは彼のやさしさを見出し、彼もまたやさしさを見せ、二人は本当の夫婦となっていくのだが…。
男性がその欲望故に処罰を受ける一方、クマリが如何にして自分の人生を手にしたかという物語にもなっており、そこは強引にマラヤーラム語映画につなげるならば、『グレート・インディアン・キッチン』と連なるテーマも含んでいるのだと思う。そういう意味で、本作は「正解を提示されるタイプの映画」でもあったため、その点では私が何か新しい感想を付け加えることはない。映画批評的に言うなら、その描き方が何か本作に魔法を与えているわけではないと言えばいいか。また、ある種の女性固有の力を明確に描くことで、却ってステレオタイプ的になってもいるように思う。
だが、私は、今後映画の世界は、様々な論争を通じ、男女の身体に根差した差異を明確に描く方向に行くのではないかと思う。つまり、男の身体にしかできないこと、女の身体にしかできないこと、をどう描くかによって作家のセンスが問われるような時代が。
一方で、悪鬼、富と権力への欲望、地位の高い男性の破滅、という一連のザマミロ展開は『Tumbadd』と全く同じである。同作は女性の視点や立場をほとんど入れなかったことでザマミロ性が徹底していた。また、本作の「非ヒンドゥー的なルーツを持つDemigod(半神の存在)が密林の部族の信仰の対象となっている」という描写は、今大ヒット中の『Kantara』とも繋がる。ただしこの主題へのアプローチの違いが今のインドの心性にとって決定的なのではないかと踏んでいる。
本作は、カーストの高い地主一族もまた、その敵対する悪鬼を拝んでいたという点が少々欲に狂っていてよろしい(そこが『Tumbadd』と共通である)。本作は、超自然要素を抜いても十分その恐ろしさが成立しており、その意味で、コミュニティの外から眺めたフォークホラーになっている。他家からやって来た女性が主人公である以上当然そうなるわけで、どこか「外」から田舎の欲望政治を批判的に眺めている感があり、『Kantara』とはそこも異なる。一方で、その超自然的な存在の力関係を人間が当たり前のように、現実の利益のために利用している。そこがインド的だと思う。
日本だったら「コトリバコ」?
ところで日本でこういう「悪い」神様を拝む行為というのは、集落ごとつまはじきにされる根拠となり得るのではないだろうか。
例えば有名になったネット怪談の「コトリバコ」を思い出す。下記のレビューでは、「現代日本人が何を怖く、残酷で酷いなと思うか」という観点から説明している。かつて存在した間引きという陰惨な行為に結び付けて論じつつ、「男性だけが利益を得る」という点を指摘している。
ところで私の記憶では、「コトリバコ」は、「ある集落がつまはじきにされる理由」についての物語だった。
この解説にあるとおり
のであるからして、最初からそのコミュニティーは、周囲から何かの理由で差別されていた者たちの場所である。そこへ邪悪な意思を持っていたのか何なのかは記憶にないのだが、「異人」によって呪いパワーがもたされる。何と恐ろしく利己的なのだ。そして邪悪な力を利用するやつらなんて人じゃない…私達日本人ならば、この物語からは「怖さ」以外にも感じ取っていると思う。「例え今のその住人に罪がなくとも、近寄ってはいけないとされる集落にはそれなりの穢れた理由があるのだ」という教訓として読むのではないだろうか。これはかつての部落差別が形を変えて我々の脳裏にチラついているということでもあるし、日本人の仲間外れや差別行為の根っこには(それはアメリカにおける人種差別とも違っているのである)超自然的想像力がはっきり関係しているのだと思う。「病気」というものが科学の力によって因果関係を証明されて既に100年以上過ぎた日本で、未だにこういうお話が楽しまれているということはホラー研究としては興味深い。
また、記事のタイトルにあるとおり「検索してはいけない」、つまり、タブーにして触れてはいけない、仲間外れにしよう、という態度によって我々は、娯楽と宗教的な超自然的想像力を混同しているわけである(どうせ検索するに決まってるんだから、知ってるくせに近寄らないのである)。
もとの映画に戻ると、同作の悪鬼たちの母親は天界の女神であったと説明されている。神様というものに善いも悪いも無い、となっているのは日本の神話でも馴染みがあり、インドと日本の共通性を感じさせるのである。にもかかわらず、それらの存在に対する人間の態度がまるっきり違うわけだ。日印では。
人間はみんな同じなのか?違うのか?
どうしてこう考えるかと言えば、ひとえに私が今、インドの日常性の中に脈打っている「違い」に苦しんでいるからである。よりメタ的な視点に立ち、しょせん人間は同じで程度の差の違いなのだと思ってしまえたら、つまりは世捨て人のように人類や社会に対する期待を捨ててしまえたら日印の文化の違いなんか考えないのだろうし(全て同じ苦行と捉えるのである)、どこまでも異質なものとしてインドを他者化して日本を神聖化しても、やっぱりこうは考えないだろう。
私はインドに人間らしさを見出しているし、それが好きなんだろう。それは自分の中にもあるから否定ができないのだ。自分のことが真底好きなんだろう。我々個々人の欲望を超えた文化の違いによって導かれ、どうにもならないことを何とかなるかのように納得して見せる虚構を止めないのだ。私は。それが面白いとまだ思っているわけだ。
でも個々の体験は、全く面白くない(笑)。
何故本作のラストが物足りないのか? 家族と呪いのジレンマ
また話が戻ってしまうが、『Kantara』と似て非なる部分は何なのだろうか。旧家の因習と男どもの欲望(特に生殖を巡る欲望)を粉砕したクマリは伝統の破壊者であり改革者だ。しかしながら彼女は超自然の存在自体は否定せずに人間同士の問題を自分で片付けた形になっている。そこが、超自然的な想像力を重視したい私の欲望から見たら肩透かしであるし、超自然的な因習から解き放たれたいと願う、私の中に憑依している虚構の欲望から見たら、正しいラストである。どう見るか。
私は、人間が自分の超自然的な想像力から解き放たれることはあり得ず、離れてもうっかり戻ってしまうのが人間というものだという立場を取っているから、本作のラストは物足りないのだろう。クマリはどのような超自然的な想像力を有しているのか。私は今一つ分からなかった。
豪州映画『レリック 遺物』のように、せっかく男性が死に絶え排除されていた家で、男性が原因を作ってしまった因習から逃れられるチャンスを与えられても尚、その家族という因習の中に還っていく欲望だって生まれてしまうかもしれない。
私は同作を観たときはこのラストがすっきりしなかったのだが、基本的には同じことを考えているように思う。それが結局個々人の破滅をもたらす一方で家族とは、そうやって紡がれてきたものである。さて、どうするのか。
私は、超自然的想像力は、各文化の家族制度に根深く入り込んでいると想像しているため、超自然的なものが退潮すればするほど家族は嘘なのだと思えて当然だと思う。或いはこう言ってもいい、自由主義的な、リベラルな、そしてその狂暴な後継者である意識の高い(WOKE的な)発想に沿って行くと、家族の虚構性が露わになる他無く、その種のホラーは家族を呪いとして描くことだろう。しかし、古典的な家族観に則った保守的なホラー『死霊館』シリーズがヒットしているのは事実だ。ホラー映画から察する限り、我々は呪いがあると分かっていても尚「家族」に戻ってしまう自分を見ないふりをしつつ、呪いの原因を作った家族制度への憎しみに苛まれ続けるのだと思う。
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