琳琅 第四号より、「逍遥」4

 川沿いの小道をそれて住宅街へと入る。途中奥まった路地の先に幼稚園を見つけて、数人の園児が保母さんに先導されて通りへと出てきている。みんな手をつないで、楽しげだ。私はほぼ毎日出歩いているから、もう街並みや景色も見慣れたものだが、あの子たちはこれから始まる大冒険に胸を弾ませていることだろう。

 そんな頻繁に散歩して、いったいなにを見て回っているの?

 かつて妻にそう聞かれたことがあった。散歩のたびに見るものや行くところを変えているんじゃない、いつも似たような道順で歩いて、ちょっとした変化を楽しんでいるのさと、テレビっ子の妻に――と言っても妻も老人だから、テレビっ子と称するには語弊があるか――季節の機微や街並みの変化を説いて聞かせたら、妻は「仕方のない人ね」と笑って快く送り出してくれるのだった。

 自慢じゃないが、私の住むこの街にはなにもない。かつてタレントの所ジョージがアイロニーとして我が街をギターで弾き語った歌詞にこうある。
『良いとこ何処にもなんにもない。たまたま人が住んでいる』
しかし、そんな街にも名所と言われるものはある。首都で唯一の国宝建築物があるのだ。それがこれから向かうお寺のことで、私の妻が眠る墓もそこにある。

 散歩は毎日するが、墓参りに行くのは月に二度ほど。いつ行っても長閑な空気が漂っている。年に一度の地蔵祭りで地元町民の活気に沸く日もあるにはあるが、基本は毎夏早朝に小学生たちのラジオ体操会場になる程度のお寺だ。

 コンビニに寄って、ひねり揚げを買う。妻の好物だったもので、いつも墓前にそえてから合掌するのだ。念仏を唱え終えたら封を切って、四、五本砕いて置いておく。するとたちまちスズメがやってくる。

「やあ、来たな」

 ほんのりと桃色がかった御影石の前に三羽のスズメが降り立った。仏花を活けた花立の間に、一羽がパッと上がって回転する。離れたところから自分らを観察している私を警戒しているのか、彼女らはかわりばんこに立ち位置を入れ替え、ひねり揚げの欠片を啄んでいる。

「きみはきっと、スズメだろうね」

 妻の納骨の日、骨壺を抱えて玄関を出ると、一羽のスズメが通りのど真ん中からこちらの様子をうかがっていた。近づいても逃げる気配がない。息子が玄関の鍵を閉めた音でようやく飛び立ったスズメは、そのままお寺のある方角へと飛んで行った。

 これは私の祖母から聞いた話なのだが、なんでも我が一族は死んだ瞬間、なにかしらの生き物に化けて家の前までやってくるのだそうだ。祖母の母はカゲロウだそうで、たしかに毎年のお盆には必ず、どこからともなく庭にカゲロウが舞い込んでくる。そうなると、私の父はクマバチで、母はハトだろうか。お盆の墓参りには必ず墓石の近くを飛んでいたり、道中ですれ違ったりしていた。

 そのうえで、私の妻はスズメだろうと思う。墓にくると決まって姿を現すし、ひねり揚げも啄みに降りてくる。四十九日の間はさすがに鬱々として散歩に出る気も起こらなかったが、こうして姿形を変えてまた会えているのだと思うと、不思議なことに寂しさは薄らいだ。

「なかなかどうして、良い考え方だと思わないかい?」

 見張りに立った一羽を見つめる。鳥というやつは人の視線や目の形をしたものを怖がるという話だったはずだが、たいして離れているわけでもないのに、三羽はひねり揚げの欠片がなくなるまで、いつまでもかわりばんこを続けていた。

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