見出し画像

Takuyaのライフストーリー

10,000字弱の長編なので、お時間ある時(目安時間20分弱)に読んでいただけると幸いです。

1996年、新潟市生まれ、新潟市育ち。
祖父母の代から自営業で食堂を営む家系の長男として生まれ育ちました。

性格は、大人しめで打たれ弱いところはありますが、芯・軸はブレず、強い意志を持ち、内なる闘志を燃やしているタイプです。

最近の性自認は「he/him」、性志向は「男性」に向きます=男性同性愛者=いわゆる「ゲイ」です。

これまでの半生をまとめると、セクシャリティに悩み苦しみ、一方で、そこに自身の存在意義を見出して、前へ進もうと奮闘している、というような状況です。

ライフストーリーをただ徒然なるままに書き連ねただけの記事ですが、これから読むみなさんが読んだ後に、「こういう人生・考えもあるのか」「多様性・十人十色だな」と思ったり、特にセクシャリティなどを理由に生きづらさを感じている方にとっては、同じような人がいることの安心や生きる勇気を少しでも抱いていただけたら幸いです。


幼稚園児

おままごとが好き

最も古い記憶は幼稚園の頃(4-6歳)に遡ります。

他の男の子たちは、園庭でサッカーをしたり、ホールでドッチボールをしたりしている一方で、
自分は、教室でも、園庭(の砂場)でも、ホール(にあった家型の遊具)でも、廊下(にあった屋台組)でも、女の子に混じっておままごとしている園児でした。

小学生

お兄ちゃんがほしい!

幼稚園までは両親と妹と弟で暮らしていましたが、小学校からは祖父母と一緒に住むようになりました。

気づいた頃には、「お兄ちゃんが欲しい」と思うようになっており、見ていたアニメでは男キャラを追いかけ、「お兄ちゃんだったらなあ」ということを考えていました。

ちなみに、当時好きだったのは、ワンピースのエースでした。

お姉ちゃんではなく、お兄ちゃんが欲しいと思った理由は不明ですが、同級生にお兄ちゃんがいる人が比較的多かったからかもしれません。

ミニバスクラブに所属:「男なら泣くな」

小学3年生の頃に、友達の誘いで、放課後の体育館でやっているミニバスケットボールクラブの活動の見学に行くようになりました。そして何日間か見学に通って、気づいたらメンバー入りしていました(笑)

運動はあまり得意なほうではなく、正直練習はキツかったし、試合に出ても叱咤され嫌でした。弱虫で泣きがちだったので、「男なら泣くな!」とよくコーチから言われていました。

これに対し、なぜ男は泣いてはいけないのか、ということをしばしば思っていました。

また、稀に同級生から「女々しい」「オカマ」などと言われることもあり、この頃から「男らしさ」「女らしさ」みたいなものに違和感を感じていたのは確かです。

中学生

同性の同級生に抱くこの感情は何?

中学校に入ると、元いた小学校の同級生に加え、隣の小学校のメンバーが加わり、20人くらい同級生が増えました。

その内の一人で、同じクラスになったのが隣の小学校のRくんです。

Rくんと知り合ってすぐに何か感じるものがありました。ただ、これまで知っている感情にはないもので、なんという感情なのかわからずに数ヶ月が過ぎていきました。

入学から3ヶ月が経ち、席替えがありました。そこでRくんの後ろの席、同じ班になりました。

そして、理科の授業で、実験終わりの片付けの際にRくんと戯れていると、突然同じ班の女子Kさんから紙切れを渡されました。

そこには小さな字で「ホモですか?」

当時はこの言葉の意味を知らず返答に困ったので、Rくんにその紙切れを流しました。するとRくんは「んなわけねーじゃん」と否定したので、その場では自分も彼に合わせました。

下校後、あの質問の意味がわからなかったので、すぐに調べました。すると検索結果には「男性同性愛者、ゲイのこと」と出てきて、その瞬間にあらゆることが脳内を駆け巡りました。

まずは、Rくんに対して抱いていたモヤモヤの正体について、この感情は「好き」という気持ちだと理解しました。その時は同性が好きということに戸惑いや混乱はなく、むしろモヤモヤが晴れてスッキリし、すんなり受け入れられました。

そして、これまでの言動について、
・幼稚園で女の子に混じって遊んでいた記憶
・お兄ちゃんが欲しいと思っていた記憶
・なんとなく同性の同級生のことを目で追っていた記憶
全てが繋がる感覚でした。

学校での疎外感/家族からの否定

初めは自分の性志向についてすんなり受け入れられたものの、直感的にこれは誰にも言ってはいけない、知られてはいけないことだと思いました。

学校では思春期特有の恋バナで盛り上がる同級生たち。「好きな人は?」「どんな人がタイプ?」「芸能人だったら誰?」こんな話を振られるたびにビクビクしていました。いつでも自然と答えられるように模範的な回答を用意していました。

ただそれが、自分に嘘をついている、自分の存在を否定している行為で、とても辛かったです。

学校から帰ると、自分の部屋に引き篭もることが多く、「なんでこんなふうに生まれてきたんだろう」「辛い」「死にたい」と毎日思っていました。

また、ある日のこと。
リビングでテレビを見ていると、オネエタレントのミッツマングローブさんが出ていました。その番組では、徳光和夫さんの親戚(甥)だと紹介されていて、それを見た父が「もしこんな人が親戚にいたらどうしようね」と。私はその発言を隣で聞いていてショックを受けました。

まだ知識が少なかった当時は、自分も大人になったらオネエタレントのようになるのだと思っていました。

スクールカウンセラーとの出会い

学校でも自分の存在を否定する毎日、家でも自分の存在を否定する毎日。

そんな辛い日々が続く中で、中3の9月からスクールカウンセラーのところに2週間に1回、30分程度通うようになります。

もちろん相談の内容は自身の性志向について。

通うようになったきっかけは、「夢で啓示を受けた」としか言い表せられません。

きっかけはさておき、初回の日。
カウンセラーの先生が待つ部屋に行って椅子に座ったものの、何て相談すればいいか言葉が出てきませんでした。

10〜15分くらい沈黙が続いたでしょうか。先生の方から「今から質問するから「はい」でも「いいえ」でも、頷くだけでもいいから、ゆっくりでいいから答えられる?」と言われ、私は頷きました。

様々な質問を受け、ようやく何に悩んでいるのかを伝えられました。悩みが伝わったところでどんな反応をされるのかとても不安でした。

先生の反応は意外とあっさりで、でも肯定的に受け入れてくれました。他の掛け持ちしている学校ではトランスジェンダーの生徒がいて…、というような話をされたりして、同じような悩みを持っているのは自分だけではないと少し落ち着くことができました。

そのまた2週間後も面談希望を出し、特に話があるわけではないけど、3,4ヶ月間くらい、計6〜8回くらいカウンセラーの先生のところに通っていました。

その2週間に1度の30分が、唯一自分を否定しなくて良い、安心できる時間、空間、でした。

高校生

また同級生を好きになってしまった

無事に第一志望の高校に入学しました。

人間関係はほとんどリセットされ、初めの1週間は誰とも話せずにいました。1週間くらいすると入学前にブログで絡みのあった同級生から声をかけられ、そこから他の同級生とも話すようになりました。

私は数学・英語・世界史が得意で、テスト前はよく放課後に勉強会を開いて、みんなに教えていました。そして、その勉強会メンバーには同じく数学が得意なMくんがいました。

半年くらいは特に何もなかったのですが、後期中間テストの期間に入り始めたタイミングで、「今部活頑張っている頃かなあ」なんて考えるようになっていました。つまり、Mくんのことを意識するようになってしまっていました。

帰る方向が同じだったのでたまに二人で帰ることもあったり、冬休みに二人で映画館デート(一方的に勝手に思ってるだけ)できたのはいい思い出です。

「死にたい」と思う日々

高2になり、クラス替えがありましたが、幸いにもMくんとは同じクラスになることができました。

しかし、Mくんは人気者で、新しくクラスメートになった人と仲良くするようになり、自分は嫌われたと思い、自分から距離を置くようになり疎遠になります。Mくんだけでなく他の同級生とも距離を置くようになり、人と関わるのが怖くなりました。

そこからは絶望しかなく、「なんのために生きているんだろう」「なんのために生まれてきたんだろう」と日々自問し続け、最終的に行き着くのは「死にたい」でした。

日々死にたいと思いながらも実行には移せず、ただひたすら勉強をしていました。

初めての告白とカミングアウト

高3になり、自分が文転したこともあって、Mくんとはクラスが別々になりました。

相変わらず、人生の意味を自問しては、死にたいと思う一方で、ひたすら勉強は続けていました。

受験シーズンになり、願書提出で祖母と対立したあたりで、日々自問していた人生の意味を見出せたように思います。

LGBTの割合は7.6%(2015年当時の調査)、40人クラスに3人いるということは、同級生にも自分含め18人、学校で54人、自分と同じように「死にたい」と思っている人がいる可能性があることに気づきました。
また、これから生まれてくる世代にも同じように苦しむ人がいると考えたら怖くなりました。

それと同時に、自分がこのタイミングで生きているのは、みんなが少しでも「生きたい」と思えるようにすることだ、と思うようになりました。
ここに自分の生まれてきた意味を見出すようになります。

誰もが自分らしく生きられる社会の実現

明確にこの言葉が出てきた時期は覚えていませんが、これが自分が人生で成し遂げることだと確信するようになりました。

ところで、Mくんとの関係はというと、高校卒業後に1度だけ二人で会うことができました。直接会って告白するつもりが、うまく言い出すことができず、結局家に帰った後に、長文のメールを送りつけたことを覚えています。疎遠だった2年間の思いを伝えたので、とても長文だったと思います。

Mくんのことが好きだったこと。
距離を置くようになってしまった理由とその謝罪。
進学先での活躍の激励。
そんな内容だったと思います。

Mくんからも返信があり、なんとなく好意には気づいていたとのこと。Mくんからも大学での活躍の激励をもらい、関係は終了しました。

大学生

フランス留学と初めての彼氏

大学は祖母の反対で志望大学の受験すら叶わず、地元の大学に行くことになりました。

大学では、様々なサークル等の活動に参加しました。
高校時代の生徒会の延長で、生協学生委員会。
留学に向けて、ESSと国際ボランティアサークル。
大学のプログラムの1つで、地域振興系の活動。
曜日ごとに上記の各活動を渡り歩いて活動していました。

LGBTサークルがあれば入りたいと思っていましたが、なかったのでそれは叶いませんでした。

入学当初の第一の目標はフランスに留学することでした。というのも幼稚園〜高1くらいまでは、将来の夢がパティシエで、いつかフランスに行って修行するんだと周りに言いふらしていました。

パティシエの夢は諦めたものの、フランスへ行くという思いは残り続けていいたので、入学当初から留学への準備は始めていました。


そして、大2の9月についにフランスへ旅立ちます。

留学先の地で出会ったのが、音楽大学に留学していたイタリア人のバイオリニスト、Aさんです。私は普通の提携大学附属の語学学校への留学でしたが、彼は1年先に留学していた先輩とFacebookで繋がっており、私も彼とはFacebookでの繋がりが最初でした。

お互いの性志向は明示的には知らなかったものの、Aさんは直感で、私も"こっち"だと思っていたようです。そして、何度か会う機会があったのちに彼から告白されました。

私は特に好意を抱いていたわけではないものの、好意を持ってもらった嬉しさと付き合う中で自分も好きになっていくだろうとの思いから、お付き合いすることを決めます。

初めのうちは二人の関係は良好でした。
「付き合うということは、相手以上に相手の家族のことも知る必要がある」
という考えを彼は持っていて、彼はよく彼の家族の話をしてくれました。

しかしここで辛かったのが、「次はTakuyaの番ね」というのが決まりで、
当時私は家族の話をするのが嫌だったため、うまく話せませんでした。話せないというよりも場面緘黙症の症状が出て、筋肉が強張り、喉が締め付けられ、声が出せませんでした。

それに、当時は「家族が嫌い」ということは、「道徳的に否定されるべき」「人として間違えている」と考えていたため、家族のことが嫌いで家族について話せない自分は最低な人間だと思っていました。そう思うと悲しくなってきて涙が止まりませんでした。そんな状態の私を見て、彼は呆れ、怒ることが多かったです。

それに加え、彼は少し人種差別的なところもあり、
「フランス人はイタリア人より陰湿で劣っている」
「中国人や韓国人より日本人の方が断然美しいよね」
というような発言が散見され、そこにも私は不満がありました。

また、共通の知人の日本人女性Mさんがいたのですが、彼女はAに好意を持っていました。Aも私も何となくその好意に気づいており、話し合った結果、期待させるのは良くないからと、Aと私の関係をカミングアウトすることに決めました。

彼女は意外とすんなりと受け入れ、ある提案を行ってきました。日本でAと友情結婚をしようというのです。そして、Mさんと私は養子縁組を結ぼうと。
Aはもともと大学を卒業したら日本で働きたいと思っていたので、就労ビザよりも配偶者ビザの方が永住権獲得へのハードルが低くメリットがありました。

初めは私も納得していたものの、話が進むにつれて、関係がこじれていきました。

結局、これまでの不満などが溜まり、私から帰国前に別れを告げました。

LGBTサークルの設立

時は留学期間中期に戻ります。

「フランスに行く」という一大目標を達成したということで、次の目標を考え始めていました。

そこで挙がってきたのが、入学時にあれば入りたかったLGBTサークルを帰国後に立ち上げることでした。たまたまタイミングよく、LGBTサークルを立ち上げようとしている同じ大学の方をTwitterで見つけ、連絡を取るようになりました。

その方とは途中で連絡が途絶えてしまうのですが、自分が帰国後(6月)にサークル活動開始、ということで進め、部員募集の広報を続けました。


6月初旬に帰国し、興味を持ってくださった方々と顔合わせをしました。10名弱の方が集まり、サークル名や今後の活動をどうしていくのか、を話し合いました。

サークル名は「カラリカ」。
カラフルな六花(りっか。雪の異名)という意味がこもっています。
六花は大学の校章にも使用されています。

カラリカのXアカウント:https://twitter.com/coloricaNGTuniv

ロゴも自分で作りました。

活動内容については、「当事者の居場所を作る」派と「LGBTの啓発活動を行う」派に分かれました。これがのちにサークルを続ける上で問題となります。


活動開始から1週間ほど経ったある日、「学生団体総選挙」というイベントへの推薦状が届きました。
学生団体総選挙とは、全国の学生団体・サークル・部活動など、学生が主体となって活動している団体で、社会意義の高い団体を発掘・表彰しようというコンテストです。

このイベントを主催している株式会社賢者屋が、のちに長期インターンとして働く企業です。

当時はまだ具体的な活動を始めてはいませんでしたが、面白そうだったので、申し込んでみました。すると、書類選考を通過し、二次審査でプレゼンすることになりました。

二次審査は東京大学で行われました。結局は二次審査敗退で、部門グランプリ・総合グランプリは逃しましたが、500以上のエントリーから、ファイナリストにノミネートされました。


さて、通常の活動はというと、交流会と勉強会の2つを行う形になりました。

また、中学の同級生が筑波大学でLGBTサークルをしていることを知り、
筑波大学まで赴いたこともありました。

しかし、メンバーが増えていく中で、「当事者の居場所を作る」派と「LGBTの啓発活動を行う」派の溝が広がっていき、また、代表の私は週の半分は東京にいたために、サークルをまとめていくことができなくなってきました。

そして、サークルは一度崩壊しました。

代表の私は「LGBTの啓発活動を行う」派だったので、サークルの活動を明確にした上で、再起を図りました。

「当事者の居場所を作る」派のメンバーは去ることになりました。そこは本当に申し訳ないなと思っています。

メンバーは減ってしまったものの、「誰もが自分らしく過ごしやすい新潟大学の実現」という理念に向け、活動していくことになりました。

大学と連携し、講演会を企画したり、新潟市職員の方と繋がり、市が進める啓発活動に協力したり、自治体が主催の講演会へ参加したり、他団体の交流会に参加したりと活動を進めていきました。


サークルの繋がりから、個人でもイベントへのお誘いがありました。
ヒューマンライブラリー、新潟市主催の講演会、その他イベントetc

他にも個人で活動していました。


サークルはというと、大学卒業後に後輩へ代表を引き継ぎましたが、半年後くらいにサークル消滅してしまいました。

というのも、代表を引き継いだ後輩が体調を崩してしまい、その後の活動が続けられなかったためです。

体調を崩した1つの要因として、私が代表を降りた後も活動が心配で介入しすぎたことで、代表という重責に加え、前代表の私とメンバーの板挟みにもあい、耐えられなくなってしまったということがあると思います。

本当に申し訳ないことをしてしまいました。もう少し、信頼して影でそっと見守れたら、続けてられたかもしれません。

東京での長期インターンに注ぎ込んだ2年半

時は学生団体総選挙登壇後に遡ります。

学生団体総選挙を主催する株式会社賢者屋は、学生限定のフリースペースの運営や就活支援や企業PRなどの事業を行っている会社です。

大3の夏ということもあり、就活を始めようとしていたところで、賢者屋が主催する就活イベントに参加しました。

そこで、改めて賢者屋がどういう会社なのかを知り、「ここで働きたい!」と思いました。そのまま選考に進み、長期インターン生として採用されました。


毎週末全国どこかで就活イベントを開催しており、そのイベント参加者のアンケート集計が私の仕事でした。

あとは集客チームの支援やこまごまとしたタスク、みんなが取りこぼしそうになっているタスクを拾ったりしていました。

そして、私が一番主体となって行っていた仕事がLGBT関連です。
東京レインボープライド(TRP)への協賛やwork with Prideの実行委員会への参画・ゴールド認定に向けての取り組み、LGBTQ+Allyの学生・第二新卒対象のインターンシップの企画運営を行っていました。

【今年は東京レインボープライド2018に株式会社賢者屋の企業ブースが出現!】 今年は5月5日(土)と5月6日(日)に代々木公園にて開催されている『東京レインボープライド2018』に株式会社賢者屋もゴールドスポンサーとして協賛しています! ...

Posted by 株式会社賢者屋【新卒採用】 on Saturday, May 5, 2018

忘れてましたが「!XIMIX!-ミックス-」は、別に立ち上げた学生団体miraiwaが企画運営、賢者屋が協賛という形でした。

学生団体miraiwaのロゴも自分で作りました。

「!XIMIX!-ミックス-」は、ベースとしてあるのは賢者屋が通常開催していた、CHEMISTRYという1dayインターンで、最初の頃は株式会社JobRainbowさんにもコンサルや集客等でご協力いただいていました。

1年ほどご協力いただいたのち、賢者屋で内製化しようということで、miraiwaを立ち上げ、企画運営・集客広報とあらゆることを任されました。

企画運営はCHEMISTRYの横展開だったのでそこまで大変ではありませんでしたが、集客広報は対象参加者が自然と絞られので苦労しました。

全国のLGBTサークルにDMを送ったり、LGBT系のメディアやアプリに広告掲載をお願いしたり、全国のコミュニティセンター(新宿ならコミュニティセンターakta)にチラシを置いてもらったり。

空中戦だけでは目標人数を集めきれないので、時には大阪まで赴き、LGBTサークルを集めた交流会を企画し、そこでダイレクトスカウトするなども行いました。

結果的に、JobRainbowさんと開催していた時期も含め、300名以上の方に参加いただき、そこから3名正社員採用しました。

スタートアップのベンチャー企業で、長時間労働が当たり前の状態でしたが、この頃が一番輝いていました。

社会人

大2の9月からフランスに留学し、大3の6月に帰国。そこからなんだかんだあり9月から2年半インターンを行い、現職の会社に入社します。

賢者屋で働き始めた当初は、長期インターンからそのまま入社するつもりでいました。しかし大4の12月あたりに経営層へ不信感を募らせるようになり、入社しないことを決意します。そして、19卒ではなく20卒として再度就活をし始めます。

そこで出会ったのが現職の会社です。ここでは某老舗日系IT企業としておきます。もともと人材業界や教育業界を見ていましたが、二度目の就活では、ITエンジニアになることを目指しました。当時は、理想だけでは生きていけないと思い、手に職をつけることを第一優先で考えていたためです。

ただ、結局それは間違いでした。日に日に自分が人生で成し遂げることから離れていく感覚がありました。

誰もが自分らしく生きられる社会の実現

やはり自分はこのために生きるんだと強く思いました。

人生のビジョンが「誰もが自分らしく生きられる社会の実現」なら
人生のミッションは「人生のトータルサポート」になりました。

ただ突然、なんでもサポートできるようになるわけでもなく、初めは人生の大半を占めるキャリア=仕事のサポートをすることから始めようと思いました。そして、キャリアコンサルタントの資格を取得しました。

将来的には、人生の要所要所(就職、仕事、恋愛、結婚、介護、終活etc)でサポートしていけるような仕事・会社をしたいと思っています。
人生(広義でのキャリア)の総合病院というようなイメージです。

現在は転職に向け、自身のミッションを遂行することができる仕事に就けるように活動中です。

最後に

現状私ができることは、
・個人からの相談に乗ること
 (キャリア(仕事・人生全般)、恋愛)
・企業からの相談に乗ること
 (ダイバーシティ(特にLGBT関連)施策)
・ヒューマンライブラリーなどで自分の人生を語ること
です。

各種ご依頼は、下記Googleフォームへお願いいたします。
Takuyaへのお問合せ(Googleフォーム)

lit.link(リットリンク)にも簡単にですが、私の情報をまとめているので、ご参照ください。


ここまで読んでいただいたみなさんが、「こういう人生・考えもあるのか」「多様性・十人十色だな」と思ったり、特にセクシャリティなどを理由に生きづらさを感じている方にとっては、同じような人がいることの安心や生きる勇気を少しでも抱いていただけたら幸いです。

ぜひコメントで感想をいただけたら嬉しいです!
ここまで読んでいただきありがとうございました!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?