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そら豆


自分の”価値”ってなんだろうと考えることがある。


ここでいう”価値”って、何も「一人でどれくらい稼げるか」みたいなビジネス的なものではなくて、

もっと根本にある、何なら僕に限ったことではなくて、個人に与えられる「意味」みたいな感じで。


もしかするとこういう話は哲学とか社会学とかそういうところでこすられまくってるテーマなのかもしれないが、

学のない僕はそこら辺の知識とかリテラシーとかを持ちあわせておらず、それを補おうとしない腐った人間であるから、そのあたりの未熟さは許していただきたい


例えば、僕は「人の言うことを素直に聴く」というのがとても苦手で、恐らくそれはプライドの高さとか調子の波が激しいことなんかに起因するのだろうが、

今後社会に出るにあたって、人の言うことを素直に聴くというスキルが非常に重要であるということは理解している。曲がりなりにも20年も生きていれば、自分が人の意見を聞かずに我流でことを成せるような大層な人間でないということくらい分かる。


生きているとそういった「変えなければならないこと」がたくさん出てくると思うのだが、そういった事柄にぶち当たるたびに、要するに僕という人間そのものには価値など無いってことね、という感覚に陥る。



おそらく僕が無人島に一人で暮らして自給自足をしているのであれば、人の話を聴く姿勢も、期限を守るということも、何も必要ないのだろう。

しかし、社会というフィールドで生きていくためには、それ相応のチカラを身につけて、合わない部分はそぎ落とさなければ受け入れてもらえない。

そうして初めて、仲間に入れてもらい、雇われお金をもらい、社会から承認される

こうして僕という個人に、ようやく価値が付与される。


逆に、もし僕がこういった課題を解決することができないままでいれば、社会から受け入れてもらうことは無い。

つまり、変わる以前、むき身の僕には価値がないということになる。

書いているとますます自分がひねくれているだけなのかもと思ってしまうが、何にせよ、”ありのままの自分”なんて無価値としか言いようが無いんだろうなと思う。



それにしてもなぜ自分はここまで「他人にとって価値がないなら、自分には価値がない」という思考に至ってしまうのだろう。

自分のそういうところも本当に嫌いでしっかり考えなきゃだけど、それは別の機会に譲ろう。



そんなひねくれちゃっちゃってるからか、「生きているだけで価値ある」とか「価値がないとか、そんなことないよ」なんて言われても、

「はいそうですか」なんてそれこそ素直に聴けないわけで。


本当に、誰にも僕にも生きているそれだけで価値があるのか、

それともそんな言葉はただの慰めなのか、


いや、本当のところなんて知らない方がいいのかもしれないし、

何ならもう、知っているのかもしれない。




先日、久しぶりに祖父母の家に遊びに行った。

祖父は畑で色々な野菜を育てており、毎年恒例のそら豆が今年採れたとのことで、僕と妹で皮むきを手伝った。

一通り作業が終わった後、祖母に「ありがとう」と声をかけられた。

大したことをしたわけではないが、その言葉が、とても嬉しかった。






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