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【掌編】猫氏

 玄関の戸を開けてすぐ、足元をなにかもふもふしたものが通り過ぎていった。思わず声が出た。しかしそいつはあっけにとられている僕のことなどどこ吹く風で、こちらを不意に一瞥した後も堂々たる行進を継続し、肉付きのいい体をぼよんぼよんと揺らしながらリビング・ルームに消えていった。

 僕は池の鯉みたいにぽかんと口を開き、視線は開き戸の隙間に釘付けされたまま慌てて靴を脱いだ。急にまたそいつが姿を現して驚かされることのないよう、高鳴る心臓をなだめ、意識を集中してそろそろと一歩ずつ部屋へ近づいた。

 息を潜めてそおっと部屋に首を突っ込むと、そいつはこちらをゆっくり振り向いてポテトチップスの袋をぱんぱん叩いた。頭を斜めに傾けて、やや睨め下ろす風にしてヤンキーっぽく僕を見据える。あんちゃん、いいもん持ってんじゃねえか。へへへ。学生服など着せてみたら結構似合いそうだ。

 そのずんぐりとした体型は僕に音信不通になった研究室の先輩を思い出させた。気さくでいつでもテンションが高くユーモアに長けた彼女とはよく話をしたが、自身の体型にコンプレックスを抱えている少なからぬ女性たちがそうであるように、高笑いをする声の合間にはいつもどこか自嘲気味な音程のブレが孕まれていた。実験は真面目にこなしていたが研究に対する主体性が低くほとんど日課みたいにして教授から叱責され、豊満な体躯は常に縮んで見えた。僕には体型が彼女から尊厳を奪っているのではなく、彼女自身が自らにどす黒い失望の種を植え付けているように思えた。推算はいまや確信へと変じた。だってこの雄猫を見よ。

 僕の反応がいまいちであることを見て取ったそいつは、前足をぶんぶん振り回してポテチの袋を叩き飛ばした。にゃんだてめえ、やんのかおら。僕はもとより帰宅系無所属の学徒である故、体育会系猫族と思わしき不遜なる野良との対決にはあまり乗り気にはなれなかった。力なき説得を試みる。
「ポテチなんか食べちゃだめだよ」
 僕は百均のプラスチック皿に牛乳を注ぎ、パンをちぎって浸した。猫はいきおいよく前足を突き出して皿をひっくりかえした。僕はため息をついた。タオルで床を拭きながら何なら食べてくれるだろうかとスマホで軽く調べてみると実はパンも牛乳も猫に食べさせるにはあまりよくないらしい。改めて確かめると猫に食べさせてはいけないもののリストが山のように出てきた。なんて繊細で面倒くさい生き物なんだろう。それでも僕はどうにかしてやりたいという衝動に駆られた。

 あえて割高なコンビニでただでさえ高級なペットフードみたいなものを買う輩というのはいったいどんなやつなのだろうと思っていたら僕だった。帰宅してバスルームのドアを開くと猫氏は恨みがましく唸り声を発した。が、僕の右手にぶら下がっているビニール袋に気がつくと猫なで声を上げながら飛びかかってきた。始めは少しく物足りないような顔をしていたが、しばらくするとおとなしく食べ始めた。

 それから猫氏は毎日のように僕の家を訪れてくるようになった。出費はかさんだが、既に乗り込んだ船ということでやむを得ず面倒を見た。半年ほどが過ぎ、忽然と彼がやってこなくなると、妙な寂しさを覚えた。猫氏が居ないということだけでももちろん影響はあったが、なにより僕たちは結局の所ひとりなのだという事実に、ずっしりとした強い重みを感じたのだ。ほとんど初めてくらいに。

◇◇◇

 いまでもときどき、猫氏と過ごした短い日々を夢に見る。夢の中では飼い主は僕ではなく、いなくなったあのふくよかな先輩なのだった。
 もしそれが事実だったなら、僕はとても嬉しい。

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