とあるnoter氏の灼熱事変。その真相と「私達は、誰かの日常になっている。」
たまに、noterさんと会うことがある。
そこで交わした言葉が、予想外な影響を及ぼしたとしたら……。
いや、今回はそれがちょっとオソロシイ。
この気持ちを成仏させるために、いっそ吐き出してしまおうか。
その、とあるnoter氏に初めて会ったのは1年以上前になる。
きっかけは我が記事『文芸サークル青春白書』シリーズだった。私の記事に興味を持っていただいたのと同じくらい、私も彼の記事の大ファンだった。
(一)回想 recollection・・・
彼の記事は、わけのわからない脱力系の世界観を放っていた。にもかかわらずあったかい。中年男の、とりとめもない青春の一幕が描かれている。
彼はぼやく。
「こんなに面白い記事を書いているのに、誰も気づいてくれない」と。
今年の3月に再会したときも同じような憤懣を聞いたが、本や映画の話になるとそれは一瞬にして忘れ去られた。
特に谷崎潤一郎の話題になると二人ともファンゆえに止まらない。
その流れの中で、私はなぜだか松岡正剛氏の『知の編集工学』の話をした。知の殿堂である松岡正剛本の数々には、20代の頃から傾倒している。
「人生はすべて編集」─。このダイナミックな感覚は、モノの見方、伝え方に衝撃を与える。クリエイターなら、モノを書く人間なら、きっと震えることだろう。
(二)逆襲の夜明け counterattack!
このようにアツく語り合った会合の後、とあるnoter氏は驚くばかりの変貌を遂げ始めていた。
私が激務のためnoteと距離を置いていた1〜2か月の間に、彼は新たな世界をnoteの底の方から押し上げていたのだ。
フォロワー数を2倍以上にし、閑散としていたコメント欄は祭りのように賑わい、そこにはいろんなタイプの「書きたい欲に溢れているnoterさん」が集まっていた。いや、今でも続々と集まり続けている。
そして皆が口々に「なんのはなしですか」と、それぞれの記事で呟いている。
「なんのはなしですか」は、彼の記事におけるお決まりのラストワード。
彼が生みだした必殺キーワードなんである。
とあるnoter氏とは、コニシ木の子と名乗る方のことである。
コニシ木の子氏は、note界の方方に伝播する「なんのはなしですか」と呟く記事を「なんのはなしですか通信」に集め、一挙に紹介連載する偉業に出ている。
そこは、さまざまなnoterさんたちのおもしろく興味深い記事が溢れる世界。私も心ときめく記事に次々と巡り会ってしまった。
(三)野望の夕刻 pure ambition
コニシ木の子氏がやっていることは、編集であり、プロデュース作業である。
彼のこれまでの記事投稿スタイルとはまったく違う。
なんのはなしですか
「アホか!」のことばをグッと抑え、拳を握る。
私の勢いだけの松岡正剛論に惑わされ、『知の編集工学』さえ読まず、セイゴオ先生に影響されたと抜かしおったな。
いやいや私、深遠なるセイゴオ編集論を、自分が理解したトコだけ調子良く伝えたんだろう。
この際きっかけなんてどうでもよいではないか。
そんなものは取るに足りない。
そうは言いつつあのときの無責任なオタ語りが、コニシ木の子氏変貌の一端を担っているとはオソロシイ。
でも木の子氏は十分に冷静だし、じっくり考え、自らの経験と直感に従ったと堂々としている。
それがすべてだ。
こじらせ中年がイキイキと輝いている。
「noteの中で、何かを変える。変えたいんです」
そんな思いを秘めていたとは……。
しばらくは編集プロデュース作業に専念し、その合間、時間が出来たら自分の書きたい記事を投稿するという。迷いはまったくなさそうだ。
青春みたく黄昏の雑踏を見つめる木の子アイ。
ジャンプに出てくる数多のサブキャラみたいな佇まいである。
このアホほどの熱血ぶり、真っ正直さに人は動かされるんだろうな。
私だって応援したくなる。
いや、決してムードに気圧されたわけではない。
私はぬるくなったビールを飲みながら、コニシ木の子氏のエッセイ『私達は、誰かの日常になっている。』を読んだ。
いつの間にか、私は本気モードの関西弁になっていた。
(四)推し告白 異常と日常の境界線で遊ぶ感覚
最後に件のエッセイ『私達は、誰かの日常になっている。』について、ご本人にも話さなかったことをまとめてみたい。
これは、コニシ木の子氏お得意の日常脱力系・クネクネした世界観の描写エッセイである。
氏が描くのは停滞の美学。ブツクサと脳内のことばを連ねるだけで物事はさほど進展しない。
しかもそのブツクサ加減は、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンのようにインチキな世の中をこき下ろすでもなく、純文学の真骨頂である自己内面との葛藤でもなく、ただただひたすら薄っぺらい。むしろどうでもいいことに頓着している。
そのこじらせ具合が妙に可笑しい。アホらしくて笑えるのだ。漫画のコマを追う感覚に近いだろうか。しかもそこには斜に構えた愛がある。やるせない純情がある。だから鉄壁。この作風はすでに確立されているのだが、おそらく誰も真似できない個性である。
さて、本作『私達は、誰かの日常になっている。』の中心は、いつも作者が通勤路で目にする「素振りをしているおじいさん」のことである。
もし素振りをしていないおじいさんの姿を目撃したら自分はどうなってしまうのか。
そんなことだけの脳内語りが延々悶々、1,127字分、オープニングで展開されるという暴挙(全体字数3,685字中)。
こじらせ濃度がかなり高い本作だが、氏の他作品と違ってオチがある。物語が進展している。
オチのせいでちょっと切なくもあるのだが、感傷はほんのわずか、過ぎ去る日常の一コマのように読み終わる。
私は思う。
こんな読後感は、計算なく作られるから味わえるのかしらん。
なんのはなしかよくわからない。でも私の脳内には素振りをしているかもしれないおばあさんの姿とか、規則正しいリズムで草無視り(草むしり)をしているおじいさんが陽炎のように貼り付いている。風景としてのビジュアルだけはこびりつくのだ。
こんなちょっと変わったエッセイだから、読んでみるのは一興。
クセを解するひとにはたまらない、超絶クセありのエッセイである。
なんのはなしですか。
ってこっちが聞きたい、まったくもう。
ほな★サイナラ
▼コニシ木の子氏ワールドを味わう、タカミハルカ推しエッセイ↓
▼コニシ木の子氏が、タカミハルカネタで書いた妙ちくりんなエッセイ↓
▼記事冒頭に出てきた文芸サークル青春白書シリーズ↓
*サムネ、本文中のイラストは、イラストAC NORIMAさんのイラストを使用しています