50歳を迎えて
はじめに
本日、12月13日は、私の誕生日。
50歳になりました。
中学生くらいの頃は、50歳というと、おじさんというイメージがあって、自分が50歳になる姿は想像できませんでしたね。
陸上競技の世界に入ってからは、30数年。
50歳を契機に、今までの自分の陸上競技年表を纏めてみましたので、よかったら、ご覧下さい。まだ私のことをご存知ない方は、こんな人なんだなと思って頂けましたら幸いです。
陸上競技年表
◇誕生
1972年12月13日、千葉県船橋市で生まれる
◇中学時代
船橋市立八木が谷中学校で陸上競技を始める
千葉県通信陸上では、高2(1500m)、高3(3000m)と4位
◇高校時代
船橋市立船橋高校体育科に入学
高3では主将を務め、全国高校駅伝8位入賞に貢献
◇大学時代
関東学院大学法学部法律学科に入学
箱根駅伝出場を夢見るも、大3の時の怪我が治らず、競技引退を決意
大4ではマネージャーに転向する。
◇社会人時代
実業団チームにどうしても入りたくて、NEC、三和銀行チームに面接に伺いましたが、あえなくお断り…どうしても夢を諦めたくないので、社会人1年目は、複数のアルバイトをしながら、就職浪人。
社会人2年目に、故・内藤幸穂理事長のご尽力で、関東学院大学の契約職員に。年明け、リクルートのお話が進み、翌年4月から、リクルートランニングクラブのコーチに就任。
1年間の短い間でしたが、内藤先生には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
コーチ2年目に、アトランタ五輪5000m4位入賞の実績を持つ志水見千子選手の専任コーチに。日本選手権5000m優勝、バンコクアジア大会5000m銅メダルを獲得。志水さんからは、たくさんのことを学ばせて頂きました。
27歳の時に、リクルートを退社。
実業団チームの監督に就任。
会社との狭間で、もがき苦しみました。
成績不振を理由に、監督を解任されたその年、私についてきてくれた辰巳悦加選手と共に、世界陸上大阪大会へ。
一生忘れられない思い出になりました。
実業団の監督に復帰するも、1年で契約満了に。私についてきてくれた岸川朱里選手と共に、長谷川体育施設さんのサポートを受けながら、800mで世界の舞台を目指した戦いがスタートしました。
2009年5月、当時、ママさんランナーとして、日本人初のオリンピック代表となった赤羽有紀子選手(当時/現・城西大女子駅伝部コーチ)と、マネジメント契約を締結しました。
ロンドンマラソン表彰台という金字塔をはじめ、大阪国際女子マラソンの優勝など、世界の舞台で戦ってきた赤羽選手をサポートできたことは、私にとって、一生の財産となりました。
引退後も契約は続いており、マネジメント業務窓口として、取材対応や講演・ゲストランナー出演に関する対応を行っております。
2011年4月、大宅楓選手【大東建託パートナーズ】との運命的な出会いがありました。日体大の石井先生からご紹介頂いた大宅選手をひと目見て、この選手を指導したいと思いました。
800mランナーの3000mSCでのオリンピック挑戦。
始めは、私の夢物語でしたが、その物語は、彼女自身の夢となり、目標となり、応援して下さる方々の共通の想いになりました。
バセドウ病という難病を乗り越え、世界の舞台を目指す大宅楓選手。
私にとって、本当にかけがえのない選手です。
2014年4月、母校・関東学院大学陸上競技部のゼネラルマネージャーに就任。主に高校生のスカウト業務を担当しています。
2004年以来のチームとしての箱根駅伝出場へ。挑戦は続きます。
50歳の節目に
先日、父親が急死しました。
突然の出来事でしたので、未だに気持ちの整理がつかずにいます。
私自身も、この先、何が起きるかわかりません。
父親の死をきっかけに、今後の人生について、考えることが多くなりました。
残された陸上競技人としての人生。
大学の仕事に関しては、請われるのであれば良いのですが、老害のような存在で、しがみついているように思われるのは嫌なので、1年、1年、覚悟を持って、取り組みたいと考えています。
大宅楓選手の指導は、彼女がスパイクを脱ぐ、その時まで、続けます。
今まで見てきた選手の中で、潜在能力はNO.1の選手。
時間はかかっていますが、最後の最後で必ずやってくれると信じています。
もう一度、日本選手権を獲って、世界の舞台へ挑戦します。
そして…
来春からは、新しい挑戦がスタートします。
この2.3年、ずっと悩んできましたが、思い切って、一歩を踏み出すことにしました。どんな世界が広がっていくのか、本当に楽しみです。
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