「お母さん食堂」を擁護(ヨウゴ)する。
コンビニのおにぎりに母親の愛情を感じる人は少ないと思うのだが、私がそうであり、そこから関連して見えてくるものもあるのでその部分からまずお話をさせて頂きたい。
家族のために用意する
親が朝食のためにコンビニのおにぎりを買ってきてくれたことがあった。他の兄妹が先に選んでから残りを手にするのが当たり前のことだったのだが、それでも手に取れた時は心底からありがたみを抱いたのを憶えている。私のために用意してくれたものだと深く実感できたからだ。
親は私に食事を作ってくれたことが決してなかったわけではないが、私の「お腹が空いたから作って欲しい」という願いに応えることはなかった。
冷蔵庫の中のものを食べれば憎しみを込めて怒られるのだが、唯一「納豆」については理解があり、それを食べて怒られることはほとんどなかった。
作って欲しいといって無視され、諦めて納豆ご飯を食べ終えると、ちょうどその時に「食べたか」と尋ねてくる。それに対し「食べた」と答えると、料理を作り始める。なので私は家族が食事をしているのを眺めているか、他の家族のために作った時ようやく食べられるというものだった。
私がその食事の席に着く際は必ず「他の家族が全部食べるんだから」ときつく言い聞かされてからの食事だった。当時それが当たり前のことだったので疑問に思わず言葉にもしていなかったのだが、何年も何年も経った後に、私に作ってくれた食事ではないという実感を持っていたことを自覚することができた。
なので、私はコンビニのおにぎりに親の愛情を感じるのである。
「お母さん食堂」の擁護
お母さん食堂を擁護したいと思ったのはそれが理由だからということではないが(そもそも私が小さい時に「お母さん食堂」は存在しない)、世の中にはシングルマザーやシングルファーザーあるいは共働きで、食事を作るのが大変な家庭はたくさん存在する。
料理を作るのが大変な時に、お母さん食堂というこのコンセプトの食品をコンビニで手軽に手にすることができるというのはどれほどありがたいものだろうか。
もし、それが度重なるものとなっても、パッケージには「お母さん」食堂と記載されている。
子供たちが目にしてもお母さんの用意するものであるという安心感を与えることができる。目の前で「お母さん食堂のものにしようね」といいながらレンジから取り出し、そのパッケージを切って盛り付けることができるのだ。
「お母さん」という記載のある、バリエーション豊かな食品を手軽に選び手にすることができる。
これは社会全体で子どもたちを養育するという目標にも合致するものといえるだろう。
現代は共働きがより増えるよう促す社会である。一方の親が作るものではないと考えるのも大切ではあるが、そもそも作ることの負担自体が軽減されてしかるべきでもある。
そうなると様々なコンセプトの食品提供サービスの需要自体が高まるものであり、その中に家族それぞれの名称を冠したサービスが生まれても全くおかしなことではない。
そもそもの話だが、“家族の名称” 自体にそれ以上の意味は含まれてはいないのだ。あるとするなら、それは文化的背景が関連する解説の場面であったり、個々の家庭の中で通用する意味合いであったり、何らかの意味があると提唱する人の定義付けによってなされるものであるだろう。
そして “家族の名称” が付けられた品物があるからといって、それは購入できる人を限定するわけでもない。「お母さん食堂」でいうならば、母親やその自覚がある人のみにその品物を作る人を限っているわけでもない。
製品を企画する人、作る人、売る人、買う人、口にする人。どの時点をとってもそうである。
排除運動
「お母さん食堂」の名称に肯定的な意義が見いだせることについては上記の通りである。
乱暴な話だが、何らかの名称が付いているだけである種の効果はあるのだ。物語の登場人物の家庭内での立場によって読み手の受け取り方が変わるように。
この場合はむしろ、「お母さん」の名を冠しながら質の悪い品物が提供されていた場合になら強く批判が起こるのもむべなるかなと思うところである。母が子に、家族に、提供したいものの水準を馬鹿にするなと。しかしその部分においても「お母さん食堂」のラインナップは優れたものであると私は感じる。コンビニで提供されるものとして見ればなおさらだ。
(社会における家政学的背景については長くなり話も逸れるため言及しない)
リンク先を見て頂いても分かる通り、この企画の立案から実現とその継続にあたっては膨大な努力が注ぎ込まれていることが、社会人の方々には容易に想像できるであろう。
もちろん、製造から流通までの過程に携わる方々が私のような考え方をしていると断言するものではない。受け取り方の自由はそこにある。しかしその過程には食事によって生活をより良くするためという目的が大なり小なり一貫して存在するものである。
この「お母さん食堂」の企画は社会に向け努力を重ね多くの人々への提供が実現している。明確な社会活動である。その提供する側に対し、提供する当事者ではない存在が「女性に食事を作らせることを意味する」と断定するのは、社会における品物の提供と受け取る当事者との協力関係をおとしめるものといわざるを得ない。
卑怯さ
何より重要なのは、この主張を本当に子供達が言っているのかどうかだ。
もし大人が言っているのだとすれば、それは子供達のジェンダーを利用して、隠れ蓑にして、盾にして、思想に従わせるという行為を目の当たりにしていることになる。
この子供達が受けた「ジェンダー教育」とは具体的にどのようなものであったのだろうか。
言葉の定義を社会に存在する問題と結びつくように教え、その定義による排除の提唱を社会運動として実行する一貫した流れを教えたものなのだろうか。
だとすれば、そのカリキュラムと講師は公開されるべきであろう。
ご覧の皆様にひとつ常識的に考えてみて頂きたいのだが、自身の子が教育過程の中で「社会問題と名称は直結する」と教わり、社会運動である署名を募り企業と相対する。その行動を教育を施した大人と組織が支える。
教育とは、子供達が社会の中で生きていく上で自由な意志に基づき判断するその正確さや力を育むものであるはずだ。
価値基準の提供から意志の発露である社会運動の実行までその一連を、大人が組織立って支援することに違和感を感じないだろうか、私がおかしいのか。
大人であるならば、大人自身が社会活動を行う姿を見せ、それをどう思うかの判断は子供達に任せるのが筋ではないのか。
社会を作ったのは大人達である。
教育を施した大人達は決して表に出てこない。
関係する大人のジェンダー性に関し巻き起こる疑問の矢面にまで子供達が立たされているのである。
大人が前に出るべきではないのか。
おわりに
私が社会問題に関心を持った時、親は「お前が考えてることなんて既に誰かが考えてるし何もできない」と、他の兄妹と一緒になって私に何度も何年も繰り返し言い続けた。
きっと、この社会運動の当事者である高校生達は、私が始めに書いたような経験などせずに済んではいるのだろう。母親以外も食事を作ってくれたり、冷蔵庫の中のものを使ってもよいという環境にいたのだろう。それは本当に素晴らしいことだ(皮肉のように聞こえてしまうであろうことが悲しい)。
大人の見下しや冷笑を受けない環境も子供達には大切なことである。
また、親は私の発言の中から一部の単語だけを取り上げ、思ってもいない考えを私がしていると決めつけ、「絶対にお母さんと呼ぶな」と言い含め続けた。そして「貴方は」と、私が慎重に心を込めて、ひたすら穏やかに呼んだその時を親戚が偶然目にしてしまった際、目を見開いて「あ・な・た・と・は・な・ん・だ」と、その親戚によく見えるように、「お母さん」と呼ばなかった私の無礼さを叱った。
きっと、このような体験を書けば「こんな育てられ方をした人間がまともな訳がない」と思う人もいるとは思う。
お母さん食堂の名称排除を展開した高校生の周囲の大人達がもしこの記事を目にしたなら、「こんな気持ち悪い異常者の文章を絶対に子供達の目に触れさせてはいけない」といった声も挙がりかねないのではないだろうか。
親の思いを子に反映させることもあれば、愛情と常識に基づき子供を得体の知れない思惑から守ることもまた、親の自然なふるまいのひとつである。
一人の人間、個の尊厳を持つ者であるという私の心の自立を支えたのは教育である。
教養そのものの素晴らしさや確かさを愛情を込めて私に伝えてくれた人と、その伝えられた手がかりの中に垂らされていた糸を辿ることで、行き着き知ることのできた人権運動の歴史とその当事者の遺した真髄が、今私の心の自立を支えている。
私は私のような人間が二度と生まれないようにするために、人権である選挙権を行使し立候補もして社会を変えようとしてきた。
なぜなら、それが大人として果たすべき責務であると認識したからだ。
決して大人の独善の思想や思惑で子供達を左右するようなことはあってはならない。
自分達の信条に反するものを排除してもよいということを教える大人にならないよう、私達は努めるべきである。
児童の権利に関する条約
第十三条
1. この権利の中には、あらゆる種類の情報や考え方を、国境を越えて、口頭、書面、印刷物、芸術、その他児童が選択した媒体を通じて、求め、受け取り、伝えていく自由が含まれるものとする。
2. この権利の行使は、法律による一定の制限を受けることがある。その制限は法律で定められたものと次を必要とする場合に限る。
a) 他人の権利や評判を尊重する場合。
b) 国家の安全保障もしくは公共の秩序、または公衆衛生や公序良俗を守る場合。
第十四条
1. 締約国は、思想、良心及び宗教の自由に対する児童の権利を尊重しなければならない。
2. 締約国は、保護者及び場合によっては法定保護者の権利及び義務を尊重し、児童の発展する能力に応じた方法で、児童の権利の行使についての支持を児童に与えるものとする。
3.自己の宗教又は信条を表明する自由は、法律で定められた制限、あるいは公共の安全、秩序、健康若しくは道徳、又は他人の基本的権利及び自由を保護するために必要な場合に応じての制限に限り、課することができる。
第十五条
1. 締約国は、結社の自由及び平和的集会の自由に対する児童の権利を認める。
2.これらの権利の行使に対する制限は法律に準拠して課されるものであり、国家の安全もしくは公の安全、公の秩序、公衆衛生もしくは道徳の保護または他人の権利及び自由の保護のために民主主義社会において必要とされるもの以外のいかなる制限も課することはできない。
(抜粋ここまで)
これらの子供達が主体となる権利を、隠れ蓑にするような大人のふるまいがあってはならない。
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