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翻訳という哲学——その2。

 以前「翻訳という哲学」というタイトルで投稿しました。すると、スキというサインを送ってくれる読者がじわじわと増えて、現時点(10月30日)では27個にまで達しています。
 これは想定外のことでした。このページを立ち上げてから、ほぼ三ヶ月、❤️マークが増えるペースが早いのか遅いのかはわかりませんが、少なくとも他の投稿よりはるかに多いことは歴然としています。書いた本人がいささか面食らっています。
 というのも、「哲学」などという言葉が人を惹きつけるとは思っていなかったからです。あるいはタイトルのせいではなく、中身が読みやすかったのかもしれませんが、どこがどうおもしろかったのか、皆目見当がつきません。
 そこで柳の下の二匹目のドジョウではありませんが、またこのタイトルのもとに投稿してみたら、どうなるか? このページにみなさんが何を期待しているかが、もう少しよく見えてくるのではないか、そういう試みです。
 「翻訳という哲学」という言葉でみなさんにお伝えしようとしたのは、翻訳はけっして理想的な理念のようなものから始まるわけではないということに尽きます。翻訳とは徹頭徹尾、具体的なものであり実践的なものです。目の前に訳すべきテキストがあって初めて成立するものです。
 具体的な話をしましょう。
 翻訳を学ぼうとしている人から、よくこんな質問を受けることがあります。
 「関係詞節は前から訳すのですか、後ろから訳すのですか?」
 関係詞(関係代名詞)というのは、英語なら、that, which, who、フランス語なら、que, qui, où などたくさんありますが、いずれにせよ関係代名詞のあとには直前の語(名詞の場合が多いです)を修飾する文節が続きます。
 結論から先に言うと、決まり事はないです。前から訳すこともあれば、後ろから訳すこともあります。
 それは文脈に応じて変わるということです。
 あるいは、書き手が何を伝えようとしているかによる、ということです。
 あるいは、著者の意図をそこねないようにしながら、日本語としていかに読みやすくするか、それによって変わってくるということです。
 さらにあるいは、that 以下が長く延々と続く場合には、いったん句点(。)を打って、二つの文章にわけることもありえます(これは日本語としていかに読みやすくするかにかかわってきます)。
 以上、たくさんの状況を勘案しながら、最適と思われる日本語を探っていくわけです。言い換えると、これが翻訳の醍醐味だとも言えます。
 でも、初心者のかた(と言っておくのがいちばんわかりやすいでしょう)は、まだ相手の言語に習熟していないので、規則を求めてくるわけです。それは学校——小、中、高、大、いずれの場合でも同じです——での、語学教育の弊害とも言えます。つまり文法という形式の重視であり、言語は形式によって成り立っているという考えに起因します。
 言語は生き物です。石のように固定したものではありません。状況によって千変万化します。
 一つだけ、もっともわかりやすい例を出します。
 あなたは Good morning ! あるいは Bonjour ! という朝の挨拶を「良い朝ですね」と訳しますか?
 これを「おはようございます」と訳すのは、英語あるいはフランス語の言葉をたんに日本語に置き換えているのではありません。異国の慣習的挨拶の言葉を日本の慣習的な言葉に置き換えているのです。これが状況や背景(文脈)に即して訳す典型的な例です。逆に言えば、Bonjour ! を「いらっしゃいませ」とか「ごめんください」と訳すこともありうるということです。あるいはそのまた逆に「良い朝」と訳さなければならないこともありうるのです。たとえば、It was a good morning ! と書かれてあった場合は「あれはいい朝だったなぁ!」と訳さなければなりません。もっともその場合は a nice morning とか a wonderful morning と表現するのが妥当かもしれませんが。
 このくらいだと、どなたも、うん、うん、とうなずいてこちらの論旨に同意してくれるでしょう。ところが、ほんの少し構文が複雑になると、とたんに上から訳すのか、下から訳すのかと頭を抱えてしまう。身も蓋もない言い方をすれば、それはその文が理解できていないということにつきます。頭から順に訳すか、お尻の方を前に持ってくるかは、規則によって決まっているのではなく、著者の意図をどのように汲み取るか、というところにかかっているのです。この場合の意図というのは、著者が何を言おうとしているのか(意味内容)に関わる部分と、どうしてこのような書き方をしているのか(表現形式)に関わる部分とが渾然一体となって絡み合っている。
 さっきの例で言えば、Bonjour. という挨拶の言葉に感嘆符(!)を付けて、Bonjour ! とするかどうかで、その意味合いから、挨拶を交わす人同士の関係性までもが変わってくる。そこに暗示されているさまざまな事情、状況、背景を読み取ることこそが翻訳なのです。
 だとすれば、翻訳には翻訳する人の経験なり、人間観なりがいやでも反映されてくることになります。それを私は「哲学」と呼んでいるのです。語学だけを一所懸命に勉強しても翻訳はできません。英文和訳だとか仏文和訳だとか、学校の勉強と翻訳とは根本的に違っています。
 今日はこの辺でやめて、次回はこの「上から訳すか、下から訳すか」という問題をもっと具体的に——あるいはもっと生々しく?——掘り下げていってみましょうか。といっても、一週間後に何を考えているかは、本人にもわかりませんが。

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