音楽から学べる哲学書
朝目覚める度に‥‥
蝉の抜け殻が横にいる
ある好世詩家は訪問してくれていたヘルパーさんに、「き✖️→せ◯」であり、多分、このシンガーソングライターは間違えたのだろうと、言い放った。
するとヘルパーである女性は
「布団なんかが、抜け殻みたいな形で、横にいた女性がいなくなっていた」
のだろうと応じた。
朴念仁の詩家は、それに納得しつつも賛同はしなかった。そして
「君=蝉であり、そう考えた方が合理的だ」
と答えた。
後考ではあるが、『南総里見八犬伝』なる作品の内には、獣姦的なるものがそのベースにあり、『遠野物語』にも、そのタブーを語りしものがあるという。
つまり、このソングは世にも稀なる「虫姦」のことを歌っている、ということが言えそうだ。
だからこそ、この歌の題名が
『瞳をとじて』なのだろう。
ははは、このレトリックに読者諸兄姉は何を感ずるであろう ?
論理を突き詰めれば以上のような、通常(ノーマル)とは程遠い、危ない域に、つまり「アブ(ない)ノーマル」な世界に到達してしまう。
だが、これこそが、哲学の哲学たる面目躍如であり、そういう視点ゆえに、世界の限界を超え、世界を素晴らしいものに変えて来た・変えていく、そう信じている。
さて、夏の日差しが暑い六月も二日を迎え。風にそよぐへ細い木の葉や枝を眺めている。
確か、禅語録の中に、風に靡(なび)いている旗を見て、
「旗が動いている」「いや、動いているのは風だ」
と二人の兵士が議論している場で、ある禅の修行僧は
「動いているのはお前たちの心だ」
と言い放ったという話を以前読んだ。
横にいたのは蝉よりは、好みの美女の方がいいに決まっている。だが、なぜ自分はそう想うのかはわからぬ。永遠のアポリアだ。
それは、アプリオリに決まっているものなのか、アポステリオリに決定されていくものなのかは知らぬ。
論理への飽くなき信奉が、哲学者を自認する者の徳である。
だが、それを限界まで突き進む先には
「ロンリー・チャップリン」な人生が待ち受けている、のかも──
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