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いなか間の うすへり さむし 菊の宿
 / 尚白
                猿蓑集 巻之三

評釈ひょうしゃく 猿蓑さるみの」(幸田露伴・著)の句を、半紙に散らし書き*1 をしていると、うすへりという語で筆が止まった。
(これは何だろうか)と思った。
ここから、又々、私の寄り道が始まった。
露伴の評釈の中に、
うすへりは、薄べりござ の略である」*2
とある。


花見の折りに使う茣蓙ござは裏表つるつるしている。これは藺草いぐさで編んだものだろう。これにへりを付けたものが、畳が普及するまで座敷に敷かれていたのだろう。
平安時代の貴族の寝間には、少し分厚く重ねて編んだものが、敷き布団代わりに敷かれていたらしい。これを正方形にして縁を付けたものに、高貴の方はお座りになったらしい。らしいらしい、と推察するばかりである。藺草いぐさを見たことも触ったこともないので茣蓙ござを巡ってグルグルと迷い、調べるうちにようやく茣蓙ござが畳の前身ということがわかった。

*1 散らし書き
俳句を、かなや変体仮名を使って、半紙に濃く、または太く、時には渇筆でと、空間を自由に使って句を置いている。

by Tajima Shizuka


畳と私

前の章*3 に登場した椿の里の祖父母の家の居間は板張りであった。
幅広の黒く、分厚い板が、奥の突き当たりの壁まで敷き詰められていた。大人が踏んでも、音は発せず、たわむことはなかった。居間の奥に大きな仏壇があった。
この板張りの間が、日常の暮らしの場であり、夜は寝室となった。
冬場は、この板張りに畳が敷き詰められた。
畳は8枚ぐらいで、あったろうか。

夏になると、その畳は剥がされる。
畳の底や縁のほこりき清め、日に当てて乾かした。
そのあと丁寧に、東側の納戸に納められた。
私は、エアコンのない時代の百姓屋の工夫かと思っていた。
畳は貴重な品物で、大切に使っていたことが今になって分かる。

夏場の冷たい板張りの床は、素足にひんやりと心地がいい。
梅雨が明けると、背戸や納戸、玄関の大戸が開放される。
浜風が通過していく。椿の木々がサワサワと鳴る。
夏の暑さに難儀なんぎした記憶がない。
アセボ(汗疹)もできなかった。
秋風が吹き始めると、畳が板張りに敷き詰められる。
ふんわりと暖かくなる。
うれしくなり、敷き詰められたばかりの畳の上で妹と、とごえて、母に叱られた。とごえるとは、ピョンピョンと、飛び跳ねたり寝転がったりと、ふざけ回ること。母の里言葉である。

椿の里 「とみ爺の家」(補足)

*3 「前の章に登場した椿の里の祖父母の家」補足
1944年、父の出征後、祖父母の家に疎開した。母は、私と妹を連れて家移りした時、祖父母の家は、周りから通称・とみじいの家と呼ばれる百姓屋が残っているだけの空き家になっていた。
私は6歳。小学校(当時は国民学校)に上がる前であった。
とみ爺の家は、典型的な百姓屋で、玄関の大戸おおどを開けて入ると広い土間が背戸せどまで続いていた。
玄関を入ってすぐの場所が、雨天や夜間の農作業場である。土間の壁寄りの土床に、わら打ち用の石が埋められていた。
壁にはすきくわなどの農具がけられていた。
背戸せどの近くが台所スペースである。
そこに、くど(平素は、おくどさんと呼ぶ)がデンとえ付けられていた。
土間の右手が居間である。
1枚板の上がりかまちを踏んで上がる。
土間に近い居間の中央に、囲炉裏いろりが切ってあった。

by Tajima Shizuka

たたみ」とはどういった定義なるものか。

畳(たたみ)
わらを縫い固めて作った畳床を、藺草で編んだ畳表でおおったもの。普通、長さ一間、幅半間であるが地方により大きさは異なる。和室の床に敷く。古くは人の坐る所だけ敷いた。

引用:三省堂 スーパー大辞林3,0

散々迷い道をしたお陰で、上記の電子辞書による畳の説明がすんなり了解出来できた。
とみ爺の家に住んでいた3年間、畳表を替える作業を見かけたことはない。屋根のき替えなど、集落中の応援でする共同作業がいくつかあったが、畳に関しては見かけなかった。
畳そのものが貴重な品で、畳表があめ色になり、すり切れるまで使ったようだ。とみ爺の家の畳は何代目になるのか。
そもそも、とみ爺の家は何時いつ、新築されたのか。
もう、誰にもくことは出来できない。

戦後の応急住宅では

戦後3年が経って、椿の里を離れ、長崎市内に移り住むことになった。そこは、原爆の焼け跡に立てられた応急住宅であった。
電気と水道は来ていたが、安普請やすぶじしん土壁つちかべもなかった。

その応急住宅の建ち並ぶ地域では、夏になると一斉に大掃除が実施された。畳を上げて外に運び出して、太陽にあてた。
我が家は、3畳と6畳の2間ふたまの畳である。
床板は薄っぺらの狭い板が使われていて、ところどころすき間があった。ビョンとたわむので、そっと床の上を歩いた。
この粗末そまつな家で、私は小学校3年生の夏から高等学校の1年まで、7年余り暮らした。
私が小学校の6年生の1月2日に、この6畳間で、末の弟が生まれた。自宅分娩ぶんべんである。
我が家は、6畳ひと間に、6人が折り重なる様になって寝ることになった。

応急住宅のある地域の大掃除の時に、畳表の裏返しの作業などをよく見かけた。粗末な畳表たたみおもてが使われていたようだ。
成長期の子供がいるとすぐに畳はすり切れた。
畳屋は空き地に作業台をえて、黙々と仕事をした。

今では、いつのにか大掃除の畳表の裏返しの光景も見かけなくなった。

最近、私の周辺では、新築の家に和室がない。時代の推移と共に、生活スタイルが変わり、畳の出番が減ったようだ。
とこのある座敷の暮らしはどこか懐かしい)
お茶席に呼ばれ、床の間の、おぢく拝見の機会があった。
掛け軸が下がり、その下に季節の花が生けられていた。
以前の暮らしを踏襲とうしゅうしている家もあることでしょう。
それでも、時代は大きく変わって行く。
家も人も変わっていく。
何だか寂しい。


次の第3章は、「おおこ」で寄り道である。にない棒で、両端にバケツがぶら下がる。いったい何を運ぶ話でしょうか。




「薄べり」で迷い道、寄り道

(ここから先は、私が「薄べり」から調べ、また調べした記録(メモ)のようなものが続きます。飛ばして読みたい方は、目次から次の段へどうぞ)


いなか間の うすへり さむし 菊の宿
 / 尚白
                猿蓑集 巻之三

うすべりは、「薄べりござ」の略。
『薄べりござ』を敷いた端々には、床板がのぞき見えている。寸法が合っていない。今のようにたたみが十分に行き渡っている時代では、この句は理解しにくいことであろう。七島しちとうむしろの産出が十分でない頃は、中等度の生活の家でも、畳を敷いたのは幾室いくしつに限られ、他は畳を敷かないことがあった。

引用:「評釈 猿蓑」 幸田露伴・著

露伴の評釈は何度読んでも、かったようで分からない。
幸田露伴は、1867年生まれ、没年は1947年である。猿蓑の評釈をしたのは露伴の晩年であった。太平洋戦争の終結から2年して死去している。露伴は、この頃でも、この句は理解しがたいと言っている。

うすへり = 薄べりござ  とは如何いかなるものか。
【ござ】という言葉は知っている。
そこで、愛用の電子辞書の出番となった。

薄べりござ
藺草いぐさで織ったむしろに布のへりをつけた敷物。

引用:三省堂 スーパー大辞林3,0

読むと、何となく想像出来できた。きっとしゃれたゴザであると思うが、見たことがないので、スッキリしない。(藺草とは?)
ここから長い迷い道に入った。

藺草(いぐさ)
辞書には、植物イの別名。

引用:三省堂 スーパー大辞林3,0

そこで次に「イ」を調べる

藺(イ)
イグサ科の多年草。栽培されて茎は花筵はなむしろ、畳表の材料にする。ずいは、灯心にした。

引用:三省堂 スーパー大辞林3,0

「藺」という字を宛てるらしい。
そこでまた(何となく知っているが、念のため)「茣蓙ござ」とは、何かを調べる。

茣蓙(ござ)
貴人の座る「御座」に敷く物の意。
などを編んで作った敷物。「ござ」は日本製の漢字。

引用:三省堂 スーパー大辞林3,0

こうなると、私は、「茣蓙ござ」と「むしろ」の違いが、曖昧あいまいに思えて来た。「茣蓙ござ」と「むしろ」もわかるが、ここまで来ると辞書に当らないとどうも気が済まない。

莚(むしろ)
【 筵、席、蓆、莚 】
わらむしろ、竹などで編んだ敷物。
特に、藁(わら)を編んで作ったもの。

引用:三省堂 スーパー大辞林3,0

とある。(なるほど。竹冠と草冠のむしろがあるのか)と感心する。結局のところ、私はわらで作ったむしろしか見たことがないと気付いた。むしろは、わら以外の材料で作ることがあるとは知らなかったのである。
稲藁いなわらで編んだむしろは農作業で使うので馴染みがある。
(これを敷物にするとゴツゴツして脚が痛いだろうに)と思う。
むしろに座らされるのは、時代劇で見ける、お白州の罪人である。



◯ 田嶋のちょっと言わせて コラム〜閑話休題(1)

座布団(ざぶとん)
どうやら、昔の暮らしでは、畳が出て来るまでは、【ござ】を敷いて生活していたらしい。(板張いたばりに、【ござ】を敷いても座るとなると、足が痛かったことだろう)と思った。
(座布団はいつ頃、生活の中に登場したのであろうか。王朝時代に物語には出こないようだ。綿が一般庶民の間まで普及した江戸時代ではなかったろうか)私は、すぐに、祖父母の家の座布団を思い浮かべた。

ここでちょっと寄り道
昭和19年、椿の里の祖父母の家には、座布団があった。
囲炉裏いろり横座よこざというぬしが座る場所には、座布団が置いてあった。
父が出征している間は、祖父の弟・エンタじいが訪ねて来て、横座に座った。
座布団は、幼い子供には不要の品であった。
母は座布団に座る暇がなかった。

昭和19年から、一気に飛んで、
昭和29年、長崎市の、通称・奥山という地に両親が家を新築した。
やっと、我が家にとこのある座敷が出来た。
祝い事があると、8畳と6畳の境のふすまを取り払い、座敷テーブル2つを並べ宴席えんせきを設けた。
床の間を背にした父と、客人が座布団を当てた。
私たちきょうだいは座布団を当てたことがない。
母は台所と座敷を往復するのに忙しく、宴席にゆっくり座ることはなかった。
母が、どっかりと座って、ご馳走を食べることが出来できるようになったのは、私の2歳下の妹が成長してからである。妹は、結婚後も、何事かあると、実家に来て、母にかわって台所周りを指揮するようになった。
末弟が結婚すると、その妻と共に台所で働いた。
私はまるで役に立たなかった。ウロウロするだけで邪魔になった。
ご馳走を食べるだけになった母も私も座布団は当てなかった。
座布団と畳はシッカリ結びついているようである。
礼儀作法が云々うんぬんされるとか聞く。例えば、座布団の縫い目を手前に置くとか、挨拶の時は座布団から下りてするとか。
私は何だか面倒だと思った。幸いにして、そんな場面に遭遇したことがなかった。
奥山の家には、客用座布団が5客、袋に入れられ押し入れに納まっていた。
月に1回、お経を上げに来る僧侶には、専用の分厚い座布団が仏壇の前に置かれた。
卓袱台しゃぶだいで食事をする時代が長く続いたが、座布団は当てなかった。
食卓から卓袱台が消え、テーブルと椅子の暮らしになったのは何時いつだったのだろう。
私は、足の座り胼胝たこを気にしなくてよくなり、ホッとしたことを覚えている。
昭和30年、公団住宅が登場し入居の競争が激しい時代だったように記憶している。
一般的な公団住宅では椅子式のダイニングテーブルがしばしば採用されたようだ。
昭和35年頃から腰掛け式水洗便所も普及したようだ。
(ようだ、ようだ、と何処どこかで聞いた怪物のようだ)
奥山にある実家の台所も同じ頃、世間の公団住宅と同様に様代さまがわりした。ガスが配管されると、おくどさんが撤去され、ガスコンロが設置された。
たまに自宅に戻ると、台所隣りの4畳半に置かれたダイニングテーブルとガス台を見かけた。
私は実際のところ、実家の台所の変遷へんせんは目撃していない。進学のため高校卒業後、家を出たので、奥山の新築の家で暮らしたのは2年だけであった。
さてさて、とんだ寄り道をした。


◯ 田嶋のちょっと言わせて コラム〜閑話休題(2)

七島むしろ
実は、だわからない言葉があった。
露伴の評釈の中の
七島しちとうむしろの産出が十分でない頃は、(中略)畳を敷いたのは幾室いくしつに限られ(中略)た。」(引用:評釈 猿蓑 )

七島しちとうむしろ」の「七島」である。まず、
ななしま で愛用の電子辞書に当たると、【長島】という見出しが出てきて、その中に、七島(ななしま)をみつけた。
ここから、迷い道に入って行った。

まずは、見出しの【長島】から。
「【長島】:三重県北東部、桑名市の地名。木曽川と揖斐川にはさまれたデルタ地帯。かつて七つの輪中わじゅうになっていたところから、「七島」と呼ばれた。伊勢湾台風で、大被害を受けたが、その復旧工事中に長島温泉が発見された」(引用:三省堂 スーパー大辞林3,0)

さあ、今度は「輪中わじゅう」がわからない。また、辞書で調べる。

輪中わじゅう:洪水から集落や耕地を守るため、周囲に堤防をめぐらした低湿地域または共同村落組織。江戸時代につくられたものが多く、木曽・長良・揖斐の3河川の合流地域につくられたものが有名。」(引用:三省堂 スーパー大辞林3,0)

私は電子辞書で「七島しちとうむしろ」を探し当てることは出来できなかった。
その後、インターネットサーフィンをしていると、七島表しちとうおもての語句を見つけた。

七島とは、カヤツリグサ科の多年草。水田で栽培される。茎を乾かして畳おもてを作る。七島藺(しちとうい)」(デジタル大辞泉)とある。

(なんや、読み方が違ったのか)
再度、愛用の電子辞書に「しちとう」と打つと、「伊豆七島」の他に、「カヤツリ草科の多年草」と出てきた。
七島:主に薩摩七島で、茎を裂いて編み七島表(しちとうおもて)を作る。」(引用:三省堂 スーパー大辞林3,0)
と説明がある。

本当はこのように迷いに迷って、やっと畳表たたみおもてにたどり着いたという経緯いきさつがあった田嶋のお話でした。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。


See you again!



(エッセイ)「猿蓑 の 寄り道、迷い道」 #4  第2章「たたみ」
をお読みいただきましてありがとうございました。
2024年2月16日#0  連載開始
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
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