#4 第2章 「たたみ」
いなか間の うすへり さむし 菊の宿 / 尚白
猿蓑集 巻之三
「評釈 猿蓑」(幸田露伴・著)の句を、半紙に散らし書き*1 をしていると、うすへりという語で筆が止まった。
(これは何だろうか)と思った。
ここから、又々、私の寄り道が始まった。
露伴の評釈の中に、
「うすへりは、薄べりござ の略である」*2
とある。
花見の折りに使う茣蓙は裏表つるつるしている。これは藺草で編んだものだろう。これに縁を付けたものが、畳が普及するまで座敷に敷かれていたのだろう。
平安時代の貴族の寝間には、少し分厚く重ねて編んだものが、敷き布団代わりに敷かれていたらしい。これを正方形にして縁を付けたものに、高貴の方はお座りになったらしい。らしいらしい、と推察するばかりである。藺草を見たことも触ったこともないので茣蓙を巡ってグルグルと迷い、調べるうちにようやく茣蓙が畳の前身ということがわかった。
畳と私
前の章*3 に登場した椿の里の祖父母の家の居間は板張りであった。
幅広の黒く、分厚い板が、奥の突き当たりの壁まで敷き詰められていた。大人が踏んでも、音は発せず、撓むことはなかった。居間の奥に大きな仏壇があった。
この板張りの間が、日常の暮らしの場であり、夜は寝室となった。
冬場は、この板張りに畳が敷き詰められた。
畳は8枚ぐらいで、あったろうか。
夏になると、その畳は剥がされる。
畳の底や縁の埃を掃き清め、日に当てて乾かした。
そのあと丁寧に、東側の納戸に納められた。
私は、エアコンのない時代の百姓屋の工夫かと思っていた。
畳は貴重な品物で、大切に使っていたことが今になって分かる。
夏場の冷たい板張りの床は、素足にひんやりと心地がいい。
梅雨が明けると、背戸や納戸、玄関の大戸が開放される。
浜風が通過していく。椿の木々がサワサワと鳴る。
夏の暑さに難儀した記憶がない。
アセボ(汗疹)もできなかった。
秋風が吹き始めると、畳が板張りに敷き詰められる。
ふんわりと暖かくなる。
うれしくなり、敷き詰められたばかりの畳の上で妹と、とごえて、母に叱られた。とごえるとは、ピョンピョンと、飛び跳ねたり寝転がったりと、ふざけ回ること。母の里言葉である。
椿の里 「とみ爺の家」(補足)
「畳」とはどういった定義なるものか。
散々迷い道をしたお陰で、上記の電子辞書による畳の説明がすんなり了解出来た。
とみ爺の家に住んでいた3年間、畳表を替える作業を見かけたことはない。屋根の葺き替えなど、集落中の応援でする共同作業が幾つかあったが、畳に関しては見かけなかった。
畳そのものが貴重な品で、畳表が飴色になり、すり切れるまで使ったようだ。とみ爺の家の畳は何代目になるのか。
そもそも、とみ爺の家は何時、新築されたのか。
もう、誰にも訊くことは出来ない。
戦後の応急住宅では
戦後3年が経って、椿の里を離れ、長崎市内に移り住むことになった。そこは、原爆の焼け跡に立てられた応急住宅であった。
電気と水道は来ていたが、安普請で土壁もなかった。
その応急住宅の建ち並ぶ地域では、夏になると一斉に大掃除が実施された。畳を上げて外に運び出して、太陽にあてた。
我が家は、3畳と6畳の2間の畳である。
床板は薄っぺらの狭い板が使われていて、ところどころ隙間があった。ビョンと撓むので、そっと床の上を歩いた。
この粗末な家で、私は小学校3年生の夏から高等学校の1年まで、7年余り暮らした。
私が小学校の6年生の1月2日に、この6畳間で、末の弟が生まれた。自宅分娩である。
我が家は、6畳ひと間に、6人が折り重なる様になって寝ることになった。
応急住宅のある地域の大掃除の時に、畳表の裏返しの作業などをよく見かけた。粗末な畳表が使われていたようだ。
成長期の子供がいるとすぐに畳はすり切れた。
畳屋は空き地に作業台を据えて、黙々と仕事をした。
今では、いつの間にか大掃除の畳表の裏返しの光景も見かけなくなった。
最近、私の周辺では、新築の家に和室がない。時代の推移と共に、生活スタイルが変わり、畳の出番が減ったようだ。
(床の間のある座敷の暮らしはどこか懐かしい)
お茶席に呼ばれ、床の間の、お軸拝見の機会があった。
掛け軸が下がり、その下に季節の花が生けられていた。
以前の暮らしを踏襲している家もあることでしょう。
それでも、時代は大きく変わって行く。
家も人も変わっていく。
何だか寂しい。
次の第3章は、「おおこ」で寄り道である。担い棒で、両端にバケツがぶら下がる。いったい何を運ぶ話でしょうか。
「薄べり」で迷い道、寄り道
(ここから先は、私が「薄べり」から調べ、また調べした記録(メモ)のようなものが続きます。飛ばして読みたい方は、目次から次の段へどうぞ)
いなか間の うすへり さむし 菊の宿 / 尚白
猿蓑集 巻之三
露伴の評釈は何度読んでも、分かったようで分からない。
幸田露伴は、1867年生まれ、没年は1947年である。猿蓑の評釈をしたのは露伴の晩年であった。太平洋戦争の終結から2年して死去している。露伴は、この頃でも、この句は理解し難いと言っている。
うすへり = 薄べりござ とは如何なるものか。
【ござ】という言葉は知っている。
そこで、愛用の電子辞書の出番となった。
読むと、何となく想像出来た。きっとしゃれたゴザであると思うが、見たことがないので、スッキリしない。(藺草とは?)
ここから長い迷い道に入った。
そこで次に「イ」を調べる
「藺」という字を宛てるらしい。
そこでまた(何となく知っているが、念のため)「茣蓙」とは、何かを調べる。
こうなると、私は、「茣蓙」と「筵」の違いが、曖昧に思えて来た。「茣蓙」と「筵」もわかるが、ここまで来ると辞書に当らないとどうも気が済まない。
とある。(なるほど。竹冠と草冠の莚があるのか)と感心する。結局のところ、私は藁で作った莚しか見たことがないと気付いた。莚は、藁以外の材料で作ることがあるとは知らなかったのである。
稲藁で編んだ莚は農作業で使うので馴染みがある。
(これを敷物にするとゴツゴツして脚が痛いだろうに)と思う。
莚に座らされるのは、時代劇で見掛ける、お白州の罪人である。
◯ 田嶋のちょっと言わせて コラム〜閑話休題(1)
◯ 田嶋のちょっと言わせて コラム〜閑話休題(2)
(エッセイ)「猿蓑 の 寄り道、迷い道」 #4 第2章「たたみ」
をお読みいただきましてありがとうございました。
2024年2月16日#0 連載開始
著:田嶋 静 Tajima Shizuka
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