見出し画像

( 7 ) 未亡人達と養女達、そして子供達

去年の秋まで半年間、南砺市の通信制の保育園に登録したが、昨年末にフィリピン・ルソン島に母親と翔子伯母が設立した幼児向け学校に入学したので、南砺市の保育園の誘いは断った。従兄弟と公けの場では言っているが、その実態は異母兄弟達が登録している学校の方が都合がいい。大勢の身内も居るし、ネットで参加出来るので転校の必要も無いし、また初冬の頃にはフィリピンに向かうのだから。

この通信制の幼児学校を開校した理由が、北朝鮮とフィリピンを季節で移住する家族向けには必要だとして、スービック市に開校の申請を出した。北朝鮮や旧満州の農家や漁師が、冬季の一次産業就労でもフィリピンの農場、漁場に期間移住して就労できるというプランが昨年冬からスタートした。今までは冬季の収入が減少していた一次産業従事者が、相応の収入を得て帰国したので話題となり、この秋は更なる定期移住者が増えると予想されている。
周辺市のオロンガポ市、アンヘレス市の耕作放棄地農場を市が取り纏めて、今は人手が減少したのでロボット達が農場や畑の管理を行っている。また冬季になれば北朝鮮、旧満州で収穫を終えた農家がやってきて、ロボットから農地を引継ぐ。余剰労働力となったロボットは、南半球の南米諸国やアフリカ諸国、オーストラリア、ニュージーランドのモリ・アユム会長のティッセンクルップ社 関連会社の農場に移動する。
このサイクルが少しづつ広がると、一次産業従事者の収入も上昇する。年がら年中栽培できる亜熱帯の国を中心に据えて、一次産業従事者とロボットが季節ごとに国を跨いで、従事するプランを見出したのも、日本でモリ・ホタルの名で官房長官をしている、金森鮎だった。

予期せぬ遭難漂流生活をバハマ沖の無人島で過ごし、その有り余る時間でフト思いついたらしい。記録する紙もペンも無いので、記憶に残すしか無かったようだ。
当初は中南米諸国とアフリカ諸国の国々を対象として考えていたが、救出後にモリがフィリピン開発を構想していたと知り、アジアでのテスト運用を始めた。冬季、厳冬期のハウス栽培や、海に落ちれば即死の冬の海での出漁を出来れば敬遠しましょうという提案だ。冬の海はロボットに任せた方が安心だ。

平良農場の社長の日本名・平良 鮎,ベネズエラ名はアユ・平良・コナーズ、実態は杜あゆみも、定期移住者として日本海州・南砺市に登録済であり、3週間前にフィリピンから日本に戻ってきた。
五箇山地区の、とある小さな集落に合掌造りが4棟、古い家屋が5棟がある。その地所を集落ごとアユミが買い増し、農業法人化している。祖母である元首相の生家があるので、その土地と家屋だけが祖母の所有だが、それ以外の集落が現在フィリピンに滞在中の母親が扮するアユミ・コナーズの所有となる。アユミ名義で買い増ししていったので仕方がないのだが。

祖母の金森首相の在任時は、首相の生家として休日中の首相の取材にマスコミも訪れたが、「金森元首相、カリブ海で行方不明」となり、住民の他界や街への転出により、居住する人が出て限界集落になり、ムラを定期的に訪れるのはモリ家の人々だけとなっている。
そんなムラを維持している理由も、世界遺産に認定された合掌造りの観光地となっている白川郷や五箇山の比較的大きな集落が最右翼の対象として残されているとは言え、文化財としての合掌造り住宅が4棟あるので、文化財保護も兼ねてムラを維持している。モリ家がロボットを潤沢に使える背景があるから、とも言える。

アユミ達が不在の冬季は、ロボット達が家屋の管理、村の道路やヘリポートの除雪をし、豪雪や吹雪の日は天気予報データとリンクし、過剰労働力と判断すると、自己スリープモードへ移行する・・
春となった今は、それぞれのロボットが合掌造り以外の住宅の解体作業に取り組んでいる。
柱や木材は取っておいて薪として使い、燃焼しても有害物質が出るものは産廃業者に引き取って貰う。解体後の空き地に、フィリピン、ベネズエラの住居でも活用しているチタン製シェルターを設置し、モリ家の私邸の共通化を計る。
冬季であっても暖かく過ごせる空間が加わると、豪雪地帯での生活様式が変わるかもしれない。ロシアと計画しているシベリア圏でのテストや、旧満州のマイナス20度にもなる日もある厳冬期に比べれば、かなり気温は穏やかとなる。

今はアユミの子、蒼と翠に赤子の昴、サチの子の一成と佐智子しか居ないが、都内に母親と居住している杏と樹里の子も4月から、このムラに引越して、初冬にはフィリピンへ戻る。
この日は土曜日で、東京から官房長官の実は金森鮎元首相と、プルシアンブルー社社長のサチが週末の滞在をしていた。
アユミの姪に当たる茜、遥、フラウの3人も、大学の春休み期間中で残りの休日をこの集落で過ごしている。 大学は夏休みでも、所属している農業系の研究機関は操業中なので、合掌造りの1棟を3人が研究室代わりの拠点にしてリモート勤務をしている。
茜の目下の観察対象は、冬期中に温室で育てたカイコの生育状況だ。遥とフラウは畑作で今年は何を栽培するか、ケージに各種野菜の種を蒔いて発芽を待っている。苗の生育状態を見て、何をどの位育てるのか決めようとしていた。
カイコの方は計算ではそろそろ繭を作って蛹になるはずなのだが、今年の寒い冬が影響したのか、まだ繭にはなっていなかった。

金森鮎の生家以外の3棟の合掌造り住宅を、宿泊施設化して家族や近親者が滞在できるようにしている。しかし、合掌造り自体が大家族向きの家屋なので、アユミ達が利用している鮎の生家で全員で食事し、就寝していた。
合掌造りの家屋には必ず囲炉裏があり、この火が絶やされる日は殆ど無い。囲炉裏の煙が3階相当の高さにある茅葺きの屋根を炙る事で、茅の隙間に虫が巣食わないように施している。
冬季は暖かい屋根で越冬しようとする虫や産卵場所に相応しいと判断する虫が集まって来る。その集まってくる虫を煙で排除するのが目的となる。故に不在中の冬季であっても、囲炉裏の火番役となるロボットが必要となる。これを人に頼めばかなりのコストとなるだろう。
合掌造り自体が人が生活する前提で造られた住宅になっているので、囲炉裏の火を断てば、茅葺きの屋根に虫が巣食い、屋根が直に傷み始める。別荘のように使って、年の大半を不在状態にすると、簡単に家屋が劣化するのが茅葺き住宅だ。頻繁に茅葺き作業をして屋根を交換すれば抜き差しならぬ費用が掛かる。茅葺屋根を少しでも長持ちさせるためには、火を絶やさないようにするのが最もエコな管理方法となる。
住宅そのものが世界遺産になっているので、国連の外郭団体から支援金も出るし、日本の文化庁文化財保護課からも支援を受けている。屋根を葺き替える際の自己負担分が抑えられるとは言え、歴史的な建造物を現代に残す作業は、時代の変化と共に矛盾が生じている一例とも言える。

戦中までは、暖房は囲炉裏か七輪か、炭火の炬燵、薪ストーブ位しか無かった。それでも屋根は煙が抜けてゆく茅葺屋根だし、密封性、気密性という観点で見れば建付け自体もお粗末だ。若い頃であれば着膨れすれば凌げたものが、寒さだけは寄る年波には勝てない。
ましてや、ベネズエラやフィリピンで生活するようになれば、気軽に豪雪期にでも寄れば、気温差だけで体調を崩す可能性が高い。それで合掌造り以外の住宅を壊して、チタン製のシェルター施設を並べる。少なくともシェルター内で生活すれば、温暖な生活が享受できる。不在時はシェルターに電源を入れる必要は無い。しかも半永久的に利用できる。維持管理の手間も掛からない。

「1棟は子供達の雨天用の遊び場、3棟はカイコ生育棟でしょ。もう一つの1棟は冬季用宿泊施設って・・冬の利用の為だけなんて、贅沢じゃない?」

鮎がアユミとサチに利用用途が分かっていながら問い掛ける。
アユミが祖母の物言いを黙殺するかのように、お茶を啜る。サチがアユミの無関心な表情を見て笑い出す。

今週末はロシア首脳が滞在中なのでモリが来なかったが、週末は五箇山とフィリピンと週末の天気予報で、滞在先を決めるようになる。子供達も冬でも天気の良い週末は五箇山に来て、スキーやスケート等のウィンタースポーツを体験し始める年頃でもある。

フィリピンと五箇山間を移動できるのも、廃校となった中学校が、ムラにそれなりに人が住んでいた時は、プールがヘリポートとなり、ドクター・ヘリが離着陸できるようになった。
今はアユミの家族だけなので、ヘリポートも自家利用できる。出入国は政府関係者の特権を乱用して免除されており、自家用ホバー機で家のヘリポート間を移動する。

国への届けとしては2点ある。自衛隊の小松基地の管制と、中南米軍のフィリピン・スービック基地の管制に「出発する、着陸する」を伝える。
もう一点は搭乗入国者の申告だ。ホバー機の搭乗時に乗り込んだ人物の照会をロボットが行っているので、搭乗者リストが双方の管制に自動転送される。五箇山とフィリピン以外は、旧満州の吉林省にあるモリの私邸の計3箇所での運用が認められている。

「彼女が増えるかもしれないっていうのに、随分余裕ね、ねぇ若奥様」鮎が孫に向かって言った後で、なんか変な感じだなと思う。祖母と娘と孫が産んだ子の父親が同一人物というのは、恐らく世界初なので 違和感があるのが当然なのだが。

「今更どうでも良いじゃない。相手は70になろうとしている方々なのよ。それに二人共未亡人なんでしょう? ね、いいよねサッちゃん、その位はさ」

「アユッチ、鮎先生は今年76になるのよ、見た目だけが50代だって思い出して。先生の事だから、鮎先生と同じケアを2人に施すかもしれないよ。2人共68には見えない美魔女だけど、もっと若返るかもよ〜」
サチがニヤリと笑うと、アユミが目を見開いた。チベット秘伝の「若返りの術」を失念していたようだ。祖母がモリ・ホタル幹事長として存在し、成立している事に自分が慣れてしまっていた・・。

そもそもが同級生同士のバンドだ、確かに3人揃って、20歳位若返っても違和感は無い。
どうせテレビに出演する機会も限られるだろうし、ツアーは無理でも、スポットでライブを開いても、広い会場では顔は豆粒程度になる・・それに大型モニターに映し出される映像にAI補正を掛ければ、違和感は無くなるだろうし・・

「あー、そうだった。やっぱり、若返っちゃうのかな?」

「間違いないって。50年間、作曲者との接点が無かったんだよ、この期間は女性にとっては酷だよ」

「そうだよね。バンドだって少しでも長く続けたいだろうしね・・おばあちゃんが若返った時のお父さんの反応は、どうだった?」

「あら、この子はまっ昼間から私に何を言わせたいのかしら・・ええっと、どうせ抱くのなら年寄りよりは若い方がいい・・これは女性の欲求として捉えても、万国共通の発想よね?」

アユミが顔を顰めていう。
「分かりました・・社会党の歴代首相3人とも、お父さんの元カノか、愛人だもんねぇ。
日本の女性の大半が靡いたっておかしくない人物だもんね。あの二人が最後までバンドに残った理由だって、父さん目当てでしょ?50年経っても、イタリア経由ベネズエラまでわざわざ会いに来るくらいなんだもん。杏ちゃんの番組でもファンだって公言してたし」

「先生がモテるのは、誰もが理解できるからね。でもさ、子を成す範囲は弁えているよね、戸籍に入った身内だけに留めているし。数多くの女性の欲求を満たしながらも、最低限の線引きは守ってるんだよ。もっとも、68歳の女性は妊娠なんかしないだろうけど・・」
サチがサバサバと言うが、鮎もアユミも「数多くの女性の欲求」の箇所に違和感を覚えた。

「50年経って、好きだった男が世界を束ねようとしているのを見たら、当時のデビューの夢を持ち出してみようって考えるのも自然な発想だったんでしょうね。IMOが既に成功してるんだもの、デビュー自体のハードルは低いよね、曲そのものが揃ってるんだし・・それに、ピアノの彼女はあの人の初恋の人なんだって」

「ええっ!」「こりゃダメだぁ~」鮎の発言でサチが驚き、アユミが炬燵の上に突っ伏した。

「歓迎式典で同級生達を呼んだでしょ?そこに彼女が居て、その場でそんな話になったみたい。同級生達が冷やかしてたから」

「そうなんだ・・」

「ちょっとショックだったのは、同級生を集めた事に怒ったのよ、あの人。柳井さんに食って掛かってね「勝手なことすんな!」って言葉を荒げたの。俺は銅像にもお札にもならない。同級生の話題でワイドショーで取り上げられるのはまっぴらゴメンだって、その後でね・・」

「その後に何かあったの?」

「うん。あの人が望んで子沢山になった訳じゃないじゃなくて、私達が望んだから出産に同意してくれたのに、「俺が意図的に仕組んだ」みたいな事を柳井さんと阪本さんに向かって言ったのよ。子沢山、孫沢山になれば、私設遊郭を持つ徳川幕府の将軍や、処女を求める明治の元老院の初代首相みたいな扱いになる。偉人扱いはどうせされないから、無理に人を持ち上げようとしたって無駄だ。俺は暴走老人であり続ける、みたいな事を言って、ピアノの同級生に一直線に向かって行った。ショックを受けて呆然と見送るしか無くってね」

「先生が現代史の授業でおっしゃってた話を思い出しました」諦めきった顔をしたアユミがサチが明後日の方向から切り出して来たので、顔を向けて話を聞く体制に転じた。

「独裁には2つのタイプがある。ナチスと大日本帝国だ。片やヒットラーが救国の英雄のように持ち上げられ、方や天皇を傀儡神格化して、軍部が実権を掌握した。
日本にはヒットラーに該当する人材は、今後も未来永劫おそらく現れないだろう。足を引っ張り合うのが日本人は好きだし、今の政治家は2世3世で劣性遺伝の影響なのか、どんどん小物になってるからって。

でも、満州国で溥儀を擁立して関東軍が国を動かしたように、自民党が憲法改正して、おバカな天皇を擁立して、この旧日本軍スタイルを狙ってくる可能性がある。
僕が言いたいのは独裁の形ではなくて、ナチスと日本の軍部の台頭を許したのが民衆だったというオチだ。
ナチスと日本軍の嘘を、真実だと受け止めてしまう国民の脆弱な知識や認識力であったり、理解力そのものが著しく弱かったのが日本とドイツの最大の問題だった。 結果的に敗戦国になって、国土は荒れ、崩壊した。だから君たちは、騙されない大人になれって、言ってね。
その後で樹里が直ぐに手を挙げて発言したの、
「もし先生がヒットラーだったら、私は騙されちゃうかもしれません。どうしたらいいですか?」って真顔で言うの。クラス中が爆笑してね」

「樹里ちゃんらしいわ」鮎が吹き出した後に涙目で言った。

「そしたら、先生は驚くような事を言ったんです。君は担任教師を理解していないようだ。僕は独裁者にはならない。逆に独裁者を糾弾するか、暗殺する方に廻る。あーそうだな、もしくは独裁者の寝首を掻くような暗殺者を育てるかもしれない。君は投票所に行かずに、独裁者の愛人役を演ずる暗殺者になって貰って、独裁者の寝首を掻くかもしれないよって、言って、またそこでクラスが大騒ぎになりました」

「2人の漫才トークと変わってないじゃない・・」  アユミが少し前向きになったようだ。

「そうだね。樹里もこの頃から、先生があー言えば、こう言うを実践してた。でね、また教室が大騒ぎになったの」

サチが樹里の甘えたような声を真似る。
「いいですよ、有能なアサシンになりましょう。でもその前に、愛人役が問題になります。私は恋をしたことが無いので、先ずは先生のご指導を頂きたいのですが宜しいでしょうか?」って言って、シレッと微笑んだの。 授業中なのよ、大胆でしょう? 先生の方が面食らっちゃってね」
サチが自分で言いながら笑い出す。笑いながら、アユミも思い出す。

「ベネズエラに来た時に、スーツを着ずにシャツ姿で大統領府や私邸の畑作業をしてたでしょ?休まない大統領だとか、清貧の大統領とか呼ばれて。あれは独裁色を軽減するのに大いに役立ったって言ってた。今も同じだけどね。
普通なら、選挙をして議会を作ってって流れになるけど、その流れにするとアメリカが再介入する脆弱な国で終わりかねない。まだベネズエラの人達の石油依存体質が抜けてないから、政治が元のように賄賂と利権で荒れてしまう可能性が高かったから。

少なくとも庶民的な看板を持ち続けられたからこそ、議会の必要性を問われずに済んだ。
内政の負荷を減らして、外交主体でやりたいようにやらせて貰えた。お陰で中南米諸国連合とアフリカ連合を束ねられたって・・」

「あの人に独裁者のイメージなんて確かにないけど、やってる事は かなり強引だったからね。どの国も右派は駆逐されちゃって、左派寄りの政権になったし」
鮎が政治家らしく客観的に言ってから、気が付いた。

「結局、全てが描いたシナリオ通りなんだよ。あなた達が子供が欲しいって言い出した時に、大統領職を続けられないほど精神的に脆くなった。あれも、自分の想定外だったからなんだろうけど。そこで今度は子供が生まれた前提でシナリオを変えていった。数々の実績を、未亡人や養女達に子供を産ませて子沢山になったって俗ネタで、自分自身を相殺するっていう発想に転じたんでしょう。
ベネズエラと中南米、アフリカをボクシッチ夫妻に最終的に任せて、最終的には夫妻の成果にしようと考えてるんじゃないかな・・」   
鮎が言うと、2人が顔を合わせてバツが悪いような顔をする。

「ごめん、そういう積もりじゃなかった。でもね、彼は子供達が育って、喜んでいるのは確か。元々いいパパでもあるからね。あの子達が可愛くって仕方がないのよ。後悔なんてしてないと思う」

そこへ、姪っ子たちが帰ってきた音がする。時計を見ると正午前だった。
「どうしたの、困ったような顔をして」茜がアユミの顔を見て、心配そうな顔をする。

「何でもない、さ、お昼にしよう。今日はベネズエラで収穫したばかりの蕎麦をロボットに打ってもらったからね、ジャンジャン食べて」
アユミがそう言いながら、サチと台所に向かう。姪っ子たち3人も手伝うために後に付いていった。

ーーーー

韓国と北朝鮮のクラブチームの視察を終えたモリ・アユムが日本入りする。イタリア・ローマで4カ国の五輪代表同士で戦った弟達と一緒に入国しようかと考えたが、都合がつかなかった。アユムはベネズエラ代表としてWCUPに出場したので、ベネズエラ国籍も所有している。ベネズエラのパスポートで入国すると殆ど記者に捕まらない。
記者が「日本人入国者」でソートを掛けるので、弾かれてしまうのではないかと推測していた。

しかもワザと成田に入る。目的地が自分が昨年オーナーになった同じ千葉・柏市のクラブチームだからというのもある。羽田でも成田でも然程時間は変わらないかもしれないが。
しかし、やはり成田で正解だったと自画自賛する。空港内のやや寂れた感じを楽しみながら歩く。成田空港は格安を売りにしている航空会社専用の空港のようになりつつあり、最近では「バックパッカー御用達」と揶揄されている。
羽田や横田に比べれば、庶民的で安い飲食店が集まっているので、アユムは早速チェックしていた大衆料理屋に入ってゆく。千葉といえば醤油に、この季節なら銚子漁港が水上げする、春のイワシだ。頭の中はナメロウとつみれ汁が浮かんでいた。ドイツに居を構えて6年になるが、欧州のイワシは焼くか、アンチョビのようになり、痛みやすい魚だからか生食はしない。

昼の繁忙時刻を過ぎたので店内は閑散としていた。ところが店内では父が同級生と始めたバンドの曲が掛かっている。「これはマズイかな?」と思いながらどうせ別の曲が流れるだろうと思い直して、席についた。黒縁の眼鏡をしているので早々分からないはずだ。

「いらっしゃいませー、あれっ?まさか・・」と言うのでメニューから目を離す。大学生くらいだろうか、まだ春休みだ・・。

「イワシとアジのナメロウを1つづつと、つみれ汁、それとビールをジョッキで下さい」と、声色を変えて言ってみる。

「あの・・ニューカッスルのアユム選手ですよね?」

「えっと・・ごめんなさい。出来れば静かにしていただけたら有り難いです。店から出て行きたくはないんです。とにかくイワシが食べたいので・・」

「分かりました。では他の店員にも徹底致します。大ファンなんです、私。後ででいいので握手して下さい。それと大学の後輩です。女子サッカー部の部員です」

「あぁ、分かりました。どうか宜しく・・」

「任せて下さい、先輩」

これだけで先輩呼ばわりか、と思う。しかし女子サッカー部なら、フラウ達の先輩になるのでは?と思い直して彼女を探す。あの腰の細さだと、前衛のポジションになるんだろうか。

後輩に関心を抱いている自分に気が付き、自制するかのようにお冷の水を飲んだ。

(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?