「あの子はさ、田舎で好きな人の奥さんとかやってる方が性に合ってたのよ。たぶんだけど。」 美華子は、黒のタイトスカートからスラリと伸びた脚を組み替えながら、こともなげにそう言った。 上半身は、そこらのスーツ屋では見ない、凝ったデザインのブラウスとジャケットに包まれ、胸元には大きさは控えめだが、太陽の下で強い光を放つ宝石がぶら下がっていた。 「ふーん」 ズズっと音を立てながら、残りのアイスコーヒーをストローで吸い上げた千枝は、グラスの中の氷を眺めながら気のない返事をした。ふやける
ドギツイぴんくの中身は白い 南国の太陽 てり散らす海水 原色に塗れた世界 蛍光色のプラスチックナイフ 柔らかい皮に食い込ませたら めりめりと開かれるドギツイ果実 その中身は白く 透ける 焼けて硬くなった中身はぐちょり 薄雲に隠れ 霞む月光 穏やかな闇が飽和する世界 居間のちゃぶ台 その上の鉄板 父の端に転がされた豚の肉 口の中でぐちょりと 残る 外側でできた世界の中で、 内側に向かって捻れるから だって螺旋が誘うから
しんと静まり返った夜 忍び込んだのは美術館 夜遅くまで働く 真面目な警備員の目を掻い潜る 緊張感 しんと静まり返った道 明るく光るのは民家の窓 もう夜も老けたというのに 空気を満たすのは深い信頼と 幸福感 臨場感あふれるBGMも 激情引き出す仕掛けも 行手阻む赤外線も ない ない 入ったら最後 しんと静まり返った部屋 恐ろしく響く足音 頭上の天使は冷ややかに笑う 気づいたら最後 辿り着いた部屋 恐ろしく広がる 真白な世界 中心に浮かぶは ひと房のバナナ
直線で整えられた眉 その上でウソウソと踊るアホ毛 正確に直角を作るティッシュ箱の角 私の手の中で鼻水にまみれて丸まるその中身 真っ直ぐに伸びる新しい国道 そこからぐにゃりと私の玄関へ向かう砂利道 オートロックの中の内鍵は かけていない きれいに揃えたスリッパ 埃ひとつなく磨かれたフローリング さりげなく香る金木犀 しっかり60℃で保温されているポットの中身 大さじ2/3ぴったり多めに溶いた味噌 1目盛少なめの水で炊いたご飯は今ちょうど食べ頃だ オートロックの中の内
通り過ぎたおじさんの背中には警備会社らしきロゴが、こじんまりとしたブロック体で書かれていた。全身を覆う白けたオレンジ色の上にふわふわと漂う白髪が綺麗だった。少し銀色が混じって、なぜかふと、彼は生きているんだな、と思った。無機質な橙が、彼を単調地下空間に、とじこめているようだった。
飛び込み自殺防止だろうか。黄色い線の後ろで本を読みながら電車を待っていたら、さっ、と視界にオレンジ色が飛び込んだ。鬱々としたロンドンの情景から目を挙げると、色褪せたオレンジのつなぎを着た白髪のおじさんだった。白髪だけど、なぜか、若々しく見えた。生命力のある顔だと思った。
窓が青く明るかったから、ベランダに出てみたら、街灯が薄暗い住宅街の路地を照らしていた。空はどんよりと青くて、星がひとつ、黄色かった。地上に近い方の空には、ピンクがかった鼠色がふわふわと漂っていた。ベッチャリ塗られた後、すっかり干からびてしまった水彩画の上に、ブスブスと針で刺される前の隙間だらけの綿が、転がっているような、異質なものが、無理矢理一緒にされているような、そんな空だった。春先にしては冷たい風が、雲と木の枝を左側にたなびかせていた。 もたれかかっていたベランダの柵が
西加奈子先生の『舞台』を読んだ。 文庫版巻末の対談で、先生が本作の主人公に共感して泣いてしまう人は心配になるとおっしゃっていた。 私は共感した。目尻もじんわりと濡らした。喉の奥から込み上げる感情があった。 そして、主人公葉太のように、苦しみながら生きている人は、自分だけではないということに気付かされた。この類の苦しみは、生きていれば、誰しもが経験するものなのだろう。 自意識過剰になってしまうことは多々ある。格好つけてすべきことができないことも、後々後悔して叫び出したくな
風呂という場所は思考を自由にさせる。 熱いお湯に浸かりながら、所々黒くかびた白いタイルを、コンタクトを外しぼやけた目で眺めていると、現実世界の行きにくさが遠のいていくように感じる。歌なんか口ずさんでしまったらなおさらだ。自分の声が自分のためだけに響き渡る。なんだ、私ってちょっと歌上手いじゃん、とか思いながらざぷんと頭のてっぺんまで沈んでみたりする。 子供の頃はよく、浴槽に浸かりながら宇宙に思いを馳せていた。Googleマップをズームアウトするように、今自分がいる浴槽から、
潜水艦が沈没した。らしい。 元々沈んでいるものがさらに沈むとはどういうことか。と陳腐な私の脳みそは最初、コトの重大さが理解できなかった。 バリ北部海域で訓練中の潜水艦が、何かしらから流出した油だけを残して、遭難したらしい。53人の乗組員とともに。 沈むということは恐ろしいことだと思う。そして、沈みたいと願ってしまうことも同様に、いや実際に沈むことより数倍恐ろしいかもしれない。 私は小学生のころ、夏休みになると必ず、父親に連れられて市民プールへ向かった。冬になると山火事
『星に願いを、そして手を。』という本を読んだ。青羽悠さんという人が、高校生のときに小説すばる新人賞をとった作品だ。 大学の近くの本屋でこの文庫本を見つけ、タイトルに惹かれて購入した。メルヘンチックなタイトルに加え、裏表紙に書かれていた「青春群像劇」という言葉を見て、たまにはこんなのも読んでみるか、と偉そうな考えを抱いてレジに持っていった覚えがある。「宇宙に憧れる四人」、「夢を諦めて町役場で働く彼」という言葉に惹かれたというのも事実だ。 しかし、自分より年下の作者が、さらに
目が覚めたらもうすでに昼の12時を回っていた。 重い体を起こして素足にスリッパをつっかけ部屋のドアを開ける。当然ながら家の中は暗く静まりかえっていて、取り残されたような寂しさが、喉元から体いっぱいに広がった。ドアの反対側の窓にかかっているカーテンの隙間から、一筋の光が、柔らかく温かい暗闇を鋭く切り裂いていた。 私は足に引っかかっているスリッパを引きずるようにして窓際まで行き、カーテンに手をかけたところで、びくっと肩を震わせた。昨晩閉め忘れた窓の隙間に、一羽の鳩が挟まってい