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水の底

潜水艦が沈没した。らしい。

元々沈んでいるものがさらに沈むとはどういうことか。と陳腐な私の脳みそは最初、コトの重大さが理解できなかった。

バリ北部海域で訓練中の潜水艦が、何かしらから流出した油だけを残して、遭難したらしい。53人の乗組員とともに。

沈むということは恐ろしいことだと思う。そして、沈みたいと願ってしまうことも同様に、いや実際に沈むことより数倍恐ろしいかもしれない。

私は小学生のころ、夏休みになると必ず、父親に連れられて市民プールへ向かった。冬になると山火事が発生するような田舎といえども、というかそんな辺鄙な場所だからか、日曜日の公共施設は人でごった返していた。足を焼く太陽の熱から逃げるように、浅く流れるドーナツ状のプールに足を浸した。荒いアスファルトに押し上げられた足の裏の皮膚の下を、冷たい水がなめらかに撫でていくのが気持ちよかった。でもその快感は1分と持たずに失われた。足の裏の熱が冷水で中和されると、真夏の太陽を浴び続けた屋外プールの水温は思いのほかぬるく、泳ごうにも、あたりは無邪気な色で塗りたくられた浮き輪でいっぱいだった。ムカムカと湧き上がる感情を暑さのせいにすることでやり過ごし、濡れた足でゴツゴツと乾いた地面に踏み出した。

流れるプールよりも深さのある50メートルプールに入ろうと思った。あっちなら騒がしい子供たちもいないし、何より水深がある。この市民プールでは競技用プールの一部が、ただの水が張られた長方体として、小学校高学年以上の子供向けに解放されていた。

しかし、こっちのプールもやはり人でごった返していた。違いと言えば、太陽を反射して光る水面に浮かんでいるのが、屈託のない笑顔を浮かべる少年少女から、ニキビや日焼け止めの油でヌメリと光る中高生になったことだけだ。毎日上裸で過ごしているのか疑うほどに日焼けた背中や、首の後ろで縛ったビキニの紐に食い込む白い肉に嫌気がさした。そんな光景を遮断するかのように、私は首元にぶら下がる水中眼鏡で目をしっかり覆い、長方体の角から静かに水中に潜った。

水の中に潜ってしまえば、水上で感じた不快感が嘘のように溶けた。あらゆる人によって汚された水は白く濁っていたし、常に野外に晒されているプールの底には黒く丸まった虫の死骸がいくつも落ちていた。だが、分厚い水の層によって遮断された世界では、自分が唯一はっきりと存在しているものだった。太陽の光は水面の波で屈折し、バラバラと弱い光をばら撒いていた。水上でひっきりなしに交わされる会話やアナウンスは、自分のボゴボゴという呼吸の音にかき消され、視界には遠くの方に白い足が、林を構成する木々のようにポツポツと生えているだけだった。

私は息の続く限り、腹をプールの底に擦り付けるようにして水中を泳いだ。息が切れたら素早く水上をかすめ、また潜った。ずっと潜っていられる自分に満足していた。太陽の光にはっきりと照らされる世界から逃げる術を持っている自分を、誇らしく思っていた。それが、自分を消す行為だということを知らずに。

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