見出し画像

利子と利己心(後)

訳者コメント:
 遠い未来のことは、いま目の前にあることよりも「小さく」見えます。今日お茶碗1杯のご飯があるのと、1年後にお茶碗1杯のご飯を約束してくれるのと、どちらが有難いかといえば、今日のご飯でしょう。これが減価とか割引といわれるもので、私たちの直感に一致しているように見えます。それは遠近法のようなものです。利子とは、この遠近法の絵画の中で、目の前で伸ばした手に持った50円玉が50m先まで移動したとき、同じ大きさに見えていなければならない(つまりヤップ島の石のお金のように巨大化していなければならない)というようなものです。利子とはつまり、遠近法に反する性質をお金に持たせるための仕掛けなのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


前半から続く

ルイス・ハイドは、贈り物ギフトの持つもう一つの普遍的な特徴として、それが共同体コミュニティーの中を巡るにつれて自然に増えていくこと、そしてこの増加分は自分で独り占めしてはならず、贈り物とともに循環させねばならないことを挙げています。利子が意味するのは、贈り物ギフトの増加分を独り占めすることであり、そうして共同体への流通を妨げ、個人の利益のために共同体を弱体化させます。多くの社会では、身内の間では高利貸しを禁じていても、本物の贈与を共同体に還元すると思えない部外者との取引では高利貸しを認めていたのは、けっして偶然ではありません。それゆえ、旧約聖書『申命記』第23章の20では次のように戒めています。「外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。」

この戒めが意味するものは、全ての人は兄弟であるというイエスの教えと合わせれば明らかとなります。利子は全面的に禁じられているのです。これは中世を通じてカトリック教会の立場であったとともに、現在でもイスラム教の戒律として残っています。しかし、教会と国家の統合に始まり、中世後期の重商主義の台頭とともに、キリスト教の教えと商業の要求の間にある根本的な緊張関係を解消するよう圧力が高まりました。マルティン・ルターとジャン・カルヴァンが提示した解決策は、道徳律と民法の分離であり、キリストの道は現世の習わしとは別だと主張したのです。こうして魂は物質からさらに切り離され、宗教は世俗的には無用の長物へと、また一歩後退しました。

贈与ギフトの網の目が持つ第三の特徴は、それを最も必要としている人に向かって流れるという性質ですが、利子はこれにも反しています。ハイドはこう説明します。

贈り物ギフトは何もない場所に向かって移動する。その輪の中を巡ると、最も長い間何も持たずにいた人のほうを向き、他の場所にもっと必要とする人が現れれば、元の経路を離れてその人の方へと移動する。私たちは気前が良すぎて手ぶらになってしまうかもしれないが、空っぽになることで、それが全体に優しく働きかけ、巡っているものを引き寄せて、私たちを再び満たしてくれる。社会の本質は真空を嫌うのだ。[44]

一方、利子はこの流れを、最も必要としている人の所から、既に最も豊かである人へと向けてしまいます。

利子には永続的な成長という命令が内包されていて、生命と世界と魂を容赦なくお金に変える原動力となっています。しかし貨幣はベンサムのいう「効用」、つまり善と同一視されるので、従来の(新古典派)経済理論ではこの過程プロセス全体を合理的だと考えます。端的に言えば、どんなものでも金銭化すれば、世の中の「善」のレベルが上がるのです。したがって、有毒廃棄物、がん、離婚、兵器なども「グッズとサービス」に算入されてGDPの上昇に寄与し、これが従来から国家の幸福度を測る尺度として定着しています。同じ仮定が、工業製品を表す「商品グッズ」という婉曲表現にも現れています。まさに「財」の定義は、金銭と交換される全てのもの、なのです。

従来の経済学で言えば、地球を住めない場所に変える活動に従事することは、実は個人の合理的な利己心に一致するのかもしれません。これは集団レベルでも当てはまる可能性があります。将来のキャッシュフローを割り引いて考えるという複利計算の指数関数的な性質を考えると、将来の世代のために自然資本を保全するよりも、今すぐ全ての自然資本を取り崩し、地球を現金化するほうが、私たちの「合理的な利己心」にかなうかもしれません。結局のところ、未来永劫まで続く年間1兆ドルのキャッシュフローを正味現在価値で見れば、(割引率5%の場合)わずか20兆ドルほどでしかありません[45]。経済的に言えば、年間3兆ドルの持続可能なレベルで落ち着くよりも、100兆ドルの収入を得て10年で地球を破壊する方が合理的なのです。

これが突拍子もない空想に思えるなら、それは私たちが現在やっていることに他ならないということを考えてみてください。私たちは経済社会に設定したパラメータに従って、自然、社会、文化、魂の資本を金銭的利益のために焼き尽くすという、正気とは思えないけれど合理的な選択をしていることになります。驚くべきことに、この結末を何千年も前に予見した人がいて、触れる物すべてを黄金に変えるミダス王の物語を創り出しました。王は最初その能力に喜んでいましたが、やがて食べ物も花も愛する人さえも、全てを冷たく硬い金属に変えてしまいました。ミダス王のように、私たちもまた自然の美しさ、人間関係、そして生存の基盤をお金に変えているのです。しかし古くからこの警告があったにもかかわらず、私たちはお金を食べて生きられるかのように振る舞い続けています。ウィリアム・グライダーが語ったある東アジアの大臣は、自国の森林を皆伐し、その売上を銀行に預けて利子を得る方が有益だと発言しました[46]。どうやら、地球を破壊することの影響など経済学者にはほとんど関心がないようです。イェール大学のウィリアム・ノードハウスはこう宣言します。「気候変動の影響を受けやすい経済分野である農業は、国の生産高のわずか3%を占めるにすぎない。つまりアメリカ経済が非常に大きな影響を受けることはないということだ。」これに応えて、オックスフォード大学の経済学者、ウィルフレッド・ベッカーマンは次のように語っています。「農業の純生産高が来世紀末までに50%減少したとしても、GNPは1.5%減少するに過ぎない。」[47]

私たちもミダス王のように、冷たく、楽しみもなく、醜く、荒涼とした世界に取り残されたことに、気付かなければならないのでしょうか?

利子は指数関数的に増加するため、それが助長する直線性は、人類を循環に拘束された自然の外に置くことになります。微妙に、しかし容赦なく、利子が推し進める仮定は、人間が自然の法則から離れて存在するということです。また、利子は常にもっと、もっと、もっと多くを要求し、全ての富を金融資本へと際限なく変換することで、容赦ない不安を煽り立てます。この不安の一部は「利子(interest)」という言葉そのものに込められていて、利己心(self-interest)もまた永遠に増大し続けるよう定められていることを意味します。

利子は、外部化という精神構造メンタリティと必然的に対をなすものです。利子と同じように、外部化もまた自然を資源の無限の貯蔵庫と見なし、廃棄物の無限の捨て場と見なすので、自然の循環性を否定することになります。利子はまた、近代テクノロジーの基礎である火にも似ています。それを動かし続けるには、もっと燃料を追加することが必要で、最後には全世界が破壊され、ドルと灰の山だけが残ります。

お金が非常に特殊な財産であるのは、物理的な商品の在庫とは異なり、「錆びて腐食することも、虫に食われることも無い」からです。現金の価値が時間とともに下がることこそありませんが、それどころか銀行のコンピュータに記憶されたビットという抽象化された現代のお金は、利子が付いて価値が高まっていきます。ですから、それは無常という基本的な自然法則に反しているように見えます。お金には、農地のように生産性を保つための維持管理は必要ありません。新鮮さを保つため、穀物貯蔵庫のように常に在庫を回転させる必要はありません。ならば、お金が早くから絶えることなく結びついてきたのが、最も酸化しにくい金属として知られる金だったのも偶然ではありません。お金は自然からの独立という根本的な幻想を永続させ、金融資産は環境との絶え間ない相互作用がなくても持続します。その他の形の資産は、他の人々や環境との継続的な関係を必要とするため、煩わしいものです。しかしお金は違っていて、いまや物質的な商品から完全に抽象化されているので、腐朽ふきゅうや変化という自然法則からも引き離されています。このように、私たちが知っているお金は、個別ばらばらの自己にとって不可欠な構成要素なのです。

不思議なことに、ほとんどの人はお金を分かち合うことを極端に嫌がります。親族の間でさえ、お金の共有は強いタブーに縛られています。兄弟や従兄弟いとこ叔父おじの家がとても裕福なのにもかかわらず貧しい家庭があるのを、私は数え切れないほど知っています。そして、お金の問題でどれだけの友情が崩壊し、どれだけの家族が何年も疎遠になってきたことでしょう。お金と表裏一体の関係にあるように見えるのが利己主義の本質で、それが自己との深い結びつきを知る手がかりとなります。それゆえ、もし「身ぐるみ剥がされる」とか「ぼったくられる」と、私たちは(まるで身体の一部をもぎ取られるような)強烈な蹂躙じゅうりんを感じるのですが、別の視点から見れば、そのとき起きることは紙切れが別の人の手に渡ったり、銀行のコンピューターのビットが点滅したりするだけなのです。

私たちはふつう、お金を共有することはありませんが、それは私たちがお金をほとんど自分の一部とみなし、生物として生きる安全のいしずえとみなしているからです。お金こそ自分自身なのです。一方、科学とその根底にある分断の起源に条件づけられて、私たちは本質的に他の人々をそのように、「他者」としか見ていません。この二つの領域を混同するなら、招くのは混乱と対立です。問題は、人生をお金に換えれば換えるほど、人生の領域が「私のものか、あなたのものか」という二項対立する縄張りのどちらか一方に吸い取られ、人生を分かち合い、腹を割った関係を築くための共通基盤が少なくなってしまうことです。人生をお金に換えることで、全てが経済取引に落とし込まれ、私たちはかつて地球に住んだ人間の中で最も孤独な存在となるのです。全世界を所有物にする流れが意味するのは、全てが私のものか、他の誰かのものだということです。もはや共通のものは何もありません。

身ぐるみ剥がされたとき私たちが感じる蹂躙は、狩猟採集の先住民が自然の破壊を目の当たりにして感じる蹂躙によく似ています。「私」をばらばらの個人としてではなく、人々、地球、動物、植物との関係の網の目を通して定義するとき、それらに危害が加われば私たち自身も蹂躙されるのです。新しいショッピングセンターを建設するためにブルドーザーが木々をなぎ倒すのを見ると、現代人である私たちでさえ、この蹂躙の響きを感じることがあります。それは、私たちが木々から切り離されているというのは錯覚だからです。埋もれた繋がりは、イデオロギーによる抵抗を受け、気晴らしで麻酔をかけられ、生存不安を発動して威嚇されることはあっても、決して死に絶えることはありませんが、なぜならそれは、私たちが本当は何者であるかに関わることだからです。エドウィン・ウィルソンがバイオフィリアと名づけた生命への愛、そして他の人間に対する私たちの自然な共感が、究極的には抑えがたいのは、私たちは生命であり、生命は私たちであるからです。

分断という体制の中で、地球の略奪とそこに生きる命の荒廃に内在する私たち自身への蹂躙に対して、私たちは無感覚になってしまいました。私たちは自分の存在に対する失われた感覚を補おうとするあまり、それを所有物、とりわけお金に移し替えますが、同時に災難の舞台を用意してしまうのです。どうしてそんなことになるのでしょう? それは、(利子を伴う)貨幣というのが全くの嘘であり、不滅性と永遠の成長という偽りの約束を規範化したものだからです。自己と同一化されたお金とそれに結び付いた「資産」が示唆するのは、それを握ってさえいれば自己は永遠に維持され、成長に続く腐敗、死、再生という残りのサイクルには影響されないということです。

朽ち果てることなく永遠に指数関数的に成長する以外に無いものが、そんな性質を持たない商品と結び付けられるというのは、明らかに問題です。考え得るただ一つの結果は、お金に内在する結局は詐欺的な約束を、利子で果たそうとする死に物狂いの絶望的な試みの中で、このような他の商品(つまり、本章で述べた社会、文化、自然、魂の資本)が、最終的には使い果たされてしまうということです。

希少性と利子という(相互に関連する)特徴は、このシステムの偶発的な特徴ではなく、誰かがもっと賢い選択をしていれば違っていたかもしれないようなものでもありません。それはニュートンとデカルトの宇宙論が暗黙の了解として持っているもので、その定義上、私の取り分が多ければ、あなたのは少なくなるのです。この宇宙論が急速に時代遅れになるにつれ、新たな貨幣制度への移行という希望が生まれつつあり、それは自己と世界に対する全く異なる概念を具体化したものになるはずです。このような移行がなければ、社会、文化、自然、魂の資本がお金に転換されるという現状の弱まる望みはほとんどありません。


前< 利子と利己心(前)
目次
次> 資本の危機


注:
[44] ハイド[Hyde,] p. 23
[45] 無限の資金が有限の「正味現在価値」を持てるのは、それが収束級数を成しているからである。
[46] *** この出典がグライダー[Greider]かコーテン[Korten]か、要確認
[47] これらの引用はアドバスターズ[Adbusters]誌2004年10月(第55号)の「Let us Eat Cake(パンが無いならケーキを食おう)」から.


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-10/

2008 Charles Eisenstein


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?