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利子と利己心(前)

訳者コメント:
 所有と貨幣と利子のもたらす社会と生態系の破壊についてカール・マルクスが残した指摘を基に、テクノロジーと成長を是とし、中央集権国家によるコントロールで運営されるソビエト連邦が作られましたが、これは国家サイズの企業体のようなものでした。想像ですけれど、日本の大企業で働いたことのある人なら、ソビエト社会に放り込まれても全く違和感は無いと思います。日本の企業では、役員は選挙で選ばれるわけではありませんから、民主主義などありません。予算計画に基づいた計画経済を粛々と執行することが求められます。自分の能力を売り込むための自由市場など社内にありません。会社の物を私物化すると横領ですから個人所有権は限定されています。他社と(少なくともメンタリティーの上では)戦争状態にあるので、企業秘密を盗む産業スパイが暗躍し、それを防ごうと社員には秘密主義が徹底されます。とまあ、資本主義と目指す方向は同じだったので、旧ソ連の社会も環境も西側同様に荒廃しました。
 資本主義もソビエト社会主義も、根っこの所で共有している「分断の物語」こそが問題の根源なのだと捉えるなら、アンチテーゼとして掲げるべきは「ギフト経済」なのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


4.10 利子と利己心

高利貸しの帝国の中で、心優しい男の感傷が私たちに呼びかけるのは、それが失われたものについて語るからである。(ルイス・ハイド)

私たちのお金と所有のシステムは、さまざまな形で分断の過程プロセスを助長しています。人々を自然から、魂から、そして地域社会から切り離します。一つには、金銭化された生活は、遠く彼方の非人間的な制度と、それを構成する匿名の専門家に依存しているので、私たちは隣人との結びつきが希薄になります。第二に、金銭取引の性質は閉じていて、それで終わりであり、開いた贈与のやり取りが恩義、つまり共同体を結びつける文字通りの絆を生み出すのとは対照的です。第三に、価値を抽象的に表現するというお金の性質そのものによって、効用が、つまり善が、数えられ数値化できるものだという幻想を生み出します。第四に、所有の概念によって、世界は個別の物の集合体となり、それらは切り離し、売却し、所有できます。何かを所有するということは、それをコモンズから切り離し、自分に従属させることです。財産、特にお金の蓄積は、野生を自己の領域へと併合することを意味し、実際には存在しない安全安心という認識を生み出し、世界から自己をさらに切り離し、世界の一部を切り離して自分のものにできるという錯覚を強めます。

しかし、お金の本来の目的は単に交換を容易にすることにあります。表面的には、交換は人と人とを引き離すのではなく、近づけるはずです。第7章では、まさにそれを実現するお金のシステムについて説明します。分断を解消し、コミュニティを破壊するのではなく築き上げ、私たちを自然から遠ざけるのではなく近づけます。このようなお金のシステムは既に胎動しつつあり、それがどのような特徴を持つべきかを理解するためには、逆にどのような特徴を持ってはならないかを理解することが役に立ちます。

社会、文化、魂、自然の資本を金融資本に転換する原動力となっているのが、現代のお金に備わる二つの中心的な特徴で、それらはまた、個別ばらばらの物体で満たされた宇宙の中にいる切り離された存在であるという私たちの自己認識と結びついてもいます。この深く関連し合う二つの特徴とは、希少性と利子です。

希少性と利子の源は、現代のお金を作り出す方法にあって、お金は銀行が貸し出すことによって生まれます[40]。これは数百年前から部分的には真実で、1971年以前は米ドルの裏付けとなる金という商品が(少なくとも理論上は)存在し、ドルに対して固定された他の通貨も存在しました。しかし1971年にブレトン・ウッズ体制が解体されて以降、通貨は金などの商品に基づくものではなくなりました。銀行が融資を行うことによって新たに創出できるお金の量は、銀行自身の支払準備金(および比率要件と割引金利)によってのみ制限されます。このような準備金の経済全体での総水準は、米国の連邦準備制度理事会(それ以外の国では中央銀行)が、国債の購入と売却を通じて決定します。

ベルナルド・リエターはこうコメントしています。「そもそも銀行負債に基づく不換紙幣システムが機能するためには、希少性が人為的かつ組織的に導入され維持されねばならない[41]。」銀行が融資をすると、借り手は利子をつけて返済しなければならず、その利子は、まだ創り出されていない限られた資金の中から、他の人たちと競争して調達するのです。政府と中央銀行は、利率や支払準備余裕額、そして現代において最も重要な、公開市場での国債の売買を通して、この新たな資金の創出率を注意深くコントロールしなければなりません。そこでは緊縮と緩和の間でバランスを取るという難しい作業が求められます。緊縮は希少性を高め、競争を激化させ、倒産やレイオフ、富の集中、景気後退を招く一方、緩和はインフレの暴走や通貨の完全な崩壊を招くリスクを伴います。後者の事態を防ぐためには、貨幣を希少な状態に保ち、その使用者を永遠の競争と永遠の不安に追い込まなければなりません。

しかし、銀行が債務として発行する不換通貨というシステムは、欠乏と不安の最も深い原因ではありません。なぜなら、欠乏と不安は利子という現象に組み込まれたものであり、利子そのものが私たちの自己認識に深く根ざしているからです。現在の、銀行が債務として発行する不換通貨というシステムは、利子を基にして成り立っているのです。そもそも銀行がお金を作る動機はそこにあります。お金を生み出すことは、商業銀行にとっては、利益を得るという第一目的の副次効果に過ぎません。もう一つの副作用は永続的な経済成長の必要性であり、その結果、前節で述べたように全ての共有財産が私的な貨幣資産に転換されることです。

利子がどのように希少性、競争、そして永続的な成長の必要性につながっていくかをたどってみましょう。経済の中にあるほぼ全てのお金は、何らかの仕組み(預金、融資など)を通じて利子付きで貸し出されているので、その結果として、(1)融資の一部が不履行に終わるか、(2)通貨供給が増加するかのどちらかにならざるを得ません。利子をつけて借金を返済しようとすれば、元本を上回る分を他のどこかから調達しなければなりません。通貨供給が増加しないのであれば、実勢金利に相当する割合の資産保有者が破産しなければなりません。言い換えれば、この世界に1千ドルがあって、それを10人に10%の利子で貸した場合、その1人は1年後に、残り9人の返済資金を供給するため破産しなければなりません。このようにして、利子は私たちを競争の中に放り込みます。

もちろん現実の世界では、通貨供給は一定ではなく増加します。しかし、それでも希少性と競争という根本的な原動力は変わりません。どんな瞬間にも、私たちは集団として、いま存在する以上のお金を借りているのです。新しいお金はどこから来るのでしょう? 現在の部分準備銀行制度で、新しいお金は、より多くの金を採掘し、より多くの硬貨を鋳造することによって生まれるのではありません。銀行などの機関が融資を行うたびに現れ出るのです。銀行は誰にお金を貸すのでしょう? 望ましいのは「信用力の高い」人ですが、信用力とは金銭を奪い合う能力、つまり利子をつけて借金を返済する能力を数値化したものです。現在のシステムでは、お金は借金なくして存在せず、借金は利子なくして存在せず、利子は私たちをより多くのお金を稼ぐように駆り立てるのです。他の人からお金を奪うことができる人もいますが、集団として私たちは新しい商品やサービスを創造しなければなりません。結局それが、雇用主が私たちに支払う報酬なのです。起業家や従業員として、貸し手や借り手として、私たちは社会資本と自然資本を金融資本へと転換することに加担しているのです。

新たな資金が、財やサービスを新たに生み出す経済の能力を超える量で社会全体に貸し出されると、その結果はインフレです。多くの資金が少しの商品を追いかけます。貨幣の価値は失われ、貨幣を大量に保有する人々(債権者、富裕層、権力者)にとっては不都合な事態となります。それは、かつて「債務者階級」と呼ばれた私たちにとって良いことのように思われるでしょうが、残念なことにインフレには強力な自己強化が働き、「暴走」して通貨を崩壊させます。これを防ぐためには、インフレを起こさない経済成長、つまり財やサービスの生産量の増加が、現在の貨幣制度を存在させるため構造的に必要なのです。それこそが、この章で説明したように、人生を容赦なくお金に換える原動力なのです。

成長の必要性と、現代の貨幣に組み込まれた希少性、利子という現象、そして現代経済に蔓延する継続的な競争の基盤は、すべて関連しています。貨幣が到達した所はどこでも、経済的交流の基盤が共有から競争に取って代わられるにつれ、伝統的な贈与ギフト経済が荒廃しました。

そして何のために、人為的に誘発された競争心や、現代生活の隅々まで広がる欠乏と不安が存在するのでしょう? 結局のところ、私たちは物質的に豊かな世界に生きているのです。おそらく人類史上かつてないほど、私たちは地球上の全ての人間の身体的ニーズを簡単に満たす能力を手にしたのです。皮肉にも、富の象徴である貨幣制度は、この豊かさの中に欠乏を生み出します。いったい何のために? 貨幣の目的は、やはり何よりもまず交換を容易にすることにあります。ベルナルド・リエターはこう書いています。「現在の貨幣制度は、私たちに集団として負債を負わせ、我々の間で交換を行う手段を得るというためだけに、共同体の他の人々と競争することを義務付けている[42]。」古典派経済学では、希少な貨幣に内在する競争は高い効率へと誘導するので良いことだと考えられています。しかし豊かな世界なら、効率は本当に最高の善なのでしょうか? そうではありません。特に効率が、共有の富を私的な資本に転換する速度のことをいう場合には。

そこで問うべきは、今日の経済成長の原動力となっている社会、文化、自然、魂の資本の容赦ない焼却を誘発せずに、交換(およびその他の特定のニーズ)を促進するというニーズに応える、別の種類の貨幣システムが有りうるかどうかということです。最終的な責任を貨幣そのものに押し付けるのは間違っているからです。私たちが知っている貨幣は文明全体の中で発展してきましたが、それは経済システム全体を作った原因であるだけでなく結果でもあり、同様に私たちの世界観、宇宙観、自己定義の結果です。私たち知っている貨幣は、世界は切り離してコントロールできるという深い文化的前提を具体化するものです。個別の断片に切り離し、名前を付け運び出せる物へと落とし込むのです。お金の希少性を生み出し強化するのは、世界をテクノロジーで管理するということの中に暗黙のうちに含まれていた考えで、生存の手段を得るためには自然を操作し改良しなければならないという考えで、それは生存不安と関係があります。

利子という現象は、「お金にはお金がかかる」という信念に帰着します。利子とは、私たちがお金を使うために支払う対価、あるいはそれに伴う代償であり、専門化が進んだ現代において、それは生存そのものと同じです。したがって利子が規範化する信念は、この生存のための手段が貴重で希少なものであり、したがって競争の対象であるというものです。利子をつけてお金を貸すということは、「あなたが生き延びるのを助けてもいいけれど、お金を払ってくれるならね」という意味です。豊かな世界なら、今日誰かに食料を与えたとして、明日もっと大量の食料を返してくれるよう求めるでしょうか? 豊かさは言うまでもなく、もし生き延びることが、労働、欠乏、不安とも結びついていない世界なら、それは非論理的で不必要なことでしょう。このように、利子は欠乏の精神構造メンタリティーを生み出すだけでなく、欠乏の精神構造から自然に生まれるのです。

欠乏の精神構造は、所有し貯め込むように私たちを駆り立てますが、自己の境界線を緩め共同体コミュニティーを結びつける贈与ギフトの精神構造とは反対のものです。「[現代人は] 高利貸の精神に生きていて、それは境界と分裂の精神である。[43]」本物の贈り物ギフトの基本的な特徴は、無条件で贈ることです。贈られた側からであれ、共同体の他のメンバーからであれ、お返しを期待することはあっても、真の贈り物に条件を課すことはありませんし、そんなことをしたら贈り物とはいえません。利子をつけてお金を貸すことが贈与ギフトの精神に全く反することは明らかです。

後半につづく


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注:
[40] 貨幣が生み出される過程についての基本的かつ徹底的な説明については、ロバート・シェンク[Schenk, Robert]を参照。『From Commodity to Bank-debt Money(商品から銀行債務貨幣へ)』 http://ingrimayne.saintjoe.edu/econ/Banking/Commodity.html
[41] リエター[Lietaer,] p. ***
[42] リエター[Lietaer,] p. ***
[43] ハイド[Hyde,] p. 139


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-10/

2008 Charles Eisenstein


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