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他者の経済学

訳者コメント:
 蒸気機関車は直線的な機械テクノロジーの典型ですが、ボイラーに入れられた水が沸騰し、蒸気がピストンを押して車輪を回し、使い終わった蒸気が煙突から煙と共に捨てられるのは、この直線性の象徴のように見えます。しかしこのような熱機関を研究する熱力学が明らかにしたのは、蒸気が環境中に捨てられて終わりなのではなく、周囲の空気に熱を奪われて冷え、水滴に戻ったところで一巡するサイクルとして捉える必要があるということでした。そうすることで初めて熱機関の性能が計算できるようになったのです。現代の蒸気機関である火力発電所のタービンでは、使い終わった蒸気を冷やして水に戻す、文字通りのサイクルを実行しています。このシステムに投入されるのは温度の高い熱エネルギーであり、システムを出ていくのは温度の低い熱、つまり廃熱です。蒸気を冷やした廃熱を捨てることができなければ、システムを回すことができないのです。(熱を生み出すための石炭から灰への流れは、依然として直線的なものですが。)地球は、太陽からの6000℃にもなる熱を受け、マイナス270℃の暗黒の宇宙空間へ赤外線を捨てることで成り立つ、一種の熱機関です。熱以外の廃棄物を宇宙に捨てることは不可能です。
 物質は自然生態系の中を循環し、ある生き物の老廃物は他の生き物の養分となります。しかし人間の産業と経済の生み出す廃棄物は、他の生き物を養うどころか殺す毒となります。毒を捨てるには場所が必要で、それは「他所よそ」だから、そこにいる他者たちを踏み付けにすることによって処分するのです。「なあに、金さえ払えば受け入れるはず」というのが主流経済学の前提で、道路や原発や軍事基地の建設計画が持ち上がるたびに繰り返されてきたことです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


4.9 他者の経済学

生命をお金に変えるということは、お金が増え、生命が減るということです。しかし私たちの経済計算では、これは富の増加として厳然と捉えられ、富とはお金で量られる概念なのです。金銭的な交換価値のないものは目に見えず、経済の論理の外にあります。このような「外部性」エクスターナリティーは、ガリレオが排除した主観的性質と対応するもので、測定と数値化が可能なもの以外は意味を持ちません。それはまた、テクノロジーが世界を「他者」と見なしていることにも対応しています。ここに現代経済と自然生態系の根本的な食い違いがあります。

自然界には廃棄物というものがなく(宇宙に放射される熱を除きますが)、 ポール・ホーケンが言うように「廃物は食物」です。したがって自然のプロセスは循環的です。大地から生まれたものは、やがて他の生物が利用できる形で大地に戻ります。廃棄物が一方的・直線的に蓄積されることもなければ、必要不可欠な資源が一方的・直線的に枯渇することもありません。その一方で、産業は資源から始まり廃棄物で終わるという直線的な流れであり、経済的に価値がなく生物学的に有害でさえある物質も、廃棄しなければなりません。本章で述べた社会、文化、自然、魂の資本のような「資源」の源は、貨幣の領域の外にあるので、それらが商品化され枯渇すると、定義上、私たちはより豊かになり、GDP(国内総生産)は増加します。しかし、これらの資源は無限に再利用されるわけではないので、その枯渇に伴って物質的、社会的、そして魂の「廃物」が増大します。鉱滓スラグの山とスラム街、毒のゴミ捨て場と毒された体、死にゆく湖と荒れた文化、荒廃した生態系と崩壊した家族。

資源にも、地球が廃物を吸収する能力にも限りがあるので、現代経済の直線的な性質は明らかに持続不可能なものです。したがって現代経済は、人類の自然への参加を真っ向から否定し、自然の法則が私たちには適用されないという信念を形にしたものなのです。

古典派経済学は、資源の枯渇が価格の上昇を引き起こし、代替資源を探すイノベーションを刺激するとして、資源の有限性を否定します。言い換えれば、石油が枯渇して1バレル500ドルになれば、それが莫大な動機となって代替エネルギーの開発が促進されるということです。表土が枯渇し土で育てた食物が法外に高くつくようになれば、私たちは他の方法で食品を栽培したり、合成したりするようになるでしょう。オゾン層を破壊したなら、技術革新を発揮して、ライフスキン®パーソナル防護服とエコドーム®生態系格納容器を発明するでしょう[訳註1]。私たちが宇宙を操作しコントロールする能力は無限だというのが、その暗黙の前提です。枯渇した資源の価格が無限に上昇すれば、技術革新の意欲も(そして暗黙のうちにその能力も)同じように上昇するからです。ここに見える技術的対策テクノロジカル・フィックスの明らかな特徴には、もうお気付きでしょう。そして、私たちを自然からますます遠ざける〈テクノロジーの計画〉の兆候にも。それは経済学の前提に書き込まれているのです。海から魚がいなくなったら、養殖すればいい。土が使えなくなったら、新しい土を作ればいい。地球が住めなくなったら、新しい地球を作ればいい。

しかし、古典的経済学やコントロールというイデオロギーの確約が少しずつ輝きを失い始めているのは、第1章で述べたように、世界が制御不能に陥っているように見えるからです。私たちの問題は対処するよりも速く増殖していきます。人生を続けていくために、なんとか全てを崩れ落ちないように繋ぎ止めようと必死に努力しますが、その一方で膨大な問題が先送りされます。有毒廃棄物や放射性廃棄物の一時的な封じ込めという形で(40年後に漏出が始まる前に、科学はきっと恒久的な解決策を見つけてくれるでしょう)、私たちは集団としてこれを行っていますが、同時に、私たちが人生における大きな矛盾を無視し、化学薬品会社が地中に埋めた有毒廃棄物の上をコンクリート舗装するように、んだ傷口に蓋をすることで、個人的にもこれを行っています。しかし人気書籍のタイトルにあるように、「生き埋めにされた感情は決して死なない」のです[訳註2]。これは、集団としての廃物についても個人としての廃物についても、同じように言えることです。

もし〈テクノロジーの計画〉の確信と経済論理の約束が間違いだとすれば、自然資本の枯渇は単に備蓄資本の取り崩しであって新たな富の創造ではなく、蓄積する廃棄物は単に未払いのツケであって人間世界の外へ捨てて永久処分したことにはなりません。どうしてそう考えないのでしょう? 物を捨てる「外部」が本当に存在するのは、私たち自身が自然から切り離されて存在していると考える場合だけでしょう。そうでなければ、 PCBや水銀、ダイオキシンといった難分解性で生物蓄積性の毒物を生産するなど、どうすれば容認できるでしょう? 自然が神聖だと分かっている文化なら、そんなことはできないでしょう。植物、動物、森林、大地を自身の内に含む文化なら、そんなことはできないでしょう。私たちがあえてそうするのは、誤った自己認識の産物にすぎません。私たち自身を自然から根本的に切り離した存在と見なす場合にのみ、毒が最終的に私たちに影響を及ぼすことはないという考えを理にかなったものと捉えることができるのです。

外部化の論理は、個人や企業のレベルでも同じように当てはまります。利益はコストの外部化を最も上手くやった者のところへ行きます。これが、商売の成功のための永久不滅の公式の第2段階です。第1段階は、人々から何かを奪い(例えば社会資本)、それを再び売り戻すことでした。第2段階は、コストの少なくとも一部を他人に負担させ、自分が利益を得ることです。

要らないダイレクトメールを印刷する業者は、それを埋め立て処分する費用を負担すべきでしょうか? 農薬の製造者や使用者は、それが最終的に汚染する地下水の浄化費用を負担するべきでしょうか? 窒素肥料の製造者や使用者は、富栄養化(藻類が繁殖して水を脱酸素化させ魚を殺す)のコストを負担するべきでしょうか? もし石油製品の有毒な副産物が引き起こす医療費が含まれていたら、私たちが毎年クリスマスに買うプラスチックのガラクタの山は、まだこれほど安いでしょうか? 焼却炉、製油所、製紙工場の近くでがん発生率が500%上昇したら、製造者はその医療費を負担するでしょうか? ポール・ホーケンはこう書いています。

米国でガソリンが安いのは、その価格がスモッグや酸性雨、それらに起因する健康や環境への影響のコストを反映していないからである。同様に、アメリカの食品は世界で最も安いが、この価格に反映されていない事実は、私たちが土壌を枯渇させ、過去100年間で表土の平均深さを53センチから15センチまで減らし、地下水を汚染し(アイオワ州の農民は井戸水を飲まない)、農薬の使用によって野生動物を毒殺してきたことだ。[36]

汚染を発生する工場のように、近隣住民がそのコストを負担させられる場合もあります。工場の煙突を高くすれば、何千キロも彼方の漁師がそのコストを負担することになります。でもそれはコストの一部にすぎず、酸性雨は湖を破壊するだけではなく、数十年後に樹木の大量枯死を引き起こす原因にもなります。生態系の破壊がもたらすコストは、単一の原因を突き止めることが不可能で、広く分散し、前もって正確に予測することはできません。

遡ること1920年、経済学者のA.C.ピグーは、市場が全般的な福祉を促進するために、生産者が生産コストの全額を負担せねばならず、上記のような外部コストを「内部化」する手段を見出す必要があることに気付いていました。彼の示した解決策は、製品が真のコストを反映するように、政府によって「ピグー税」や補助金を課すことでした。その40年後にR.H.コースは、取引コストがゼロ(経済学者が数学的ゲームで好んで用いる仮定)であるとともに財産権が「適切に割り当てられている」場合、このような政府の介入は不要なことを明らかにしました[37]。コースはしばしば財産権に基づく自由至上主義の文脈で、不介入主義の政策を正当化するために引用されますが、彼の研究が実際に示唆しているのは、取引コストの問題からこれが非現実的なことです。コストが広く分散し、単一の原因を突き止めることが不可能で、計算が困難な場合、それらを割り出すための取引コストは法外なものになります。さらに気掛かりなのは財産権が「適切に」与えられるという第二の条件です。コースの論理は本質的に、あらゆるものを所有の対象とし、金銭的価値を与えることを求めているのです。言い換えれば、すべてのものには値段があるということです。しかしロッキー山脈の住民を対象に、自分たちの住む地域で大気汚染を受け入れるにはどれだけのお金を取るかという世論調査を行ったところ、新鮮な空気と澄みとおる眺めを失うことに対しては、いくらお金があっても十分な補償にはならないと答えました[38]。いくらお金があってもダメなのです。経済学によれば、これは極めて不合理な反応です。しかし、あなたの目や右足、あるいは子供と引き換えに、どれだけのお金を取るかと聞かれたら、きっと同じように答えるでしょう。実際、このようなものに金銭的価値が与えられると、その結果は(「移植用腎臓産業」のように)空恐ろしいことになりがちです。限りなく貴重なものが有限の金額に落とし込まれたら、他にどうなれというのでしょうか? 経済学の根本にある前提が馬鹿げたものであり、さらには生命に反するものであることが、このようにして分かります。さあ、健康と引き換えにいくら必要ですか? 友情と引き換えに? 自尊心と? 時間と? 人生と引き換えに?

「どんな人にも値段がある[つまり、買収できる、金で働く]。」この諺は本当でしょうか?それとも、私たちがいかにお金の奴隷として打ちのめされているかを示す症状なのでしょうか?

他者を犠牲にして利益を得るというビジネスモデルは、生物が資源を奪い合い、「環境」に「老廃物」を排泄するという従来の生物学によく一致しています。貨幣の経済学も同様に、人間は資源を奪い合い、自己利益を最大化しようとする個別の主体の集まりだと見ます。これはダーウィンの生物学的見解と全く同じです。「人間は基本的に利己的なのだ。」あなたにとってこれは真理だと思いますか? 実際、このような行動はお金の構造に組み込まれています。その結果、金銭取引が人間関係に取って代わるにつれて、人生は競合する「他者」の間での闘いとなっていきます。トマス・カーライルは『拝金主義の福音』の中で、必然的な結果についてこう述べています。「私たちはそれを〈社会〉と呼び、全面的な分断と孤立を公言している。私たちの人生は相互扶助ではなく、むしろ〈公正競争〉などと呼ばれる戦時法規の下に隠蔽された、相互の敵対関係である。」[39]

経済学は、自己と他者という二元論のもうひとつの側面にすぎず、私たちの宇宙に対する理解全体を歪めるレンズなのです。しかし今、私たちが理解し始めているのは、自然はそのようなものではなく、私たちは自然から切り離された存在ではないということです。従来の考えでは、生物は資源を利用し廃物を環境に排泄しますが、そこには幸運な巡り合わせによって、廃棄物をリサイクルして循環させるように進化した他の生物がいたということになります。個々の岩石風化細菌は、その排泄物が最終的には海の生物に炭酸カルシウムを提供するということに気付いているのでしょうか? ここでは進化のための積極的な強化刺激が、自然淘汰に影響を与えるほど早く戻ってくることはありません。他の生命が利用できず命取りになるような廃棄物を、これまでのところ人間以外どんな生物も生み出していないのは、はたして幸運な巡り合わせなのでしょうか?

お金が全てを飲み込んでいく傾向と、お金が効用や善と等価であるという概念が、現在の経済会計に現れる狂気の原因となっていて、がん、有毒廃棄物の流出、離婚、投獄のような現象が、GDP、つまり全ての「商品グッズ」と「サービス」の総価値の増加に貢献するのです。人々、文化、生態系に与えた損害がお金で表されない限り、それは貸借対照表から外れた他者の領域にあります。同じことが企業会計にも当てはまり、コストを外部化できるのは、その負担者が貸借対照表の外にある場合、つまり他者である場合だけです。私たちが地域社会と一体である限り、地域社会にコストを追い出すことはできません。社会的圧力と、私たち自身の良心の両方が、そのような行いに歯止めを掛けるでしょう。私たちが自然と一体である限り、地球の全体性ホールネスや美しさを損なうものを利益とみなすことなどできません。

しかし良心の呵責を感じながらビジネスを行おうとしたことのある人なら誰でも知っているように、様々な強い力が結託し、事業への冷酷な取り組みを押し付けてくるように見えます。善意の人々は、もっと効率的にコストを外部化する人々によってビジネスから追い出されます。日常的な経験から、競争が人生の事実であることが確かに分かります。なぜでしょう? それは、お金がなくても生きることを可能にしていた、あらゆる形の資本が金銭化されたことで、お金は生きるために不可欠なものとなったからです。そしてお金には、分断、疎外、競争、そして生命をお金に変換する継続的な過程プロセスの全てを強化する特性が、組み込まれているのです。


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注:
[36] ポール・ホーケン [Paul Hawken,] 『The Ecology of Commerce(商業の生態学)』, p. 76
[37] ロナルド・H・コース [Coase, Ronald H.] 『The Problem of Social Cost(社会コストの問題)』. J. Law & Econ. 3, p. 1 (1960)
[38] ***正確な出典を探す. ジェンセン[Jensen]だったか? 『How much money would you accept in exchange for living in an ugly world?(醜い世界で生きる引き換えに、どれだけの金を受け取るのか?)』
[39] トマス・カーライル [Thomas Carlyle,] 『Gospel of Mammonism(拝金主義の福音)』, Past and Present, Book 3, Chapter 2, 『Rebels Against the Future(未来への反乱)』でカークパトリック・セール[Kirkpatrick Sale]による引用.


[訳註1]「ライフスキン®」や「エコドーム®」は架空の商品名で、生命維持に欠かせないものが独占的商品としてお金と引き換えに売られるという皮肉が込められている。
[訳註2]『Feelings Buried Alive Never Die』カロル・K・トゥルーマンによる本。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-09/

2008 Charles Eisenstein


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