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魂の資本(後)

訳者コメント:
 私は幸いなことにモノづくりの大好きな子供として育ちました。熱心に通った「発明クラブ」では大先輩の技術者たちが新しいアイデアを発想する方法について真面目に教えてくれました。でも高校大学と進むにつれ、自分で考えるというよりも、覚えなければいけない数式やら何やらに圧倒されました。技術者として企業に就職しましたが、求められたのは上から与えられた要求に基づいて製品を設計すること。それなりに面白いことではありましたが、パズルを解くようなものでした。(宮崎駿の『風立ちぬ』で描かれるのは技術者の悲哀、皮肉だと思います。主人公は純粋に空飛ぶ機械を夢見ていたのに、人殺しの道具としてそれを作ることしか許されない…。)私が会社で自分のアイデアを主張すると、自分の作りたい物を作りたければ管理職になるしか無いと言われましたが、管理職とはお金の論理(コスパ)で物事を判断する役割で、新しいアイデアやイノベーションは管理職と相性が悪いのです。そういう役割を担うことで考え方も変わってしまうようでした。日本の大企業は特に官僚的な管理職で占められています。そんな日本でソニーやホンダのようにイノベーションを掲げる企業が創業できたのは、第二次大戦の敗戦で軍事統制経済が崩壊し、コントロールの体制に一瞬だけぽっかり穴が開くという幸運な偶然があったからです。
 子供の頃は「物知り博士」になりたいと思って、図鑑に載っている動物の名前をたくさん暗記したものです。でもそれは、そういうことを喜ぶ大人が周りにいたからだと、今は分かります。しっかり勉強して良い大学に行けと、親はいつも言っていました。最近のテレビ番組では、カリキュラムの頂点にいる東大生を「クイズ王」として持てはやしますが、本当の知識、人間としての知恵は、さまざまな実体験から来るものだと、今は分かります。暗記を偏重する学校教育は子供を労働者へと作り変えていく装置です。子供の中にある野生を矯正して飼い慣らし、家畜のように「おとなしい」大人、「社畜」にするために。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ



前半から続く

人生を消費財に変えるということは、私たちが自分で人生を創り出すのではなく、既製の人生を通り抜けるということです。そういう人生を送るための初期の訓練は、私たちが子供に与える活動によって施されますが、そのほとんどは、どこかへ行って示されたものを見たり、言われたことを聞いたりする程度のものになってきました。そうでなくても、予め筋書きが作られた一連の動作を、創造の営みのまがい物として子供たちに与えて従わせ、学ぶのではなく指示に従うことへと変えられてしまいます。数年前に、私は運転手としてリャマ牧場への遠足に付き添いました。子供たちは動物にも餌にも、その他何にも触ることを許されませんでした。子供たちはリャマを見て、従業員が話す情報を聞くだけでした。誰も質問しませんでしたが、興味が無かったからです。実際、子供たちを静かにさせ好奇心や探求心を抑えるため、先生たちは大変な努力をしていました。まるでテレビでリャマの番組を見ているようでしたが、少なくとも匂いを嗅ぐことはできたと思います。

私たちの町では毎年恒例の子供パレードがありますが、子供たちはパレードについて何も決められません。子供たちはただ、竿の先につけた段ボールの動物を持ったり、誰かが作ったコスチュームに身を包んだりして、パレードを歩くだけです。

子供たちが日曜学校やデイケアでやらされる「工作」を見たことがありますが、それは子どもたちが言われたとおり手順を追って進めていくというもので、時には自分が何をしているのかさえ理解せず、完成した作品に誇りを持つこともほとんどありませんでした。確かに、子供たちに創造の材料を使って勝手にさせるのは、あまりに厄介で、あまりに混沌としています。もちろん、管理された領域に閉じ込められ、決められた製品を生み出さなければならないような創造性など、創造性とは言えません。それは労働です。子供たちが無気力で、やる気がないのも無理はありません。これは指示待ちの大人になる準備なのです。〈機械〉の一員となって、仕事と労働の大人時代を迎える準備をしているのです。あなたの創造性は管理された領域の中に限定され、決められた製品を作ることになります。それがあなたの職務明細書なのではありませんか?

遊びをコントロールし排除する動きの最も悪しき現れの一つが団体スポーツで、少年野球に始まって、今ではあらゆるスポーツ、あらゆる年齢層に広がっています。砂場、遊び場、家の近所、空き地など、かつては子どもたちが自由に自分たちのルールを作り、自分たちのチームを選び、自分たちの争いを解決していた場所が、今では管理された別の領域に取って代わられ、そこでの遊びは定められた一連の動作に従うことへと変わり、社会的交流は指導者によって仲介され導かれるようになりました。ある意味、子供たちがゲームを遊んでいるのでは全くありません。ゲームが子供たちをもてあそんでいるのであり、子供たちは添え物に過ぎず、大人が作り強制するルールによって決められた役割を果たすための穴埋めでしかありません。ここに遊びの本質的な創造性はもうありません。それを何と呼んでいいのか分かりませんが、本当にもう遊びではありません。しかし、権威に指示を求めて「ゲームをプレイする」人々を生み出すための、優れた条件付けの方法ではあります。あなたは、やっぱり自分が、異議を唱えることもできない権威によって決定され強制された役割を果たす「穴埋め」の一人なのだと感じたことはないでしょうか?

そしてもちろん学校が、社会・文化・魂のあらゆる形の資本が失われるのに重要な役割を果たしています。ここでもまた、子供たちは多かれ少なかれ前もって設定された一連の段階(カリキュラム)を進むことになり、探求と創造への自然な欲求は、特定の時間と場所と対象へと限定されます。子供たちは世界のことを読みますが世界を体験することはなく、知識は上から与えられた情報や事実やデータを吸収することから生まれるという考え方を強化し、その一方で、自分には実地の観察を通じて本当に学ぶ力があるのだという考えそのものを軽んじるようになります。

私たちが子どもたちに課す制限は、安全性と現実性という二つの関連した懸念から生じていて、どちらも結局ある種のコントロールに行き着きます。子供に近所や森を歩き回らせるのは安全ではなく、それより家の中に閉じ込めておく方がいい。計画された既製の「体験」の方が、予測可能でコントロール可能な人間の領域に収まらない、実世界での本物の体験よりも安全です。同じように、子供たちに押し付けている教育も、プロとして安定した地位を得るために必要な技能を身につけ、資格を得られるようにするためなのですが、それも人生に特有の不確実性を回避しようとしているのです。自然を信じて与えてもらうのではなく、自然が与えるように仕向けるのです。それは、土地から食べ物を引き出そうとする農耕民と、自然の恵みを受け入れる狩猟採集民の間に、昔からある区別です。この場合、「自然を信じる」とは、創造的な存在である子供の自然な創造力が、生存と豊かさをも与えてくれると確信することです。しかし、それより重要なことがあって、創造性にはリスクが伴い、世界を自由に探求することにもリスクが伴うことです。息子は家に置いておく方が安全です。しかし、なぜ安全と安心が社会の最優先事項になったのでしょうか? 「国土安全保障」があらゆる抑圧的な手段を正当化するために使われることがあり、また実際に使われているように、子供の安全もまた、子供たちが自分の人生を創造し、探求し、方向づける自由に対する制限の正当化に使うことができます。安全を重視するのは生存不安の現れに他ならず、人生の目的は生き延びることだという前提の現れだと見ることができます。この前提から、安全へのこだわりが生まれ、現実をコントロールするテクノロジーの計画全体が生まれるのです。

どうすれば子供たちの安全を守れるのでしょうか? あらゆる危険を排除し管理された環境に閉じ込めるのです。しかしこれは本質的に、お膳立てされ計画されたものではない本物の体験の可能性を奪ってしまいます。計画され、準備され、全ての変数を他者が知っているような体験は、どこか偽物であり、宣伝のための擬似イベントのようなものです。私たちは人生から、特に子供時代から、リスクを排除しようと躍起になっているようです。リスクとは何でしょう? それは未知なるものから来るのです。世界の限界を試すことは、それを私たちが探求するまで未知である以上、本質的にリスクのある行為です。このようにして、私たちは世界との関係において自分が何者であるかを学んでいくのですから、安全、監禁、監督という体制は、事実上、子供たちが自分とは何者なのかを発見することを妨げているのです。それはつまり、子供たちを自己実現から遠ざけているのです。

子供たちをコントロールすることは、自然をコントロールするテクノロジーの計画を二つの点で反映しています。第一に、コントロールによる安全保障という戦略を子供たちに当てはめますが、これは私たちの科学的パラダイムに内在し社会構造の根底にある生存不安から生じたものです。第二に、より印象的なのはこちらの方ですが、子供たちこそが自然なのであり、私たちがコントロールの下に置こうとしている、まさにそのものを象徴しているのです。子供たちの自発性、創造性、遊び心、手に負えない性質こそ、私たちが征服しようとする野生なのです。あるいは、あまり扇動的でない言葉を使うなら、子供たちを「責任ある」「成熟した」家畜のように「おとなしい」大人に育てようとしているということです。そのような人は、安全、快適さ、安心感といった(多くの場合お金に象徴される)合理的な自己利益を犠牲にしてまで、未知の創造的なリスクを冒すような行動を取ることなど滅多にありません。それとぴったり相似するように、私たちは科学を使って未知の宇宙を人間の理解に従属させ、テクノロジーを使って世界を手なずけます。その動機は、成熟した大人に育てようとする動機と同じ、安全、安心、予測可能性です。

子供たちを安全でコントロールされプログラムされた見せかけの生活に服従させることは、高校を卒業しても終わりません。大人になる頃までに、私たちは匿名の他者が用意した人生の消費者となるよう条件づけられ、自分で人生を創り出すことなど無理だし恐ろしいと思うようになっているので、私たちは作られた体験への依存を永遠に続けることになります。他人が創った体験を別の言葉でいうなら娯楽、つまりエンターテインメントです。このようなものが無いとき、自分で創造する力を失ってしまったか、あるいは発達させることができなかった私たちが経験するのは、退屈と呼ばれる不快感です。

前に私が不安理論について述べたとき、退屈をステファン・ビューナーの言う自然からの分断がもたらした「内なる傷」と関連付けましたが、心に開いたその穴の痛みがあまりに強いので、痛みから解放してくれる何かを、気晴らしや娯楽を、私たちはいつも切望しています。同時に、私たちはその穴を埋めようと、有形無形を問わず、どんどん多くの所有物を手に入れます。でもそれは、自分の外側に多くの物を加えることで、内側の空洞を埋めようとする無駄な試みです。魂の資本の喪失という文脈では、心に開いたこの穴は人生そのものに他なりません。私たち自身の人生、私たちが自分で創造できたはずの人生が、テクノロジー社会の求めに従って売り払われたのです。

私の子供時代の地球儀は、すでに現実の生活から一歩離れ、自然という果てしない無限で本物の世界から離れたものでした。すでに、私が探求していたのは作られた世界の表象でした。でも少なくとも、その表象という枠の中での私の体験は、プログラムされていないものでした。想像を通して、私がその地球儀で遊んでいたのです。地球儀が私をもてあそんでいたのではなく、私をそのオペレーター、つまりゲームを最初から最後まで進めるボタン押し係に変えたわけでもありませんでした。

子供が学校で授業をこなし、「教育」内容として規定された情報を消化していくように、ティーボール[訳註]で先生の指示に従おうと右往左往する6歳児の群れのように、私たちは現代生活を送っています。他人によって準備された人生の段階を踏んで、私たちは自分のものでない人生を送ります。全世界をお金に換える最後の段階として、私たちは自分の人生そのものを売り払おうとしているのです。

ここで重要なのはお金ではなくコントロールの方です。人の魂の破壊は主に子供時代に完成の域に達し、死ぬまで続きますが、これは野生を手なずけること、自然を征服すること、テクノロジーと科学の計画を個人のレベルで達成することの、もうひとつの側面でもあります。言い換えれば、人生はコントロールのもとに置かれた、あるいは、そう自分自身を納得させるのです。ではなぜ安全、安心、現実性を重視するのでしょうか? お分かりのように、これらは結局のところ生存の重視ということなのです。繰り返しますが、私たちは人生そのものを売り払い、体験を創り出す代わりに購入し、機械やスケジュール、時計やカレンダーに振り回されているのです。時は金なり、です。

魂の資本をお金に換えること、つまり利益のために人の魂を削ることには、別の側面もあります。人間の一人ひとりは、壮大で、創造的で、自発的な魂として生まれてきます。その魂を、私たちが知っている社会での狭くて無意味な役割のひとつを喜んで占めるようなものに落とし込むこと、今日の世界が提供する(そして私たちの経済が依存している)人生のまがい物を、その魂に受け入れさせることは、巨大な企てであって、恥ずべき犯罪です。子供やティーンエイジャーの頃、金銭化された世界の求めに私たちの魂の大部分が売り払われるとき、私たちは何が起こっているのか本当には理解していません。何かが奪われたことだけは分かります。時おり、運命の偶然によって人間としての能力を完全に持ったまま生き延びた人に出会うと、私たちは驚き、その人に天才というレッテルを貼り、ほとんど人間ではないものとして、そして間違いなく自分たちとは別のカテゴリーに属する存在として片付けてしまいます。そうではなく、そのような人々を、あなた自身の可能性の表れとして、また、一人ひとりの独特な輝きが美しい世界を共に創り出すために貢献する未来を約束するものとして、見ていただきたいのです。そのような可能性は、たとえ無期限に抑えつけることはできても、その火種が消えることは決してないからです。それはあなたの中にも、私の中にもあります。どうすればそれを取り戻せるのかが、本書の後半の主題です。


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訳註:ティーボール(Tボール)とは、まだ投げたボールを打つことができない子供がスタンド(ティー)の上に置かれたボールを打つ野球遊び。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-07/

2008 Charles Eisenstein


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