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魂の資本(前)

訳者コメント:
子育て中の親御さんたちに、ぜひ読んでもらいたい内容です。ここでは子供の世界から(大人もですが)遊びが奪い取られ、オモチャやエンタメとして売り戻される様子が語られます。いまどきのオモチャ屋を覗いてみると、アニメのキャラクター商品をはじめ、既製品のプラスチックのオモチャがあふれています。私が子供だった1970年代のレゴブロックは数種類の四角いブロックだけで成り立っていたのですが、それを組み立ててお城でも車でも動物でも、何でも作って遊んでいました。今のレゴブロックは「宇宙探検セット」のような既成の物語とセットで売られていて、決められた完成形を図に従って組み立てるだけです。今は下火になってしまったプラモデルと、やってることに大差はありません。すぐに飽きてしまう子供を喜ばせるため、次から次へと刺激の強いパステルカラーとマイコン音声のオモチャを買い与えることになります。そういうオモチャはイマジネーションも創造性も育まないとは、しばしば言われることです。じつは、育まないのではなくて、もともと持っていたものが奪われているのです。お金のために。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


4.7 魂の資本

資産に変換され売り払われた「野生」は、物理的・文化的なものだけではありません。私たちは、自分自身の中にある野生、つまり想像力、創造性、集中力、遊び心、自発性に対して同じことをしてきました。私がこのような精神的なものも「資本」と呼ぶのは、確かに生産に役立つ資産であって、富を生み出すものだからです。それらが金融資本に取り込まれ転換される様を描くことで、人類の上昇がいかに人間性を蝕み、私たちを劣った存在にしてきたかを説明します。

それは、かなりの期間にわたって続いている流れであり、その起源は少なくとも農耕まで遡ります。興味深いことに、このような人間の能力の退化はいくつかの古代の精神的伝統に暗示されていて、特筆すべきなのは道教です。おそらくは子供時代の隠れた能力の比喩として理解するのが良いのでしょうが、道教には現代人を遥かに凌ぐ知恵と能力を持った古代の人々に関する記述が数多くあります。ギリシャ神話など、ほぼ全ての神話に登場する「黄金時代」の物語にも、同じような記述があります。

社会資本について論じたとき、私はテクノロジーについて、かつて人々が自分でしていた活動を有償の専門家に委ねるようにする手段であると述べました。かつて自分でやっていたことを他人にやってもらうために、お金を払うのです。この転換の最も深い側面は、資本の一つの形だなどとはおそらく誰も考えたことのない領域にあります。それは想像し、遊ぶ能力です。

私は幸運にも、ビデオゲームやファミコン、ゲームボーイなどが登場する直前に子供時代を経験することができ、理想主義的な両親によって、少なくともテレビの害の一部からは守られていました。自分の部屋でぬいぐるみや石ころのコレクションなどの玩具おもちゃと何時間でも過ごし、それをもとに手の込んだ物語を紡いでいたことを覚えています。その一つ一つに人格を与え、それぞれが私の頭の中だけ、あるいは兄弟や遊び仲間の中に存在する想像の世界の登場人物となりました。現在、様々な世界やそこに登場する人物を思い描くというこの創造性あふれる活動は、テレビスタジオやソフトウェア開発会社の遠く離れた大人たちに引き渡され、テレビ番組やビデオゲームという既製の世界や登場人物を子供たちに与えています。人間の心の能力が、利益のために個人から奪い取られたのです。

そして、このような営利目的の世界は、子供の心が自発的に創り出す世界に比べたら、何と粗末な代用品でしょうか! そのほとんどは暴力によって問題を解決する善と悪の二項対立の世界で、細部やニュアンスが欠落し、世界の他の部分から切り離されています。さらに悪いことに、それらは(子供の心と違って)有限で、物語の媒体によって制約されています。そのため、無意識のさまざまな要素を発揮して伸ばそうとする子供の心の自由を制限してしまいます。

子供の遊びが人生の練習だとするなら、テレビは子供たちを受動的な消費者に育てます。ビデオゲームが条件付けるのは、無意味な報酬(ポイント)の獲得、無個性な敵の破壊、そして、遠くにいる他者(つまり私たちの人生をプログラムする者たち)が決めた選択肢を受け入れることです。

子供時代に自分で世界を創造する機会を奪われた大人は、他人が作った物語に対して弱いままになります。いつもエンターテインメント市場にいるというだけでなく、特定の物語を受け入れさせて利益を得ようとする政治家や広告主に簡単に操られてしまいます。そのような大人は、能動的な市民ではなく、従順な家来となりますが、それは自分で世界を創り出す練習をしてこなかったからです。箱の中の無意味な選択で満足するのです。彼らが受動的で周囲の力に左右されるのは、ニュートンの質量体が物理の決定論的な力に従って動くのと同じです。ニュートンの世界観に暗黙のうちに含まれている経済学が作り出した人間には、自律性や自由意志が無く、死んだ物質が非人間的な力によって動かされるという機械論的な概念を固く信じます。宇宙論が、私たち自身に投影されているのです。

箱の中の無意味な選択。ビデオゲームやテレビについて、これ以上に相応ふさわしい表現があるでしょうか?

子供たちがビデオゲームで「遊んでいる」と言いますが、それは遊びの対象というより遊びの代用品であり、私たちの文化から遊びが消えていくほんの一端にすぎません。本来の遊びは創造的な活動です。子供に積み木を与えれば、トラックや街、森、動物園になります。何人かの子供たちを一緒にすれば、手に入るなら物でも考えでも何でも取り入れて、イマジネーションの世界を創り出します。子供たちが創り出すいくつもの遊びの世界が合わさって成り立つ「子供の王国」は、成長して力をもった大人が良い人生を築き、美しい世界に貢献するための、創造的な作業の練習なのです。私たちは創造的な存在であるべきで、与えられた人生をただ生き延びるだけの存在なはずがありません。ジョセフ・チルトン・ピアースは、「子供にとって、現実とは自分が作り出すものだ」と書いています[28]。大人にも当てはまる可能性はありますが、子供の頃に経験したことがなければ、その可能性は低いです。

残念なことに、私たちが子供たちに与えている玩具おもちゃや活動は、自分たちの王国を築く自由をほとんど与えません。子供時代は、現代経済から与えられる生活で満足するよう人間の精神を破壊する過程となりました。あるいは満足しないとしても、それ以外のことを想像することができないように、想像できたとしても、別の人生を創り出す能力を信じないようにします。それゆえ現代生活は私たちを麻痺させ、打ちのめし、絶望させるのです。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか?

まず、この50年間で子供たちの手に入る玩具おもちゃの数と種類は激増し、プラスチックのガラクタの山また山となり、子供たちがイマジネーションと創造性を働かせて世の中のありふれたものを玩具に変える必要性が薄れてしまいました。ジョセフ・チルトン・ピアースはこう語ります。「現代の幼児は、母親がクッキーを作っているのを見て自分も参加したいと望めば、ビンの蓋や棒や土を使って原始人のようにする必要はない。その子がおそらく持っているのは、電池で動く電化製品を備えた完璧なミニチュア・スケールのキッチンだ。[29]」イマジネーションはほとんど必要ありません。

さらに悪いことに、現代の玩具は子供の心の中でしか生命を宿すことのできない受動的な遊びの対象ではなく、エレクトロニクスで命を吹き込んであります。「玩具」が主導権を握り、子供は受動的な役割を引き受けます。ほとんどのビデオゲームでは、子供がストーリーを作るのではなく、作られたストーリーの中を進んでいきます。(ああ、いかにも現代の大人の生活です!)『ポケモン・ゲームボーイ』のように、探検の余地があるとしても、それは現実の世界とは違ってプログラムされた有限のものです。世界は有限であり、その限界は誰かが決めたものです。そこに謎があるとすれば、捏造され仕込まれたものだけです。

私は子供の頃、地球儀と何時間でも過ごし、指で山脈をなぞったり、海をたどったり、いろいろな国の物語を作ったり、大きさや緯度を比べたりしていたのを覚えています。今のおもちゃの地球儀は、マイコンチップと録音された音声を搭載し、子どもは「情報」を受動的に吸収するだけにされてしまいます。いま市場に出回っている大量のマイコン玩具の広告やパッケージは、それらを「教育的」であると喧伝し、まるで教育とは事実の習得であるかのようです。今の子供たちにとって、「何もしてくれない」玩具では面白くないようです。そこにただあるだけで、子供が何をするかに左右されるような玩具は、つまらないのです。

しかし実際に起きたのは、子供の想像力が枯れてしまったということです。自分の代わりに遊んでくれる玩具を持ったことのない子どもは、退屈することがほとんどありません。退屈とは、じつは現代の電子玩具、ゲーム、メディアが提供する、果てしなく強まる官能刺激への中毒からくる、一種の禁断症状なのです[30]。テレビ番組が終わっちゃった、退屈だな。ゲームボーイで遊ぼう。もう飽きたよ、退屈だな。クッキーでも食べよう。もうお腹いっぱいだし、退屈だな。こうして次々に、ある刺激から別の刺激へと移ることで、心は刺激に対する耐性をどんどん高めていきます。ですから摂取量を増やさなければなりません。ビデオゲームはエキサイティングに、テレビはテンポを速くドラマチックに。こうして、映画やテレビ番組はここ数十年で、ますますテンポが速くなり、編集はより速く、シーンはより短く、特殊効果はよりドラマチックになりました。昔の映画って退屈ですよね?

退屈は心が治癒するプロセスの始まりです。他の禁断症状と同じように、苦痛ですが、すぐに人の心に潜在する未開発の能力が姿を現し始めます。自然の中での瞑想や沈黙、そこに独りでいることが与えてくれる恩恵について長々と議論をするまでもなく、創造性の原材料や創造性のモデルを与え、創造のプロセスを個人に任せるような状況からは、子供も大人も同じように恩恵を受けるというだけで十分でしょう。

これは人々が学ぶ方法でもあります。学ぶ能力は、お金マシーンの材料となった魂の資本の、もう一つの形です。

退屈が現代社会の特徴である理由はもう一つあります。それは、本物の体験に対する渇望を表しているのです。消費経済はこの飢餓感を利用して、私たちに人工的な体験を売りつけ、その種類と強烈さをどんどんエスカレートさせます。テレビやビデオゲームが魅力的なのは、体験への飢餓感を(一時的に)和らげてくれるからですが、同時に現実から引き離す主な要因でもあります。現実の生活よりもずっと派手で、劇的で、騒々しいので、それに比べると現実の生活は退屈になります。子供は電子娯楽が繰り出す極端な刺激に順応するあまり、繊細な感覚への感受性を失ってしまいます。また、電子娯楽における刺激の連発はあまりに急速なので、子供の注意力は低下し、辛抱強く息の長い観察ができないほどになってしまいます。視聴者の注意を引くために、テレビ番組制作者は数秒ごとに「技術的イベント」、つまりズーム、場面転換、新しい被写体をコンテンツに挿入し、神経学でいう定位反応[顔をそちらに向ける反応]を引き出します。これは「驚愕反応」とも呼ばれますが、慣れに影響されるので時間とともに強さを増すことが必要で、視覚効果はますます激しく派手で劇的で衝撃的になっていきます。現実が退屈なのも無理はありません。現代の退屈しきって疲れ果てたティーンエイジャーと、第2章で述べたピラハ族を比べてみましょう。彼らは、船が遠くからゆっくりと現れ、水平線の向こうに消えていくのを、魅了されたように眺めています。現在の商業娯楽が体現しているのは、自然のゆるやかで微妙なプロセスに対する私たちの驚きそのものを売り渡してしまったことです。殻を割って出てこようとしているヒヨコなんて、30分ごとに宇宙の命運がかかるアニメのドラマに比べたら、どうってことはないでしょう。

私が忘れられないのは、妻と子供たちと一緒にメリーランド州ボルチモアの水族館に行ったときのことです。はしゃぎ回る子供たちを引っ張って次から次へと展示を回る親たちでごった返していましたが、ほとんどの子供たちは魚を見ることに興味などありませんでした。ほんの数秒も見たかと思えば、親の服を引っ張って走り去ります。サメでさえ、長く注意を引きつけることはありませんでした。そしてある水槽で、大人も子供も大合唱のように『ファインディング・ニモ』のことを言う声がしました。ここにきて、ようやく子供たちの関心が高まったのですが、それは映画から来たものでした。どうやらその魚の一匹が、サンゴ礁が舞台の子供向け人気映画の登場人物と同じだったようです。この物語に登場する魚は本物そっくりの3Dアニメーションで描かれていて、その映画の出来事は水槽で見るよりずっとエキサイティングで刺激的だったのは間違いありません。子供たちが退屈するのも当然です。現実は退屈なのです。

私の水族館での体験は、ある深い現象を物語っています。体験、つまり人生が、消費財に変えられていくのです。これが魂の資本から金融資本への最終的な変換だといえるのは、存在すること、つまり生きるという体験そのものに、お金がかかることを意味するからです。有償の専門家、たいていは巨大組織で働く見ず知らずの人たちが、私たちの体験する人生を作り出しているのです。もちろん、まだそこまでの極端には至っていませんが、考えて下さい。かつては子供たちが森や湖や草原に出かけて自然を体験していましたが、今ではその体験は水族館や自然番組という形でパッケージ化され、売られているのです。この流れによって、自然は人生の一部から見世物へと作り変えられるとともに、私たちは自分の体験を提供してくれる他人を頼るようになります。またひとつ人生の領域で、私たちは消費者になったのです。

後半につづく

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注:
[28] ジョセフ・チルトン・ピアース[Pearce, Joseph Chilton,] Evolution’s End(進化の終焉)
[29] 同.
[30] 絶え間ない刺激に対する心の渇望を体験するには、スーパーマーケットのレジに立って、タブロイド紙の見出し、雑誌、商品、その他の写真や文字に注意を飛ばさないでいられるか試してみることをお勧めする。簡単ではないないはずだ。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-07/

2008 Charles Eisenstein


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