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匿名性という力

(お読み下さい:訳者からのお知らせ


4.3 匿名性という力

金銭化された人生が孤独なのは、私たちの人生に関わる人々を匿名の役割分担者へと落とし込むからであり、お金のやり取りはその性質上、恩義(obligation)を一般的に伴わないからです。お金が支払われ商品が引き渡されれば、取引は終了です。将来の関係に結びつくものはありません。これで各当事者の義理は解消します。

経済的安定を得た状態とは、全ての義理を帳消しにするだけのお金があり、誰かの好意や贈り物ギフトに頼る必要がないということです。それが意味するのは、私たちに義理は無い、つまり誰にも依存していないということです。しかし恩義を別の言葉で言えば「絆」です。実際、「恩を着せる(obligate)」という言葉には、誰かに縛りをかけるという意味があります(obはonつまり繋がって、ligateは結ぶという意味)。お金のやり取りが完了すれば、取引相手との間に残る結びつきはほとんどありません。経済的な安定を享受している人は、他人との人間関係に頼る必要が全くありません。何か頼み事をしてもらうのに誰の好意も必要としません。あなたにお金を払ってサービスを提供してもらえば良いのです。よろしく頼むよ、と。経済的な安定とは、誰であれ個人の善意に依存しないことを意味します。あなたの食料を育てる農家があなたを気に入らないと判断しても、だいじょうぶ、他の農家にお金を払って栽培してもらえばいいのです。

贈り物ギフトのやり取りは全く異なり、終わりがなく個人的なものです。取引は完結せず、贈り手と受け手の間には恩義、つまり絆が残ります。贈り物をすることが社会的な関係を生み出し、あるいは再確認するので、贈り手と受け手を結び付けます。贈り物は通常その後の贈り物につながり、お返しかもしれませんし、恩を送った先の誰かに対するものかもしれません。さらに、贈り物にはふつう標準的な価値がなく、その価値は贈り手と受け手の固有な関係性に依存し、それが両者の関係を強化します。実際それが、そもそも私たちにとって贈り物をする主な理由の一つです。受け手との絆を強め、その結果、自立の度合いを弱めるのです。お金はその反対です。お金は、スーパーマーケットやウォルマート、あるいはオンラインで買い物をするときなど、見知らぬ人との間で取引を行うのに適していて、お金がその人を他人以上の存在にすることはありません。誰が払おうとお金は同じ価値があり、人間関係を作り出したり必要としたりすることはありません。実際、お金の問題は人間関係を複雑にしたり壊したりすることが多いものです。

経済学と常識は、お金を利己心と結びつけて考えます。ならば、金銭取引とは全く対照的な贈与取引が、異なる自己意識を生み出し、何が自己の利益なのかについて異なる認識を生み出すのも当然です。贈与を基盤とする社会では、贈与によって生まれる絆はふつう二人の間にとどまらず、部族や村の全体を巻き込みます。ルイス・ハイドは、その古典『ギフト』の中で、贈り物は輪になって動き、その輪が外へと広がるにつれて、自己の感覚もまた贈与のネットワーク全体を含むように広がっていくと観察しています。「堅固な自我エゴには美徳もあるが、私たちはある時点で自我を緩やかに拡張することを求めるようになり…、そこで自我は世界と持ちつ持たれつの関係を享受しながら、最終的に成熟して放棄されるのだ。[2]」反対に、商品交換が贈与のネットワークに取って代わるプロセスは、自己が孤独で疎外された自我エゴへと狭められていくことに対応します。

地域社会における贈与の関係が金銭取引に取って代わられると、地域社会の構造は解体します。原始社会の親密なコミュニティは、複雑な贈与の習慣に支えられていました。実際、反主流の元・金融投資家、ベルナルド・リエターは、日本社会が現代経済によるコミュニティ破壊の影響に抵抗してきた理由として、いまだに残っている贈答の習慣を挙げています。贈与から共同体が生まれる(また、その逆ではない)と結論するにはおそらく根拠が足りないでしょうが、リエターによるコミュニティーの定義は明解で、「互いの贈り物に敬意を払い、自分の贈り物がいつか何らかの形で報われると信じることのできる人々の集まり」というものです。このような信頼がない場合、自己の利益とは資源の蓄積と支配であり、それこそが貨幣経済における自己利益なのです。

狩猟採集民のギフト精神は親類縁者にとどまらず環境全体にまで及び、必要を満たしてくれるという信頼もまた環境全体に及ぶものでした。人間によるものであれ、自然によるものであれ、贈り物ギフトは巡り巡って贈り主を豊かにするのです。それゆえ、狩猟採集民は財産を蓄積することに関心がありませんでした。ギフトの領分で、蓄積は無意味なのです。

こうした状況は農耕への移行とともに一変しました。農耕は、自然をより生産的な生物種の組み合わせに作り変えるため労働力の投入を必要とし、奪うという精神構造を育みますが、それは代償もなく提供された贈り物を単に受け取るのとは違います。この心理的な移行は徐々に進んでいきました。私たちは今でも「大地の賜物たまもの」という言葉を口にしますが、贈り主に手出しする必要があるなら、それを真の贈り物と言えるでしょうか? さらに、農耕のサイクルには蓄積と貯蔵の段階があり、これは農家の安全保障に不可欠なものです。最も裕福な農家は、最も多くの穀物を蓄えている農家です。農耕社会で最も偉大な領主は、最大の生産的資産を支配する者です。ギフト精神が長い時間をかけてゆっくりと廃れていったことは、文明とともに生じた考え方の変化と密接に関係しています。お金はこの変化の現れですが、その最も深い原因ではありません。それは、自己の分断が必然的に伴う欠乏に基づいた、蓄積という考えを強化するだけです。

希少性という前提は経済学の根底にあって、交換が起きるのは、ある人に「ニーズ」や「不足」があって、それを自分で満たすことが難しいか不可能だけれど、他の人なら簡単に満たすことができるという場合です。狩猟採集民にはそのようなニーズが実質的に皆無で、自給的な農耕民にもほとんどありません。したがって、経済成長が映し出しているのは困窮の激化であり、欠乏状態の増大だと見ることができます。現在、物質的な便利さや贅沢さはかつてないほど氾濫しているにもかかわらず、私たちは絶望的な不足の中にあります。その言葉を思い浮かべてください。不足、必要、欲しい、欲しい、欲しい。常に欲しいものがある状態こそが貧困の定義なのであって、それは口座残高や家がどんなに大きかろうと関係ありません。この尺度からすれば、私たちの社会はおそらく歴史上で最も貧しい社会なのです。

貨幣経済の攻撃によるコミュニティーの崩壊は、貨幣が伝統的な互恵関係に取って代わった所ならどこでも起きたことが、文書で十分に裏付けられています。ヘレナ・ノーバーグ=ホッジは著書『懐かしい未来』で、この過程を特に明確に説明しています。彼女はヒマラヤのラダック地方における金銭化の影響について述べています。そこでは何世代も前から隣人どうしで労働力を交換する習慣があったので、農民は時期を逃さず作物を収穫でき、そのための人を雇う必要もありませんでした。労働力が商品となり人々が生きるため金銭に依存するようになると、この習慣は消えていきました。農民は雇った労働者を使わなければならず、ますます貨幣経済に引き込まれ、農作物の販売に依存するようになり、そのため国際商品市場の変動を受けやすくなりました。

金銭化された世界で、経済的な安全が確保されると誰もが他の誰からも切り離されるのとは対照的に、贈与ギフト経済は義務と依存の経済です。経済的な安定は真の自立ではなく、見知らぬ人への依存に過ぎず、あなたが生きていくために必要なことを、お金を払ってやってもらっているだけです。見知らぬ人を頼るのと、知り合いを頼るのと、どちらがいいですか? まあ、それはあなたが知り合いをどう扱うかによるでしょう。こうして、金銭化された生活は人々が社会的・倫理的な規範を守る動機をいくらか奪ってしまうのです。コミュニティーの解体はお金のシステムに組み込まれています。生活の金銭化はコミュニティを解体し、コミュニティの解体は生活のさらなる金銭化を必然的に招きます。

お金がもつ引き離しと匿名化の影響で、私たちが経済的に依存する人々が友人である可能性は低くなります。一方で、私たちの付き合う仲間や友だちが果たしている専門的な職務は、ふつう私たちの生活と直接的には関係していません。仕事と付き合いは別なのです。誰かと経済的な関係を持つことは、実際それが可能な場合でさえ、悪趣味であり友好関係を脅かすと見なされることが多いのです。ある仮想の友だちグループを例に考えてみましょう。顔ぶれは、ソフトウェア技術者、大学教授、足専門医、弁護士、不動産業者、保険代理人、芸術家です。これらの人々は付き合い以外の必要を満たすため互いに依存しているわけではありません。弁護士が芸術家から芸術品を買う必要はありません。不動産業者は他の足専門医のところに簡単に行けます。技術者の子供たちは、おそらく教授から教育を受けることはないでしょう。彼らは隔週で集まって夕食を共にします。フットボールを観戦したり、ピクニックに出かけたりすることもあります。典型的な友だちグループです。彼らは仲良くやっているし、仲良くやれない理由はありませんが、それは利害の対立が生じるような機会が全く無いからです。

利害の対立が生まれるとしたら、例えば、足専門医が法的問題を抱え友人の弁護士を選ぶとか、芸術家が家を買おうとしてその不動産屋を選ぶとか、教授がその保険代理人を使って保険に加入する場合などです。突然、物事は微妙に気まずくなります。人々はお金のことになると「私は付け込まれているのではないか」と考え始めます。芸術家は不動産屋が家を売りたいあまり彼女を「顧客のように」扱っているように感じます。足専門医は友人の弁護士が請求する高額な報酬のことを密かに憤慨しています。教授はひょっとしたら保険を掛け過ぎているのではないかと考えます。友だちとビジネスは分けて考えた方がずっと簡単です。実際、多くの人々はこの二つを混同しないことを鉄則としています。弁護士、医者、保険代理人などとの関係は全て純粋に「職業上」のものに留めます。友情を維持する秘訣は、少なくとも経済の領域では、互いに完全に独立した立場を保つことだとも思えるでしょう。

かつて私たちは物質的に依存している人々と密接につながっていた一方、いま私たちの経済的な関係は社会的関係からますます切り離されていて、極端な話、お金の問題で友情が壊れることはよくあります。私たちの友だちとの経済的な絆がなくなったら、代わりの誰かにお金を払わなければならなりません。さて誰に払うのでしょう? もし私たちが「合理的」であれば、同じサービスに対して最も安い価格を提示した者なら誰でもいいのです。製品やサービスが標準化された商品になると、価格が差別化の唯一の根拠となります。競争は非人格化の裏返しです。私たちは互いに競争するよう仕向けられていますが、それが必ずしも人間の本性だからというわけではなく、むしろ至る所にあるお金の圧力が、それ以外の選択の根拠を無くしてしまうからです。

お金は露骨に非友好的な圧力への扉を開きます。あなたの合理的な自己利益を最大にするのは、あまり良いことではありません。しかし、それが現在の貨幣制度が私たちに強いるものなのです。そう、友情にお金を持ち込まないのは良いことです。唯一の問題は、人生の全てがお金に変換されたとき、私たちは人生の全てを友情からも締め出さなければならないということで、私たちに残るのは表面的なものだけです。魂のニーズである友情と物質的なニーズである経済関係をこのように分離することは、デカルト的な精神と物質の分断を反映しています。物質的な相互依存関係を欠く友情は、現実世界から切り離された霊的次元スピリチュアリティと同じくらい、無力で表面的なものです。

お喋りばかりしている友人関係も楽しいとは思いますが、人当たりの良さや、パーティー、食事、お喋りはコミュニティの基盤にはなりません。本物のコミュニティでは、人々は互いに依存し合っています。彼らが仲良くせざるを得ないのは、お互いを必要としているからです。彼らはお互いの欠点を受け入れることを学ばなければなりません。受け入れることは、一人ひとりが生きていく上で非常に重要です。これと対照的なのが、ほとんどのいわゆる「オンライン・コミュニティ」で、コミュニティを抜けるのは削除キーを押すのと同じくらい簡単です。

かつてなら、共同創造の必要性と相互依存が友情を強固なものにし、共通の目的のために、自分自身よりも大きなものの一部となる機会を十分に与えてくれました。例えば小さな農村では、隣人や親戚が収穫を助け合っていました。納屋や家を建てるような、一家族でやるには大きすぎる作業の多くで、彼らは互いに助け合いました。病気や喪中、結婚式などの時に、お互いの動物の世話をしました。彼らはまた、娯楽、音楽、物語などの文化について、個人的に知っている人たちを互いに頼りにしており、彼らは単なる消費者ではなく、共同制作者でした。時には彼らの生存そのものが協力にかかっていることもありました。

だからこそ、かつては地域社会から仲間外れにされることが非常に深刻な問題だったのです。土地の医者、土地の八百屋、土地の織物屋、土地の鍛冶屋に断られたなら、「他の誰かにお金を払ってやってもらう」というわけにはいきませんでした。別の土地に引っ越すのは一大事で、それは新しいコミュニティの一員になる必要があるからでした。現在では他の地域へ移住するために暮らし方を変える必要はほとんどありません。どこへ行こうとも同じフランチャイズ店で生活必需品(と贅沢品)を調達できます。必要なのはお金だけです。誰とも仲良くする必要はないし、この匿名の力のおかげで、人を名前で知っている必要さえありません。

物質的な相互依存の他に、古代社会で追放が最悪の罰の一つであった理由がもう一つあります。私たちが生存のため社会的関係に依存していたというわけではありません。狩猟採集民や原始的な農耕民は、集団での分かち合いや互恵関係がなければ生活は厳しくなるでしょうが、一般的に自力でもかなり生き延びることができます。むしろ、アイデンティティの感覚、つまり「自分は何者か」という問いに対する答えが、社会の網目の中での自分の立ち位置から導き出されるものだったからです。第一に、私たちは親族の絆によって定義され、第二に、自分の技術や経験や職業によって定義されました。私は何者でしょうか? 私はジョンの兄であり、ジミの父であり、ローラの叔父であり、キャシーの従兄弟いとこであり、ダナの義理の兄でもあります。伝統的な社会では、一人一人が認識する親族のネットワークは、何百人もの顔なじみへと広がり、持ちつ持たれつの習慣や祖父や曾祖母の話によって結ばれ、遥かな伝説や神話の時代にまで繋がっていました。村や部族から追放されることは、アイデンティティを奪われることであり、おそらく死よりも悪い運命だったのです。

現在のアメリカではコミュニティだけでなく拡大家族さえも現実味のある社会的単位としては崩壊しています。核家族が原則であり、父親と母親が別居している場合も多くあります。祖父母や叔父、従兄弟いとこはたまに訪れる程度で、従兄弟や兄弟姉妹にさえ何年も会わない大人も多くいます。移動の多い現代では、新しい仕事に就くため大陸を横断することなど何でもありません。肉親、学校、職場以外で私たちが毎日目にする顔は、見知らぬ人の顔です。そして私たちが知っている顔の中で、本当に親密で私たちの人生の物語をよく知っているのは、家族だけです。

その結果、私たちは強い自己アイデンティティを確立する手段を失っています。私たちの物語を知る者は誰もいません。人間は常に、大部分は他者との関係を通じて自分自身を定義し、一人ひとりの当事者を定義する共通の物語を構築してきました。今、これらの物語は4人という小さな単位に引き裂かれ(ちょっと誇張が入っていますが)、それは強固な自己定義に必要な限界を下回っています。伝統的な小さい村や部族では、誰もがあなたの物語を知っていましたし、他人の物語を知ることで自己の確固たる物語を作れる文脈がありましたが、今の私たちは来る日も来る日も外の人間と交わっています。私たちは私的な生活をきっちり保ち、同僚、顧客、生徒、教師、隣人など、家の外の人々の生活についてはほとんど知りません。

お金に基づく人間関係の台頭と共に、私的な領域は近代史を通じ加速度的に拡大してきました。社会に私的な領域は常にあり、ある一定の親密さの基準がありましたが、そこでは愛の営み、出産、排便のような、ある種の活動は社会の大半から隠され、その他の活動は完全におおやけにされていました。今日、私たちはほぼ全ての人生を家という私的な箱の中に閉じ込めていますが、その大きさが1950年代から倍増したのも偶然ではなく、私的領域の急成長が文字通り物理的に現れたものです。

アイデンティティの喪失に加え、現代社会の箱の中で起きる物理的・社会的孤立は、ほとんどどこにでもある孤独と退屈を助長しています。郊外住宅地のおりの中に隔離されている孤独な主婦は、私たちの断絶した生活の象徴で、専門的な役割の壁と郊外という都市構造によって隔絶され、お金という非人間的な媒体を通して他の人々の生活と交わるのです。

〈機械〉の経済学がもたらした社会の断片化は、とてつもないビジネスチャンスをもたらします。部族や村、氏族や拡大家族が崩壊したとき、その結果生じる感情の空白は、代わりの人間関係を求める需要を生み出します。孤立から生まれる自己アイデンティティの弱さのため、私たちは消費主義に対して極めてもろくなり、所有するものによって自分が何者であるかを定義しようとします。私たちは、自分自身を定義しようとするものをスニーカーに求め(“Be like Mike[マイケル・ジョーダンのようになろう]”というナイキの広告がありました)、車や家や時計や服やスポーツチームに求めようとする誘惑に駆られます。もっと気付きにくいのは、かつて私たちが身を置いていた親族や共同体の物語が失われた結果、それに代わる新たな物語を探し求めるようになったことです。「家族の物語」の痕跡がいくらか残ってはいるものの、物語を語るという活動はまたしても遠くの専門家によって奪われてしまいました。その一つはテレビと映画の制作者であり、もう一つは報道機関と学校です。これらの制度が私たちに与えるのが、「私は何者か」という問いに答える新たな物語です。芸能界は全く見知らぬ他人の話を私たちに聞かせてくれます。テレビの連続ドラマは人々の生活を熟知しているかのような錯覚を私たちに与えます。このような番組は先天的に備わる精神のアイデンティティ形成機能を利用したものですが、テレビの世界で親密に映し出された私生活が私たちの生活に反映されることが決してないなら、その機能はひどく不完全なものになります。

その一方で、「私たちはどこから来たのか」「私たちはなぜここにいるのか」という大きな物語も、同じように専門化されてきました。神話と伝説の代わりに歴史と報道があって、それらが政治・経済的な目的のために付け込むのは、私たちに自己認識の根拠となる「国民の物語」が欠けていることです。最悪の場合、人々は自分自身を定義する物語を求めるあまり、人種的あるいは国家的な優越主義を採ることになり、それが前世紀のおぞましい歴史の根底をなしていました。

土地の親族を基盤とするコミュニティにしっかりと根を下ろした人々が、消費主義にもファシズムにも影響されにくいのは、そのどちらもが自己アイデンティティの欠乏を訴求力の根拠としているからです。したがって、それまで孤立していた文化に消費主義を導入するには、まずそのアイデンティティの感覚を破壊する必要があるのです。これがその方法です。外部から消費財を導入して互恵関係のネットワークを破壊せよ。魅惑的な西洋のイメージで自尊心をげ。布教活動と科学教育で神話をいやしめよ。外部のカリキュラムを使う学校教育を導入して土着の知識を受け継ぐ伝統的な方法を解体せよ。その学校では英語などの国家言語や国際言語で教育して土着の言語を破壊せよ。安い食料を輸入し地域農業が成り立たぬようにして土地との繋がりを切り捨てよ。そうすれば正しいスニーカーを渇望する人民を作り出せるのだ。

贈与ギフトに基づく社会から、物々交換、商品通貨、貴金属通貨を経て、現在の金融システムへと移行していくには、所によっては何千年もかかった一方、突然に導入された場合もあります。その流れは現在に至るまで続いています。私たち人間の能力、技能、人間関係、文化のますます多くが、所有権の対象に、ひいてはお金の対象になりつつあります。私たちは今、壮大な歴史的過程の集大成に近づいています。その中で金融資本へと変換されていく様々な富は、以前は売買や所有の対象ではなかったものであり、これまでお金とは縁のなかったものであり、共同体や社会が共有するもの、つまり共有財でした。それらが金銭化されるにつれて、匿名、欠乏、疎外といったお金に関連する性質が、贈与ギフトの力学がまだ残っている人間存在の領域をますます深く侵食していきます。

こうした他の形の富を社会資本と呼ぶことがあります。私は、これをさらに社会資本、文化資本、魂の資本、自然資本へと区別するのが有益なことを見出しました。非貨幣資本をこれらの4種類に区別することは、いささか人為的ではありますが、生命をお金に変換する流れがどれほど深くに達しているかを理解する上で、私にとって有益なものでした。私がこれらの新しい用語を導入するのは、しばしば認識されることのない私たちの貧困化の様相へと迫るのに役立つからです。

これらの富の変換の背後にある物語と、変換がもたらした影響は、所有の本質、貨幣の本質、そしてそれに付随する自己と世界に対する根本的な理解に光を当てます。世界中のコミュニティーの崩壊、見知らぬ人々で埋め尽くされた近所づきあい、現代社会の孤独と匿名性、拡大家族の終焉、地球生態系の荒廃、子供たちの注意力の低下…、これらは全て私たちのお金のシステムから生じています。そしてお金は、匿名化を推し進める巨大な力であって、私たちの自己意識にさらに深い根を持っています。贈与ギフトからお金へ、与えることから蓄えることへの長い移行は、私たちの自己定義そのものに書き込まれています。私たちの自己定義とそれが形になったお金が一体となり、私たちの社会と環境を厄災やくさいに向けて急速に突き進めるパターンを作り上げているのです。


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注:
[2] ルイス・ハイド [Hyde, Lewis.] The Gift. Vintage Books, New York, 1979. p. 17.


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-03/

2008 Charles Eisenstein


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