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社会の資本(前)


訳者コメント:
農耕が農業者の職業となり、調理は加工食品という商品となって、どちらもお金と交換するようになった結果、私たちは自分で食物を作る方法を忘れてしまいました。食事は人と人との絆を作る親密な活動だったのに、それが売り買いの対象になり、私たちは「消費者」になりました。そして絆そのものも売り買いの対象になっていきます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


4.4 社会の資本

社会資本とは、生活を支え豊かにする人間関係の総体です。物理的なレベルでの社会資本は、衣食住を提供し合い、子供や老人、病弱者の世話をするなど、生命維持のための関係から成り立っています。あまり形のないものとしては、コミュニティー、友情、楽しみ、教育、帰属意識のような富があります。これらが一体となって文化的遺産を構成し、学んだ技術や習慣、人とのつながりという形で世代から世代へと受け継がれていく宝物となります。その中には前節で取り上げた「絆」もあります。

社会資本をお金に変える方法はたくさんあります。最も古く原始的で、ありふれた例から始めましょう。それは食であり、より正確には食物の生産、加工、調理を含んで、私たちがお互いを養い合う関係のことです。

産業革命より前から、一次食料生産に従事する人口の割合は着実に低下し、現在のアメリカでは1~2%にまでなっています。この統計の標準的な解釈は、テクノロジーや〈規模の経済〉などによって、私たちは食料生産という重労働から解放され、ほとんどの人が「農家にならないことを選べるようになった」というものです。そこには副作用があって、私たちは食料を自分で生産しないことを選んだだけでなく、その方法を忘れてしまったのです。かつては誰でも持っている技能で、お金が絡むことなどほとんどなかったのに、今では遠くの専門家にお金を払ってやってもらうようになりました。

同じことが食品加工にも起き、巨大な工場と国際的な流通が、かつて家庭や地域で行われていたことに取って代わりました。社会資本を金融資本へと変える締めくくりとして、いまや食料生産の最終段階、調理や料理さえも、私たちの一般的な能力の範囲から消え去り、遠く離れた専門家の手に渡りつつあります[3]。今アメリカでは食事全ての半分から3分の2が家庭外で調理され、レストランで食べるか、スーパーのデリカテッセン(惣菜売場)から持ち帰りしています[4]。家庭で調理される食事でさえ、高度に加工済みの食材から作られることが多く、実際に料理をするときは、既製品のミックスやソース、缶詰のスープなどを利用して、料理の最終段階だけを行います。パイ生地を自分で作る人、フライドポテトを自分で揚げる人、パンを自分で焼く人、野菜のピクルスを自分で作る人、スープの素を自分で作る人が今どれだけいるでしょうか? こうした技術はだんだんと工業化され、一般家庭から失われていきました。基本的に私たちは食べ物を調理する能力を売り払い、この社会資本を金融資本に、つまりお金に変えてしまったのです。

失われたのは何でしょうか? 技術やコツよりも重要なのは、かつて食を中心に巡っていた人間関係です。他人に食べ物を与えることは親密な行為であり、強い絆を生み出す原始的なはぐくみの現れです。動物や見知らぬ人と親しくなる最も古い方法は、彼らに食事を差し出すことです。親密な行為を日常的に売買することに、何か醜いもの、いやらしいものが見えはしないでしょうか? 単なるサービスに変われば、他の命を養うという行為はその効力を失い、人間関係の最も重要な発生源が機能を停止します。

他の人間を思いやって親密な絆を築くための原始的で物理的な手段の多くも、同じ運命をたどりました。かつて衣食住や医療を中心に巡っていた技術や人間関係は解体され、遠隔地にある機械とその匿名の構成員が遂行するサービスの数々へと変えられました。自給自足や個人的な互恵関係の領域から外されると、これらの活動は売買の対象となり、個人的な関係ではなく無個性で一般的な商品となります。それらがお金に変えられるにつれ、お金の力学がますます私たちの生活を支配するようになり、私たちは人間関係の実質的な基盤を失っていきます。生活費は上がり、お金への依存度は高まり、地域の人々や地域の生態系との繋がりは衰え、私たちはますます金銭化された領域で生きるようになります。

今では想像するのも難しいですが、かつては食料をお金で買うことのほとんどない時代があって、典型的な農民は貨幣経済に全く属していませんでした。世界では20世紀後半までそのような状態が続く地域がありましたが、一部の田舎では今も当てはまるかもしれません。お金がなくても、衣食住、医療、娯楽を十分に享受できるのです。そのような社会はとてつもないビジネスチャンスを意味しますが、それは社会資本を鉱物の富と同じように採掘し運び出すことができるからです。その仕組みはこうです。非金銭的な社会関係が依然として優勢な地域では、生活費が非常に安いでしょう。一般的な賃金は低く、衣食住のコストも低いでしょう。「開発」と呼ばれる一連の変化の中で、現地では手に入らないもの、お金でしか買えない消費財を導入することで、それまであったお金によらない互恵関係の網の目を破壊します。その一方で、工場などの施設を作り、非貨幣経済から人々を排除して賃金を稼ぐように仕向けます。前者を「市場開放」、後者を「投資」と呼びますが、この企てに対する抵抗は「保護主義」と呼ばれ、先進国(つまり社会資本がほとんど枯渇している国)は、どんな手段を使ってでもそれを潰そうとします。この過程は人々が「正しいスニーカーを欲しがるようにする」ため必要なこととよく似ています。それが西洋で遠い昔に起きたのは、カークパトリック・セールが説明するように、工業化の結果であるとともに前提条件でもあるからです。

その[互恵性の]全てを破壊するのが産業社会の仕事だった。自給自足、相互扶助、市場における道徳、強固な伝統、慣習による規制、機械論的な科学ではない有機的な知識など、「共同体コミュニティー」が意味するものは全て、着実かつ組織的に破壊され置き換えられていかねばならなかった。個人が消費者になることを妨げていた慣習は全て排除されねばならず、そうすれば「経済」と呼ばれる何の束縛も受けない機械の歯車や車輪が、誰からも干渉されずに働けるようになり、見えざる手と必然的なバランスだけに影響される…。[5]

いい商売のアイデアが欲しいですか? 人々が今でも自分自身や互いのためにしていることを、何でもいいから見つけることです。そして、自分でやるには難しすぎる、退屈だ、屈辱的だ、危険だと思わせます。 (もし必要なら邪魔するか違法にしてしまえばいいのです。)仕上げに、それを彼らに売り戻します。言い換えれば、何かを取り上げて、それを逆に売るということです。経済界で最も活発な成長を見せる隙間ニッチ市場の多くは、このカテゴリーに当てはまります。放課後の学童保育、芝生の手入れ、家の掃除、持ち帰り用の料理。クリスマスの飾り付けを代行してくれる会社もあります。驚くなかれ、忙し過ぎるあなたに代わって、クリスマスプレゼントを有料で買ってきてくれるプロのバイヤーまでいます。このような分野が飽和し、関連する社会資本が完全にお金に変わったなら、次は何でしょう? 人々がまだ自分でしていることが何か他にあるでしょうか?

もちろん通常なら、生活上の活動を不便にしようとか、違法にしようという意識的な企てがあるわけではありません。加速する現代生活のペースだけでも、私たちは利便性や効率性を求めたくなり、そういったサービスやテクノロジーを提供する業者が現れます。彼らはシステムが与えた機会を利用しているに過ぎません。

この観点からすれば、テクノロジーとは役割や技能を一般の人々から有償の専門家の手に移すための仕組みなのです。「省力化装置」という形のテクノロジーは、労働の削減を意味するだけでなく(そうとも限らないのですが)、むしろその労働を、私たち自身や私たちが知っている人々から、〈機械〉の匿名の構成員へと移転することを意味します。電気掃除機には、無数の技術者、鉱山労働者、石油産業労働者、組立ライン労働者、トラック運転手などの努力が結集されていて、あなたが床を掃除できるのはその全てのおかげです。もちろんあなたの知らない人たちばかりですが、ずっと有能な人々でもあります。私たちが使っているテクノロジーの成果は全て、巨大な〈規模の経済〉と極限まで細分化された分業体制を形にしたものです。コミュニティーではなく、何百万もの見知らぬ人々が私たちの生活を助けてくれます。彼らとの間にある関係は、私たちが彼らの製品の消費者で、彼らが私たちの製品の消費者というものです。

匿名性とテクノロジーと専門化は密接に結びついています。テクノロジーは農耕に始まり、そもそも分業を可能にする余剰食糧を供給しましたが、テクノロジーが一般個人から移転した役割は食料生産だけにとどまりませんでした。人類の上昇を開始させたのと同じ力学が今も働いていて、有償の専門家へと役割を移転すること、つまり社会資本から金融資本への転換は、社会資本が全て消費されるまで減速する見込みはほとんどありませんが、その状態へと現在の私たちは近付いています。

伝統、自給自足、習慣、人間関係を剥奪されるにつれて、個人は人間ではなく、純粋な消費者になっていきます。忘れないでほしいのは、デカルトの主張とは逆に、私たちのアイデンティティを作るのは人間関係であることです。したがって社会資本を切り売りするなら、私たちの存在そのものを切り売りしていることになります。消費者であるということは、人間以下であるということに他なりません。しかし社会資本が切り売りされることで、自分の職業という狭い分野を除けば、私たちは消費者になる他なくなります。

ビジネスの世界や、しばしば政治の世界で、あなたは消費者コンシューマーと呼なれます。消費する者です。どこにでもある言葉ですから、私たちはその意味を十分に理解できます。ですから何度も自分に言い聞かせてください。私は消費者。私は消費者。私は消費する。他の人間関係が全て無くなったとき、残るのはそれだけです。

「消費する」という言葉は、私たちを火の中にある分断の起源に立ち返らせ、文明のもつ消費の直線性の象徴となります。実際、人の絆がお金に変わるのは化学でいう酸化反応に似ていて、それまでの内部化学結合に代わる新たな低エネルギーの結合を、外部からの何か、つまり酸素原子との間に結びます。お金はそれによって解放される熱エネルギーのようなもので、もはや個人に結び付くことはなく、自由に働くことができます。人間関係を焼き尽くしてサービスに変換することで、個人どうしの本来の絆は断ち切られます。お金で買った「サービス」は、それを買うお金と同じように無個性で一般的なものです。

どんな社会的関係も絆や結びつきという形で一種の富を体現していて、これは原則的に、解体し、商品に変え、サービスとして売り戻すことができます。このような社会空間の植民地化を受けずに済む関係性はほとんどありません。子育ても、性的関係も、友情も、信頼も。

この植民地化の例の手始めに、商品化された人間関係のにせ物っぽさが良く現れているものを見てみましょう。それは「ホスピタリティ産業(おもてなし産業)」です。これはホテル業界が自称する呼び名ですが、「ホスピタリティ」という言葉の本来の意味からすれば何という曲解でしょうか。ホスピタリティとは自分の家を分かち合う寛大で歓迎的な態度のことです。もし、友人宅で数日間を共に過ごした後、そのとき使った電話や水、食べ物に500%上乗せした請求書を見せられたらどう思うでしょうか? この文脈における「ゲスト(お客様)」という言葉の倒錯についても考えてみましょう。まともな文脈なら「夕食代を払ってくれとは夢にも思いませんよ、あなたは私の客人です」とでも言うでしょう。もちろんこのような関係は、コミュニティや慣習、その他の(金銭以外の)結びつきによって左右されます。ホテル業界が象徴しているのは、このような結びつきをお金に換え、社会資本を解体しているという側面です。今では誰かに客人ゲストとして扱ってもらいたいとき、相手にお金を払わなければならないのです。

友情そのものもまた職業化の害を免れません。お金で友人を買えないというのは分かりきったことですが、かつて友情が果たしていた役割の多くをお金で買うことはできます。社会資本の最も陰湿な変容の一つは、有名人のニュースやテレビドラマなどの形で、他人の人生や物語への親密な関わりが商業化されることです。これらは本章で前述したように、身の周りの人々との思いやりのある関係や親密な知識を、遠く離れた人物や架空の人物の生活を覗き見るようなものに置き換え、親密さや共同体への渇望を一時的に和らげます。もちろん、このような関与の感覚は幻想で、その一方通行の関わりが本物の滋養となることはありません。本当の必要が満たされないまま、結局さらに強まってしまうというのは、中毒になるための完璧な処方箋です。

友情のプロ化のさらなる例が見られるのは、ライフ・コーチ[人生や生活の指導をする人]、グリーフ・カウンセラー[最愛の人を失うなど悲痛な思いをしている人に精神的援助を行う人]、心理学者、スピリチュアル・アドバイザー[宗教・精神的な助言者]などといった職業の急増です。賢明な助言と心を静める手、困ったとき頼れる人、愚痴を聞いてくれる人。こういったものも今では売り物です。このような「サービス」の急成長が意味することはただ一つです。またしても、かつて自分自身や互いのためにしていたことが、奪い取られ、売り戻されたのです。コミュニティから切り離され自分の直感的な知恵からも遠ざけられた私たちは、ますます専門家の助言を頼るようになっています。

金銭化された社会のパッチワークを作るもう一つの糸は、評判、口コミ、信用、信頼といった社会的機能が、標準化された客観的な物差しへと置き換えられていくことです。私たちがお金を払うプロたちは見知らぬ人であり、私たちの萎縮した社会関係の外にいるので、このような専門家が有能で責任ある人物であることを確認するため、私たちは様々な種類の認証や免許を頼りにしますが、それは私たちが個人的な繋がりを持たないときに必要となる防護手段なのです。公の場に残されている彼らの生活のわずかな断片を除けば、私たちは彼らについて何も知りません。私たちは以前と比べものにならないほど周囲の人々のことを知りません。性的関係や家族や健康のような「私生活」について、私たちは隣の住人よりも有名人のことを良く知っている可能性が高いのです。また口コミは、特に小さな町では、プロとしての責任ある行動を強制する力をいくらか保っていますが、巨大で匿名の都市や郊外では、人口の多くがその地域に住んで間もないため、建築家や医者、請負業者などの専門家について、免許試験や資格制度として具体化された専門家の意見が伝えること以外、私たちは何も知りません。要するに、試験や資格は社会的機能である評判をお金に換えたものなのです。同じような力学が、契約を強制するための法律(つまり信頼の代わり)や、責任ある行動を強制するための刑法(つまり地域社会に根ざした社会的圧力の代わり)にも働いています。これらが必要になるのは、大規模で匿名の、金銭化された社会だけです。

後半につづく


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注:
[3] 「専門家」とは特定の仕事(この場合は調理)をするために給料をもらっている人のこと。その仕事が高度な訓練や技術的な専門知識を必要とすることを意味するものではない。
[4] 米国農務省大統領食品安全評議会(1999年8月4日)の報告によれば、この数字は1998年には50%だった。最近、NPR[アメリカ公共ラジオ放送]で3分の2という数字を聞いたが、引用元が見つからない。他の情報源によれば、家庭外で食べる食事は50%という数字が出ているので、すぐに食べられるテイクアウトの食事が加われば、この数字はさらに高くなるのではないか。
[5] カークパトリック・セール [Sale, Kirkpatrick,] Rebels Against the Future, Perseus Books, 1995. p. ***


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-04/

2008 Charles Eisenstein


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