小説『オスカルな女たち』 37
第 10 章 『 暴 露 』・・・1
《 打ち明け話 》
夫婦の間での隠し事はしない。
表面的にそうは言っても実際はどうなのだろう。
…倫理観や、信頼関係の上で、お互いが納得していればいいのではないか。
夫婦の間に基本隠し事はない。
思いやりからくる嘘なら、受け入れられるのか。
…言葉で解っていても、理性の面からどうしても口に出せないこともある。
では、夫婦の間の隠し事を、許せるか? 許せないか?
一般的に夫婦間での隠し事というと、
金銭面『へそくり』『給与申告』『借金』…等、
男女関のトラブル『過去の遍歴』『浮気や不倫』『性癖』…その他、
趣味『オタク趣向』『風俗』『ギャンブル』…等々、
その他『仕事関連』『身体的特性』『マザコン』…
などがあげられるだろうか。
許せる、許せない、そういった個人的感情を除けば、良くも悪くもお互いがどれだけ相手を信頼し、尊重し合えるかという問題も関わってくるだろう。
とはいえ「結婚」という契約がなければ所詮他人の間柄、たとえ相手を思いやっての所業だったとしても、どれも一つ間違えば〈愛情〉が〈愛憎〉、それが蓄積すれば〈憎悪〉にだって変わるのだ。
夜の不満を言えないことも、隠し事になるだろうか…。
織瀬(おりせ)の隠し事は結婚前を除けば「夜の営みがない」ことに関する不満や不安だった。だがこれは「基本隠し事はない」が、理性の面からどうしても口に出せないこと…だった。
結婚して10年、織瀬は夫との間に夜の生活が一切なかった。それはマンネリや性癖などという相性云々という簡単なものではなく、そもそもお互いを知る以前の問題だった。
なにが「いやだ」とか、なにが「足りない」などではなく、むしろ問題にさえもならない。世間一般に言われる「セックスレス」ともまた違った状況なのだ。
夫婦だから遠慮はいらない…?
だが、初めから「ない」ことをどう改善すればよかったのか。
懇願しなければいけないことだったのか、自分が拒絶してしまっていたのか、それとも知らずに拒絶されるようななにかがふたりの間に起こっていたのか…だが、10年もやり過ごしてしまった今では、なにを追及すべきかさえ解らなくなっていた。
意を決し立ち向かった結婚記念日の告白は失敗に終わった。だが、それは一方的なもので「なんの答えも得られない」という結果だけを残し、決して納得のいくものではなかった。
体の不調を除けばあるいは、この先「話し合い」でどうにかなったのかもしれない。しかし・・・・相変わらず書斎の扉は閉じられたまま、織瀬の心のドアをノックすることはなかった。
そんなある日曜の晩、シャワー後いつものように愛犬〈ちょきん〉とまったりとした時間を過ごそうとリビングに入りドアを閉めた時だった。
「…今日、ちょきご飯食べた? カリカリがあちこち散乱してたけど」
足の裏を確認しながら夫の幸(ゆき)が追いかけるようにしてリビングに入ってきた。
「ごはん…? 食べた、と思うけど…?」
会話が少なくなっても話題に事欠かないのは、絶対にちょきんのおかげだと思う織瀬。だが、一抹の不安がよぎる。
「ちょっと待って…」
幸の顔も見ずに脇を素通りし、いそいそと玄関の棚の下に隠すように設置してあるトイレを除きに行く。
「うんちしてない…」
すぐさまリビングに戻り、
「幸、最近ちょきのうんち取った?」
いやな予感がしていた。
「いや、オレは、ここんとこトイレ掃除すらしてないけど」
「おかしい」
「なにが?」
「ちょき、うんちしてない」
たちまち鼓動が早くなる。
いつもなら自分の名を呼ばれただけでくるくると回りながらすり寄ってくるちょきん。だが、今日はずっとソファの上でうなだれたままだ。
「ちょき…?」
ソファに近づき顔を覗き込むと、くぅん…と眠そうな、けだるい鳴き声を発した。
「これって、まずいんじゃない? 今何時?」
幸を振り返る。
「11時少し前…」
「向井先生に電話して…!」
「日曜なのに?」
「いいから…!」
そういい殴り、寝室に入り部屋着を脱ぎ捨てる織瀬。
「つながった? やってるって?」
着替えを済ませた織瀬は言い捨てて玄関脇のちょきの部屋に向かう。すぐさまちょきん用の小さな毛布とキャリーバッグを持ってリビングに戻る。
「どうなの?」
ドアを開けるなり幸に投げかける。幸は左手をかざし、ちょっと待って…という仕草で織瀬を制す。
「…はい。ちょっと、犬の様子がおかしくて…。うんちしてないみたいなんです…はい。…はい、お願いします」
そう言って幸は電話を切り「タクシー呼ぶ」とその手ですぐさま電話をかけた。
「うん。…ちょき。あ~幸、どうしよう」
ソファの上のちょきんと幸を交互に見、たちまち恐怖に襲われていく織瀬。
「いつから? あ~どうしてあたし、気づかなかったんだろう…ちょき~。どうしよう、ちょき」
不安から、その場を行ったり来たりする織瀬。
「落ち着け。大丈夫だから、ちょき抱いて…」
織瀬の手から毛布とキャリーケースとを受け取り、素早くケースの中に毛布を敷いてやる。その間も織瀬は「どうしよう、どうしよう、」と呪文のようにつぶやいている。
「織瀬! お前がそんなんでどうするよ。ちょきが不安になる…!」
たった今毛布を敷いたキャリーケースを突き出して言う。
「だって…」
途端に涙が溢れてくる。
「ごめん。でも、とにかく病院に行こう。きっと大丈夫だから…」
そういうと幸は、いつものやさしい穏やかな口調で織瀬を玄関に促した。
きっと大丈夫…その言葉に一瞬、織瀬は懐かしさを覚えた。だが今は、懐かしさにひたっている場合ではない。
(どうしよう、どうしよう、…ちょきになにかあったらどうしよう…)
タクシーで病院に向かう途中も、織瀬は胸の前で両手を握りしめ頭の中でずっと同じ言葉を繰り返していた。「ちょきが不安になる」と、幸にたしなめられた手前、口にしてはいけないと思ったからだ。
ため息ばかりを繰り返す。
「そうですね、ちょっと元気もないですね。…レントゲン撮ってみましょうか」
23時まで営業のかかりつけの動物病院は、運よく担当の医師が当直だった。
「よろしくお願いします」
診察室を出、すぐ目の前にある3人掛け程度の背もたれのない椅子に腰かける。出入り口の灯りは落とされ、非常灯だけの待合室と診察室の一部だけ灯る照明がますます気分を落ち込ませた。
しばしの沈黙。
「なにか違う話をしよう」
たまりかねて幸が口を開いた。
「違う話って?」
「手術…」
近頃の会話の少ない日常から、月末に控えている織瀬の手術が気になる幸。だが、
「その話は今したくない」
当然ながら不安を不安であおりたくない織瀬は即答した。
「そうか」
再びの沈黙に織瀬はため息をつき、
「…さっきみたいにさ。昔はよく『大丈夫だよ』とか『オレに任せろ』って、あたしを安心させる言葉をたくさん言ってくれてたよね」
懐かしさを感じた言葉を振り返る。無言の幸に間髪入れず、
「最近言わなくなったね。なんで?」
と、微動だにしない隣の幸を窺う。
「なんで、かな…。自信がなくなったのかな」
幸の答えはまるで他人事だ。
「自信? そんなの関係あるの? 自信がないと安心させられないの?」
「ン…そうなのかな」
自分のことなのに、他人事のように答える幸に「そんな風な言い方をするようになったのもいつからだろう」と考える織瀬。
もしかしたら、自分たちも、ずいぶん前から噛み合わなくなっていたのだろうか。
そう思ったら急に不安が押し寄せて来た。
「あたしが、自信失くすようなことした?」
「そういうわけじゃないよ…」
だが、幸にはそうなる原因に見当がついているのではないか…と勘ぐる織瀬。
「こないだ、玲(あきら)の家に行ったの…。高校の時の同級生が玲のお兄さんと結婚しててね。夫婦喧嘩したみたいで、玲の家に家出してたんだけど。なんだか仲裁に駆り出されちゃって…さんざん捲し立てた後にね、あっさりお兄さんの「感謝してる」の一言で片づけられちゃった。…ものすごい力説したのよ、あたし」
「…どんな?」
「結婚記念日にあなたに言ったようなこと。…あぁもちろん、やんわりとね」
一瞬、幸の背中が強張ったような気がした。
(でも、少なくとも、あの時のふたりは、自分たちの問題に向き合い、お互いを求め、解り合おうとしていた…)
うつむく織瀬に対し、返事をしないのもおかしいと思ったのか、幸は無気力に「へぇ…」とだけ答えて黙る。それ以上話を続けてほしくないのかとも思ったが、
「でもあなたはなにも言ってくれなかったね。そりゃ、夫婦の問題がみんな同じわけではないけど、でも解決するのは他人じゃなく自分たちなんだって思ったよ」
うつむいたまま静かに、ひとりごとのようにつぶやいて、織瀬は続けた。
「納得のいく回答もないまま…時過ぎて『子ども作ろう』って言われても、タイミングもなにもあったもんじゃないって思ったわよ」
「ごめん…」
「あやまられたら余計落ち込むじゃない…」
「ごめ…ぁ…」
(そういうとこ、よね)
「いいの、あたしも、自分のことばっかりだったし。あなたのこと考えてなかったみたい、だから」
言いながらもそこには納得がいっていない織瀬だったが、
「確かにあたしはさみしかったけど、あなたにも考えはあったでしょうし…」
と付け加えた。
「あった、のよね…?」
それとも「子どもが欲しい」と言われながら、考えることすらなかったのだろうか…と疑問も湧いてくる。義母がやってくるたび、あれだけせっつかれて幸はなにも感じなかったのだろうか。
「幸。正直に答えて。…子どものこと、全然考えたことなかった?」
「考えなかったわけじゃないけど…正直、今じゃないとは思ってた」
顔をあげ、幸を見る。
「今じゃない? それはいつの『今』なの? 10年間ずっと…?」
その質問に無言の幸の答えは、おそらく「イエス」ということなのだろう。
「それって…」
(子どもはいらない…って思ってたのと一緒じゃない)
そう思うと同時「やっぱり」という言葉が織瀬の中に浮上した。
子どもは「嫌いじゃない」と言っていた。しかし、自分との間には「今じゃない」「必要ない」と考えていたのだろうか。
なぜ・・・・?
「なにか、理由があるの?」
「え…?」
「だから『今じゃない』理由…それって、あたしとの間には考えられなかった…ってことだよね?」
「そういうわけじゃ…」
じゃぁどういうわけだというのか。相変わらず歯切れの悪い答えに、織瀬は苛立ちを覚える。
「じゃぁ、煩わしかった? あたしに『子どもが欲しい』って言われること…」
「そんなことはない…」
「でも、そのたびに『今じゃない』って思ったわけでしょ? あなたは『今』をいつまでも行使できるけど、あたしにはいつまでもあなたのいう『今』があるわけじゃない」
「わかってるよ」
「わかってない。…頭で解っていたって、こんなにも時間が経っちゃったじゃない! おまけに…」
子どもが産めない体になった。
「そうだね…。悪かったと思ってる」
(悪かった…ですって!? それだけなの?)
織瀬はたちまち苛立ちに支配される。
「それで済まされること? 他に言うことはないわけ?」
とは言ってみたものの、織瀬自身どんな返事をもらったところで今さら状況は変わらない。それどころか、怒りが増すだけだと承知している。だが、結果「子どもが持てない」現実に、この憤りをどこにぶつけろというのか「申し訳ない」と沈んでいる幸に、当たることすらできないのだ。
「オレたち別れた方が…?」
いいのかな…と再び意見を求めるような言い方をする幸。
「は…随分と簡単にいうね」
それが最善だとでもいうのだろうか。
「そんなことないよ」
「じゃぁずっと考えてたとでもいうの?」
「いや…それは、そういうわけじゃ…」
「いつから? あたしが『子ども欲しい』って言うたび? そのたび離婚を考えてたっていうわけ? それってどうなの?」
「だから、言葉の綾だって」
「でもそれもまたタイミングよね。お義母さんの方が決断を下すのが早かったわ」
「おふくろが?」
「そう。『別れてもいいのよ』って言われたわ。子どもが産めないって解った途端ね。あたしまた見捨てられたんだって思った」
「そういうわけじゃ…」
「そうでしょうけど。わたしの境遇を考えたら、そう思っちゃうのも仕方のないことだとは思わない?」
織瀬にはもうずいぶん前から身寄りがない。
(また無言…)
幼いころに両親の記憶は失くした。
物心ついた時に父親の記憶はなく、わけもわからないまま母親はいなくなり、結果それが「自分は捨てられた」のだということに気づくまでそう時間もかからなかった。育ててくれた祖母は若い頃に、いわゆる「金貸し」を生業にしていて貯えがあったおかげで織瀬はそれほど貧しくない生活を送れたが、心まで満たされていたわけではない。
(幸…なにかいってよ…)
沈黙が長くなればそれだけ、いやな想像が膨らんでいく。
「幸…」
その時、診察室のドアが開いた。
「ちょきは…?」
いつもなら抱っこされて出迎えられるところだが、今夜はそうではなかった。
「とにかくお入りください…」
深刻なのだろうか…。
診察室に通されると、壁に設置されたパソコンの画面にレントゲン写真が映し出されていた。
「ここに異物があるのが解りますか?」
画面を差して獣医が確認する。
「これのせいで、腸に消化物が流れていないようなんです。でも、途中までは降りてきているようなので、今夜一晩預からせてください。マッサージと下剤でなんとかやってみます。…もし、それでも無理なようでしたら手術になるかと思います」
「手術…ですか」
「そんな…」
「物はなんだかわかりますか?」
幸が獣医に問う。
「ちょっとわかりませんが、おそらく金属かなにか、じゃないかと…」
「え?」
「もし仮に、金属だとして、この先ここにとどまり続けると、悪さをしないとも限りません。仮に悪さをしないものだったとしても、この大きさですからね。現に食欲もなくなっていますし、早く取り出してあげないと」
「金属…」
言われてすぐに織瀬は、それがなにか把握できた。
多分、いや、おそらくそれは、結婚記念日の夜に失くした…
(指輪だ…)
それ以後織瀬は無口になった。
「今日はこのまま顔を見ずにお帰りになられた方がいいでしょう。後追いされてもつらいでしょうから…」
言われるまま、ちょきんの姿を見ずに帰ることにした。
「それではよろしくお願いします」
横で話している幸と獣医の声すら流れる風のように過ぎていく。受付で、
「明日、うんちが出たら連絡します。連絡のない場合は、夕方にでもまたいらしてください」
それが〈手術〉の合図だった。
「織瀬…。織瀬」
「え? あぁ、はい、わかりました」
気もそぞろに動物病院を出た。
「オレが迎えに来るよ、織瀬は仕事だろ…」
「いい、あたしひとりで。…あ、あたしが、迎えに来たいの」
「会社は?」
「休む。こんな気分で仕事どころじゃないだろうし、心配。大丈夫、平気だから…」
心配。…平気?
(どうしよう…でも…)
「ひとりで平気なの?」
「うん…大丈夫。幸だって暇なわけじゃないでしょ」
本来ならふたりで出掛けてくるのが筋だろう。だが、異物が本当に結婚記念日の晩に落とした〈結婚指輪〉だとしたら、幸に見られるわけにはいかないと思った。
「わかった。本当に大丈夫なんだね…?」
「うん…」
帰り道のタクシーは、また違う不安と戦う羽目になった。
「あたしの、せいだ…」
「違うよ。充分気をつけていたじゃないか」
「でも、あたしのせい」
両手で顔を覆う織瀬。
(絶対…)
罪悪感でさらに落ち込む。
(ちゃんと、探せばよかった…。ちょき…ちょき…)
「あたしったらホントに、自分のことばっかりだ…」
涙が溢れて止まらなかった。
翌日・・・・
ふたりは朝から食事もとらずにリビングのソファで電話を待っていた。
「織瀬。なにか食べたら…?」
「あたしは平気。幸は食べて」
膝の上に両肘をつき、頬杖をついている織瀬。返事はするものの幸の言葉がまともには耳に入ってこない。
「一緒に食べようよ」
「あ、なにか作る?」
「そういうことじゃないだろ」
「あぁ、ごめんなさい…でも」
そんなやり取りが朝、昼と続いた。
「少しでも食べた方がいいよ。もしかして寝てないんじゃないの?」
「大丈夫。食欲ないし」
噛み合わない返事をする織瀬をますます心配する幸は、気持ちは解るけど…と前置きし、
「織瀬がそんなんじゃ心配でひとりで行かせられないよ」
腰に手を当て、織瀬を見下ろす。
「そういう幸だって、さっきから書斎とリビングを行ったり来たりしてるだけじゃない」
「まぁそうだけど、さ」
ちょきんに対する思いは、ふたり同じ方向を向いている。
(今までのわたしたちは、同じ方向を向いていたんだろうか…?)
「ねぇ幸、うろうろするだけなら座って」
「あ、ぁ書斎にいるよ」
「いいから座って…!」
「ぇ、あぁ…」
おとなしく隣に腰掛ける幸。
「…昨日の話だけど。幸『別れよう』って言ってたけど…本気?」
「え? ぁあ。だって織瀬、もうつらいだろ…?」
(また、あたしのせい…?)
「幸はどう思ってるの? あたしと別れたいの?」
「そういうわけじゃないけど…」
そう言って考え込むような仕草をする幸は、おそらく「いちばん柔らかくて残酷な」言葉を選んでいるのだろうと思った。それは別れる理由を探しているのか、これまでの言い訳を考えているのか、どちらにしても幸の中に「別れる」という選択肢があるということだ。
「隠し事…してない?」
幸は体勢を崩さずに言葉を発した。
(気づかれた…?)
それに対し織瀬も、身動きひとつしはしなかったが、代わりにきつく奥歯をかみしめた。
「べつに、ないと思うけど…。なんかあった?」
なんでもない振りをして左隣の幸を見た。大丈夫、うろたえてはいない…と、意外と普通に答えられる自分が不思議なくらいだった。
(さぁ…なにを言うつもり…?)
嘘をつくことも、慣れてしまったのだろうか…と、今さらながらの自分の行動に驚いてもいた。
「好きな人がいるんじゃないのか?」
突然に、幸がそんなことを言い出した。
「え…なに…」
(なんで…?)
驚きを隠さずに幸を見る。瞬間、頭に思い浮かんだのは「携帯、みられた? でもROCKかけてるし…」とテーブルに載せたままのスマートフォンだった。
(なにを知ってるの…?)
多少なりとも心に引っ掛かりを持つ織瀬は、冷静ではいられなかった。
「もうずっと、好きな人がいたんじゃないのか? それこそ…結婚する前から…」
「は…? なにそれ。なんのこと? だれのことを言ってるの?」
結婚する前から…と言ったのか。
「今」ではないのか…織瀬は平静を装いつつ、頭をフル回転させた。
「代表のこと、オレが知らなかったと…?」
珍しく幸は興奮気味に話した。
「代表? 内野代表のこと? なにそれ、わけわかんない」
織瀬は思わず、その馬鹿さ加減に失笑した。
(幸が知るはずはない…)
少なくとも、結婚前のことは…そう確信していても、今の織瀬には幸に言えないことがある以上想像もつかないことだった。一体、いつのことを言っているのか。
「なんで代表?」
「違うのか…?」
「違うわよ! なに? ずっとあたしが、代表のことが好きだと思ってたわけ?」
「そう、じゃないの…?」
急に自信を無くしたような口調になる。
「じゃない、わよ! え? なにそれ、なんなの? バカみたい」
言いながら安堵する自分がいる。そしてまた、安堵している自分に違う感情があることを再認識する織瀬。
「ばか? え…? だってそんな…」
言いながら幸は、ゆらゆらと立ち上がった。
「そんな? そんなってなに? こっちが聞きたいんだけど」
煮え切らない幸の背中に腹立たしさを覚えた。
「結婚式の日に…。内野代表に『よろしく』って言われたんだ。『織瀬をよろしく』って…」
織瀬を振り返る。
「そりゃぁ、上司だもの」
まっすぐと見つめる織瀬の目を避けるように、幸はまたうろうろと歩き出した。
「それを聞いていた社員が、遠藤さんや矢野さんが『やっぱりね…』って『噂通りだね』って話していて…」
「噂?」
(遠藤さんに矢野さんて、もう会社にいないひとじゃない…)
「それで、噂は本当だったの?」
「え?」
「その噂を確信したから、そう言ってるのよね?」
本人も知りえない噂の真意を、幸はどう解釈したのか。
確かに、入社当時「引き抜き」で入社した織瀬を「内野の愛人ではないか」と疑う者があった。だが、それは幸と出会う以前の話だ。たとえ内野との間に過去があったとしても、そこまで織瀬の過去を詳しく知る社員などいるはずもなく、噂はただの噂に過ぎなかった。
「いや…」
「いやって、なに? だって、10年前の話でしょう?」
「あぁ…だって」
「はぁ? じゃぁなに、あなたは…この10年間、あたしがずっと代表に恋してたと思っていたわけ…?」
(それって、)
初めから信用されていなかったってこと…?
「だって、仕方ないじゃないか」
「なにが仕方ないの? その時確かめればよかったじゃない」
「確かめてよかったの?」
なんとも言えない表情でゆっくりと織瀬を振り返る。
「はぁ? なによそれ。え? まさか、浮気を疑ってた…?」
鋭く目を見開き、幸を見た。
「織瀬…ぁ…」
見開かれた織瀬の瞳から、壊れた蛇口のように流れだす生温い液体。
「これまでのあたしの思いは、いったいなんだったの…?」
意識とは別のところで感情が交錯する。
(あたしって、)
「最初から、愛されてなんかいなかった…ん、だ…」
気絶しそう。
「そういうわけじゃない…!」
慌てて言い訳しようとするも、幸の放ったひとことはこの10年のふたりの軌跡を一瞬にして無に帰したのだ。
「なんなの…これ…」
目の前でオロオロする幸を見据える。
「オレは、オレだって本気で愛していたんだ!」
(なに? 過去形…?)
「じゃぁ、あたしの気持ちが嘘だっていうの? 勝手に思い込んでたくせに! ただの思い込みだけであたしを嘘つき呼ばわり?『織瀬、もうつらいだろう?』ですって? なんでもかんでもあたしのせいにしないで!」
「織瀬…」
「全部嘘じゃない!」
「嘘じゃない。オレだって信じていたよ」
なんとかなだめようと、だが、触れることすらできないでいる幸。
(ほら、またそんな風に…)
「あなたの気持ちは『本気』で。あたしの毎日が『嘘』だったなんて言わせない! 嘘で『抱いて』だなんて、言えるわけがない! それともなに? あたしがそういう女だと?」
「そういう女だっているだろ…。ぁ、あぁ、もちろん君は」
「うるさい!」
「ぇ…うる…」
「こんなにも一緒にいて…この10年。10年間、あの会話や、この時間が、嘘だなんて、よくも…」
キッと幸を睨みつけ、
「それで別れようなんて言い出したの? 今さら…そんなことを引き合いに出すなんて。それで子どもが作れなかったの? それで…そんな勝手な思い込みで…あたしを抱かなかったっていうの?」
流れる涙にすら構ってはいられない。
「ち、違うよ。そういうわけじゃ…」
「じゃぁ、どう…っ・・・・」
咳き込む織瀬。
声が詰まって言葉にならない。
「オレだって…ずっと言えなかったんだ…」
(だからなに? だから『許せ』とでも?)
「…言えなかったのも、あたしのせい…?」
「そうじゃない、だけど。いや…でも・・・・あぁっぁぁぁⅹ…あぁっぁぁぁⅹ…」
「なに…?」
幸はこれまで、聞いたこともない奇声を発し、見たこともないゆがんだ表情でもがき、頭を抱えた。「うー」「あー」と言葉にならない音を繰り返し、頭を両手で叩きながらテーブルの周りを行ったり来たりし、なにか言葉を探しているようだった。
「ちょっと待ってくれ…そうじゃない、そうじゃないんだ…」
今さら言い訳されたところで「そうなの」「誤解してたのね」で済む話なんかではない。
「あ、織瀬…」
幸の表情がみるみる歪んでいく。
「ごめ…ん…」
結局、それだけを発し口をつぐんだ。
・・・・ナニニアヤマッテイルノ?
・・・・ナニヲアヤマッテイルノ?
・・・・あたし? それともこの10年?
言葉を発したくても胸につかえてなにも出てこなかった。
・・・・ナンダッタノ…
・・・・ナンナノ、コレ
・・・・あたしの10年は、いったいなんだったの?
すべてが嘘に変わった瞬間だった。
幸はもう、なにも言わなかった。
なにも言えるはずがなかった。
もう、幸の言葉では涙は止まらない。「オレに任せろ」なんて言葉も「大丈夫だよ」なんて言葉も、決して織瀬の涙を止めることなどできやしないのだ。
そして電話のベルが、織瀬を現実に引き戻す。
「…はい。樋渡(ひわたり)です」
電話に応答する幸の声が、知らない人のように感じる。
(あたしも『樋渡』だけど…?)
電話を切り、
「…織瀬。やっぱり、オレがちょきを迎えに行こうか?」
優しく問いかける声。電話が来たということは、ちょきんのお腹の中の異物は「取り出された」ということだ。だが。
「行かなくていい!」
嗚咽を伴う咳を押さえ、やっと発した言葉だった。
すべてが嘘だった…少なくとも今の織瀬にはそう感じた。
まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します