共生進化〜Z世代が考える世界の課題と歩み〜
はじめに
世阿弥は「物学」と書いて「ものまね」と読ませた。「もの真似」「物真似」ではなく「物学」である。芸能としての「ものまね」を通して「まなび」こそが「まねび」であって、「まねび」がどうすれば「まなび」になるかを追究した。
私にとって大学でのまねびとは、素晴らしき書物だった。大抵暇な日は図書館に行くか、kindleで良い本がないか探しながら過ごし、素晴らしき書物と出会えた時は、絶景との出会いや他の娯楽にも引けを取らない感動があり、読みふけった。
世阿弥は能が求める最もたいせつなことを「花」と言った。「花」のことをしばしば「まこと」とも言った。「まことの花」という言い方もした。「まこと」は文字どおり「真なるもの」のこと。その真を映し出すものが「花」である。そして「まこと」に近づくために稽古をする「古きを稽みる」。こうして世阿弥は「まねび」を稽古することをもって「まこと」に近づいていくことを「まなび」とした。
私にとっての「花」はスキーであり、この生きし、生ける世界であった。幼少の頃からスキーに嗜んでいた私は、自然の変化にもずっと敏感だったし、私が生きるこの世界にずっと大きな関心があった。
そうやって自然と関わりながら、学問と向き合う中で私の中でおもかげとして表れてきたのが気候変動という問題だった。スキーをする人間にとって気候変動は自分たちのスポーツに直結する身近な問題である。本当に単純な気温上昇という問題が起こることで、雪が降らなくなりスキーができなくなる。
私は幼少の頃からスキーというスポーツを嗜んでいたけれども、10年間競技を続ける中で明らかに雪が減っていることに、大きな疑問が生まれた。このままだとスキーというスポーツがなくなってしまうのではないか?それが、私にとっての気候変動とエネルギーの世界の幕開けであった。
私は大学時代を通して、気候変動とエネルギーを主軸にこの世界を見てきた。それは想像以上の複雑な問題であり、この世界の根本に関わる壮大なテーマの一つであった。
エネルギーというものを手繰り寄せて行けば、この世界の始まりから、これからの未来の予測もできてしまうし、気候変動は人類が現在直面している最重要課題でもある。それは、当然歴史や文化に関わってくるし、ビジネスから経済学、市民運動などの社会学的側面、工学や理学などの物理学的側面からも考察することができる。
こうしたいくつかのテーマを俯瞰的に見ていくと辿りつく命題がある。それが、人類はどこからきてどこに向かうのか。自然とテクノロジーそして人類は共生することはできるのか。
人類はおそらく地球を制圧した。それは時間軸にばらつきがあるにしろ、地質年代でいう人新生であり、アントロポロセンの時代である。そんな人類が神になりつつある時代にありながら気候変動という人類史上最大級の難題を抱えている。
そんな中、ジェームズ・ラヴロックはガイア説を提唱し、生物が地球全体の恒常性を保っている、と地球全体でひとつの有機体と考える。さらに人類はガイアの支配からサイボーグと共存するノヴァセンの時代に突入しているという。地球の歴史という超過去から、AIやロボット工学が進化した超未来までの考察は人類社会と向き合う上での大きな考察を得た。
こう言った超未来を考えていくとテクノロジーとの向き合い方も大きなスケールとして考えていく必要が出てくる。
テクノロジーは人類の課題を解決できる道具でありうるのか。「工学は科学を社会に利用するための学問である」というのが、ある教授の押し売りであったが、工学者としての私たちは社会にきちんと介入できているのか、テクノロジーに利用されてはいないか、自然とテクノロジーは対立しないのか。
これにヒントを与えてくれたのは、イヴァン イリイチのコンヴィヴィアリティのための道具である。コンヴィヴィアリティとは自立共生的という訳語で示されるが、社会制度のあり方やテクノロジーとの向き合い方においてこのイリイチの考えは大変参考になる。
エネルギーと向き合う上で、古舘 恒介さんのエネルギーを巡る旅は大変大きな示唆を与えてくれた。本記事では、古舘さんが提唱しているエネルゲイア、エントロピーの概念にエネルギーの質を示すエクセルギーを加えて、再考察しているところも多い。
特に、エネルギーを紐解く上でコンヴィヴィアリティとガイア説を大きな手がかりとして読み解くことで物事を丁寧に整理し、考察できると考える。
そこにできれば、私の大学時代の経験を加えたい。私のまねびの中にはグローカルという言葉が常につきまとう。グローバルに世界を見て、ローカルに行動するということだが、まさに学問として世界をマクロに見た上で、実際に多くの現場に向かうことで個々のミクロな問題や世界観にも触れてきた。
特にCOPという国際交渉の参加や世界20ヵ国、日本全国を廻った経験は大きかった。世界の中で大きく遅れている現実も確かに感じることは多かったが、そこに日本的文化がほのかにうつろい立ち現れる瞬間があった。そんな経験も踏まえて、Z世代としての率直な世界の感じ方や意見をお伝えしたいと思う。
この記事の最終的なゴールとしてまず、人類史を読み解き、世界の課題を考える。そこには幸福論も含まれるし、個々としての世界の向き合い方や多くの哲学的素養も含まれる。そして、デジタルネイティブ、Z世代としての人類のビジョンを提示し、日本人として行動すべき指針を提示することである。それはまさに自然とテクノロジーが融合した世界であるし、1人1人が創造性を発揮しながら希望を持って生きれる社会である。
学びのありかたは「かたどる」(象る)という言葉でも表現できる。先に断っておくとこの文章は「まねび」の書であり、学術的見解や、確かなデータや裏付けに基づいたものではない。私が多くの書からまねび、象ったものを編集し、構成しているものである。なので、多くの部分を引用しているがご容赦願いたい。
しかし、世阿弥がいうように型や形から入るという学びがあるということを信じ、私自身も多くの書にあやかり、一つの体系的な文書としてまとめてみた。世の中の複雑なつながりを私なりに読み解き、個別の事象と結びつけたつもりである。
大学生の「まねびの書」が世界に凛として咲く「まことの花」になることを祈って、この記事が少しでも、社会を考えていく上でのヒントになれば幸いである。
ガイアとともに歴史を追う
私がガイア説に出会ったのは屋久島でdeep time walkをしてからである。deep time walkというのは、地球の歴史を5kmの道のりになぞって、その歴史を体感するというワークショップである。
地球の歴史を50億年とすると、1mで100万年の時を刻むことになる。屋久島という生命力に溢れた土地で、このdeep time walkをしたことで大地のつながり、生命と歴史、壮大なガイアについて思いを馳せることができた。
さて、このdeep time walkをして最初にくるイベントは月の誕生である。月は地球の誕生とほぼ同時期に起こったイベントであり、大きな隕石が衝突してできたと言われている。
月の役割は一般に地軸の安定化、そして潮の満ち引きである。天橋立など、砂州のような地形にいると、潮の満ち引きによって消えたり生まれたりする地形がある訳だから、月って偉大ですよ。地軸が安定していなければ、気温や大気も安定せず、十分な生態系も生まれなかったでしょう。
図らずして月は地球に取っての兄弟になった訳だけれど、現代になってもこの恩恵を受けており、今こうやって噛み締めている大地も、もしかしたら昔を辿れば同じ大地だったのかもしれない。
月のイベントが終わって、数キロ行った先、体感としてはほとんど何も起こらない退屈な時代を過ぎ、約35億年前にさか戻ると生命の誕生がある。今のバクテリアよりももっと原始的な、でも確かに生命として、増殖していくものが生まれた。どんな奇跡があったのだろうか。想像もできないような奇跡の中で生命というのは誕生している。
スノーボールアース
さて、地球の生物は最近の6億年間では少なくとも5回、大規模な絶滅を経験しました。そこには全球凍結や急激な気温上昇など多くの気候変動を経験したと言われている。
個人的には、全球凍結(スノーボールアース)と呼ばれるこの時代がとても好きだ。それは、生物によって、気候変動がもたらされた一つの事例であり、今地球温暖化がもたらされている逆のメカニズムによっても絶滅するという様々な暗示があるからである。
絶滅というと恐竜を思い浮かべやすいが、(それは後述するとして)全球凍結時代も人類の存続を考える上で非常に重要なキーになってくる。
35億年前からまた進み、25億年までには生まれたと考えられる酸素発生型光合成を行なうシアノバクテリアは、地球環境に大きな影響を及ぼした。酸素の増加と二酸化炭素の減少である。
まず酸素の形成とともにオゾン層を形成した。現在の大気には20パーセントの酸素が含まれているが、誕生したばかりの地球には酸素はほとんど存在しなかった。しかし、シアノバクテリアという、光合成をするバクテリアが海の中で誕生し、せっせと酸素を作り出したことで大気中の酸素の割合が増えていった。さらに大気中の酸素からオゾン層が作られ、太陽から降り注ぐ有害な紫外線がシャットアウトされるようになった。
このことで生命にとってはずいぶん生きやすい環境に整うことになった。それまでの嫌気性の生物だと呼吸によって得られるエネルギーはごくわずかだったが、酸素による呼吸が可能になったことで生命が爆発する土壌ができるようになる。
オゾン層の形成も大きな出来事である。紫外線は多くの生命にとってあまりに強力な波長なのである程度遮らないと地上で生活することは難しい。オゾン層と厚い膜があるからこそ私たちは生きていけるのである。
さて、二酸化炭素とならんでメタンも重要な温室効果ガスだが、シアノバクテリアが光合成で放出する酸素が増えた結果、急速に酸化されて温室効果が少なくなった。その結果、赤道までもが凍るスノーボールアースという時代が訪れる事になる。
これは、一言でいうとシアノバクテリアが自分たちの種の存続を第一にして、無制限に拡大し続けた結果生まれた絶滅と言える。
ちなみに全球凍結時代は数億年続いたと言われている。凍結しなかった深海底や火山周辺の地熱地帯では、わずかながら生命活動が維持されていたが、ほとんど活動はしていなかった。
凍結中も火山活動によりCO2が排出されていたが、海がCO2を吸収できない分、二酸化炭素濃度が高まっていった。その結果、気温が上昇し一気に氷床の解凍が始まった。短く見積もった場合には数百年単位で極地以外の氷床が消滅して、気温は約40℃まで上昇したと推定されている。
そこから全凍結時代を乗り越えた生命が、一気に活動を開始し、時代は進んで5億年前、カンブリア大爆発に至る。
カンブリア大爆発
5億年前になると、カンブリア大爆発が起こる。これはカンブリア期に起こった生物的多様性の急拡大がまるで爆発のようであるということで、こういう風に呼ばれている。
待機中の酸素を使って呼吸する好気性の生物が生まれ、酸素を使って大きなエネルギーを生み出すことができるようになり、多種多様な生物が生まれた。このとき、多くの植物種が地上にも進出して、シダ植物の原生林ができたようである。逆にいうとそれまでは地上に植物も動物も存在していなかった。
「シルル紀」(4億3500万年前~4億1000万年前)から「デボン紀」(4億1000万年前~3億5500万年前)にかけて植物、そして節足動物、両生類が海から陸に上がり、陸上生活を始めたと考えられている。
シダ生物の原生林は今のシダ植物よりずっと背が高く数十メートル程度あったようだ。屋久島に行ったことある人ならわかると思うけれど、生物多様性に溢れた原生林が立ち並ぶ。あの深さの森がまるまるシダ植物で覆われていた世界が築かれている。
もしくはジブリの風の谷のナウシカのような世界かもしれない。腐海で覆われた世界をイメージしてもらえると、高く覆われた木々に小さな光の中で生きる小型の植物が生きており、そういった群生地を作っている。
ちなみにこの時の植物の大群生の遺骸が腐りきらずに積み重なってできた泥炭が現代で利用されている石炭である。泥炭層が地表で形成されたのち,地殻変動と堆積作用によって地下深くに埋没すると,地熱と圧力により,長い年月をかけて石炭化が進む。
ちなみに現代で木が倒れても様々な生物や微生物によって分解が進むので、遺骸が残ることは考えづらい。化石燃料はそういう不可逆なエネルギー源でもある。
全凍結時代を生き残った生物がそれを乗り越え、わずか数億年のうちに陸上まで覆う見事な生物の多様性を築き上げた。こういう話を見聞きすると、ニッチというのがとても大切になる気がしている。ニッチというのはよくビジネス用語で特定の少数にターゲットを絞って市場に乗り込むことを表すが元々は生態学の用語である。
生態学のニッチは簡単にいうと生物種の中でナンバーワンかつオンリーワンになるということである。人類は地上を制覇するような勢いで、力でナンバーワンかつオンリーワンの地位を築き上げて来たけど、人のような方法でなくても構わない。
「雑草は森の中では生きられない」という話が非常に好きだ。雑草は光の奪い合い合戦をしている森の中では、他の植物種と競合しても勝てず、消えてしまう。それでも私たちの中では、強くたくましく生きている(時には厄介もんにもなるが…)
それは雑草という種が駆られてもすぐに生えることができるというニッチを持っているからである。普通の植物はちょっとしたことでは吹き飛ばされないし、人間の手が入らない限り駆られることもない。
だけど、雑草は風で吹き飛ばされたり、踏まれたりすることを良しとしている。そうやって種をまき、何度も駆られても立ち直る強さがあるから今でも生物種としてこうやって生き残っているのである。
この話を聞くと、人類の生き方、個人の生き方としてももう少し見直す必要がある気がしてくる。ただ長く生きることを目標にするのではなく、自分らしい生き方を模索すること、慣例だけではなく、もっと粘りのあるような生き方。ここらへんは非常に抽象的になってしまうけれど、長く生きることとか、人類種として拡大することだけが全てではないと思う。
なぜならスノーボールアースを生き延びたのは、拡大し続けたシアノバクテリアではなく、そこで火山や深海で生きることを選んだニッチたちである。そのニッチな生物種が生き残ったからこそ、こうやってガイアに生命が溢れているのである。あなたのもつニッチはここぞというところで役立つかもしれない。
ガイアにいる生物はスノーボールアースを乗り越え、様々な生物多様性を築き上げてきた。ペルム紀末(約2億5000年前)には海の生物の90%、陸上の生物の70%の種類が短い間に絶滅したと考えられている。このような大量絶滅は、過去に5回あったことがわかっているが、ペルム紀の大量絶滅が史上最大といわれている。
さて、そのペルム紀を終え、今から2億4800万〜2億6000万年前の三畳紀に恐竜が現れる。恐竜は、体の真下に足がのびていて、直立することができた。ほかの爬虫類より速く走れることから、陸上生活に合い、地球の王者になった。今の人間と同じ立場である。恐竜は約1億6000万年もの間、 陸上を支配した。 ヒト(約20万年)とくらべると、 いかに長く生きた生物かがわかる。ところが、約6500万年前の白亜紀末に姿を消してしまった。巨大隕石の衝突による気候変動がもっとも有力な説になっているが、現代に鳥類が一部恐竜の生き残りとして残っているだけで、ほとんどが死滅してしまった。
恐竜がいなくなった後、6600万年以降に哺乳類が誕生することになる。地球には、白亜紀末の大絶滅を生きのびた小型ほ乳類や鳥類などが栄えた。約700万~600万年前には、2本の足で歩く人類の祖先「サヘラントロプス・チャデンシス」も現れている。約180万年前になると、大陸もほぼ現在と同じ姿になる。約30万年前、わたしたちの直接の祖先であるホモ・サピエンスがアフリカに現れ、やがて世界各地に広がった。
人類の歴史などガイアにしてみれば、ほんの最近の出来事である。5kmも歩いて、人類が誕生したのはたったの20cm前の出来事に過ぎない。人類のちっぽけさとそして壮大な世界の成り立ち、世界との繋がりを感じずにはいられない。
エネルギー革命とともに人類史を追う
エネルギーというのは、とても不思議なものだ。この世界中どこを見渡してもエネルギーで溢れている。輝く電気も、お湯をたくための火も、自転車をこぐための力も全て大きなくくりとしてのエネルギーでまとめられる。
さらにはアインシュタインの示したシンプルで美しい公式
cは光速を表す定数であり、mは質量である。これによって質量もまたエネルギーと等価であることが示された。ちなみに光速は約30万km/sである。それの二乗に質量をかけたものがエネルギーであるから、小さな質量でもどれだけ大きなエネルギーを持つかが、数学を勉強した人ならわかるだろう。
質量までエネルギーとして読み解ける時代に、エネルギーの観点から人類史を読み解いていくとなかなか面白い考察が得られる。すなわち人類の歴史とはエネルギー獲得の歴史であり、気候変動をはじめとする環境問題も人類間の対立も、貧困問題も紐解いていくとエネルギーがおおいに関わっている。
直立二足歩行
思えば、生命の歴史でもあるというのは自然に淘汰されてきた歴史でもある。ガイアの歴史でもわかるように、多くの生物は誕生と絶滅を繰り返し、今の複雑な生態系を築いている。
生命の秩序とは単純だ。弱ければ死に、強いものが生き残る。ただ強さというものはただ力が強いことを意味するものではない。環境の変化の強さや、自然に身を隠すことが上手いもの、他の生物の力をうまく利用するもの、それら全てが強さである。
そうやって自分のニッチを見つけて、その環境にあった遺伝子が引き継がれていくことをダーウィンは進化論と名づけ、自然淘汰の仕組みを解明した。
私たちはこの自然淘汰の仕組みから逃れるのに必死に生きていた。他の動物や人種から襲われないような火や防御体制を作り、飢餓の恐怖から逃れるために農業を始めたり、病気や感染症から逃れるために医療を発達させたり、それはそれは多くの努力を積み重ねてきた。それはまさに不合理な自然の影響を断ち切り、自然に合わせて生きるのではなく、自らの手で自然の環境を作り上げるという難題に挑んだ歴史でもある。あらゆる苦難を乗り越え、現代を生きているにはそれなりの理由がある。
人類を人類たらしめる全ての始まりが直立二足歩行だろう。なぜ直立二足歩行を始めたのかはよくわかっていないらしい。ただ物を運ぶようになったからという「運搬説」が有力らしい。人間でいうと中腰のような前かがみの格好で重い物を長く運ぶのはバランスが悪くて大変だが直立して運ぶのはそれよりも楽なのが理由である。約600万年前のアフリカにいた人類の祖先、猿人はすでに直立していて、約300万年前には完全な直立二足歩行になった。
二足歩行による最大のメリットは、両手が使えるようになったことである。我々は、普段から手を相当に器用に使って生活している。ボールをもったり、料理をしたり、ドアをあけたり、パソコンを使ったり…これを足でやれなんていわれたらとんでもないことになってしまう。
この手の恩恵は大きかった。手が器用に使えるようになって、脳の発達が促され、道具を使うようになった。道具を使うことでさらに脳を刺激してさらなる発達を促した側面もあるだろう。そんな中、約180年前に道具の中でも特殊な道具を使う事件が起きる。火の利用である。
火の利用
人類とチンパンジーの共通祖先から進化し、約250万年前ホモ族が誕生した。この頃は人類といえど多くの種族がいたし、サピエンスはまだ現れてもいない。そんな頃から火を使う種族が現れたホモ・エレクトスだ。
人類化石をもとに、料理した食物に適応した結果の解剖学的変化から、火の使用、つまり料理が始まった時期によって時代が推定される。
たとえば、生肉を食べることから料理した肉を食べるようになったと仮定しよう。加熱すると、肉はやわらかくなり消化吸収がよくなるので、人類の臼歯は小さくなり、胃腸の容量が小さくなる。消化に費やすエネルギーが少なくてすむので、脳のほうにエネルギーを振り向ける余地ができ、脳容量が大きくなる変化が起こる。そうすると、火の使用の始まりは、百八十万年前の原人ホモ・エレクトスの時代と推定することができる。
火を焚くことによる明かりと熱を嫌って肉食獣は洞窟に近づかなくなり、人類の祖先はわざわざ木に登らずとも地上で夜も安心して眠ることができるようになった。人類の祖先は火を扱うことを覚えたことで、環境を自らに都合のよいように作り変える術を得た。こうして人類は、自然界における自らの立場を大きく引き上げることに成功した。人類史上初めて、エネルギー革命と呼ぶべき大きな変化が起きた。これを第一次エネルギー革命と定義する。
私たちの祖先は「おそれ」を乗り越えた。彼らは火に近づき、火遊びをし、さらには火を利用するようになった。秋の冬が深まる日に焚き木の音を聞くと私たちはなんだかホッと、とても落ち着いた気持ちになる。火という自然の不条理を自らの手で調整し、生み出し利用した。それは人類にとって最初の化学であったかもしれないし、この時から我々は火とともに生きている。焚き木を見て、音を聞いて安心するのはそのためだろう。そうして無限大の好奇心を広げ、自然の力を利用する術を身につけたのである。
火を使いながら我々人類はアフリカからユーラシアへと勢力も広げていった。そして20万年前に我々先祖ホモサピエンスが誕生する。実は火の利用はサピエンスの独占の力ではなかった。ホモ族として、他の種も直立歩行をしていたし、火の利用もしていた。そして幸か不幸か、サピエンスがホモ族を制し、世界を制圧する最初の力を手に入れる。それが認知革命である。
認知革命
15万年ほど前に東アフリカで細々と暮らしていたサピエンスは、7万年ほど前になると突如、地球上のあらゆる場所に侵入し、他の人類を絶滅に追い込んだ。それ以前のサピエンスは複雑な道具を作る事もなく、他の人類に対しこれといった強みを持っていなかった。実際、ネアンデルタール人などの方が脳も大きく、体格も大きく高度な道具を有していたと考えられている。
解剖学的には8万年前の人類と今の人類の間に大きな違いは存在しない。しかし、見た目は同じだが太古のサピエンスは脳の構造が私たちと違っていたと推測されている。そして、およそ7万年前を境目にしてサピエンスの認知的能力に劇的な変化が起きる。認知革命だ。
「認知革命」がなぜ起こったのかは、最新の研究でもわかっていない。しかし、認知革命における最大の力は「虚構」を共有することができるようになったことだ。
例えば、「この山には神がいる。」当然だが、実際には神などいない。しかし、虚構の力を手に入れている私たちの祖先は、実際に見てもいないのにその話を信じることができるようになった。
そして、この山を守らないといけないというような使命のようなものが出来上がり、それを共有することで圧倒的に集団での連携が可能になった。ハラリ氏は、人類が手に入れた力の中で、この虚構の力が他の生物と並外れているという。
よく考えれば、お金も資本主義などのイデオロギーもよく考えれば虚構に過ぎない。お金なんて、ただの紙切れに過ぎないのにそれに価値があるとみんなが信じることで流通するようになる。資本主義も民主主義も、みんながそれがいいと信じているからこそ成り立っている現代のフィックションに過ぎない。
理由はともあれ、認知革命により私たちが手に入れた最大の武器とはなにか。それは想像力だ。「気を付けろ、ライオンだ」という言語を操れる人類は他にもいたが、「ライオンはわが部族の守護霊だ」と話すことが出来る人類はサピエンスだけだ。この想像力のおかげでサピエンスは複雑な社会を形成することが可能になった。
何はともあれ、この「虚構」の力を用いて、他のホモ族を圧倒することになる。そして1万3千年前サピエンスが他の人類を滅し、唯一の人類になる。すでにこの時には、他の生物を滅ぼすことができるだけの力を有していたのだった。
農業革命
そして、農業革命に至る。考古学者のヴィア・ゴードン・チャイルドによれば、紀元前1万年から紀元前8000年頃にシュメールで始まり、これとは独立して紀元前9500年から紀元前7000年頃にインドやペルーでも始まったとされる。その後、紀元前6000年頃にエジプト、紀元前5000年頃に中国、紀元前2700年頃にメソアメリカでも開始されるに至った。
農業の最大の特徴は、同じカロリーを得るために必要な労働量が狩猟採集と比べて格段に多いことだ。農作業というのは、エデンの園のような楽園で暮らしていた狩猟採集民のまさにエデンの園からの追放である。
神は、善悪の知識の木の実を食べた罪として、男と女と蛇にそれぞれ違う罰を与えた。男は土が呪われるものとなったため、生涯食べ物を得ようとして苦しむことになり、女は苦しんで子を産むことになった。
農耕を始めた理由は諸説あるが、ここから推測するに狩猟・採集に頼った慢性的な飢餓状態から脱するためという説がある程度想像できる。人口増加によって、狩猟採集が増え、それにより自然の生産が不十分になり、耕作を始めるようになった。
他にも気候変動によって狩猟採集生活が不安定となった果てに穀類採取を行うようになったという説や、これ以前に人口増加がおき狩猟・採集生活における臨界点を突破したため、それまで食料と認識されていなかった穀類採取を行うようになったという説などもある。
ハラリ氏に言わせてみれば、農耕は人類が犯した最大の失敗であったが、それまでの狩猟・採集による獲得経済から安定した食料の生産を可能とする生産経済へと移行することで、複雑な社会を生み出すことが可能になった。
農耕、それは人為的な太陽エネルギーの占有である。それまで他の生物が獲得していた太陽エネルギーの占有地を自分たちに有利な農作物や、畜産に置き換え、それを食事することで太陽エネルギーを効果的に吸収することができるようになった。これを第二次エネルギー革命と呼ぶことにする。
この農耕による太陽エネルギー占有の効果は明らかだった。農作業に従事する人々の活動によって、狩猟採集では不可能だった保存、貯蔵が可能になり余剰な生産を可能にした。そして、取り込まれる太陽エネルギー量が飛躍的に増えたことで、人類が使用可能なエネルギーである労働力、すなわち人的エネルギー量も人口増に比例する形で増えていった。農耕生活が始まる以前の1万2000年前時点では5000万〜6000万だった世界人口が、1万年後の2000年前には約6億人にまで到達した。
農作業による定住化によって、社会が組み上がることになる。農業の指導者的立場が現れる。地主である。そして地主が一定の土地を制圧し、そこで労働者を雇い、だんだんと労働者が代わりに働くことで指導者と労働者という立場が生まれる。
そして、だんだんと地主が大きくなって、各地でそれが発生する。土地には、水はけがいいとか、肥沃だとか、なだらかとか農作業または定住するのに良い悪いがあるから次第にその土地を争うようになる。武器を作る、守りを固める、外を監視するなどそれぞれの役割のようなものが生まれ、分業的システムが生まれる。社会の誕生だ。そうやって社会が複合的になり大きくになるにつれ、ムラ、クニというものが出来上がってきた。そして国ができ、それを支えていたのが帝国、貨幣、宗教というシステムだ。
帝国、貨幣、宗教
農業の余剰から複雑な社会、そしてその社会が時間をかけて拡大していった。そして5千年前、人類にとって普遍的な秩序となりうる「貨幣」「帝国」「宗教」の3つが誕生する。経済面では「貨幣」、政治面では「帝国」、精神面では特に一神教が人類の秩序を保つのに大きな貢献をした。
「貨幣」は「構成員が全員、そのものの価値を信じる」という虚構が、貨幣の機能を担保した。それは最も効率的な相互信頼の制度であった。お金自体には実態がないのに、どんなものにでも転換できるし、富を蓄えることもできるし、持ち運びも可能であった。これにより交易がグローバル化し、言語・宗教・人種の異なる人類同士が結びつけられることとなった。
「帝国」は複数の民族を支配する統治機構であり、民族の多様性を減少させる方向に機能した。ここに「想像上の秩序」と「書記体系」が加わることでより帝国のあり方を盤石にした。想像上の秩序は要は身分である。人は生まれながらにして平等であるはずなのに、虚構というシステムがその人の価値に順位ができた。男女格差、人種格差こういったシステムが政治を行うには都合がよかった。そして書記体系が出来上がることで大量の情報を記録・保管することができるようになり、人類の発展に拍車がかかるようになる。こうして統治機構ができ、人・財・技術等は帝国内を自由に移動し、標準化された。
「宗教」は人間の規範と価値観を固定する上で非常に役立った。つまり社会上の道徳の教えであり、治安維持に大いに役立った。初期はアミニズムのようにあらゆる自然に神が宿るという考えが世界各地で広がっていたが、だんだんとその神を統治する"Gods"から唯一神"God"へ変化することになる。支配者も人民統治の観点から一神教を選んだ。現代国際社会は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教と東アジアの一部を除き、基本的に一神教の基盤の上に成り立っている。
科学革命
そして約500年前「科学革命」が起きる。サピエンスが空前の力を獲得し始めるきっかけが、ソクラテスのいう”無知の知”であった。それまでは、神の教えが絶対だった。聖書に書いてあることが全てであり、それ以上はなかった。
しかし、どうやら地球は丸いんじゃないか、太陽が地球を回っているというより地球が太陽を回っているんじゃないかと確かな観測と論理でそれを証明するようになる。そうして人類は聖書に書いていない無知の知があることを知り、科学の力がこの世界を覆うようになる。
知識の追求にはお金がかかるため、イデオロギーと政治と経済の力に左右される。確かに科学技術はほとんど軍事技術と政治的陰謀によって、その力を強めてきた。その背景にあるものが黒くても確かにサピエンスという種を前進するのには役立った。
地球が丸いことが証明されると、各国は世界の覇権を握るために新大陸を目指すようになる。大航海時代の開幕である。欧州諸国は各大陸を支配し、植民地化することに成功した。
さて、どうしてヨーロッパ人は各大陸を制圧することができたのか。それが銃・病原菌・鉄という三種の神器を持っていたからだとジャレド氏は指摘する。それは決して人種による生物学的な優劣ではなく、単に地理学的要素(気候・地形等)に過ぎない。
それはユーラシア大陸が横長の地形であり、それが様々な因果をもたらし、ヨーロッパ人を最強たらしめた。まず、栽培化・家畜化しやすい野生種はユーラシア大陸に偏在していたことで人口増加ができた。
そして、横長であることから気候が近く、農作物や技術・文字・政治システム等の発明・伝播がしやすく、ヨーロッパに限らず、アジアや中東などでも発展が容易だった。そして相互交流によるブラッシュアップと単純な人口の多さにより、新しい技術が生まれやすい土壌が整っていた。
そして、人口増加と家畜の増加により、人間と家畜との距離が高まり、感染症が蔓延しやすい状態になっていた。そして苦しくも病原菌の耐性をつけていたヨーロッパ人がいざ、各国に攻め入ろうとしたとき、自らが細菌兵器のように働き各国を制圧することができた。
この三種の神器に加えて、科学と帝国主義と資本主義が重なりあった結果、過去500年にわたりヨーロッパが主役の歴史を動かす最大のエンジンとなった。そして1500年からの500年間で、人口は14倍、生産量は240倍、エネルギー消費量は115倍となり、人類は加速度的に発展することになった。
産業革命
200年前についに産業革命が起きる。産業革命は資本主義という人類が持つ虚構の力とエネルギーの制約からの解放という二つの武器で一気に文明が発展していくことになる。
産業革命の一番の立役者は蒸気機関である。この時から石炭の利用を始めたわけだが、蒸気機関のすごいところは石炭を燃やして得た蒸気の熱エネルギーを機械的な仕事に変換することができたということだ。すなわちエネルギー変換機器が生まれた。
これによって、鉱山の開発が盛んになっていた17世紀末に大きな障壁となっていた鉱山の湧水の除去が容易になった。元々蒸気機関は排水機器の利用として発明されたのである。それがワットらによって改良され、蒸気機関や他の様々な動力として利用できることになった。
これを第3次エネルギー革命とする。化石燃料を燃やして大量のエネルギーを取り出すことで、自らの肉体が持つ限界を打破し、巨大な構造物を作ったり動かしたりできるようになった。
この間にも、ふつふつと電気の仕組みが解明されていった。電池の開発、ファラデーの電磁誘導の仕組みの解析、そして送電の仕組み…。電気の利用はエネルギー変換の自由に加え、場の制約からの解放をももたらす力を秘めていた。すなわち、動力を電気に変換し、それを送電することで好きな場所で好きなだけ電気を使えるようになった。これが第4次エネルギー革命である。
こうして、発電所と送配電網の整備が始まり、エネルギーへのアクセスは容易になり、身近に存在するエネルギー変換機械として、様々な電子機器が生活の隅々にまで浸透するようになった。
緑の革命(第5次エネルギー革命)
最後に人類を飛躍的に発展させたものが緑の革命である。緑の革命自体は、農業の生産性向上を目的とし、穀物類の品種改良などの農業技術の革新と、発展途上国への導入の過程をいうが、ここではもう少し拡大解釈していく。
人類の発展は第二次エネルギー革命に見られるように農業の生産というものが非常に重要になる。人口は増加しても、土地の大きさは変わらないので、新たな不毛の土地を開拓するか、今の土地の生産力を向上させるか、他人の土地を奪うかの3択を迫られるようになる。
時代を経るごとに、それに革命が起きていった。その一つが肥料である。肥料に必要な要素の解析が進み、窒素、リン、カリウムの三つの元素は肥料の三要素として、その必要量が多く植物の生育に大きな影響を与える重要な元素として広く知られている。
そのうちの窒素は、実は日常に転がっている。それは空気である。空気の80%は窒素が占め、それを回収できないかと人類は考えた。しかし、それは非常に困難な技術だった。そもそも80%あるのに減らないということは、地上から新しく供給されるか、反応性が乏しいかのどちらかであるが、窒素の場合は後者であった。
それでも人類は窒素に水素を結合させることでなんとか窒素を固定化することに成功する。ハーバーボッシュ法の完成である。大量のエネルギーを用いて窒素と水素を結合させ、ついに人口肥料を完成させることができた。
その効果は絶大だった。自然界において窒素を固定化できる量には一定の限界があった。それがとりもなおさず、地球上に生存を可能とする人類を含む生物の総量を制限していた。その限界を突破したことで人類は人口爆発を迎える。
さらに1960年代に入って、アメリカをはじめとする先進国の農業研究所で、トウモロコシ、小麦、イネなどの品種改良、とくに収穫量の多い改良品種の開発が進められた。
こうした技術開発の結果として、20世紀初頭、16億人に過ぎなかった世界人口は、1950年には25億人を超え、20世紀末には60億人を突破するに至る。もちろん、これは農業における革命だけの影響ではなく、世界経済の台頭、医療の発達など複合的な要素が考えられるが、その土台となるべき食糧とエネルギーが飛躍したことは、注目に値する。
人類は、虚構とエネルギーの利用で他の種を圧倒する存在へと進化した。結局、資本主義も民主主義も現代の虚構でしかないし、それは時代によっても変わってくる。エネルギーの制約から外れ、まるで無限の拡大ができるように感じているけれども果たしてそれは本当なのか。
そもそも、人類はここまでガイアを制圧したけれども、それは本当に人類にとって幸せだったのか、人類は行ってはいけない領域まで行っていないか。今開発している技術や資源の利用は、次世代にとっても良い影響をもたらすのか。すなわち持続可能な形なのか。
人類として新たに幸せとか持続可能性について議論するべき時がきているのではないか。人類のれいし、ガイアの歴史を知った上でそうした現代のあり方を模索することこそが新たな時代を築く上で必要な力になるだろう。
幸せとは何か
世界の課題を考える前に、人類としての幸せとは何か、豊かさとは何かを考えておかなければならない。課題とは本質的には私たちの幸せや豊かさを脅かすものであり、それゆえに課題として捉えられるのである。
私を魅了してきたのは、いつもこれらの問いであった。すなわち人類はどこからきてどこに行き、なんのために生きるのか。何が幸せで、何を求めているのか。これらの問いについて私なりのアプローチで捉えてみたい。
幸せとは、豊かさとは?という問いには多くの偉人が答えてきた昔からの問いである。ここまで軽々しく豊かさや幸せという言葉を使ってきたが、今一度概念、定義に戻って解釈していきたい。
定義に戻るとき、語源を辿っていくとその言葉が持つ本質にだどりつきやすい。まず英語で豊かさと幸せについて考えていこう。
豊かさは英語でwealthその語源は
一方で幸せはwell-beingであり、その根幹のwellを見ると
非常に興味深い考察が得られる。つまり豊かさとは、人を幸福にするものであり、それがwellであり、その状態がwell-beingとなっている。同じように健康を意味する"wellness"は根源的にはwellなもの、「輝くように生き生きしている状態」を示す。
すなわち、富とは、健康であり、幸せであること。それが豊かさであり、それは同義の意味を持つのである。
一方で日本語で考えてみる。まずは豊かさについて
豊という漢字について考えていくと
日本人は収穫物が無事に育つことを祈って、さまざまな祭りを工夫してきた。すなわちミノリ(稔り・実り)を願って、イノリ(祈り・禱り)の文化をつくってきた。ミノリこそまさに豊かさであり、それがイノリによって捧げられた。この農作物の価値観の中心がお米である。
日本人的なアイデンティティの一つにお米がある。まさに瑞穂(みずほ)の国であり、今でもみずほ銀行を中心にみずほという言葉はたくさん使われているが、それは後半の日本文化の再興で語るとして話を戻そう。
日本語でいう豊かさとは、精神、肉体ともに満ち足りていること。それが古来では農作物すなわち米のミノリが満ち足りていることを表していた。もちろん、腹を満たすためのご飯という側面もあっただろうが、稲穂のミノリを見ることによる精神的な安らぎ、五穀豊穣のイノリを捧げる米信仰も豊かさに含まれる大切な側面だったのだろう。
一方で幸せとはなんだろうか。
漢字の「幸」は手かせを描いたもので、「手かせ」や「刑罰」を意味した。
やがて、手かせをはめられる(刑罰にかかる)危険から免れたことを意味するようになり、思いもよらぬ運に恵まれたことから、幸運・幸せの意味へと広がっていった。
つまり「幸せ」とは「仕合せ」であり、「為し合わす」ことだった。
「為す」とは動詞「する」で、何か2つの動作などを「合わせる」こと、なすことを合わせる、それが「仕合せ」であり、「幸せ」である。為し合わさることが巡り合わせであり、その巡り合わせに古来の人々は感謝し、幸せを感じてきた。
be happyではなく、do togetherが幸せの本来的な意義になる。
思えば、日本は共同体の繋がりを大切にする民族であったように思います。それは災害や飢饉に何度も見舞われ、人々は助け合わずには生きていけなかった。共助の行き届いた社会であった。
3.11の時も、誰もが助け合って生きていた。多くの人がボランティアや寄付を行い、絆の文字で被災地が繋がっていた。決して美談で語れるものではないが、日本人は困難の時ほど底力を発揮するように思う。
農業とミノリ
ここまで豊かさとは、満ち足りていること、さらに言えば、豊かであることの願い、イノリであること。また、幸せとは為し合わせであり、巡り合わせであることを説明した。
一方で歴史を追いかけていくと、人類は豊かさを追い求める旅であった。ヒトは火を使うことで、食物を調理し、道具を加工することを覚えた。食物は火を通すことで衛生的になり、脳に送るエネルギー量は一気に肥大した。
個人的には第二のエネルギー革命で農業という手法を手にしたとき、よくも悪くも人生ならぬ人類の生き方が大きく変わったように思う。
人類が誕生してからおおよそ600万年間、人はほとんど狩猟採集社会の中で生きてきた。その世界は飢餓や病気で悩むことがあれど、もっとゆったりした時間の流れだった。狩りに出るのは数日に一日程度で、一日の生活は太陽が出てから日が暮れるまでの間だった。
食糧の栄養バランスも適正だった。狩猟で得た肉や魚を初め、果実や木の実、山菜など今と比べても見劣りのしない食生活だった。しかし、人類は禁断の果実に手をつけてしまった。
善悪の知識の木の実を食べた人類は確かに賢くなったのかもしれない。農業による貯蓄が生まれたことで、社会や文明が生まれ、そこに善悪が生まれるようになった。しかし、自然からの恵みで何不自由なく暮らす日々から、土地に縛り付けられ、過酷な労働の中でなんとか食糧を生産する。それも厳しい税によってほとんど搾取されてしまう。
農作業は人類の体に適した形にできていなかったので、体を壊すことも多かったでしょう。土地の肥沃さや台風などの災害にも左右され、安定した生産を担保することも難しかった。さらに食生活の多様性が損なわれ、栄養バランスが偏った。実際近年の生活習慣病の多くは糖の過剰摂取によるものが多い。人口密度が増し、家畜と人類の交流がすすむことで、感染症のリスクも急増した。ジャレド・ダイアモンドの言葉を借りれば、「農耕を始めたことは人類史上最大の過ち」だった。
幸せを解剖する
ここでは有名なマズローの5段階欲求を用いて、整理していきたい。
さて、私的にはこれを3つに分解したい。生理的欲求と安全の欲求を合わせて生命の欲求。所属と愛、承認の欲求を合わせたアイデンティティの欲求。最後に自己実現の欲求、これを創造性の欲求として捉え直してみる。
マズローは欲求を引き出すことが幸せにつながると考えている。確かに、食に飢えたり、恐怖や不安のどん底にいる時、幸せを感じることは難しいだろう。現代に至ってもその状況が改善してるとも言い難い。
しかし、欲求には底がない。どんなに満たしても、底に穴があいたバケツのように乾きを知らずに欲求は膨らんでいくばかりだ。欲求と幸せは似ているようで違う。3つの欲求を手がかりに幸せの形を模索していく。
生命の欲求
衣食住という生活に必要なもの、身の安全が確保された状態、生きるために最低限度必要な欲求とも言えるかもしれない。さらには健康でいたい、長生きしたいという欲求もこれに含まれるだろう。
広義で言うとお金を稼ぎたいというのも、これに当てはまるだろう。お金は基本的には生活するため、食費や家賃、子供がいれば養育費や教育費など衣食住を確保するためと言えるだろう。お金があっても友達は買えないし、夢も買えない。お金で変えるものは限られているが、生活に必要なものはたいてい手に入る
大局的に見れば、産業革命以降は生命の欲求が加速された時代ともいえよう。第3次、4次エネルギー革命によってもたらされた産物とも言えるかもしれない。資本主義の台頭も大きな影響を与えているだろう。
資本主義が台頭することによって、全ての優先順位がお金を基準に考えるようになった。人類は経済の成長を目指すようになり、物事の判断は経済合理性によって行われるようになった。
そのおかげで富は拡大し、人の生活水準もずいぶんと上がった。昔は過酷な労働環境の中で搾取されていたものが、法律が整備され、健全な労働が可能になった。汚染物質が垂れ流しだったものが、環境も経済性の中に組み込まれずいぶんとマシになった。現代で餓死する人はかなり減ったし、SDGsを中心に持続可能な社会について真剣に議論されている。
富の拡大の副産物が科学だろう。もしかしたら戦争や軍事技術として拡大してきた面もあるかもしれないが、富の余剰が生まれたことで、科学に投資することができるようになり、その結果多くの科学技術が生まれ、現代を支えるようになったのは間違いないだろう。
そのうちの一つに医療がある。医療の発達には凄まじいものがある。特に平均寿命の伸びと乳児死亡率はここ百年で劇的に改善した。
人生100年時代とも言われるように、人類はかつてないほど長生きするようになった。子供もずいぶんと生きることができるようになった。これはきっといいことなのだろう。
だが、より良く生きるようになったかといえば、そうとはいえない。私たちは不自由な体を抱え、さまざまな病気に苦しめられながら晩年を過ごし、死んでいく。この長寿と生命倫理の狭間をもう少し考えないといけない。
死は最大の発明
煉獄さーーーん!
このまま医療が発達すると不老不死の世界がやってくるかもしれない。 LIFESPANで言及されているように老化は単なる病気であり、生活習慣を変えることで長寿遺伝子を働かせたり、長寿効果をもたらす薬を摂取することで老化を遅らせ、さらには山中伸弥教授が突き止めた老化のリセット・スイッチを利用して、若返ることさえも可能となるだろう。
脳科学の研究が進めば、不死も可能になるかもしれない。意識を他の体(クローンやサイボーグ)に写して、新たな体を手に入れることで死ぬということをもしかしたら克服することができるとしたらどうだろう。それが人類の向かう先で良いのでしょうか。
かのスティーブ・ジョブズはこのように言っている。
死が本当に不要なものならば、生命の進化の過程できっと淘汰されていたでしょう。ジョブズの言うように生物を進化させる担い手であり、日本でいえば温故知新である。死を恐れるあまり若い芽を摘んでいたら、それは進化ではなくただの後退になってしまう。
死の螺旋は恐れるものではなく、受け入れるものだろう。健康で若々しく生きることは目指しても、死の螺旋を断ち切ることは許されない。死という人生の期限があるからこそ、私たちは目的をもち、生きる意味を探り、生というものが愛おしいものになっていくのだ。そこに美しさが宿る。
現代はドーパミンビジネス
現代は幸せというよりも快楽に溺れているように思う。あらゆるマーケティングが人間の快楽の隙を突いて、消費行動に促そうとする。SNSの通知設定、ネットサーフィン、あらゆるものがあなたの脳をハックし、集中力を削ぐ。
食というものを考えた時も、現代の食は明らかに脳をハックしにかかっている。ファストフードは脂質や塩分、保存料で溢れているし、清涼水飲料は当分の塊だ。女子高生が喜ぶパンケーキもタピオカも、独り身の社会人が食べるラーメンもそれを食べるようにマーケティングが促しているし、自分の意思で我慢することはとても難しい。
これらの食べ物は、生存の欲求というよりも生存の欲求に乗っかって快楽を生み出す悪魔である。糖や脂質はドーパミンを過剰に生み出し、快楽を感じるが、その結果として糖尿病や他の病気を生み出すリスクになる。
さまざまな健康本が指摘するように、食べ過ぎや偏食は体の不調や病気、ストレスの原因、極めつきは老化や早死の原因になる。進化医学的には、「人間の体は基本昔のままなのに、時代だけ進んで起きる問題」の一つである。肥満・不眠・鬱・不安などの「文明病」は古代には存在しなかったと考えられている。
もともとヒトはハイカロリーな食事を好むように設計された生物なので、少なくとも意志の力だけで「肥満」に立ち向かうのが時間のムダなようである。食べ物から距離をとるような環境を作ってあげることがとても重要なようです。
その上で、食べ物に対する態度は”美味しく”いただくということこそが肝要である。現代だと生産から食にありつくまでのプロセスがとても長いので、なかなか食に対する有り難みを感じづらいですが、できれば生産者の顔が知れるととてもいいです。コンビニ弁当やラーメンだとどうしてもそこにあるものを胃に運ぶ作業にしかならないが、生産者の顔がわかるとそれがどういう想いで作られたのか、どんな風に調理されたのか、そういったことがわかると食を味わうことができるようになる。できれば、それが自分で作ったものなら尚更、その苦労を体に染みさせて食べることができるだろう。
釣りや山菜採りでもいいから、食というものに自分の苦労というエッセンスを加えれば、食に対するありがたみが一層増すだろう。
とはいえ、現代に生きていると加速された時間に晒されて、食べる間もないということが生まれてしまうかもしれない。そうすると結局料理する時間がないから牛丼やラーメン、もしくはコンビニ弁当のようなファストフードにたどり着いてしまう。
できれば、調理する時間くらいは持ちたいものである。自炊をすれば、自分の健康状態も気にするようになるし、少しだけでもゆとりのある時間を得ることができる。まずはクックパッドからでもいい。そこから野菜炒めに至って少しずつ料理ができるようになる。
そこから少しずつ関心の輪を広げて、国産のものを買ってみるとか、知っている農家から買ってみる、どんなラベルや表記が使われているかなどに至ってくる。もっといえば、畜産の現状を知った上で、気候変動の問題の解決のためにノーミールデイを作ってみるとか、フードロスの問題に関心を持ってコンポストなどを始めるなどというアクションまで進めたらベストである。
そこまでは言わなくても日本人は”いただきます”という素晴らしい挨拶を持っているのだから、もっと食に対して謙虚に感謝の意を捧げながら食べるべきである。それだけで人生に対する態度も変わってくるだろう。
アイデンティティの欲求
ここまで生命の欲求に関して、生命とお金、食に対する態度について説明してきた。生命の欲求は、資本主義社会以降、お金を稼ぐことでその欲求を満たせるようになった。そしてお金が目的になり、富が拡大することで生命倫理や食までもが異常な拡大を見せ、逆に健康状態やサピエンスとしての存在意義を脅かすようになってきている。
生命の欲求に関して人類が目指すべき方向は、誰もが健康でいられる状態を作ることであり、特に食習慣がそれを脅かす可能性が高いことを指摘した。食に対しては”いただきます”という日本古来からの価値観を武器に、感謝して食べることや生産者とのつながりが大事であることも言及した。
ここからはマズローのいう所属と愛の欲求、承認欲求について、それらを含めたアイデンティティの欲求として咀嚼していく。
まずアイデンティティは、自分のなかの真の自己と、その内なる自己の価値や尊厳を十分に認めようとしない社会的ルールや規範から成り立つ外の世界とのギャップから生まれる。つまり、あなた個人の価値観や尊厳が社会によって認められないとき、その違和感からアイデンティティを認識する。もっといえば、社会に対してあなたとは何者かを意識するということである。広義には、「同一性」「個性」「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」「特定のある人・ものであること」などの意味で用いられる。
私たちは常に誰かに愛されたいと思うし、どこか安心できる居場所を求めている。その安心できる場所から承認されないと不安に駆られるし、自尊心を傷つけられる場合もある。
尊厳の承認に関して対等願望と優越願望は覚えておきたい。対等願望はほかと平等な存在として尊敬されたいという要求を、また、優越願望はほかより優れた存在と認められたいという欲求を意味する。私たちは不公平な扱いを受けるとすごく不快な気持ちになるし、あなたはすごい!と褒められたい気持ちを強く抱えている。例えあなたの生活が十分に満ち足りていたとしても
哲学者ヘーゲルに言わせれば「承認をめぐる闘争」こそが人類史の究極の推進力であり、近代世界の出現を理解する鍵である。それに準じてアイデンティティを少し深ぼってみる。
歴史でみる承認欲求
歴史的にみると、おそらくアイデンティティもおよそ一万二千年前、農業による定住によって、大きく認識させられることになったと推察できる。それまでは、家族単位で家族による愛があればよかったし、当然そこには居場所があった。多少の承認欲求はあっただろうがそれが争いごとの火種になることもなかった。
しかし、定住が始まると社会はムラ化していく。取り締まる長が表れたり、定住する場所によって、土地の肥沃さや水はけなどが変わり、身分が生まれてくる。ムラが健全に機能しているうちはいいが、災害や他のムラからの侵害があった時は、身分の差が顕著に表れ、不平等感を味わい著しく自尊心を傷つけられただろうし、居場所を奪われるという危機にも瀕したかもしれない。
社会がもう少し複雑化していくと、階級社会が世界に広がり、いわゆる王族、貴族、庶民、奴隷のような区分が生まれ始める。特権階級はその中で凄まじい権力争いが生まれるし、庶民は常に権力者の権威に従うことになり、常に屈辱を味わっていただろう。一部の権力者のみが自尊心を守り、承認欲求を満たすことができた。
さらに近代に入り、資本主義の台頭で金銭と地位が密接に結びつくことになる。かつての身分社会による規定が淘汰され、資本を持つものが世界を作り変えるようになった。さらにそこに教育システムが介入することで、学歴が地位の基準になる。つまり、学歴があれば、大企業など資本を持つ会社に入ることができ、その大企業は資本を持つことで国や社会から権力を担保されることになる。だから私たちは受験戦争に参加し、死に物狂いでその地位を獲得するために努力をする。
金銭はただ単に豊かさや資産への単純な動機になるという以上に、地位と密接に結びつくことで人間古来からの承認欲求を満たすようになった。
政治セクターにおいても、承認欲求をうまく利用している。さまざまな場面で政治指導者たちは、集団の尊厳が傷つけられたり、ないがしろにされたり、無視されたりしているというイメージを使って支持者を集めてきた。
屈辱に対する憤りはどの国でも強い力となった。たとえば、大阪なおみの一連の行動で日本でも大きく取り上げられたが、警察官によるアフリカ系アメリカ人射殺事件が次々と起こって広く報じられ、そこから「ブラック・ライヴズ・マター」の運動が生まれた。野放しにされている警察による暴力の犠牲者に世界の関心を向けさせようとした運動である。
アルカイダ創始者のオサマ・ビンラディンはパレスチナの状況に目を奪われて、イスラム教徒の屈辱に対して強い怒りを感じた。彼の怒りはのちに同じ信仰を持つ若者にも共鳴し、若者たちは、世界中で攻撃され抑圧されていると自分たちが考えるイスラム教のために志願してシリアで戦った。かつてのイスラム文明とイスラム国家の栄光を蘇らせたいというのが彼らの願いだった。
そういった感情を上手に使いながら支持を集めていくのが、政治的指導者の十八番である。特に独裁的な政権、トランプもプーチンももしくはヒトラーはこういった感情をかなり理解していたに違いない。
現代に入ると承認欲求はさらに加速される。その原因は大きくSNSの普及とそれを可能にしたITの発達によるところが大きい。SNSが普及することによって、手軽に個人が社会に対して情報を発信できるようになった。 それと同時に、その投稿に他者がリアクションできるようになったことが承認欲求の高まりに拍車をかけた。
現代の希薄したコミュニケーション、物事が分断されコミュニケーションが非合理的なものになり、マニュアル化していく社会においても人は誰かとのつながりを求めるものである。ITによってオンライン上で誰とでもつながることができるようになり、最初は単にコミュニティ内のコミュニケーションにとどまっていたものが、いいね、リツイートの機能によって承認欲求が肥大化される。自分が投稿した記事にイイネをつけてほしい、リツイートされたいといった感情を強く刺激するのである。
そこにはもちろんオンラインビジネスなどの金銭的な目的も含まれるだろうが、むしろもっといいねが欲しい、閲覧数が欲しいという承認的な欲求の方が高まり、次第に目的がどうやったら閲覧数が増えるのか、フォローの数を増やすにはといったズレた視点に動かされてしまう。これはSNSに限らず、テレビでもなんでもそうで、マーケティングというものがどうやって購買意欲を働きかけるか、どうやったら企業の名前を認知してもらえるのかといったところに視点が置かれるので、社会全体が承認欲求を掻き立てるようなデザインになっている。
個の時代の到来
さらにSNSを代表とするIT革命の力で個の時代が呼び起こされる事になる。産業革命以降、工業が世界全体を牽引し、そのうちに多くの企業が立ち上がることになる。そして忘れてはいけない1995年(私はまだ生まれてもいないが)windows95が発売される。この時IT革命の鐘がなった。ITがもたらしたインパクトは大きかった。インターネットやケータイが次々に発売され、世界がインターネットを介して繋がるようになり、これまでより世界はずっと小さいものになった。
IT革命はGAFAのようなメガプラットフォームも産んだが、同時にSNSという個の時代を呼び寄せるようにもなる。それまでは組織に所属することでしか自分の力を発揮できなかった人たちがSNSでの発信を武器に、ビジネスもマーケティングもなんでもできるようになった。次第にインフルエンサーなどの職業が生まれ、そこらへんの芸能人より知名度も稼ぐ人も出てきた。言い換えれば、個人が企業の中に埋没していた時代から、個人が前面に出る時代へと変わってきたと言える。
SNS的なビジネスの観点に限らず、21世紀は特に個の平等が強く意識された時代とも言える。かつて階級によって階層化されていた社会が庶民の権利を認めるようになり、福沢諭吉のいう「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」人間は生まれながらに平等であって、貴賤・上下の差別はないという時代がやってきた。しかし、福沢諭吉が言いたかったのはここから先で実際には差別も不平等もある、それは学問がないことに起因している実学を身につけよ!ということだった。
それはさておき、身分に限らず学問さえ志せば誰でも力を持てる時代になった。その動きはさらに加速することになり、障害者や女性の権利から始まり、LGBTなどのマイノリティや外国人労働者などの権利に政治が目を配るようになった。ゲイというだけで、外国人という理由だけで差別され、尊厳が傷つけられていることに強い憤りを感じる時代になった。
こうして承認欲求の高まりとともに個の時代を迎えるようになり、個々でビジネスが営めるようになったとともに、平等で尊厳が保たれることを強く要求する時代に変容していったのである。
アドラー心理学による承認欲求の批判
個の時代に入ったことでますます承認欲求が加速するようになった。この欲求を駆使して、一流のアスリートやアーティストが生まれたり、政治的に名高いリーダーが生まれる一方で、集団の優越性を認めさせようという欲求に転じてしまうことがある。それが独裁的な国家だったり、強力なナショナリズムを生むこともある。
私たちは、このアイデンティティを揺らがす承認欲求とどのように向き合えば良いのだろうか。そこでヒントになるのがアドラー心理学である。
アドラー心理学は、日本で200万部を超えた「嫌われる勇気」で一躍有名になったが、「自己啓発の父」として注目されているアルフレッド・アドラーによって築かれた心理学である。
アドラー心理学の重要なポイントは「目的論」と「課題の分離」である。
すべての行動には目的がある。何かの行動に、たとえばトラウマのような原因を求めるという思考は、この目的を隠しているといえる。
たとえば、「怒る」という感情は目的があって作り出されたもので、何かの原因によるものではない。猛烈に子供を叱っている母親は、その行為で子供を屈服させたいという目的があって怒っている。こういった感情も行動も自分の目的に則しているという考え方を目的論と呼んでいる。
こと承認欲求に関しては強く感情が働く。誰もが社会的に認められたいという欲求があり、なぜ人は組織のなかで出世したいと願うのか。なぜ地位や名声を求めるのか。それは社会全体からひとかどの人物であると認められたという承認欲求があるからだと考える。
しかし、アドラーはそれを「他者の人生を生きる」と否定する。
だから他者の課題と自分の課題をしっかりと区別し、自分の課題にフォーカスすることで、自分の人生を生きることができると説く。
確かに、「7つの習慣」でも第一の習慣に「主体的になる」ということが成功者になるための最初のステップだと言われている。自らの本当の望みを知り、自分自身の人生に責任を持つことが、承認欲求を捨て、主体的に幸せに生きることの秘訣かもしれない。
アイデンティティの欲求の中でも、現代は承認欲求がどうしてもフィーチャーされがちである。それは個の時代で、マーケティングもシステムも個にパーソナライズしたものに移り変わり、承認欲求を掻き立てるものになっているからである。しかし、同様に所属と愛からアイデンティティをもう少し掘り下げてもいいだろう。
所属というのは居場所だ。あなたが疎外されていない大切にされていると感じるような場所、安心してありのままでいられるような場所、これを居場所と呼ぼう。そして愛も色々な形がある。家族愛、恋愛、親友との友情もまた愛の一種と呼ばるだろう。所属は組織対個人の関係性、愛は個人対個人の関係性、いづれにしろ人との関係性、つながりが重要である。
あなたが適切な居場所、愛を知っていれば、承認欲求がそこまで掻き立てられることもないだろう。なぜならすでにあなたは承認されているからだ。しかし、現代社会では、この所属と愛をますます感じづらい世の中になってきている。
資本主義社会は分断と合理化で成り立っている。例えばイタリアン料理を1人で作ろうと考える。トマトや小麦粉、チーズなどの原材料が必要になる。分断ができていないと、チーズを作るために牛を育てて、トマトや小麦を育て、さらにそれを加工して…ととんでもないことになる。というより現実的には不可能だろう。
しかし、資本主義はそれを可能にする。役割分担することで、農業をする人、貿易をする人、料理をする人、それを提供する人。そうやって様々な役割分担が行われることで社会が成り立っている。だが、経済がより拡大するにつれて、物事が分断され、つながりが見えなくなってしまった。
私たちは誰が作ったか知らない料理を食べ、どこから食べ物がやってきたかを知らない。誰が作った部品なんか知らずに車に乗っているし、パソコンがどうやって動いているかなんて知らない。
分断は効率化を産んだが、物事のつながりを断ち切り、それは人との関係性にまで及んでしまった。都会にいれば、アパートの隣にすむ人は他人だし、電車に乗る人も、同じ会社にいたって他人になる場合もあるかもしれない。人との関係性が切り離されてしまった。これは孤独死や核家族化の問題にも繋がってくる。
田舎は狭苦しいルールがあるかもしれないが、人との関係性を築くことが重要になる。困った時はお互い様といったような共助の姿勢がある。食べ物やちょっとしたものは地域内で回せるからお互いの関係性が見えやすい。
アイデンティティは他者との関係性の中から生まれてくるが、他者との関係性が十分に築かれないまま大人になっていくと、このアイデンティティを確立しにくいのだろう。実際、就職活動をしていてもやりたいことや自分の本当の望みを知っている人の少なさたるや。だから結局地位の高い仕事、給料の高い仕事という2点に引きずられる。
さらに人との良質なつながりがないと、孤独や鬱のような症状にも悩まされることになるだろう。現代の自殺率の高さは間違いなく、この人との関係性が乱れているからだろう。
多くの人が、個人や組織において十分な人間関係を築けずにいる。そして承認欲求が満たされず、対社会からの承認を求めるようになる。それがこれまで説明してきた大きな括りとしての承認欲求と言えるだろう。
私たちは個においても、組織に対しても、社会に対しても十分な関係性を築けずにいる。改めてこの関係性を紡ぎ直し、個々の尊厳が十分に感じられる社会にシステムとして築き直していく必要がある。
以前書いた私個人の関係性の捉え方も参考になると思うので、ここまで読んでくれた読者はぜひ読んでみて欲しい。
創造性の欲求
マズローの説を基軸にこれまで、生理的欲求と安全の欲求を合わせて生命の欲求。所属と愛、承認の欲求を合わせたアイデンティティの欲求を解釈してきた。いづれも根源的な欲求でありながら、現代においてもその欲求と適切に向き合えているかというと疑問が残る。
そして最後に自己実現の欲求、これを創造性の欲求として解釈していく。マズローの5大欲求説の最上位に位置する欲求であり、自分にしかできないことを成し遂げたい、自分らしく生きていきたいという欲求を指す。
「創造」とは、人が価値をつくり出す現象のこと。例えば発明やデザインだけでなく、冷蔵庫の残りものから料理を作るのも効率の良い仕事の進め方を考えるのも一つの創造であり、誰もが日常的かつ本能的にやっていることである。自分にしかできないことを成し遂げるということは言ってしまえば、自分らしいものを創造していくこと。そうしたアートを実現していくこと、これが最上位の幸福につながってくる。
創造性の歴史
歴史家Daniel J. Boorstinによると、「創造性の初期の西洋的概念は、創世記に与えられた創造の聖書の話でした」 しかし、ルネッサンス時代までは現代的な意味での創造性ではありません。 天地創造に見られるようにユダヤ、キリスト教の伝統において、創造性は神の唯一の領域でした。
現代の創造性のコンセプトの発展はルネッサンス時代に始まります。創造が神ではなく個人の能力から生まれたと認識され始めた時だ。人間の知性と成果を重視し、人間中心の世界観を強く発達させてきた。
これは概念的な歴史だが、創造というものが神の仕業に値する神聖なものだったことは間違いない。
しかし、よく考えてみるとエジプトのピラミッドや中国文明の甲乙文字など相当なものを発明していた。いや、それ以前から道具というものを生み出し、人類の発展に寄与していた。火を起こす道具、木の実をすりつぶす道具、土器に見られる文様、家のデザインなど古代から創造性というものをフルに発揮して時代を作りあげている。
日本も例外ではない。縄文時代は、建造物や植物の園芸や縄文土器の複雑な縄の模様などかなり複雑な文明を築いていた。縄文時代は狩猟採集社会と言われるが、実際には狩猟採集と菜園式農林業を組み合わせたかなり高度な「木の文明」を創出していたとわかっている。
日本はリミックスの文化を持つので、多くの発明や創造は海外から、特に中国を中心にさまざまな文化を輸入してきたことにはじまる。今から1200年以上も前に、中国から渡来した漢字から平仮名や片仮名を生み出した。江戸時代、鎖国という特異な時代の中で、日本人は浮世絵や歌舞伎など独特の文化を創り出した。明治期には、ヨーロッパ近代文明の摂取、戦後の高度成長期に至る過程では、アメリカを中心に諸外国の先進技術を輸入し、それらを改良して、先端技術に育てていった。
日本の創造性というものはある意味リミックスの力と言ってもいい。トヨタの車のように、海外から輸入してきたものを日本流にしていく。安くて燃費のいい車という形でトヨタは編集したわけだが、外からのものを応用し、自分たちの形に編集していく作業が得意な民族である。
明治の文明開花、そしてGHQの生み出した憲法など一部リミックスが起こらなかったものがある。それが今厚い障壁として日本人に立ち向かっているような感覚がある。資本主義経済や、民主主義などは明治期に導入されたものだが、あまりに色々なものが一気に導入されすぎたせいで、エディティングが起きなかった。そのまま導入され、やはり今経済も政治も大きな混乱を迎えている。
ノーベル賞で経済学賞や被爆国なのに平和賞を取れないのはここら辺が原因なのではないかと思っている。日本は一部でアイデンティティを失ってしまった。
さて、少し話を戻そう。オランダの歴史家ヨアン・ホイジンガはホモ・サピエンス(考える人、知恵ある人)が人間のラテン語の学名のように、人間を遊ぶ存在と定義して、ホモ・ルーデンス「遊ぶ人(Homo ludens)」とした。
ホイジンガ曰く、人間とは「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」のことである。遊びは文化に先行しており、人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた。つまり、遊びこそが人間活動の本質であるとした。
遊びは、文化・文明よりも古く、動物の時代から行われ、想像力で現実を形象化することにより、一時的に非日常的で美的な意味合いを生活に添える行為としている。遊びの特徴としては
・何らかの目的のための活動ではなく、その行動自体が目的である
・ルールを互いに守る
・相手を尊重する
・競争的である
などが挙げられている。
ホイジンガが遊びに注目したのは、遊びが本来の生の形式ではないということにある。ありあまる生命力の過剰をどこかに放出するもの、それが遊びであった。この意味で、農業革命での余剰から文明が生まれたというより先に遊びがあり、それがまさに創造性を育んでいた。
ホイジンガは遊びに、「緊張、平衡、安定、交代、対照、変化、結合、分離、解決」などがあるとしているが、これは編集作用の特色というものである。ただ、ホイジンガはそれが編集作用であるというよりも、あくまでそれが遊びだと考えた。遊びには社会や学校のメタモデルがあり、遊びには哲学や市場のメタルールがあるということだ。
そしてスポーツや詩などの現代でイメージする遊びから、戦争や政治なども遊びから生まれるものだとしている。ただ現代のスポーツ、ゲーム、戦争などにおいて遊びの要素がなくなるとも言及している。
確かにアスリートは確固たる理論とその訓練の上に成り立っている。要はスポーツという感性に基づくものに理性を持ち込んだことで、スポーツというものに遊びが排除されてしまったのだ。
近代まで徹底的な科学によって、あらゆるものが解明されてきたが最近になって論理の限界を迎えるようになってきている。それが第六感だったり、デザイン思考、アート思考などの思考法が注目されていることにもつながってくる。
論理の落とし穴
いま、論理・戦略に基づくアプローチに限界を感じた人たちのあいだで、「知覚」「感性」「直感」などが見直されつつある。
論理とは答えを導き出すプロセスである。ビジネスでもスポーツでも論理を突き詰めた結果は一つの答えに行きついてしまう。特にビジネスはニッチを見つけないと生き残ることは難しいが、論理思考のもとに戦略を練っていくとどうしても行き着く先が同じになる。そうなると後は運とか単純な力勝負になり、世界に多様性というものが失われるようになる。
近年では、一流のビジネスマンや戦略コンサルの人が美術館にいくことが増えている。そういうアートの研修も増えてきている。それが「直感」の見直しである。
そもそも現代はVUCAと呼ばれる時代に入っている。VUCAとは「Volatility=変動」「Uncertainty=不確実」「Complexity=複雑」「Ambiguity=曖昧」の4つの語の頭文字を取った造語で、あらゆる変化の幅も速さも方向もバラバラで、世界の見通しがきかなくなったということを意味している。
霧が濃くなる世界でコンパス一つで目的地にたどり着くことが難しくなってきた世界で、コンパスだけでなく、直感という自分の中の感性を生かしながら、感覚で道を見つけたり、もしくは行った先で柔軟に適応する力が必要になってきている。
論理が答えを導き出す手法であるとすれば、感性は答えを生み出す手法になる。「自分だけの視点」で物事を見て、「自分なりの答え」をつくりだす作法が必要になってくる。世界が変化するたびに、その都度「新たな正解」を見つけていくのは、もはや不可能だし、無意味になってくる。
資本主義などの経済合理性の前に遊びの要素が失われてしまった。「遊びこそが文化を生む」。そして祭りはもとより、音楽、絵画、文学、哲学、演劇、映画、舞踏、スポーツは、遊びであり文化である。これを大切にした教育は、人々を最も幸福にする。その価値はビジネスとしても見直されつつあるし、これからの社会を考える上でも重要になってくる。
コロナでの芸術の排除
ところで、コロナ禍で真っ先に中止になったものはなんだろうか、それはアーティストの活動である。アートは要は自己実現の欲求であり、最上位のものに位置するがために、逆にいうと生活の必需品ではない。
スポーツも同様である。やはり、自分の命を守ること、食事を得ること、仕事をすることが優先順位が高めでどうしてもアーティスティックな活動は制限されがちである。確かに遊びが生命活動の余剰だとすると、こうした活動はギリギリの状態で生きている中では尊重されにくくなってしまう。
それでもこういう世の中だからこそ芸術やスポーツのような創造的な遊びが大切になってくるだろう。絵を描いたり、音楽を聴き、演奏すること、体を思いっきり動かすこと。これらは大変創造的である。
さらに言えば、受動的なエンタメではなく、創造的な遊びである。そこには苦労や時には苦い経験も含むことになるかもしれないが、それも含めて達成した喜びはかけがえのない思い出になる。
例えばマラソンの完走を目指すとすると、毎日ある程度のトレーニングが必要になるだろう。朝もしくは夜疲れてから走るというのは相当な精神的な負担になるはずだ。実際に大会に出てる間も42kmという途方もない距離を走り続けなければならない。それでも、フルマラソンを完走できたとき、やりきったという感動は人生にかけがえのない喜びと自信を与えてくれる。だからこそあれだけの人がマラソン大会にエントリーするのだ。
私はアニメやゲームのインドアも好きだが、ただ受動的な娯楽だけだと達成感がなく、物足りなくなってしまう。現代人はもっと自然と遊び、芸術や文化を鑑賞していくべきだ。そうした創造性の先に、自己実現という至高の幸福があるし、世界の多様性や文化などが生まれてくる。
幸福に生きること
さて、3つの指標から幸福について考えてきた。「生命の欲求」、「アイデンティティの欲求」そして「創造性の欲求」だ。「生命の欲求」は要は誰もが健康でいられる状態を作ること、生命というものに執着するのではなく、よりよく生きること。今の時間の流れや食べていることに感謝していくことが幸福につながってくるとした。
「アイデンティティの欲求」は厄介な欲求である。古来から承認を求める闘争は激しく、権力や地位、名声こうしたものを人類はとにかく求める。ただこうした先に行き着くのは、権力剥奪や嫉妬などの不安要素である。
なので承認欲求というものを捨て、本来の人や自然との繋がりを取り戻していくこと。そうした愛の中に関係性を築いていくことが、アイデンティティを取り戻していくことにつながってくる。
そして「創造性の欲求」は至高の領域である。何かを生み出すということは自分の自己実現に繋がり、それが創造性の欲求を生み出す事になる。こうした遊びをしていくことが結局のところ文化やアートを生み出し、次世代に残してく遺産にもなる。ただし、その重要性は把握されづらく、コロナ禍においても疎かにされている。
さて、古代ギリシャのストア派哲学者エピクテトスは「豊かさとは、多くの富を所有することにあるのではなく、少ない欲求を持つことにある。」と指摘した。仏教的に言うと煩悩を捨てる。現代で言えばミニマリズムである。
現代では、あらゆる情報や欲が渦めいており、幸せの本質というものが見えにくくなる。承認欲求に駆られたり、つい衝動買いをしてしまったり、ドーパミンの支配に晒されてしまったりする。
原始仏典では、「慈・悲・喜・捨」の四つのこころを無限に広げること「四無量心」とも呼ばれる、瞑想の方法を提唱している。要はマインドフルネスである。現代のビジネス界でも注目されているが、この価値は見直した方がいい。
慈とは日本では慈しみの感情を表しますが、慈しみというよりはむしろ友情にちかい感情である。みんな仲良くしましようという感情である。
悲は哀(憐)れみの感情である。日本流に言えば憐憫の感情とでも言いましょうか。悲しんでいる人を助けてあげたい、苦しみの渦中にある人を救ってあげたいと思う感情のことである。
喜はともに喜ぶ感情である。人が幸福になって喜んでいるとき、自分もそれを見てともに喜べる感情である。しかしながらふだん私たちは、自分の回りのだれかが仕事が上手くいったり、人が大金を手に入れたり、ライバルが美人の恋人を持ったりすると素直に喜べず、嫉妬という感情に苦しめられる。これは気をつけた方がいい。
最後の四番目の捨は平等で冷静な感情を表す。人間はどんな物ごとに対してもいろいろな感情を抱くものですが、捨はその感情に流されないよう戒め、生命のすべてを見極める心のことである。
こうしたこころの中の悪い気持ちの煩悩を、善い行いの気持ちに、書き換えてくれる瞑想をなるべく心がけて行った方がいい。できれば自然の中で、ゆったりと時間をとって、自然とつながる感覚を味わえるといい。
私は屋久島に行った時毎日瞑想をしていたが、自然と一体となる感覚、このガイアとの歴史に身を置く、個が全になり、全が個になるような感覚を味わった。一度でもこういう感覚を知っておくと、不安が押し寄せた時、孤独を感じた時、忙しさで頭がいっぱいな時にも心の中の自然を取り戻すことができる。
幸せとは一つの指標で定義できるものではないけれど、結局のところ世界と繋がり、自分の大切な価値観を知り、それを忘れず自分らしく表現できること。こういったところに幸せの本質があるのではないだろうか。
持続可能な社会とは何か
これは、ブルントラント・ノルウェー首相(当時)が1987年に公表した報告書が取り上げた概念で、地球環境保全と開発を共存し得るものと捉え、地球環境を考慮した節度ある開発が重要であるという考えである。
よく聞くSDGsはいかがだろうか。
持続可能という言葉は1種の現代のキーワードになっている。特にSDGsというキーワードは世界の課題を包括的に捉え、世界中の人たちが掲げた目標であり、明らかに歴史の転換点ともなる大きな成果だった。
私もこの持続可能な社会というものを作りたいと心から願い、これまで多くの経験や知識を得てきた。しかし、持続可能という言葉は包括的であるが故に深めれば深めるほど抽象的で、非常に曖昧な概念でもある。正直に言って持続可能という言葉を適切に理解し、具体的にイメージできている人は多くないだろう。聞こえのいい言葉で、なんとなくいいことをやっていこうねー程度にしか議論できていないような気がする。
なので、この人類のテーマとも言える持続可能性という言葉に焦点を当て、議論を進めていくことで、見据える未来をもう少し解像度高くすることができるだろう。
誰にとって持続可能であるのか
5W1Hの中でも一番曖昧なのが誰にとって持続可能であるかという点である。これは人類にとってなのか、生物にとってなのか、ガイアにとってなのか。
たびたび出てくるサピエンス全史のハラリ氏は、現代社会を人間至上主義として批判している。植物も家畜も工業的な体制に整え、生命の倫理など微塵にもなく、ただ人間に食べられるための食糧としてしか考えていない。
ここで残酷な光景を紹介しよう。これが何かわかるだろうか。
白の背景にポツポツと赤の点がある。これは鶏である。現代の資本主義を追い詰めた結果、これを見て何も思わない人は、現代社会の闇に飲み込まれてしまったか、鶏という生物を認知できていないかどっちかであろう。
鶏に限らず、食用肉の生産は相当に残酷だ。生命の自由を奪われ、箱詰めにされたあげく、薬によって感覚を麻痺され、最後には殺される。
これを人間至上主義と言わずになんなのだろうか。もちろん、これはかなり誇張して書いているし、全てがすべて、このような生産体制というわけでもない。しかし、こういった一面もあることは認識しておかなければならない。
もしかしたら人間も大して変わらないのかもしれない。仕事行きの列車に箱詰めされ、朝から晩まで働き、工業化されたパンとラーメンを片手に、ビタミン剤と栄養ドリンクでなんとか一日を過ごす。休みはあれど、消費ばかり…最悪の場合は過労死する人も出てくる。
ペットだって残酷な一面を持っている。あの愛くるしい動物たちは、それぞれ値段がつけられ、買われれば、ペットとして競売の道具から昇格できるが、買われなければ殺処分される。たとえ買ってもらえたとしても、飼うことから放棄され、捨てられるものもいるし、最悪の場合これもまた殺処分のワゴン行きである。
これらの問題を包括的に捉えているのが動物福祉という考え方である。多分知ったところで、人類が肉食をやめることはできないし、工業的食肉生産は闇が深いのでシステムを変えることはものすごく難しいだろう。
それでも一ミリでも食物に感謝して食べることができれば、それだけでも社会はましになるのではないか。
もう少し、時代を遡れば白人至上主義社会だった。おそらく大航海時代くらいからだろう。帝国主義社会が始まった。欧州は帝国としてアフリカをはじめとするさまざまな地域を植民地化するに至った。欧州を代表とする白人がアフリカにいる黒人やアジアにいる東洋人を悉く制圧し、まさに白人至上主義の社会になった。今でさえ、black lives matter運動のように明らかな差別が問題視されている。
歴史は、常に不平等からの支配の脱却で動いてきた。フランス革命における市民の権利の獲得、アパルトヘイトの撤廃に尽力したネルソンマンデラらの行動、非暴力不服従で指導したガンディーらの独立運動、1960年代後半から1970年代前半にかけて女性解放運動。
そうやって、選挙権、言論の自由など、幸せとは何かの項で述べたような生命の欲求、アイデンティティの欲求を獲得してきた。自分が自分らしく、ありのままでいられるように、不安がなく、安定した生活ができるようにその権利を拡張してきた。
はじめは白人のごく一部の貴族だけが得てきた個としての権利を、白人の男性市民、白人以外の人種全体、男性だけではなく女性も、そして人類全体とその権利を拡張している。
改めてこの意味で持続可能な開発の定義を見る
この意味でのサステナブルとは、子どもたちやその先の孫たちの自由を奪わないこと。すなわちお互いがお互いの自由を承認し合う「自由の相互承認」の時間軸を超えた拡張である。
現代行っている開発や技術、政治システムなどが、将来世代へのレガシーになっても、ツケになってはいけない。その意味で現代の行き過ぎた情報社会やテクノロジー、エネルギー利用を見直そうではないかという動きと捉える。
そして、同時にハラリ氏のいう脱人間主義的な動きも加速している。人類全体の尊厳の尊重から家畜やペットの尊厳の尊重、さらにはガイアに生くべき生命全体へとその種を越えた「自由の相互承認」を拡張している。
ひとまず、整理しておくと誰にとっての持続可能かの答えは、とりあえずは将来世代を含めた人類全体、しかし、そこには生命全体を含めた持続可能性の議論もある。
ガイアとしての「自由の相互承認」
ちきゅうにやさしいってこのロゴを見たことがあるだろう。私たちは地球や自然を大切にするようにと教わってきた。きっとそのことは大切だろう。
世代を超えた「自由の相互承認」にあたって、地球環境問題、特に気候変動が最重要課題として捉えられるようになってきた。すなわち、将来世代に渡って自然の恵みを享受できるように、気象や災害の恐怖が拡大しないように、地球環境を守っていこうという動きが拡大している。
言ってみれば、世代を超えた「自由の相互承認」を考えることは、種を超えたさらにいえば、ガイアとして「自由の相互承認」を考えていくことと等しくなってくる。さて、本当にガイアにとって大切なこととはなんだろうか。
私たちは文明を発展させようとしたその時から、ガイアと無縁ではいられない。食物を作ることは、そこにいた生物種を外に追払い、人間との共存に向いた植物種だけを厳選し、それを育てることになった。食物を作るには水が必要だし、住むとなると木や燃料なども必要になる。そうなると自然に流れていた水脈に変動を起こし、木も伐採され大きな自然への負荷をかけることになる。
そもそも文明を発展させる前から、サピエンスは多くの種族を滅ぼしてきた。ネアンデルタール人も然り、マンモス然り多くの生物を滅ぼしている。生きるということは穢れがつきものだ。私たちは生命をいただくことでしか生きることができない。人類が拡大するということは、他の生物のニッチを奪う事になる。私たちが領土を拡大しようとすれば木を切り、山を拓き、多くの生態系を破壊することになる。
それでも、ヒトが死ねば土に還ってまた新たな生命が生まれる土壌になるし、ヒトと共生してきたさまざまな生物もいる。農作物も豚や鶏なども人間がいなければ絶滅の危機に陥るだろう。人間が手をかけ、病気や害獣から守ることで初めて生き延びることができる生物もいるのだ。とても人間至上主義的ではあるだろうし、そのそれぞれの生き物にとって本当に良いことなのかは分からない。だけれど、それが共生の歴史であるし、お互いがいるから発展してきたのは事実だ。
ニッチを奪えば、新たなニッチを見つけるものもいる。ネズミやゴキブリは人間の変化させた環境に素早く対応させて、自分たちの種族を繁栄させている。生態系はあまりに多様で、人間が何かを語るにはあまりに無知すぎるように思う。人間が及ぼす影響が生態系にとってはいい方向に運ぶこともあるだろうし、悪い方向に運ぶこともある。そうやってエコシステムは出来上がっている。エコシステムにおいて人類はただの一つの歯車に過ぎない。
ガイア理論の話に戻ると、ガイアは自分自身で自己調整機能を働かせている。地球の構成要素は自己調節機能として進化していくとされている。構成要素には、気温や大気の容積、海水の塩分濃度などが含まれる。地球は長い時間をかけて太陽に近づいているが、それにも関わらずその近づいた分に対してさほど気温の変動がない。これをガイアの恒常性の機能と呼んでいる。二酸化炭素を吸収する生物を生み出したり、火山などの機能を使うことで、まるで生物のように気温を一定に保っているという。
それは、まさに人類が自らの体に菌やウイルスを飼っているように、ガイアもまた、生態系という複雑なエコシステムを有することでこの自己調整機能を働かせている。だからこそ、若干ずつ太陽に近づいているにもかかわらず、太古から気温はかなり一定しているという。
しかし、生命体がさまざまな形で繁殖しすぎると、そのエコシステムを用いて、リセットを行う。スノーボールアースのような全凍結、または気温上昇による生命体の絶滅。生命体は何度もリセットされてきた。
そして、その原因が気候変動を中心の原因としてる。持続可能性の前に絶滅という本格的な危機が目前に控えているわけだ。気候変動はご存知の通り人類にとって多くの問題を引き起こす。特にヤバそうなのは、干ばつと台風などの災害だろう。これは人類だけでなく、多くの動物にとって住む場所を奪う脅威になりそうだ。そしてさらに気温上昇が不可逆に起きるティッピング・ポイントがあるということが研究者を中心に議論されている。
ティッピング・ポイントは、小さな攪乱要因によりシステムの状態が質的に変わってしまう閾値とも定義される。さらに地球システムにおいて、ティッピング・ポイントを超えてしまいそうな大規模なサブシステムをティッピング・エレメントと定義している。とりわけ人為的な経済活動に起因する地球温暖化等によって影響を受けるティッピング・エレメントとして、グリーンランドの氷床融解をはじめ、永久凍土の融解、南極氷床の融解、アマゾン森林破壊、などが挙げられている。
簡単にいうと永久凍土の解氷によって、メタンなどの強力な温室効果ガスが地表に出る。海水温上昇やアマゾンの森林破壊によりガイアのCO2吸収能力が低下する。そういった個別の影響が連鎖しあって、温度上昇が不可逆的になる可能性がある。
これはラヴロック氏が2005年、パリで開かれた国際会議において行ったスピーチだ。
確かに気候変動は、多くの生物多様性を損失させる。急激な温度変化や環境変化に対応できない生き物からどんどんと絶滅し、多様性はどんどん失っていく。しかし、逆にその環境変化に対応できる生物もいるわけで、今度はその変化に対応できる生物が新たなガイアの歴史を刻んでいく。
こういう歴史を考えていくと、ガイアとして大切なことは、ガイアが存続すること、ただそれだけである。生態系はただのシステムの一部に過ぎない。ただのシステムの中に生きる私たちが生存を望むなら、ガイアとの共存を考えないといけない。すなわち、自己調整機能が働くような生態系を守り、気温の上昇を抑え、その上で人類として発展していくということである。
将来世代のニーズや権利を守るということは、今ある自然環境、生物多様性を守っていくということだ。それはまさにサステナビリティという基軸が時間軸を超え、さらには人類という種を超えて、その尊厳を守っていくということだ。そこはほとんど同義になってくる。
それ以前に、やはり汚い海とか、切り開かれた山とかを見るととても残念な気持ちになる。海洋プラスチック問題も生物多様性も課題として上がるけれど、上記のような合理性や経済性云々の話というよりも、多様な自然を守って行きたいとか、綺麗な海を守っていきたいというもっと直感的で、感覚的な捉え方として、自然を大切にしてきたい。私もまた自然を愛するものとして森や海を守っていきたい。
自然からの淘汰から自然の支配へ
ハラリ氏が人間至上主義的資本主義と表現したように、人類はガイアを制圧した。
思い返すと人は長きに渡って世界をコントロールするための戦いを繰り広げてきた。昔は自然からの淘汰の時代であった。台風や地震などの災害、疫病、日照り、洪水などの気象…ヒトは自然の支配に争う術を持っていなかった。自然の恵みに感謝しながらも、自然に蹂躙され、それは尊敬と畏怖の感情だっただろう。
だからアミニズムが生まれるのもごく当たり前のことだった。様々な森羅万象に神がいると考え、神の怒りに触れないように生きてきた。それはある意味非常に合理的な教えでもあった。
例えば、山の神様がいると考え、山の木を切りすぎると山の神様がお怒りになって、土砂崩れを引き起こすというように、科学のない時代にも経験の積み重ねで、淘汰されながらも自然と共生する術を学んでいた。
時代が進むようになると、自然の支配の時代になってくる。科学の台頭だ。ニーチェの「神は死んだ」という言葉に表現されるように、まさに神は死に、自然を支配する術を学んでいった。
どうやら、土砂崩れが起きるのは、木を切り過ぎて地盤が緩んでいることが原因らしいとか、疫病が蔓延するのは、水が原因らしいとか、この世界の森羅万象が神の仕業ではなく、どうやら科学での説明がつく、原因と結果の事象に過ぎないということががわかるようになる。
原因がわかれば、対策を講じる。水を消毒して、綺麗な水を飲もうとか、インフラを整えて災害に強い都市を作ろうとか、そういう工夫がなされるようになる。
そして何よりエネルギーという制約から逃れるようになる。それまでは基本的に木材を利用してエネルギーを生み出すことしかできなかった。エネルギーの量は木の賦存量で決まり、切りすぎると持続不可能になり、その土地は人類も他の生物も住めないような不毛の土地に変わる。
しかし、人類は石炭や石油などの化石燃料を使うことを覚えた。化石燃料は、言ってしまえば、太古に植物が得て地中に眠っていた太陽エネルギーを掘り起こして、現代に蘇らせる秘術であった。これによって、産業革命を迎え、資本主義社会にも火がつく。
化石燃料では飽き足らず、人はさらなるエネルギーを求めた。太陽である。原子力発電は、もともと原子力爆弾から生まれたものだが、それを平和利用しようということで世界中に広がっていった。資源の少ない日本では、喉から手が出るほど欲しいエネルギーであり、ご多聞に漏れず普及していった。
原子力発電は太陽とは、また仕組みが少し違うが、核分裂という超ミクロな世界の現象を扱い、それを人類の手でコントロールしようとした。何度も事故を起こしているが、それでも人の使えるエネルギーが拡大したということを考えれば、この発電方法はまさに革命だったかもしれない。
エネルギー革命で見ていったように、窒素の生産によるみどりの革命も農産物の生産量を劇的に増やしたということを考えれば、人類を究極的に進化させた革命だった。
そして、原子力という若干不完全な発明から本物の太陽ともいうべき存在を産み出そうとしている。核融合発電である。原理は水素爆弾と一緒で、水素と水素が融合してヘリウムに生まれる時に出てくる損失をコントロールしようという技術だ。まさにアインシュタインの
を完全に利用しようということだ。これは、現段階では開発中のエネルギーだが、そうやって、エネルギーの制約から解放されることで、自然からの支配から逃れ、人類は無限大の成長ができるかのように思えた。
しかし、人類はこれ以上成長してどうしたいのだろう。ここで二つの写真をご覧いただこう。
上が発展を極めたメガシティ、ドバイ。そして、下がごく一般的な日本の田園風景である。
人類は自然の支配から逃れ、エネルギーの制約を解放し、高度な技術を生かして、様々な都市を生み出し、科学によってあらゆる事象を解明するに至った。
このまま人類が成長すれば、エネルギーの制約を完全に断ち切ることができるかもしれない。サイボーグや遺伝子解析で、クローンや望むような子供を生み出すことができるかもしれない。ジオエンジニアリングが発達し、気象まで操れるようになるかもしれない。医療は発展し、もしかしたら生命という循環の流れを断ち切るかもしれない。人類は全てを操る神になるかもしれない。
だけれど、そうやって極度に人工化された世界は本当に幸せなのだろうか、一方では、人と自然が交わって、大した成長はないながらも自然の恵みを得ながらゆっくりと安定した時を刻む道もあるかもしれない。
さて、人類はどちらに向かうのが本当に持続可能で幸せなのか。これは人類に投げかけらた最大級の問いなのである。
そして自然との共生へ
いづれにしろ、人類の存亡がかかった危機にある以上、成長するにしろ、しないにしろサステナブルというものは今後は意識の内側に組み込んでいかないといけない。すなわち世代を超えた「自由の相互承認」を考え、種を超えたガイアとしての「自由の相互承認」を考えていくことだ。
そして成長の議論は、人類が多様であるように二元論で語ることのできない世界にあるだろう。おそらくどっちも大事で、どっちも尊重しないといけない。多くの書籍が脱成長、資本主義の限界を訴えるものか、成長とこれからも未来テクノロジーを考える啓蒙書かどちらかに偏っている。むしろ、それは人の感覚にもよるものでそこは白と黒の間で出来上がっているだろう。
とはいえ、執筆するに当たっては便宜上二元論に分けて、持続可能性について考察する。
持続可能な成長
さて、持続可能な成長という言葉がある。私は、この言葉に違和感を感じてきた。本当に持続可能性と成長は両立するのだろうか。これは、木材を利用しすぎると木が伐採しつくされ、不毛の土地になるように持続可能性と成長が両立するということは直感的には理解しにくい。
しかし、エネルギーの制約から解放されつつある今、持続可能な成長が目前まできているのかもしれない。それを代表するのがESG投資だ。
従来の投資から「環境(Environment)」「社会(Social)」「ガバナンス(Governance)」の3要素が強く意識されたESG投資が盛んになってきた。
特に気候変動を始めとする危機に向かって、経済活動自体がサステナブルな方向に向かっていかないという意識が政治セクターよりも金融セクターを中心として進んでいる。
例えば、再生可能エネルギーの技術開発普及、大豆ミートや培養肉の開発、電気自動車やブロックチェーンやAI技術を使った自然災害や事故の予防などそういったサステナブルなイノベーションにより多くの投資マネーが集まるようになっている。もはやサステナビリティを根本から意識できていない企業は淘汰されていくだろう。
ところでテクノロジーには一極集中性がある。すなわち都市という巨大な合理システムがあり、そこで余剰が生まれるからこそ、研究や投資にお金を回し、テクノロジーは生まれる。成長と都市化は不可分な関係にある。現に世界の都市人口はますます増加している。都市だからこそ、テクノロジーを生み出すことができ、都市だからこそテクノロジーの恩恵に預かりやすい。
そして都市は付加価値を生み出すことはできるが、根本的な資源やエネルギーは不足する。これまでは、地方や海外から資源やエネルギーを輸入し、それを用いて経済活動を行ってきた。そうして一極集中で集まった経済やテクノロジーを地方に戻すことでその全体のシステムの循環が生まれていた。
しかし、一度そのシステムが崩れればどうなるだろうか。それは感染症、気候変動、金融、災害様々な要素から起きうる。そして、コロナが襲って、飲食や観光業が大きなダメージを受けた。都市にはそうした危うさがある。
環境と経済の両輪を回すには、もう少し経済活動やシステムをミニマムにしていく必要があるのではないかと思う。世界がグローバルにつながったけれども、それは危うさの残る繋がりだった。あまりにシステムが肥大化しすぎたために、一つのシステムに異常があると全ての経済活動に影響が生まれるようになってしまう。
例えば、マスクはほとんどを中国で生産していた。その方が経済的に合理的で、そうしたサプライチェーンを築いていた訳だが、そこに工場の電力不足、中国の情勢不安、燃料費の高騰そうした要素が一つでもあると、一気にシステムがガタついてしまう。
そうではなく、必要なものを必要なだけ生産するようなミニマリズムが今後は必要になってくるだろう。イメージしやすいのは地産地消。今は食の面で使われることが多いけれども、経済全体が地方で生み出し、地方で消費されるような世界観に少しずつ切り替わっていくのではないだろうか。
贅沢は敵だ。ではないが合理的なシステムの中では、どうしても無駄が多いし、レジリエンスに欠ける部分がある。ファストファッションは10枚の服を作るのに、2枚を定価で売り、3枚をセールで売り、5枚を処分すると言われている。そんなアパレルが果たしてサステナブルと本当に言えるのだろうか。
これからの社会は経済的な合理性だけでなく、倫理性や環境との合理性を組み込んでいかないといけない。それが経済と環境の両輪を回すということだ。成長を否定する訳ではないが、それと対になるようなコンパクト、ミニマルというのが、サステナブルな社会にとってのキーワードとなるだろう。
脱成長のメカニズム
持続可能な成長と反対に脱成長も最近ではよくきく話になってきた。特に資本主義の限界が指摘されて久しい。それはたとえどんなにサステナブルなテクノロジーといえど、環境破壊を招く可能性があることも起因している。
例えば、太陽光発電も蓄電池もかなり多くの金属、レアアースを利用するし、ブロックチェーンの技術も相当な量の電力を消費する。その意味でいうと人間活動が大きくなればなるだけ、どうしても生態系に影響を及ぼすようになってしまう。
そして、その結果として大量の廃棄物が生まれたり、人と動物の交わっていけない線までたどり着き、疫病が蔓延したり、格差が広がるなどの事態が起きている。
そうではなく、脱成長した世界にこそ人間らしさ、もっといえば自分の時間軸を取り戻すことができる。幸せを感じることができる世界もあるだろう。
私たちは成長という世界のある意味狂信的な信者である。誰もがもっと勉強しろ、もっと働け、努力しろと言われ続けてきた。そうやって努力した先に幸せがあると言われ続けてきた。そうやって努力した先に本当に人は幸せを勝ち取ってきたのだろうか。
脱成長というのは、ある意味時間軸を自分たちの手に取り戻すということである。農業革命という人類の大きな発明以降人口は増えたが、代わりにその土地に縛りつけられ、過酷な労働を強いられ時間は失った。狩、採集時代はみんなで必要な分だけを採集してもっと働かなかった。
エネルギー革命でさらに人は時間を失うことになる。電気という文明の機器を用いて夜まで働けるようになった。時間の幅がずっと広くなった。その分いろいろ経験できるようになった。世界中を旅することができ、あらゆる娯楽を享受できるようになった。医療が発達するようになって、長生きできるようになり、ヒトは時間をさらに濃く長くするようにしてきた。
極度に人工化された世界、産業化された世界では、眠らずに生きていける薬が開発されるかもしれない。幸せに関してのホルモンが明確化されそれを注入することで幸せを感じることができるかもしれない。すでにその兆候は現れているのかもしれない。
翼を生やすといって、エナジードリンク漬けになったり、お酒やタバコ、ギャンブルでしか幸せを感じることができなくなっていたりすることはそう珍しい事例ではない。そこまでいかなくても、コンビニ飯やラーメンなど極度に栄養バランスが偏り、味覚の刺激に頼った食事になっていないかyoutubeやNetflix、SNSなどの強力なエンターテインメントに釘付けになってはいないか。
ミヒャエル・エンデのモモは世界的な文学であるが、時間との向き合い方、生きる意味、働く価値を1人の少女の目線から訴えている。ヒトは一生懸命働いてすごく裕福になったが、大切なヒトと過ごす時間、思い出を重ねるような時間、そうしたものまで犠牲にしていないか。
そうではなく、自分の時間を取り戻し、本来的な意味で自然と調和していく生き方を選んでいく。これが脱成長のメカニズムである。
脱成長というより幸中心という感じだろうか。これまで成長が目的になっていたものを幸せを中心の基軸に据える。そうしたとき、本来的な意味でのサステナブルを取り戻すことになる。つまり、自分のため、未来のために、そして地球のための「自由の相互承認」をしていくこと。自分が幸せになることが目的になり、自分の幸せのために、他者や地球の幸せになることをしていくこと。
非常に抽象的になってしまったが、この脱成長を考える時、私は屋久島での経験を思い出す。素材の味が生きた、丁寧に愛のこもった料理、自然と1つになり、「ただそこにいていいよ」という存在の肯定。
人生に疲れたと思ったら、朝明るくなったら起きて、暗くなったら寝る。明るい時間はボーッと自然の風に吹かれながら散歩をしてみるといい。そうして時計の針をゆっくり進めていくことが本当に大切なのだ。
もう少しだけいうと、それはナウシカ的世界感に近づくのではないか。
忘れた人のために簡単におさらいしておくと、世界は戦争で焼き尽くされ、腐海という汚染された森に囲まれたディストピア。大半の土地は失われ、風の谷という辺境にすむナウシカが、戦争や人類の欲に巻き込まれながら人類のあり方を声高に叫んで終わる。(詳しくは読んでほしい)
ナウシカは自然や蟲を愛で、人類の欲や争いに悲しみを覚えていた。中には人間の倫理を超えた生命工学や技術が引き継がれ、永遠の命や生物を冒涜する技術に強い怒りを感じている。そんな中でナウシカは人類の命運を担うようになり、倫理を犯す技術を破壊し、滅びと生命の循環の中で生きるということを選ぶ。私はナウシカ的な生き方を推したい。
世界の課題を考える
世界を良い悪いの二元論で語るのは、大きな誤解を招く恐れがあるし、見方によっても大きく変わってくる。
ファクトフルネスでは、貧困にある人は、過去20年で約半分になり、世界の平均寿命は70歳を超える。奴隷制度、石油流失事故、HIV感染、戦死者、乳幼児の死亡率、児童労働、災害による死者数、飢餓などは減り続け、女性参政権、安全な飲料水、識字率、予防接種などは増え続けていると記述されている。
メディアはバットニュースを多く取り上げるから世界はついつい悪くなっているように感じるけれど、私は戦争からはほど遠い世界で生きているし、飢餓で苦しんだこともない。それは、多くの日本人にとっては共通ではないだろうか。世界は幾分かマシな方向に向かっているのかもしれない。
しかし、ファクトフルネスも含め、いくつかのグローバルリスクは頭に入れておかないといけない。
気候変動
気候変動は単に気温が上昇するという単純な問題ではなく、生態系の循環システムに関与し、バタフライエフェクトのように小さな変化が大きな問題を引き起こしてしまう典型である。
最近、日本でも異常気象、台風の巨大化などで気候変動のリスクを認知し始めているけれどももっとグローバルなスケールで捉えていく必要がある。(詳しくはどこかで執筆したい)
グローバルスケールで作用する気候変動の問題についていくつか触れていく。
①海抜の上昇
気候変動に関して調査するIPCCでは、海面上昇に関するリスクについて触れている。2001年に出されたIPCCのシミュレーションによると、1990年から2100年の時点での海面上昇値は低くても0.09m、高いと0.88m上昇するという。
ちなみに1m海面が上昇した東京はこんな感じ。https://www.floodmap.net/こちらのサイトからシミュレーションができるから試してみると面白い。
1m海抜が上昇するとどうなるか。
もちろん東京などもより高波や水害のリスクが高くなる。場所によっては沈むところも出てくるだろう。それ以上に海外で大きな影響が出てくる。
下はバングラデシュの海抜が1m上昇した時の写真である。
バングラデシュは人口1億人の国である。点状にポツポツと見えるのが沈んでいく場所であるが、それなりに広範囲に広がっているのがわかる。
多くの作物(米)はデルタ地帯で作られるのでこういった作物への影響も多く考えられる。そうなるとどうなるか。
飢餓や住む場所を失うリスクが出てくる。そうすると移民としてインドや中国、ミャンマーなどの国に避難するかもしれない。
そういった避難先の国も自分たちの仕事や食があるから簡単には受け入れられない。そうすると争いが生まれてくる。海抜の上昇だけを捉えてもこれだけのリスクがある。
もちろんツバルやキリバスの太平洋諸国は物理的な意味で国を失う危機に迫っている(福島もそうだがこういった故郷を失う痛みは想像を絶するものだろう)だが、バングラデシュなどの人口大国が与える意味はより大きくなってくる。
②食物
気温上昇により様々な生態系に影響を与えると上述したが、それは食物にとっても同じことである。
まず単純に気温の上昇によって取れる作物が変わる。例えば、米は北海道では昔は取れなかったが、品種改良の影響もあるが現在は北海道は米所として認識されるまでに至った。
例えば、米は気温上昇によって生産高が増える可能性があるが、全体的には生産時期の変化や品質低下、生産高の減少などが懸念されている。これは気温変化の一側面を切り取っただけである。
実際には、水害や日照り、グローバルで見れば動物や昆虫などの生息地の移動で大きな影響があることが懸念される。
さらに言えば、生物多様性に大きな影響を与えることが予測される。それはもちろん気候変動もそうだし、農業の開拓やプラスチックの影響も考えられる。(何がどのように影響を与えるか想像がつかない)
一般的に海は森から作られる。森の豊かな環境が、木や葉を腐食させ、豊かな土壌を作る。その土壌が雨や川で海に流され、肥沃な海が作られる。
これは自然の摂理で、部分的に人工で対応できる部分もあるかもしれないが、完全に再現するのはそれこそ人間が神になる時だ。
いづれにしても食糧生産に大きな危機がすでにいくつか兆候があるし、今後より大きな問題になるだろう。
③ウイルス(病気)
コロナウイルスで世界は文字通りパニックに陥ったけれども、私は今後ウイルスとはある意味共生の時代になると思っている。(ちなみに我々サピエンスはウイルスのRNAがはっきりと刻み込まれているらしく、そもそもウイルスを無視することはできない体質なのだろう)
ウイルスが蔓延する理由は大きく三つある。永久凍土の融解、生物の移動、人と動物の接触である。それぞれ簡単にみていこう。
永久凍土の融解
NHKでモリウィルスというウィルスが取り上げられていたが、その感染力は驚異的で生物の細胞に入り込むと、12時間で1000倍に増殖し、入り込んだ細胞を破壊してしまう感染力だそうです。これは一つの例だが永久凍土の融解により、数万年前の多くのウイルスや菌が解き放たれる可能性がある。もちろん気候変動の影響もありますが、資源の発掘やその他産業の影響でこのような危機が訪れるかもしれない。
このパンドラの箱を開いてしまうのか、防げるのか人類の命運がかかっている。
生物の移動
イメージしやすいのはマラリヤである。気温の上昇により蚊が北上する。そうすると蚊を媒介として他の動物に感染し、これまで感染しなかった国や地域でも病気が蔓延する可能性がある。蚊に限らず多くの生物がこれまでに入らなかった地域や里に入り、混じることで新たな病気が生まれる可能性がある。
人と動物の接触
畜産の現状はかなり重い。上の写真は鶏だが、過密な場所に足の踏み場もないような工業的な生産が少なくないそうだ。
これをみて動物福祉的に心を痛めるが、私たちがスーパーで手にする肉というのはこういうところから手に入る(一度ドキュメンタリーや本などをちゃんとみた方がいいと思う)
あくまで、心を無慈悲にして捉えても、この生産は大きな問題がある。過密な生産により、鳥インフルエンザなどの発生リスクがぐんと上がることである。人間も動物も過密な状況に置かれると病気などのリスクが増えるが、そこに人間が立ち入ることでより病気が複雑化する。
日本ならまだしも衛生状況の悪い状況では、今回のデルタ株のように、さらに変異してより深刻な状態を生み出す可能性もある。
私は今回のCovid-19も同じような食糧生産のシステムが引き起こした問題なのではないかと考えている。持続可能性を考える上では、こういうところにも踏み入らなければならない。
さて、少し話はそれるが人類とウイルスは上述したように運命共同体とも呼べるような関係にある。銃・病原菌・鉄ではその関係性について指摘していてかなり面白い。
病原菌の項では、スペインが南アメリカを侵略した時の史実が記述されている。一言でいうと、スペインは軍事力ではなく病原菌によって、国を滅したということだ。欧米は家畜による病原菌の免疫を持っていたが、それを持っていない新大陸の人は実際に撃ち殺された人数より、圧倒的に病気で死んだ人が多いらしい。
実際にコロナの感染状況を見ると明らかに、欧米諸国よりアジア圏の方が感染状況も死者も少なかった。
色々原因もあるのだろうけど、病原菌によって世界が変わった歴史的事実がある以上、これからの世界も特定の人だけが持つ免疫によって、世界の姿が一変することがあるかもしれない。
④水
食糧と同様に水が気候変動における大きなリスクとなりうる。大きな意味での水(災害)と飲水の確保が重要な課題となる。
海洋のエネルギーの増大により、水の循環システムに大きな影響が及んでいる。それは、近年の水害や台風の影響を見ればお分かりいただけるだろう。
さらに日本にいると感じづらいが、世界では干ばつや熱波の影響も大きくある。熱波が起きると山火事のリスクが高くなる。
オーストラリアやカリフォルニアでの山火事は記録的であり、記憶に新しい人も多いのではないだろうか?
山火事は自然発生するものではあるらしいけれど、それが影響して生物多様性に大きな影響を及ぼし、ここでも海、水の確保に影響するかもしれない。
今後は新たな資源として、水が注目されることは間違いない。中国人がこぞって日本の山や水源を買うのはこういったことが理由である。資源があるところは利権を争って、戦争になる可能性が高い(中東の石油利権を見ればわかりやすい)
日本は自然災害も多いが、その分自然に恵まれている。水の重要性が今後ますます高くなり、その重要性は日本人はより一層意識しておかなければならないと思う。
ここまでは要素としての話だが、複合的に考えると気候変動は確かに気候危機ともいうべき確かな脅威になる。
特に問題になるのが、干ばつ、長期的な雨、自然災害の増加による居住地もしくは農作地の喪失である。日本も例外でなく、台風などの災害が増える。災害が多いところにはだんだん人が寄らなくなるので、人口の大きな流動が始まる。実際にすでに存在する移民の一部は、ひどい干ばつで作物も水も入手できず、自らの土地を放棄して移動を始めている。
日本に限って言えば、治水工事とか復旧作業とかで我慢で凌いでいる印象が強いが今後は、九州などで災害が急増し、北海道に移住する人が増えるなんということもありうるかもしれない。
そして、人が移動すると必ず揉め事が発生する。日本は移民を基本的に受け入れていないので、あまり実感することは少ないが、特に高齢者世代の中国人に対する差別意識などを想像してもらえれば、いかに移民が難しいかご理解いただけると思う。
ドイツもイギリスもアメリカも経済問題として必ず移民が取り上げられる。経済が希薄な状態で移民が流入すると、国内にいる人の仕事が奪われたりすることや、治安が不安定になること、そうした危惧が発生する。
トランプ元大統領が移民の受け入れを厳しくしたことは、記憶している人も多いだろうが、そういったナショナリズムを煽ぐ結果になる。ナショナリズムを強く煽った人は誰か?ヒトラーである。経済の格差、治安の不安定化こうした出来事が続くと、民主主義の元にカリスマ的ナショナリストが誕生する。その歴史はみなさんのご存知の通り。気候危機が連鎖的に多くの問題を引き起こす可能性は頭に入れておく必要がある。
ガイアの歴史を見ても、ほとんどが生物が原因の気候変動で大量絶滅が発生し、白亜紀に起きた恐竜の絶滅も隕石の落下が原因の気候変動である。そう考えると気候変動が生物に与える影響はとてつもない。そういった生物のリセットが繰り返されてきたことはきちんと認識しておくべきだし、人類がそういう方向に向かっていないかということはきちんと精査しておく必要がある。
もう一つ懸念すべきは感染症である。人が密集している都市の方がその感染リスクは跳ね上がる。人がこれまで踏み入れなかった土地に踏み入れるようになったことも感染症のリスクを上げることも指摘した。コロナでは、多くの都市がロックダウンをしたが、そのストレスは日本の比ではないだろう。日本でもとにかく我慢が強いられる日々だったが、欧州などはもっと、直接的に死の恐怖に怯え、外出できないストレスに囲まれる日々だったに違いない。
これからはwithコロナの世界線になることは覚悟しなければならない。それは人類が経済を発展させ、環境を軽んじてきたツケである。医療の発達でワクチンも特効薬も作られるようになるかもしれないが、潜在的なリスクは今後さらに上積みされる。
気候変動において何よりも恐れられているのがティッピングポイントの存在である。日本語で言えば「きっかけ、時点」などと略されるが、物事がある一定の閾値を超えると一気に全体に広まっていく際の閾値やその時期、時点のことを指す。
気候変動における閾値とは、気温の上昇が不可逆なものになる点を示す。気候変動は人為的な排出で現在は上昇しているが、ある一定値を超えると、その動きが不可逆になると言われている。主に言われているのは海水温上昇による二酸化炭素の排出と、永久凍土の解氷による温室効果ガスの排出である。
高校理科で習うようなことだが、二酸化炭素は水に溶ける、感覚とはずれるが温度が上昇するほど気体は水に溶け込めにくくなる。現在、海は最も大きな二酸化炭素の吸収源になっている。これの温度が上昇するとどうなるか、これまで二酸化炭素を排出していた分が吸収しきれなくなり、海面から二酸化炭素が排出されるようになる。
永久凍土の解氷も深刻だ。未知のウイルスだけでなく、メタンガスのような二酸化炭素の数倍も温室効果のあるガスが封印されている。まさにパンドラの箱だ。温度が上がるごとに温度を上げる因子が解放される負のフィードバックループが回る。
そういう訳で気候変動がおそらく現代における最大のリスクでそれの最大の要因となるエネルギー問題に必然的にフォーカスされる。
エネルギー問題
気候変動と同様に考えていく必要があるのが、エネルギー問題である。言わずもがな、現在の気候変動の原因は多く人類起源の二酸化炭素の排出によるもので、その多くが化石燃料の燃焼が原因である。
人為的な気候変動問題が顕在化するまでの社会においては、エネルギー資源はいずれ枯渇してしまうということが、エネルギーにまつわる最大の問題であった。より正確には、エネルギー資源枯渇の問題は、メソポタミアの地に人類最古の文明が興って以来、常に人類にとって最大の問題であり続けてきた。
エネルギーにまつわる問題としてはこの気候変動を理由として、いかに持続可能なエネルギーを供給し続けるか、すでに出してしまったゴミをいかに処分していくのか。この2点に集約されるでしょう。
現在、欧州がリーダーシップを取り進めているのが、再生可能エネルギーである。再生可能エネルギーと一口で言っても、太陽光、風力、水力、地熱、潮力など様々な発電方法がある。そして、特に注目されているのが太陽光と風力である。それは単純に発電のポテンシャルが大きいのと技術的に事業的に推進しやすいことが理由だろう。風力発電と言っても陸上風力と海の上で発電する洋上風力発電に分けられ、海が広く、山がちな我が国においては、洋上風力が切り札として注目されている。
そして、再生可能エネルギーの多くは変動性再生可能エネルギーと呼ばれ、これが目下の課題となっている。すなわち、自然の気象状況に強く影響されるため発電量をコントロールできないことが問題視されている。発電は需給一致の原則というものがあり、常に発電量と需要量を合わせないといけないので、そのシステム開発に苦戦しているのと、なかなか日本では技術が普及せず、欧州などと比較して再生可能エネルギーがまだまだコストが高いことも問題の一つである。
いくつか変動性に関しては解決策が提示されているが、それがエネルギー貯蔵装置の開発にある。この蓄電池の価格の低下、効率の上昇これらを進めていかないとなかなか再エネの導入の加速が起きない。
高レベル放射性廃棄物
日本はこれまで原子力をエネルギー政策の軸に据え、舵をとってきました。その結果、福島原発事故が発生し、多くの帰宅困難者を生み、帰れぬ土地を作った訳だが、原発のもう一つの闇、高レベル放射性廃棄物問題も抱えている。
日本では、原子力発電の運転に伴って発生する使用済燃料を再処理し、取り出したウランやプルトニウムを再利用しつつ、廃棄物の量を抑える「核燃料サイクル」を推進しようとしている。再処理の際に生じる放射能レベルの高い廃液を高温のガラスと溶かし合わせて固体化したものが、高レベル放射性廃棄物である。
高レベル放射性廃棄物の放射能レベルが低下するには長い時間がかかり、その間、人が近づかないようにする必要がある。放射能レベルが十分低くなるまで、数万年以上にわたり人間の生活環境から遠ざけ、隔離する必要があり、その最も確実な方法として世界的に地層処分が採用されている。(サピエンスの誕生が20万年前であり、時間感覚としてはその規模である)
原発が稼働して約50年経つが、この地層処分実現に向けてようやく半歩歩み出せた(そしてそれはものすごく大きな歩みである)、しかしまだその程度しか進んでいない。
地層処分はいくつかの合意プロセスを踏むが、現在ようやく寿都町、神恵内村が文献調査の協力に応じ、調査が入る段階である。法律によって、決して地域の合意なしには進まないようになっているが、その分溜まっていく一方である廃棄物の処理が進まないという課題もある。
海外も決して進んでいる訳ではない、もっとも進んでいるフィンランドがようやく地層を削り終え、実際の稼働に移行しようとしている段階であり、2022年1月地点で高レベル放射性廃棄物の処理ができている国はいまだに無い。それほどまでに難しく、取扱いに慎重になるものである。
これに関しては、本当に丁寧に住民との合意形成、プロセスの透明性を高めてコミュニケーションを取っていくしかない。住民だけでなく、日本全体としてこの問題を適切に理解する力も必要である。
再エネの課題
私自身は再エネを推し進める派の人間である。再エネが持つ分散型という特徴がこれからの社会を築きあげる上でとても重要だと感じているのも理由の一つである。
これまでは東京一極集中型でやってきたが、ある意味全てのものが合理化され、無機質になり、特徴のないものに変化してしまった。地方の人口も文化も廃れ、地方にあるのは東京に本社がある大きなショッピングモールとチェーン店ばかりである。
環境省では、地域が美しい自然景観等の地域資源を最大限活用しながら自立・分散型の社会を形成しつつ、地域の特性に応じて資源を補完し支え合うことにより、地域の活力が最大限に発揮されることを目指す「地域循環型共生圏」を提唱している。
それは、日本のレジリエンスを保つこと、文化や自然の保護、地方活性化を生み出し、地方が日本を支える構造を作っていくことに本来的な意義があると考える。そして、それに大きく馴染むのが再生可能エネルギーである。
再エネは地方にこそ、大きなポテンシャルを持つため、地域のエネルギー的自立を促し、経済の循環を進め、地方の活性化に繋がってくる。その上脱炭素にも貢献できるので、やはりエネルギーとしての魅力は大きい。
しかし、再エネを神のエネルギーとして崇め奉りすぎな一面も強く感じている。太陽光発電は、本来的にこれまで生命が行ってきた太陽光の奪い合いゲームの参画にすぎない。これまでは農産物、林業を通して人類は太陽の力を得てきたが、それが太陽光発電という形に変わった、元のゲームの世界線に戻っただけである。
そういう意味では、化石燃料というのは、過去蓄積してきた太陽の力を現代に甦らせて使っているという言い方もできる。その副産物としての二酸化炭素である。
そして風力もその太陽エネルギーの差で生まれた、微妙な気圧の違い、温度の違いで生まれた現象を利用している。その力を利用しすぎたとき、気象状況が風力によって変わった。風が弱まりすぎて生態系に影響を及ぼすという可能性だって否定できない。
人間活動は基本的に生態系に影響を及ぼす。それは、太陽光や風力を設置することも同様である。その結果、山が切り崩され、土砂災害などの人災が発生していることもある。ただ、それでも現段階では気候変動という地球生物的危機に比べれば、全然マシであるということだ。あまり再エネが永続的なエネルギーだとは考えない方がいい。
ところで、経済は都市化、一極集中型にすることで合理性を高め、発展させてきた。しかし、エネルギーの限界、地球容量の限界に迫ってきているのが現状である。その中で分散型社会というものが掲げられ、無限の成長そのものが見直しを迫られている。
金融危機
ここまで気候変動における危機の一部を紹介したが、他の分野も少しみてみたい。金融危機を理解するには、最近起きたリーマンショックを理解することから始まるだろう。
リーマンショックの始まりは、2007年のサブプライムローン問題である。サブプライムローン問題は、アメリカの住宅市場で起きた。サブプライムローンとは、所得の低さや負債の多さなどによって信用力が低く、融資を受けにくい個人を対象としたローンのことである。金融機関が信用力の低い人に過剰に貸し付けを行った結果、資金を回収できなくなった。
過剰な貸し付けの背景には、住宅価格は上がり続けるという「住宅神話」があったとされている。日本のバブル時と同じ構造である。住宅の値上がりを期待した人々が住宅ローンに殺到し、審査が追い付かなくなり、ずさんな審査のままに貸し出しが行われるようになった。しかし、バブルとは要は急激なインフレである。そんなまやかしはいづれ必ず崩壊する。住宅ローンの延滞率が上昇し、住宅の差し押さえ件数が増加し続ける中で、金融機関は資金を回収できなくなった。
その結果、金融機関の信用がなくなる。そうすると、人々が預金を引き出そうと銀行に殺到する。すると銀行は倒産してしまうし、そうでなくても融資を止めて実体経済の資金繰りが止まる。普通は銀行同士の融資で現金需要に対応できるが、あらゆる銀行に取り付け騒ぎが広がると、銀行部門すべてにお金がなくなりだれもその不足を補えない。銀行が次々に倒産すれば、銀行が担保していた支払いや決済の仕組みが消え、経済全体が止まる。
一言で言うと、バブル崩壊による金融機関の信頼の撃墜が前回の金融危機の原因と言える。
現代の状況を端的に言うと「金利なき時代」と「バブルの懸念」という2つのマイナス要素を抱えている。
コロナ不況により、世界各地で大規模な金融緩和を実施し、マイナス金利になっているところもある。その結果、市場に膨大なお金を供給され、そのお金の行き場が株式や債券、不動産、金などに向かった。新型コロナウイルスの感染拡大により世界経済は停滞したが、株価は上昇し続けており、バブルを懸念する声など高値警戒感が出ている。
1929年に起きた世界大恐慌はアメリカの過剰な生産力による「商品の売れ残り」が生じていたことが原因の一つである。モノを大量に作っても低所得者は購入することができず、さらにヨーロッパの国々の経済も持ち直してきたため、工業製品も農作物の輸出も捗らず、アメリカの株価が暴落した。
世界大恐慌が起きた背景として、所得格差を指摘する声があった。これを受けて、アメリカは法人税率を12%から50%にまで引き上げ、所得税の最高税率は24%から91%に引き上げられた。こうして、中間所得層が多く生まれることになった。
その後、時代を経て、法人税率も所得税率も再び引き下げられている。GAFAなどのメガIT企業がタックスヘイブンに逃げ込むことも大きな問題として認識されている。歴史を振り返ると、徴税システムがうまく機能している時は国家として安定している。それが古代エジプト王朝やローマ帝国繁栄時であり、日本では江戸時代などもそれにあたる。
さて、現代はどうか、格差は開いていないか。資本家のお金はしっかりと収められているか。しっかりと自分の目で見定める必要がありそうだ。
さらにリーマンショックが起きた背景には、金融規制の形骸化があるといわれている。そこでまず、金融機関の規制が見直された。大手銀行にはより厳しい規制が課され、世界金融危機以前と比べて、低レバレッジの投資しか認められなくなった。
経済のアンバランス、経済不安、金融システムの形骸化こういったものは経済システムに大きな影響を及ぼし、グローバル化された現代では影響が各地に及ぶものである。金融危機は本当に起きるのか、いつ起きるのか。それは誰にもわからない。しかし、実際に起きるとその影響により多くの人が雇用を失い、経済的なダメージを負う。
大切なことは適切に恐れ、知識を入れ対策をしていくこと。こういうことが起きる可能性があると頭に置いておくことだ。グローバルな問題だからこそ、国際的に問題を正しく認識し、対策を講じていくことがますます重要になってくる。
格差問題
格差は文明というものが誕生してから常に存在し、そしてその格差が広がるとき必ず暴力的な歴史が繰り返されてきた。
農業による余剰が経済を生み出してきた。それまでの狩猟採集社会では、必要な分を狩り、必要なだけ食べていた。農業の誕生で、人は計画的に生産し、余剰に作るようになった。そして、冬や緊急事のために農産物を蓄えるようになった。こうして小さな経済圏が生まれる。
だんだんと農業の指導者的立場が現れる。地主である。そして地主が労働者を雇い、地主はだんだんと労働者が代わりに働くことで自分は働かなくても良くなる。そうして格差社会が生まれる。当然、地主と労働者であれば、地主の方が雇用を決める裁量があるので、権力が地主に集中することになる。
そして、だんだんと地主が大きくなって、各地でそれが発生する。次第に地主をまとめるような存在が現れる。それが王族である。そしてその王族がいくつかの土地を統合的に支配し、ムラが形成される。この地点で王族に農産物を献上するような税金的システムもあったと考えられる。
農産物は天候にも、社会情勢にも左右されるので、社会を安定化させる仕組みが必要になる。それが宗教と聖職者である。病気や気候など人智を超えるものには、神頼みになり、そして神の使徒(聖職者)が敬われ、強力な格差が生まれる。
社会が複雑になるたびに格差も広がっていく。生産が余剰に生まれても、決して分配に回ることはなく、資本家に吸収されるか、人口の増加につながる結果に落ち着く。
現代において、格差の何が問題になるだろうか。これが相対的貧困だろう。貧困は大きく「絶対的貧困」と「相対的貧困」に分かれる。絶対的貧困とは、人間として最低限の生存を維持することが困難な状態を指し、飢餓に苦しんでいたり、医療を受けることがままならなかったりする人がこの状態に当たる。
一方で、相対的貧困とは、その国の文化水準、生活水準と比較して困窮した状態を指す。具体的には、世帯の所得が、その国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない状態のこと。OECDの基準によると、相対的貧困の等価可処分所得は122万円以下、4人世帯で約250万円以下(2015年時点)である。
相対的貧困の状態に陥ると、社会で多くの人が享受している「標準的な生活」を送ることができなくなる。例えば、子供でいえば、親が病気のために家事をしなければいけない、金銭的な理由で大学進学を断念する、毎日のようにアルバイトをする。
現代の格差問題は一言でいうならば、機会の不平等感と言えるだろう。歴史的に見れば、それは死や人権につながる直接的な問題とも言えたが、社会制度が発達してきている中で、まさにこの機会の不平等が大きな問題となっている。
機会の格差とは何か、大きな問題として認識されるのは教育や就職においての格差だろう。教育は言ってしまえば、現代を生きるための攻略書である。攻略書があれば、どうやって事業を成功させるか、とかどうやって技術を生み出すのか、人とどうやって付き合っていくのがいいのか。ありとあらゆる情報にアクセスすることができる。
お金があればあるほど、より高度な教育を受けることができる。名教師に教えを乞えば、それだけ自分の知識が上がる可能性も高い。そしてそういうところに集まる人たちと情報交換するだけでも大きな力になる。
そして教育はそのまま学歴に繋がり、日本でいえば学歴はそのまま就職の格差につながる。福利厚生や給料の待遇がいい大手には高学歴のものが集まり、そうやって親から子へ格差が引き継がれる。
学歴がない人や女性などは非正規雇用に参入する可能性が高くなり、その増加による正規雇用労働者との所得や待遇の格差、人やものが都市部に流入することによる地域との経済格差は特に格差の大きな要因になる。低収入な非正規雇用労働者が増加すれば、その国や地域の消費が落ち込み、経済全体低迷する原因にもなる。
最も教育的な格差だけでなく、トマ・ピゲティが示した有名な公式(r>g)のように労働生産性より所得成長率が高くなる現代では、金持ちの方がさらに富めるようなシステムが出来上がっている。こうして、格差の悪循環は続き、格差は広がるばかりである。
実際に所得格差を示すジニ係数で見た時、世界的に格差は広がりつつある。
特にアメリカは所得格差が大きく、選挙でも毎度この問題が大きくフォーカスされる。
そして格差が縮まるのは、いつも暴力的な方法によるものだった。その代表が戦争、革命、崩壊、疫病である。
第二次世界大戦下の日本では、約250万人が戦死し、爆撃によりおよそ70万人の一般市民が命を落とした。そして戦後、上位1%層の富は9割下落した。毛沢東政権下で行われた「大躍進」政策により、4000万人以上にのぼる人々が処刑死・拷問死・餓死した。これにより、ジニ係数が劇的に改善した。西ローマ帝国の崩壊により、あらゆる支配層が消滅した。これによりもたらされたのが、搾取の終焉・生活向上という平等化である。ヨーロッパに壊滅的な惨劇をもたらしたペストは、おそらく2000万人以上の命を奪った。世界は一変し、実質賃金は2倍以上になった。
格差が広がるとき、革命の警鐘が鳴らされる。そして、よく耳をすませば、その警鐘が聞こえてこないだろうか。
日本の課題を考える
さて、ここまで世界の課題を考えてきた。世界の課題はもちろん日本にも当てはまる課題ではあるが、日本が独自に抱えている課題、特に経済、財政と少子高齢化にフォーカスして考えていく。
日本経済
日本経済を考えていく上でGDPに注目することが最初のステップになる。日本は1970年の成長率を最盛期に、バブル崩壊なども迎え、失われた30年という時代を歩むことになる。シン・ニホンを書いた安宅さんに言わせてみれば1人負けの30年だったわけだ。
ここでいくつか指標を見てみよう。世界の時価総額ランキングと世界のGDPと日本のGDPの比較である
ちなみにGDPは(国内総生産)で、一定期間内に国内で新たに生み出された財やサービスの付加価値の総額を指す。
日本は成熟した社会だけれども、同様に成熟したEU諸国でも経済成長はゆっくりとしたペースで進んでいる。この30年間日本だけが全く成長していない。世界経済は伸び続けているが、日本経済は停滞し続けている。だから当然世界への影響力も小さくなっていく一方だし、一言でいうと相対的に貧困になっている。
まあ、これを見て日本は順調だと思う人はいないだろう。さらに日本の国債発行額をみていく。国債が1000兆円を超え、金利が下がり続け、デフレになっているというのもよく聞く話だろう。これの何が問題でどのような解決策があるのだろうか。
経済と財政は切り離せない。財政によって、日本の経済が影響するし、その逆もまた然りだからだ。そもそも前提として経済とはなんだろうか?経済が盛り上がると何がいいのだろうか、経済がゆたかになることは幸せに繋がるのか。私たちが使っているお金とは何だろうか。こういった疑問に答えながら持続可能な社会に向けた社会像を描いていく。
貨幣とは何か
貨幣とは何か。これを説明するには、商品貨幣論と信用貨幣論の話からしなければならない。しかし、私の説明では荷が重いのでこの動画を見てほしい。
本当に一言で言うと商品貨幣論は「お金に価値があるとみんなが信じているから貨幣として成り立つ」と言う理論で、信用貨幣論は、「通貨の価値を裏付けるものは、租税を徴収する国家権力である」と言うことだ。税を徴収する力、つまり国家権力があるから貨幣に価値があるとされている。
どちらが正しいということは、世界で様々に議論されているけれど、一応のところ信用貨幣論を軸とした現代貨幣理論(MMT)の方が現実を適切に説明できていると思う。なのでこの最近世間を賑わせているMMTをもとに話を展開していく。
「貨幣」というものを一言で表すと、現金(cash)と信用(credit)のことである。日本銀行は、お金を刷ることができる(cash)を生み出すことができる。これが私たちがイメージする貨幣だ。
例えば、居酒屋でビールを頼んだ時、現金で支払う。この簡単な取引を行うとき現金というものが媒介になる。一方で、私たちはツケで払うことができる。その人がオーナーと仲が良く、あとで支払ってくれるという信用があればツケで払うことができる。だからcredit(信用)なのである。
実はこのツケ(借用書)は、貨幣としての役割も果たすことができる。例えば「500円を返してもらう」という借用書を使って、いつも贔屓にしている魚屋でサケを買うことができる。(あくまで借用書が絶対に返してくれるという信頼があっての話だが)
現代はこの信用を銀行が担っている。融資をする時に、この人が返してくれるという信用があれば通帳に新しいお金を記帳することができる。
例えば、α銀行が、借り手のA社の預金口座に1000万円を振り込む場合、それは銀行が保有する1000万円の現金をA社に渡すのではありません。単に、A社の預金口座に1000万円と記帳するだけなのである。
こうやって貸し出すことによって、新たなお金を生み出すことができる。これを「信用創造」という。
なので、貨幣というのは、日本銀行が発行するお金と民間銀行が生み出す信用創造の2つの貨幣があり、実はこのcreditで生み出されるお金が8割を占めている。これが経済の波を生み出すことになる。
インフレとデフレ
まず、インフレとはどんなことなのか、よくみる需要供給曲線で考えていく。インフレは供給よりも需要が多い状態である。需要曲線が右にずれるので市場価格が上がる。デフレはその逆である。需要に比べて供給のほうが多いので供給曲線が右にずれる。そうなると市場価格は低くなる。
さて、一歩踏み込んでcreditを用いて考えていく。銀行でお金を借りる時に利子がかかりますね。しかし、信用創造でお金が市場に出回るお金は増える。そのお金を使って消費、もしくは投資をする。そうするとそのお金は誰かの給料になる。現金だけより、creditを使っているので、誰かの給料は高くなっていく。給料が高くなるとより消費行動が活発になるので、さらにお金が回るようになる。結果的にさらに需要が増え、またものの値段が上がる。これが繰り返され、お金の流れがどんどん活発になり、経済全体が膨らんでいく好景気の状態、膨張していくイメージ、これがインフレーションである。
一方、借りたお金はどこかで返さないといけない。そうすると自分の消費以上に借金を返すタイミングがやってくる。そうすると私たちは節約しないといけない。節約するとものが売れなくなってくる。いったん売れない状態になると、企業は何とかものを売りたいので、商品の値段を下げる。そうすると、商品が売れても利益は減り、利益が減れば、企業は社員の給料を減らす。これがデフレーションの正体である。
政府は行き過ぎたインフレもデフレも問題視しているので、なんとかこの経済の波を小さくしたいと考えます。この時出てくるのが利子である。利子が低いとお金を借りやすくなるので、投資や消費行動が活発化して、インフレーションが起きやすくなる。一方で利子をあげるとお金を借りにくくなるので、消費行動が抑制されデフレーションが起きる。
知っての通り、日本は深刻なデフレ状態で、利子もほぼ0になっているけれど一向にデフレを脱出できる気配はない。まあ金融政策ではどうにもならないほどに経済が衰退しているってことだね。
ここらへんの話は下の動画がわかりやすかったのでぜひ一度ご覧ください。
デフレの問題、安い日本
さて、デフレでずっと騒がれているが、いったい何が問題なのだろうか。給料は確かに低いかもしれないが、物価も低いならその逆の給料が高くて物価も高い状態と変わらないのではないか。
一言で言うと経済成長と安い日本になるだろう。基本的に国も企業も成長を目指しているし、それが停滞していることへの危機感、そして安い国だから色々なものが外国に買われる。そういう危険性を少し詳しく見ていく。
経済成長
そもそもGDPとは何か、国民総生産と呼ぶが一言で言えばGDP=一人当たりの労働時間×労働生産性×人口で抑えておくのが良いだろう。
中国やインド、もしくはアフリカ諸国などは人口ボーナスという労働人口が加速度的に増える時期を迎えている(もしくは迎えると期待されている)ので、飛躍力がある。
それ以外にも単純に労働時間を伸ばすことでもGDPは伸びる、しかし様々な法律の元で残業時間も制限されているので、これはあまり期待できない。
そして労働生産性を上げるという方法がある。これはもちろん1人1人が集中して業務をこなすということでも上がるが、それは本質的ではないだろう。労働生産性を上げる、それすなわち付加価値の高いものを生産するということだ。
例えば、りんごを作るとして、ただのりんごよりもシナノスイートのような甘くて美味しいりんごの方が付加価値が高いと言える。もしくは少ない労働力でたくさんのただのりんごを作るという生産性の向上も付加価値の一つになるだろう。
また、シナノスイートよりアップルパイの方がさらに付加価値が高くなる。適切な調味料の配分や焼き加減などは素人ではできない。人には真似ができないものになってくるほど、また人が欲しいと思うものになるほど(需要が大きくなるほど)付加価値が大きい。
トヨタはコンパクトで環境負荷の少ない燃費のいい車というものを自社技術で開発できたからこそ、そしてそういった車が世界中で求められたからこそ日本で代表する企業になった。
そしてその付加価値を作り出すのがまさに投資だろう。お金をかけて、研究して美味しいアップルパイを生み出す方法を作り出して付加価値がつくようになる。そうやって、多くの技術、生産性の向上があって文明が生まれる。
よく考えてみれば、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と謳った藤原道長より、おそらく私たちは美味しいものを食べてるし、世の中にエンタメは溢れてるし、快適な生活を送っているだろう。そうやって成長していくことが文明をもたらす。まあそれが、本当に幸せなことは別な話だけどね。
さて、デフレの状況下では、この投資という力学が働きづらい。なぜならお金の価値が高い状況なので、みんな貯蓄にお金をまわそうとする。そもそも給料も低いので、なるべく消費を抑えようとする。なので現在の日本は企業も家庭も貯蓄額がずっと増えている。NISAなどで個人の投資も少しずつ広がりつつあるけれど、まだまだ足りていないのが現状だろう。
投資にお金が回らないと、付加価値が生まれてこない。いい技術もいい商品も研究や開発があって、初めて生まれてくる。生産力を上げる設備投資も重要です。こういったところにお金が回らないから、経済を推進する起爆剤が生まれない。日本経済はここ30年ずっと、デフレに苦しんでいる。
買われる日本
デフレによって、日本経済は苦しんでいる。経済が上向きにならない。それは文明が発達する方向に力学が働かないということである。もう少し整理してみよう。
そもそも文明とは何か。ここでは付加価値、すなわち物の価値、物価と捉えていく。先ほど説明したように、付加価値が上がるからもののクオリティが上がる。そうやって物価が上がってくる。ただのりんごが作れるよりアップルパイが作れる方が技術的にも生産力的にも文明が発達しているといえる。
でも、貨幣が少し話をややこしくする。「貨幣」は現金(cash)と信用(credit)(負債)のことである。
結局貨幣って、結局市場に出ているお金の量でしかない。市場にお金が出ると、需要が促進されて物価が上がる。逆に市場に出るお金が減ってくると需要が抑制されて、物価が下がる。物に対する相対的なお金の量で物価も左右されてしまうからややこしくなるけど、大切なのは実経済である。
日本が価値ある国であれば、諸外国との交渉もスムーズに行くし、日本人の豊かさも担保される。要は人と同じです。自分磨きが大切なように、国内の産業や文化を育てて、良い技術や製品を生み出していくこと。経済は単なるマネーゲームではないことは肝に命じておきたい。
さて、改めて日本経済に戻っていきたい。現在、金融政策も財政もうまくいってなければ、日本経済も低迷している。日本は30年間豊かさが変わっていない。これが日本だけであれば、あんまり豊かじゃなくて残念だね、で済むけれどもそうもいかない。現在はグローバル化が進み、諸外国との関係性なくして経済を語ることができない時代に来ている。さて、日本のデフレがどのように影響するのだろうか。
コロナ前を思い出してみよう。日本のインバウンドが増加しているという話を聞いた覚えはないだろうか。東京や京都だけでなく、日本の田舎の方までさまざまな外国人が訪れていた。実際に私が訪れるスキー場、特に白馬や安比などパウダースノーで売っているようなスキー場はかなりの部分を外国人が占めていて驚いたものだ。
これは何も日本のおもてなしが伝わったからではない。(もしかしたらそういう影響もあるかもしれないが)大部分は日本が安くなったからだ。物価が低いおかげで日本に行きやすくなり、多くの外国人が日本に訪れるようになった。
観光だけでなく、商品も同じである。銀座で爆買いする中国人の様子をテレビなどで見たことはないだろうか。これも何も日本の商品の質がいいからではない。単純に日本の商品が安いからだ。ソニーやパナソニックなどの一流の企業が世界を支配していた時代の人からすればショックだろうが、もはや質も値段も中国の方が上回るような時代がきてしまっている。
ここまでは、デフレによるメリットであるが、外人は買って欲しいものを買ってくれるわけでもないし、行って欲しいとこに行ってくれるわけでもない。デフレの影響で危機に瀕すると言われているのが土地、人材、企業だ。
例えば、ニセコスキー場はパウダースノーで有名だが、この土地の多くはすでに外人に買い占められている。そのせいで地価も上昇し、物価も上昇することになった。他にも日本の重要な水源などすでに多くの場所が差し押さえられている。極端な話、日本列島が外人に所有され、日本人は外人が所有する土地に住まわせてもらうということになりかねない。
そして人材流出も激しくなる。実際に平均的な日本の大卒は、年収が250万円であるのに対し、アメリカは600万円で倍以上の開きがある。同じ仕事でも倍の給料がもらえるなら当然そっちの方を選ぶだろう。だから優秀な人材はどんどん外資の方に流れていく。エリート官僚より、外資コンサルや金融などの方がはるかに給料が高い。そうやって人材がどんどん外に流れていく。日本を築きあげるのが、日本に住む人材であることを考えればこれはかなり深刻な事態であることも理解できるだろう。
そして、企業も危機に瀕していくだろう。すでに日本の中小企業などが買収され始めているという話を聞いたことがある人もいるだろう。このまま経済が停滞していると、日本の企業は世界で活躍するどころか、海外の企業に買収され、日本の企業が存続できなくなるかもしれない。
極端な話を述べてきたが、これは買われる日本の話で遠い未来の話ではなく、すでに起こっている現実の話である。
さらにいうと、相対的貧困の話もある。日本の経済が衰退している間、世界の経済は成長している。例えば、iPhoneが高いと感じたことはないだろうか。実際に新品で最新機種を買おうとすると10万円以上する。しかし、アメリカと日本の物価はここ数十年でだいぶ変わってしまった。倍くらい変わったと考えると、私たちが買うiPhone10万円は向こうの5万円くらいの感覚でしかない。これが相対的貧困である。
もっというと、対外貿易が厳しくなってくる。単純に諸外国で買っていた商品が高くなり、買えなくなってくる。一番影響が大きいのは、食料と原油などのエネルギーだろう。そもそも日本の食料自給率とエネルギー自給率は恐ろしく低い。食料はカロリーベースで38%だが、エネルギー自給率に至ってはほとんど0である。
今は日本がそれなりに価値のある国だから、食料もエネルギーも取引ができるけれども、経済がこのまま衰退していくと円安が進み、極端な話、諸外国との取引ができなくなるかもしれない。その結末は国民の飢え死にである。こう言った事態は避けなければならない。
デフレと日本財政
さて、デフレの危機をかなり煽ってしまったが、事実として受け入れていく必要がある。デフレを解決するには、大きく金融政策と財政があるが、MMT的にいうと、金融政策には限界があり、財政はデフレ対策ではなく、その真逆のインフレ対策が行われていたようだ。
平成の時代には、構造改革と称して、公共投資をはじめとする財政支出の削減、消費増税、「小さな政府」を目指した行政改革、規制緩和、自由化、民営化、そしてグローバル化。これらはいずれもデフレを招く政策であったが、堂々とこれらの政策が決行されていた。
金融政策としては、利率を引き下げることで、市場にお金を供給しやすくすることができるが、消費が冷え切っているデフレの環境下では、こうした政策は十分に機能しない。また、すでに0%に近い利率なのでこれ以上ブーストをかけることもできない。金融政策は十分に機能しない。
では、どうすればいいかというと財政支出を拡大する財政政策や、供給過剰を是正する産業政策が有効である。産業政策はともかくとして、財政出動なんてしたら、今の財政赤字がさらに悲惨なことになり、財政破綻するのではないかと思うかもしれません。しかし、ここからMMTの不思議な理論で借金ガン無視理論みたいに言われる所以になる。
これまでは、日本政府は税金を収入源に税収の範囲内で黒字運営していこうとしてきた。(プライマリーバランスの黒字化)そして、なるべく借金をせずに運営していこうとしてきた。これは、企業としてみれば、全くその通りで、ガンガン借金したり、赤字運営をしている企業があればそれはまもなく倒産するでしょう。
しかし、日本政府は企業と決定的に違う側面がある。それが、お金を自分で発行することができるということである。(正確に言えば日本銀行)国債の半分くらいは日銀が買い取っており、日本銀行と日本政府を統合政府とみなせば、その返済能力に限界はない。国はいくらでもお金を刷ることができる、その国が借金をするとはどういうことでしょうか?民間が考える借金と国がする借金では根底から違う。現代は錬金術が可能となってしまったということである。
では、いくらでも国債を発行してお金を無限に作り出せばいいではないかと思うが、一応限界はある。それはインフレ率に左右される。お金を刷っていくとだんだんとお金の価値が下がって、物価が上がってくる。そうするとだんだんとインフレしてくる。しかし、インフレが過度になるとハイパーインフレが起き、お金の価値がなくなってしまう。そうならない程度の財政出動が必要だとMMTは説いている訳だ。
でも、これはマネーのコントロールによって経済を動かしているに過ぎない。大切なことは、何度もいうが実経済である。産業を育て、文化を育てていくことである。そのためには、財政をどのようにしていかないといけないのだろうか。
日本財政
お金の歴史を見ても、たいてい徴税システムがうまくいかなくなるとき、国が沈んでいく。役人が税金をきちんと管理して、分配されていた時代はとても安定している。古代エジプトは3000年以上続いた安定した時代を築いていたが、それは何より徴税システムがうまくいっていたからと言われている。同様に江戸時代も300年続く安定政権であったが、これも徴税がうまくいってたのだろう。参勤交代などで私腹を肥やす人がおらず、きちんと分配することができていたらからこそ安定した時代を送ることができたと推察できる。
しかし、必ずどの時代にもシステムの隙を突いて私腹を肥やそうとする人が現れる。そうすると、財政難に陥り、国は税金を増やそうとする。税金を増やすと庶民の生活は困窮して、だんだんと政府への反乱の意思が生まれてくる。それが日本で言えば一揆になり、世界を見渡せば革命につながる事件になる。
ただ、現代はもう少し複雑でガバメントからガバナンスへの移行が起きている。すなわち国家というセクターより民間の企業などがずっと力を持ち統治を行うような時代になっているということだ。GAFAなどの超巨大IT企業が世界を牛耳っていると言っても過言ではないだろう。
なので、税金というシステムではなく、資本主義システムとして評価されうるが、この意味においても格差はどんどん広がっている。歴史的に見て、経済格差が広がると、市民がそれに対して不満を募らせ、反乱の意思が生まれる。とても残念なことに最も経済格差が少ない時期というのは戦争や疫病が蔓延した時なのである。
話が逸れたが、日本財政について少し話していく。日本財政を語る上で2つの大きな立場があることを理解しておいた方がいい。一つはプリマリーバランス(PB)の黒字化を目標とするものと、もう一つは赤字国債は問題にならないという立場の人たちである。
PBは、社会保障や公共事業といった基礎的な政策の経費について、どこまで新たな借金に頼らずに税収などで賄えているかを示す指標。赤字なら、国債をはじめ借金への依存度が高いことになる。
ちなみに岸田内閣の進める科学技術やデジタル化への投資活性化で景気が拡大し、税収が増えることを見込んでいる。これに加え、社会保障費を高齢化対応に伴う増加分に抑えるなどの歳出改革を23年度以降も実施した場合、PBの改善効果が年1・3兆円程度になると推計。25年度のPBは2・2兆円の黒字になるとした。
図を見てもらえればわかるとおり、プライマリーバランスはここ数十年黒字化した試しはない。
その結果として国債発行額は1200兆円を超え、日本のGDPはおよそ560兆円なのでGDPの2.4倍近くの借金を抱えていることになる。こういった状況を見て、この状況はなんとかしないといけないと考えているのが、多くの財務省官僚や政治家、経済学者である。
こうした立場をとると、現在の財源の確保、財政の引き締め、景気の活発化が主軸となる。財源が足りないから税金をあげたいし、同様に社会保障などの保障制度を厳しく取り締まったりする。さらにはアベノミクスで見るようにデフレ脱却のために、異次元の金融緩和と称されるような政策が打たれたりする。
それに対して、新たな学説が最近話題になっており、それが先ほども説明したMMT理論である。
財政破綻したギリシャとは根本的に状況が違うのは、自国建の円を使い、国債の89%は日銀をはじめとする日本の投資家が保有している。日銀が、売られた国債を全て吸収することができれば買い支えられる。
日本銀行と日本政府を統合政府とみなせば、お金を自分で発行することができるので、国はいくらでもお金を刷ることができる。なので、借金という概念がそもそも十分に適用されないというのがMMT的な思考である。
この立場からすると、実経済が弱くなることが一番の課題になるので、財政出動をして、できるだけ経済を強化したり、福祉を充実させて格差の是正に努めたりそういったことが求められると主張する。
どっちも言っていることは正しく聞こえ、そしてかなり政策としては逆の立場をとることになるので正直にいうとどっちが正解で、どっちの政策を強化すべきかはわからない。個人的には、これだけの財政赤字の中で、インフレも起きず、財政破綻が起きる気配もないのである程度MMT理論が正しいような気がしている。
ただ、共通の課題認識として、デフレがあるのは間違いない。財政を改善する方法は、1)景気の回復を促して税収を引き上げるか、2)給付を減らすか、3)税率引き上げるか、の3択である。しかし、デフレ状況下において、2、3の政策は適切であるとは思えない。というよりさらにデフレを加速させる要因になる。消費税が上がれば消費を抑える方に意識が傾くし、給付が減れば投資などもよりしにくくなる。なので、公務員の給料をあげたり、失業者の支援を進めたり、子育て支援を促進したり、そういう財政政策が大切なのではないかと考えている。そういう小さな支援が積もって、経済を循環させることにつながってくるだろう。
社会保障のあり方
日本財政を考える上で社会保障制度は外せない。なぜなら日本の国家予算が約100兆円、GDPが500兆円で考えた時、税金からのお金が約50兆円と予算の半分を占め、GDP比で考えた時25%程度まで膨れ上がっている状況だからである。
その内訳を見てみると医療と年金で約70%を占め、その他が介護、福祉などである。年金は少子高齢化社会なので膨れ上がるのは必然だろう。私たちの世代も全くもらえないということはないだろうが、年金が長生き保障と言われる所以を考えていくと、人生100年時代では、90歳くらいまで現役で働いてあとは年金で余生を暮らすような形になるのかもしれない。
よく言われているように少子高齢化がますます進行する中で社会保障の持続可能性については逐一議論されるところである。子供が減ると日本全体の労働力が減ってくる。日本の税金というのはある意味GDPと比例してくる。GDPは労働人口×労働生産性で表せるので労働人口の減少は単純なGDPの減少だけでなく、税収の低下そして社会保障制度の持続性に関しても大きく影響してしまう。
個人的に注目すべきは、医療である。年配者が増えると、その分医療にかかる頻度も増えるので必然的に医療費も増えるが、医療はその尊さゆえに権力の行き過ぎが起こってしまっている。
ちょっとした風邪で病院に行く。緊急ではないのに救急車を呼ぶ。このような小さな医療費の積み重ねから、本人の希望しない延命治療や植物状態の方の扱いなど倫理的な側面も伏せて問題になってくる。
医療と健康はセットで据え置く必要がある。誰もが健康でありたいと思いながら暴飲暴食をし、夜更かしをしては体調を崩し、薬を飲んで耐えるというような社会になりつつある。医療の拡充はいいことのように思えるが、ある意味医療がなんでもしてくれるという信仰じみた状態に陥り、医療費の増大さらに医療従事者の負担も増すことになる。
健康であれば、医者にかかる機会も減り、健康体で人生を過ごすことができる。それは健康寿命にもつながってくるし、人生の幸せというものにも関わってくる。その結果、最も自然な形で死を迎えることができる可能性が高くなるし、個人でかかる医療費も、国が保障する分も減る。そしてその健康は自らの意思である程度つくることができるのだ。
そして、老人にかけているお金、医療費の1%でもいいから子供のためにお金を使って欲しい。
国内総生産(GDP)に占める教育に関する公財政支出(2017年)は、初等教育から高等教育まででOECD平均は4.9%で、最も比率の高いノルウェーは6.7%に対して、日本は4.0%と低い。それは単純な教育費だけでなく、教職員や学校の設備に対する投資も含めてである。
日本の教員の教職に対する満足度は世界と比較して圧倒的に低い。中学校の教員に「職業を選び直せるなら、再び教職に就きたいか」という質問に対して、肯定的な回答をしたのは日本が54.9%にすぎず、OECD平均(75.6%)に比べて大幅に少ない。
それは、教育という本来的な役割に加え、クラブ活動、会計的な事務、生徒会活動の補佐など多くの役割を担い、圧倒的にブラックな職場になってしまっていること、その割に給料などの整備が不十分であることなどがあげられるだろう。さらにはICTなどの活用なども遅れ、教育体制として磐石とは言い難い。
教育でいうとリカレント教育も注目を集めている。人生100年時代と言われる中で必要な知識もスキルもアップデートしていく必要がある。改めて学ぶ場が求められるが、現状の社会システムの中では、なかなか学びたくても、家庭環境や仕事の状況で学び直すことは難しいだろう。そう言った整備も含めて教育システムは大きく変わっていかないといけない。
また、子育て支援にかける保障も拡大していかないといけないだろう。保育所の整備、子育てと仕事の両立がしやすい仕事環境の整備、教育費の保障などやるべき課題は山ほどある。これは意識の問題ではなく社会システムの問題である。子供にお金をかけられない国に未来などあるはずがない。
これは少子高齢化にも大いにつながってくる話なので、次章に譲ろう。
少子高齢化
改めて、人口の増減を確認しておこう、現在人口は減少の一途を辿っており、2050年には1億人を下回り、同時に生産年齢人口割合の低下、高齢化率の上昇が発生する。
少子高齢化の主な要因としては、出生率の低下による少子化と平均寿命の伸長の二つがあげられる。その中でも女性の晩婚化と出産年齢の高齢化、さらには未婚化という社会現象が大きな要因として考えられている。
少子化については、平成5年の出生数は、118万人であり、これは戦争直後(昭和22年)の268万人の半分以下である。また、女性が一生の間に生む子どもの数を示す合計特殊出生率は2005年に1.25と史上最低を記録して以降、若干ずつ上昇はしているが1.5の壁を越えられずにいる。
これに対して「希望出生率1.8」の実現が期待されている。「希望出生率1.8」とは、若い世代における、結婚、子供の数に関する希望がかなうとした場合に想定される出生率である。つまり、希望しているが経済的状況や社会的状況を踏まえて、結婚や出産を断念する人が一定多数いるということである。希望通りに結婚ができない状況や、希望通りの人数の子供を持てない状況を改善していく必要がある。
さて、少子高齢化が社会にどのような影響を与えていくのか。いくつか考えてみる。
経済規模の縮小
再三繰り返すが、GDPは人口と生産性で決まってくるので、経済活動はその担い手である労働力人口に左右される。労働力人口は2014年6,587万人から2030年5,683万人、2060年には3,795万人へと加速度的に減少していく。労働力人口割合は、2014年約52%から2060年には約44%に低下することから、働く人よりも支えられる人が多くなる。
ちなみに、この労働力が減少して経済にマイナスの負荷をかける状態を「人口オーナス」というらしい。高度成長期や今のアフリカなど人口が爆発し、成長率が高まっていく状態を「人口ボーナス」という。
そして、人口オーナスの状態になると、さまざまな影響が広がる。働き手の負担が多くなると消費が冷え込み、ますますデフレが加速することが予想される。そうすると、教育や子育てにかかる負担感がさらに増し、ますます少子化、高齢化に拍車がかかることになる。
社会保障制度と財政の持続可能性
よくある世代間の扶養関係(高齢者1人に対して現役世代が何人で支えているか)を考えると、高齢者1人を支える現役世代の人数は、1960年では11.2人であったが、1980年には7.4人、2014年では2.4人となった。2060年では高齢者1人に対して現役世代が約1人「肩車社会」がやってくると言われている。
こうなると年金・医療・介護保険などの社会保障の保険給付額が増大しつづけ、それらの財源を支える現役の働き手の世代の負担が増加し続ける。
経済規模が大きくなれば、その分税収も増えるし、支える現役世代の負担も減ってくるが、少子高齢化はそもそもの経済活動を収縮する方向に大きな力が働くので、さらにデフレ脱却、経済規模の拡大が難しくなる。
ちなみにデフレが進むと円の価値が下がり、そうすると外国に対するプレゼンスが低下する。つまり国際的なルールの枠組みに発言権がなかったり、もっと単純に食料やエネルギーの輸入に際して、確保が難しくなること、円の価値が下がっているので、外国品がますます高くなるという様々な弊害が生まれる。
安倍元首相が経済政策の三本の矢と称して、デフレ脱却を叫んだり、岸田首相が令和の所得倍増計画などを叫んで、さまざまな政策を検討している理由がわかるだろう。
ただし、環境と経済は基本的に相反するものだから環境のことだけを考えれば少子高齢化は歓迎すべきことなのかもしれない。
地方の限界
大まかな流れとして、地方から東京への人口流入が続いているのはご存知だと思う。(コロナで初めて人口流出が流入を超えたらしいが)地方圏以上に出生率が低い東京圏への人口流入が続いていくと、人口急減・超高齢化の進行に拍車をかけていく。地方圏から大都市圏への人口移動が現状のまま推移する場合、2040年に20~30代の女性人口が対2010年比で5割以上減少する自治体が896市町村(全体の49.8%)、うち2040年に地方自治体の総人口が1万人未満となる地方自治体が523市町村(全体の29.1%)と推計されている。
要は地方は日本全体と比較してさらに人口減少が加速し、それと同時に高齢化が加速することが予想されている。いわゆる限界集落と呼ばれる場所がさらに増えていく。高齢者が大部分を占めている地域なためインフラが欠けてしまい、不便性や孤立化が問題となる。
こうなってくると、医療や他の公共サービスにも十分にアクセスすることができず、基本的な人権を損なう可能性が高くなる。ひいては、治安の悪化、食糧自給率の低下、里山の崩壊とそれに関連する災害などの蔓延、耕作放棄地や空き家などの問題がどんどん広がっていく事になる。
さらには高齢化の進展に伴う社会保障給付の増加がある。これは国から地方へ給付金として分配される分もあるが、ますます地方財政を苦しめる結果になる。さらに地域コミュニティの機能の低下に与える影響も大きい。町内会や自治会といった住民組織の担い手が不足し共助機能が低下するほか、学校の統廃合や消防団の団員数の減少は、地域の防災力を低下させる懸念がある。
そうなると、不便な田舎より行政サービスを十分に教授できる都市部に住もうとする人が現役世代、高齢者ともに増え、さらに過疎化に拍車がかかる事になる。今後、地方圏を中心に4分の1以上の地方自治体で行政機能をこれまで通りに維持していくことが困難になるおそれがあるとされている。
少子高齢化は日本に限らず世界的に進んでいる(これから進んでくる)課題であるが、日本が圧倒的にリードしている。デフレや地方衰退など日本の根本に関わる問題でありながら、人口そのものはほとんどコントロールが効かないという側面もあり、なかなか解決までの道筋が立てられていないのが現状だろう。少子高齢化と同様に問題になっている地方の課題についてもさらに触れていこう。
地方の衰退
地方の衰退の原因は、少子高齢化による自然減も大きいが、大学の進学や就職による社会減の影響も大きい。大学で上京して地元に戻ってくる(Uターンする)ならまだしも、そのまま移住されると地方にとっては大きな痛手になる。
「漏れバケツ理論」で見ると地方の課題が浮かびあがってくる。「漏れバケツ理論」は英国のロンドンに本部があるNew Economics Foundation(NEF)が打ち出した概念で、地域を「バケツ」にたとえて地域内経済循環の効果を説明するユニークな考え方である。
多くの地域は、地域というバケツにできるだけたくさん水を注ぎ込もうと(つまり、地域にお金を引っぱってこようと)、政府からの補助金獲得や、企業誘致、観光客の呼び込みなどを行っている。しかし、多くの場合は地域に注ぎ込まれたお金の多くは、すぐに地域外に漏れ出てしまう。
それは、補助金で行った建設工事を地域外の業者に頼んだり、お土産物を地域外で作ったり、せっかく子供が生まれて地域内で熱心に教育しても就職で地域外に行ってしまうとお金はやはり地域外に出て行き、肝心のお金を生み出す労働力も外へ流れるという結果になる。こうした漏れバケツの現状が地方財政の悪化、産業の衰退をもたらしている。
地方の衰退をマクロで見た時にもっとも問題になるのが、一次産業の衰退だろう。農林水産省の発表によれば、2020年度(令和2年度)の日本の食料自給率は37%(カロリーベース)である。
食糧自給率の低下は、国のレジリエンスに大きく関わってくる。日本のプレゼンスが低下している中、食糧を買い付ける(購買力)が低下し、円安で外国製品も次第に高くなってくる。そうなると、まず単純に生活費が上がることが予想される。そうなると経済はどうなるか…全て同じような構造ではあるがデフレを招く。
特に近年気候変動、あるいは国際情勢、爆発的に増え続ける世界人口によって農業生産そのものに不安視されるような現状がある。もし輸入が制限されれば、日本の人口を今の食糧自給率で支えることができない。こうした可能性は十分に考えられるし、事態を深刻に捉えなければならない。
そして、その原因の一つが農業の担い手の不足と、それに伴う耕作放棄地の増加である。一度耕作地を放棄すると、その農地の再生にはかなりの苦労がかかってしまう。当然ながら農地にも肥沃な場所、そうでない場所があるのでそう言った格付けがあることは頭に入れておきたい。
農業が主に都市以外の場所で行われていることを考えると、地方の衰退が農業の衰退にも直接的につながってくる。
これまで農業は、親から仕事や農地を引き継ぎ運営することがほとんどであった。しかし、人口減少、流出によって仕事を継げる人がいなくなり、ますます農業の衰退に拍車がかかっているのが現実だろう。
農業の課題としてはその魅力のなさが大きな原因だろう。仕事は重労働で、朝早くから働き、農産物という自然を相手にするため基本的に休みはない。週休2日制になれてしまっている私たちからすると、毎日重労働に赴くのはかなりハードルが高い。その上、初期投資が高い。親から譲ってもらえるならいいが、自分で農業を始めようとすると農地からトラクター、肥料の購入など金銭的な面でも相当なハードルがある。
人類の発展が食糧の余剰で生まれていることを考えても、こうした食糧問題に関して向き合わないと持続可能な社会には程遠い世界になってしまう。ここでは挙げるだけに留めておくが、アグリテックと呼ばれるテクノロジーの導入、そして個人経営ではなく集団で経営していくことがここらへんの課題を解決する一助になるだろう。
国家も2014年に第二次安倍内閣によって取り決められた地方活性化の政策を打ち出し、「まち・ひと・しごと創生法」が施行され、地方の人口減少に歯止めをかけ、地方活性化につなげることを目的にする「地方創生」を進めている。コロナ渦で都市の過密が問題になり、地方への期待が膨れ上がっている今、地方創生に力を注いでほしい。
都市への一極集中
地方の過疎化とともに生じるのが都市、特に東京への一極集中である。より利便性が高く、仕事も多い都市に人が流れ込んでいる。都市の一極集中に夜メリットももちろんある、現に政府はこれまで東京に人を集中させるように政策を打ってきた。しかし、そのアンバランスがだんだん形になって現れるようになり、問題の解決が促されている。その問題は、老いと過密に集約される。
老いとは人の高齢化だけでなく、インフラの老朽化を含む。高度経済成長、バブルと好景気の時に東京に来ていた世代が定年退職するような歳になってきている。その時に建てられたビルや家も築40年を越え、長持ちするならばいいが、だんだんと建て壊されるようになるだろう。インフラも老朽化が進み、水道、トンネル、道路それぞれ新たに整備し直す必要が出てくるかもしれないが、それには莫大なお金がかかるだろう。まだしばらくは大丈夫かもしれないが、今の不景気、財政の感じを見るとインフラが維持できず、都市のスラム化も起きてもおかしくはない。
都市部の高齢化が起きることでもっとも心配されているのは、孤独死だろう。上京して核家族化し、子供とも疎遠になっているといよいよ孤独死の危険性が高まる。都市は人とのつながりも激しく分断されるリスクを持っているので尚更コミュニティに入れない高齢者はこのようなリスクを背負う。マクロ的に問題というより、倫理的に誰にも見送られず、亡くなってしまうのは人の生き方として悲しいだろう。
そして過密がもたらす問題についても認識しておこう。まずはストレスである。満員電車の密集、歩くのも困難な歩行者天国、ひたすら続く交通渋滞こういったものが日常茶飯事に発生し、常に強力なストレスにさらされる。おまけに公園などは整備されているが自然も少なく、ビルによって太陽の恩恵も受けづらい。毎年2万人程度の自殺者がいるが、こうしたストレスも一つの大きな原因になっているのではないか。
ストレスだけでなく、コロナによってもその問題が明らかにされた。密集すると、どうしてもコロナ含むウイルスや細菌への感染が拡大しやすい。満員電車がウイルスの温床になってしまう。さらに人の移動が激しい時代だからそれが、全国各地に蔓延するのも早い。
東京は政治、経済、人全ては集まっているので、緊急事態に対応しにくいという弱点もある。いわゆるレジリエンスがない。そしてそれは、これから述べる増える災害を想定する上で最大のリスクとなる。今の東京が沈んだら(以前のドラマ「日本沈没」で物理的に沈んでいたが)とてもじゃないが日本の経済は立ち直れないだろう。災害リスクを想定して設計して行かないといけない。東日本大震災の時のような想定外では終わらせられない。
災害に備える
日本は災害大国である。火山、地震それに伴う津波、台風、土砂災害それらが毎年のように日本を襲う大変世界的に見ても稀有な国である。4つのプレートに乗っかり、地震や火山を引き起こし、台風の進路にちょうど位置すること、季節風の影響などから雨が非常に多く、土砂災害、洪水のリスクなども高い。そのおかげで、日本全国に温泉はあるし、水不足で困ることはほとんどない。肥沃な土壌も形成されやすく、独特なジャパンカルチャーを発展させてきたのもこの日本の気候が大きく影響しているだろう。
日本の今後を考える上で、地震などの災害リスクを重く受け止め、対策を考えていくことは重要になる。災害リスクをいくつか紹介しよう。
巨大地震のリスク
(1)南海トラフ地震
マグニチュード8~9クラスの地震の30年以内の発生確率が70~80%とされている。なお、南海トラフでは過去1,400年間に約90~150年の間隔で大地震が発生していることから、次の地震までの間隔を88.2年と予測している。1944年の昭和東南海地震や1946年の昭和南海地震が発生してから、2020年は約75年を経過しており、南海トラフにおける大地震発生の可能性が高まっている。ちなみに東日本大震災はマグニチュード9だったのを考えると、同等レベルの地震が東海地域全体を襲うことが考えられている。
静岡県から宮崎県にかけての一部では震度7となる可能性があるほか、それに隣接する周辺の広い地域では震度6強から6弱の強い揺れになると想定されている。さらに、関東地方から九州地方にかけての太平洋沿岸の広い地域に10mを超える大津波の襲来が想定されている。
この地震の被害としては、最大で死者が約32.3万人、建物の全壊及び焼失棟数が約238.6万棟と想定されている。被災地の経済被害は最大で約169.5兆円と試算されており、東日本大震災(16.9兆円)をはるかに超えるものと想定されている。(国土交通白書2020)
東日本大震災とは比にならない、経済的、政治的混乱が発生することが予想されている。特に大都市圏のほとんどが被害にさらされるため、政治機能が十分に働くか、被災者支援ができる地域がどこか、物資の援助が十分に足りるか、ここら辺が争点になる。さらにwithコロナの世界線になると、病気や感染症との付き合い方など考えることがとにかく多くなる。
コロナと同じように誰もが被害者になりうるので、全域で被害が出てしまうと、その影響は想定を超えるものになってしまう。
(2)首都直下地震
首都直下地震で想定されるマグニチュード7程度の地震の30年以内の発生確率は、70%程度と予測している。最大震度が7となる地域があるほか、広い地域で震度6強から6弱の強い揺れになると想定されている。ただし、発生場所の特定は困難であり、どこで発生するかわからないため、想定されるすべての場所において、最大の地震動に備えることが重要である。なお、東京湾内の津波高さは1m以下とされている。
最大で死者が約2.3万人、建物の全壊及び焼失棟数が約61万棟、経済被害は、建物等の直接被害だけで約47兆円と試算されている。
南海トラフ地震と比べると経済的な損失、死者数も少なく見積もられるが、人口の10%、日本のGDPの40%が集まる日本の心臓ともいうべき東京で地震があれば、当然ながら経済的、政治的麻痺が起きる。
ただでさえ、山のように課題が降り積もっている中で政治機能が一瞬でも麻痺すると、その影響は全国、いや世界に影響してくる。政治的な麻痺で言えば、首都直下型の方がリスクは大きい。さらに、東京や首都圏で大停電が起きれば、近代日本で経験したことのない数千万人という規模で市民生活に甚大な被害が出る。住人は何日間も上下水、電気、ガス、通信回線のストップに混乱し、デマ情報などが流されれば、群集がパニックに陥る。
最悪なのは、首都直下型と南海トラフ地震が同時期に発生することである。そして、その可能性も十分に残されていることだ。日本経済の沈没は、大地震がきっかけになる可能性は想像に容易い。
火山の噴火
過去、世界で発生しているマグニチュード9以上の地震では、その直後から数年以内に必ず噴火が起きている。日本は世界の活火山の実に7%を占 める火山大国である。しかも、ここ100年、大規模な噴火が発生しておらず、噴火のエネルギーがため込まれているとの推測もある。
最近では、御嶽山の噴火や阿蘇山の噴火がニュースになっていたのを記憶している人も多いだろうが、その比ではない被害が発生する恐れがある。
例えば万が一、火山の噴火によって火山灰が降ると、主に以下の深刻な被害が発生する。
積灰による農作物の生育不良
積灰による電線の断線とそれによる停電の発生
レールの積灰や運行システムの障害による鉄道の運行停止
積灰による建築物や設備の損傷
火山灰が原因の濁水による断水
自動車の走行不能や渋滞
視界不良・スリップによる交通事故
航空機のジェットエンジンの故障とそれを回避するための運行停止 など
基本的なインフラがほとんど停止し、人、モノの輸送が不可能になるだけでなく、健康、作物にも影響し、この状況では人命救助や食糧などの物資の提供を迅速に行うことが難しくなるというリスクもある。そのうち、特に噴火が危険視されているものを紹介する。
富士山の噴火
活火山の1つである富士山が最後に噴火したのは、今から300年以上前である1707年の宝永大噴火であり、いつ噴火しても決しておかしくないとその発生が危惧されている。
もし富士山が噴火した場合、火山災害で静岡県や山梨県、首都圏である東京都、神奈川県、千葉県などに深刻な被害を及ぼすと想定されている。関東一帯の経済が止まるかもしれない。
阿蘇山のカルデラ噴火
もう1つ発生が不安視されているのが、宝永大噴火の1,000倍以上のエネルギーをもつとされる阿蘇山のカルデラ噴火である。
2016年の熊本地震の影響で活発化が懸念されている阿蘇山で噴火があったが、入山規制が出るレベルであった。カルデラ噴火すると九州は壊滅的な被害を受け、降灰によって北海道東部と沖縄県を除く全ての地域でライフラインが途絶するなどの甚大な被害が想定されている。
先日日本でも津波が発生したトンガの海底火山噴火は、日本における阿蘇山のカルデラ噴火したようなものだと言われている。阿蘇山のカルデラ噴火は日本だけでなく、世界中に影響を及ぼす可能性がある。
大規模な火山が起きる火山の噴火が起こると、それはガイアの気候にまで及ぶ。大気中に火山灰・塩酸・二酸化硫黄などが注がれる。固体や液体成分は雨や雪によって比較的短い時間で大気中から除去されますが、気体成分の二酸化硫黄は大気中の水酸基と化学反応を起こして硫酸エアロソルを作り、下部成層圏に長い時間留まる。硫酸エアロソルは太陽入射を反射・吸収して太陽入射を減少させる日傘効果と、地球の赤外放射を吸収する温室効果によって気候に大きな影響を及ぼす。
ガイアの歴史を見れば、生物の何回か起きた大量絶滅のうち数回は、火山の大噴火で引き起こされた寒冷化が原因とされている。人類が本当に警戒すべきは、地震ではなく火山なのかもしれない。
水害リスク
気候変動のところでも触れたが、気候変動が進んだ世界では、これまでよりも強力な未曾有の台風が増加する可能性が高いと言われている。近年の日本でも、近海での台風発生数や上陸数は大きく変化していないものの、大型化した危険な台風が増えてきている。2018年に大阪を中心に襲った台風や、2019年の東日本全域を襲った台風19号などは記憶に新しいだろう。このようなこれまで経験したことのない勢いを持った台風が増えてくると言われている。ただし、勢力が増す代わりに数自体は減るとも言われている。
台風だけでなく、日本における大雨の発生数が長期的に増加傾向にある。近年だと熊本豪雨、静岡で被害が深刻だった土砂災害。これまでも毎年のように土砂災害があった。日本の土地柄的に、山がちな土地なのに、森林の整備が追いつかない、もしくは開発が進みすぎて土砂が不安定なものになっている。その上で雨が長期化しているので、非常に土砂災害の危険性が高まっている。
雨も梅雨のようにしとしと降る雨が増えるというのもあるが、ゲリラ豪雨のように短時間で勢いの強い雨が降る可能性も高くなる。川の氾濫などもさらにリスクマネジメントする必要がある。
山のように降り積もる日本の課題の一部を紹介した。リスクを正しく認識し、正しく恐る必要があるが、必要以上に不安視する必要はない。今振り返っても1920年代は最悪の時代であった。第一次世界大戦が終わり、戦争恐慌で不況が続く中、関東大震災、世界大恐慌と厄災が縦続きに発生し、日本の経済はボロボロだった。
その後、第二次世界大戦と発展し、敗戦を迎えるがその後の高度経済成長で目覚ましい成長を遂げる。時代によって、様々な課題が存在するが、日本も世界もそれを乗り越える力があると私は信じている。
歴史を知り、課題を知った上で、どんな未来が予測されているのかを知ろう。未来が分かれば、それを元に計画し行動することができる。もちろん未来はまだ起こっていないので不確実なものではあるが、多くの成功者たちが、歴史から学び未来を予測することで、自らの成長を掴み取ってきた。それでは、未来の章に入る。
未来を予測する
第6次エネルギー革命は生まれるか
生物とはとても不思議なものである。ほとんどの生物は自分の種を拡大するような最適な行動をするし、生存地や食糧を争って対立したり、と思えばお互いのデメリットを補うように共存している生物もいる。
でも、必ずと言っていいほど種の繁栄を願う。自分は淘汰されていいとか、消えてもいいとかそういうふうに行動する生物はいない。
そこにはきっと神の意思が存在するのだろう。どんな生物も人間社会においても自分が優位な存在でいたいし、種とし成長し、繁栄することを願っている。これはどうしようもない運命なのだろう。
だけれど、私たち人類は今未曾有の危機に瀕している。気候変動をはじめ、疫病、戦争リスクさまざまな危機が目前にある。そして、人類の持続可能な社会に向けてこの繁栄という歯車にブレーキをかけ、逆回転の力が働いている。
これまで見てきたように人類の繁栄=経済=エネルギーである。それがこれまでの火力発電によるものから再生可能エネルギーに急速なシフトが生まれている。
よく知られているように再生可能エネルギーはエネルギー的にみて決して効率的なエネルギーではない。太陽光はこれまでの農業と同様に太陽の奪い合いの競争に参加することになるし、風力も風の力の一部を利用するがどちらもそのエネルギー効率は他のエネルギーと比べても極めて低い。
再生可能エネルギーの利用はこれまでの人類社会を翻すアンチテーゼとなりうる。これは私が知る限り歴史的に見られない、文字通り人類史上初の試みである。気候変動を止めようと思ったらそれをたったの10年やそこらで達成しないといけない。これは政治家の汚職をなくすのより遥かに難しいだろう。全てのセクター(経済、金融、法律、テクノロジーなど)が低エントロピーの世界に向かうようにシステムを組み替えないといけない。そこには当然個々で仕事を持っている人もいるだろうし、システムの歪みを用いて莫大な利益を得ている人もいるだろう。そういった利権や雇用などいろんなものを切り捨てて世界の変革に望まないといけない。これを地球規模で実行することは、人類の全ての英智と行動力が試されている。
さて、人類社会は未曾有の戦いに挑んでいるのは間違いないが、それでも人は成長することをやめることはできないだろう。人類がもつ知的好奇心や成長への意欲は、これだけ繁栄した社会においても勢いを失うことを知らない。
その最たる例がIT技術だろう。さらに高エントロピーの世界に向かうことが考えられる。特に近年注目されているビットコインを代表とするブロックチェーンの技術、AIなどのコンピューティングシステム、これらはものすごい電力を消費する。
ケンブリッジ大学オルタナティヴ・ファイナンス・センター(CCAF)によると、電力に基づくこうした「プルーフ・オブ・ワーク(PoW)」と呼ばれる奨励システムが原因で、ビットコインのマイニング(採掘)は年間133.65テラワット時を消費しているという。これはスウェーデンやウクライナといった国の年間消費電力よりも多い数字だ。
やはり自然環境とテクノロジーの両立は一筋縄ではいかない。気候変動の影響は、エネルギー特に電力部門による処が大きい。その電力消費を減らしていかなければ到底パリ協定を達成することは難しいが、現実はこういった新しいテクノロジーの台頭や新興国の経済発展でエネルギー消費量は増えるばかりである。
という訳で人類は必ず新たな火を求める。再生可能エネルギーでは、現代のエネルギーを補えるほどの力を持っていない。確かにキャパシティとしては、現代のエネルギー量を補うのに十分な容量があるけれど、それは、あらゆる土地や場所が再エネに支配されたある意味ディストピア的世界だろう。いや、ある意味農業や畜産と同様に受け入れられる世界になるかもしれない。
いづれにしろ、再生可能エネルギーは気候変動を抑えつつ、新たな火を生み出すまでの繋ぎのエネルギーとなるだろう。そして新たな火として注目されているのが宇宙太陽光発電と核融合発電である。
宇宙太陽光は宇宙に太陽光発電衛星(SPS=Solar Power Satellite)を打ち上げ、発電した電気をマイクロ波に変換し地上に伝送して利用するというもの。衛星1基あたりの発電規模は原発1基に相当する100万kWで、そのパネルの大きさは2km四方というから、ゴルフ場がすっぽり入るような巨大な太陽電池を宇宙に浮かべることになる。
原理は太陽光発電と一緒で太陽光パネルを宇宙まで持っていくというのが変わっただけで従来の延長の技術である。技術的にはほとんど確立していて、あとはコストとどうやって発電所を宇宙に建設するかといった具体的なビジネス上での話が中心になってきている。
雲や昼夜の影響を受けずに定量発電できるのは、発電所としては再生可能エネルギーの変動性や、地上の立地条件にも囚われることがないという点でかなり期待できる。しかし、現状の技術の延長上である点で革命というほどの変化は生まれないだろう。原発のような一つのエネルギーの供給手段として今後普及が期待される。
核融合発電
核融合発電は、新たな火というより太陽を地球に生み出す計画と言ってもいいだろう。それくらい革命的で現実的なエネルギーという制約から解き放たれる可能性が高い。高レベル放射性廃棄物を発生させず、海から燃料が無限にとれ、1グラムの燃料で石油約8トン分のエネルギーを取り出すことができる。単位面積当たりのエネルギー量が少ない(エネルギー密度が低い)太陽エネルギーを利用する場合と違って、広大な土地を囲い込む必要もありません。まさに「夢のエネルギー」と描かれる。
エネルギー密度が高く、資源もほぼ無尽蔵にある核融合反応による原子力エネルギーこそが、将来の人類社会を駆動する中心的なエネルギー源に据えられるべき、理想に最も近いエネルギー源であるといえる。
もし、この核融合発電が実現したらどんな世界になるだろうか?まずエネルギーを節約するという概念が壊される。だってほぼ無限大にエネルギーが生まれるのだから。水素やアンモニア、窒素、鉄鋼など生成に多大なエネルギーを利用した産業がものすごい勢いで活気付くのは容易に想像できる。
産業革命以来、経済は爆発的に増大してきたけれども、その勢いはさらに加速されることになるだろう。経済とエネルギー消費量は、かなり親和性が高い。グラフを見てもらえればわかるように相関関係はかなり高いはずだ。
これだけ省エネ技術が普及した社会でも、消費量は伸び続けている。パリ協定の達成には、消費量をぼぼ半減させることが必要だがはっきり言って不可能だろう。成長を目指す限り、エネルギー消費量は増える。そして人類は成長を止めることができない。消費量を半減させる未来を自分には見据えることはできない。代わりに原子力やさらにその先の核融合などの技術によって、持続可能な形での発電が加速することが予想される。
そしてAI含むデジタルテクノロジーの発展が人類の成長とエネルギー利用において不可分な存在だろう。どんなに高度なAIもエネルギーという制約から逃れることは出来ない。なぜなら私たちが食事をするように機械は電気という食事が必要になる。
このエネルギー革命が生まれたとき、世界は新たなステップに向かうだろう。それはまさに、農業という発明をして、世界の太陽エネルギーを独占したように、火力発電と送電技術によって、世界の工業化を生み出したように、シンギュラリティやノヴァセンという新たな世界を生み出す可能性を秘めている。
シンギュラリティは、アメリカの発明家であり人工知能研究の世界的権威であるレイ・カーツワイルが2005年に提唱した未来予測の概念で、カーツワイルは著書で、2045年には人間の脳とAIの能力が逆転するシンギュラリティに到達すると提唱している。
AIが人間の脳を超えると、これまで人間にしかできなかった多くのことが機械によって代替されるため、人間の生活環境は大きく変わると予想されている。AIは単なる人間の代替労働力としてだけでなく、医療、金融、情報通信、さらには軍事にも適用されることが予想されている。
ジェームズ・ラヴロックはサイボーグと共存するノヴァセンを提唱している。「Novacene(ノヴァセン)」とはこの地球の新しい地質年代として彼が名付けたもので、アントロポセン(Anthropocene:人新世)を引き継ぐ時代となる。アントロポセンとは人類がこの惑星全体を地質学的にも生態系の面からも改変する能力を獲得した時代として定義づけられ、地質学者的にはその始まりは議論されているが、それはジェームズがいうには終わろうとしている。それに続くノヴァセンという時代は、テクノロジーがわたしたちのコントロールを超えて、わたしたちよりも遥かに優れた知能を生み出す時代となる。
具体的には後の章で語るとして、いづれにしろAIがこの世界のルールを書き換えていくことには疑いがない。おそらくこのシンギュラリティ、そしてノヴァセン、エネルギー革命は同時に発生する事象になるだろう。エネルギーがほぼ無限大に供給できるようになり、そのエネルギーが人類だけでなく、AIを中心とした無機生命体と共有して使う時代になるのだろう。
その先の未来は、もはや人類に想像することは難しいがこれからは真剣にAIや自然との共生について考えていかなければならない。
ここまで、経済とエネルギーを中心に簡単にこれからの動きを予測した。そこで成長を目指す限り、エネルギー消費量は増えるという言及もした。一方でパリ協定に沿う形で、エネルギー消費量を減らし(つまり成長をやめて)持続可能な形に世界を書き換えていくという形もあるだろう。
それは最近では、人新生の資本論だったり、欲望の資本主義、21世紀の資本、ひと昔前では成長の限界などでも言及されている。明らかに資本主義は限界を迎えており、そのルールを書き換えていく必要性はずっと言われ続けているように思う。
特に成長の限界は今から約五十年前から人類の成長に限界が来ることを示唆した名著である。ローマ・クラブという賢人会議が、当時のスーパーコンビュータを使い、資源・食料生産性・人口・環境汚染など様々な要素から、人類の未来をシミュレート。近いうちに、産業革命以来続いてきた経済成長がピークを迎え人類の衰退が始まる事を予想した本書は、当時のオイルショックとあいまって、深刻な予想と受け止められた。
当時の予想を裏切るかのように未だ世界は成長しつづけている。しかし、当時から成長への疑念は絶えず、その影響はコロナを含めた感染症や気候変動などの影響として確実に表れている。人類はどこまで成長するのか。
一歩引いて生態学的な視点から考えていきたい。生態学で個体数増加曲線と呼ばれるものである。
個体数Nは、制限がなければ指数関数的に増加するが、一般的にはある一定の環境収容力Kが想定され、NがKに近づくほど増加率は低下し、S字型の増加曲線を描く。一般には、個体群の密度が高まるといわゆる密度効果によって産子数や生存率の減少を通じて増加率が調整され、この水準で個体数が保たれるとされる。
日本も世界も基本的には微増してきた。しかし、いくつかのエネルギー革命(特に産業革命とみどりの革命)によって、その数は指数関数的に増加した。生物学的にいうと、環境収容力が増加しその結果として人口爆発に至ったというのだろうか。とにかくこの100年における人口の増加は目を見張るものがある。
そして、日本は極端な人口減衰期に突入している。ロジスチック曲線の下の線にあたるところだ。人口減少は多くの問題を引き起こす。経済の成長も文化の存続も、社会保障システムなどの様々なシステムの持続も難しくする。ある意味こういう学術的な因子に寄せられるのは、人類もまた生物であるということを実感させられる。
社会が高度になると、女性の社会進出、出産年齢の高齢化、社会不信様々な影響が複合的に働き、結果的に人口を減らすような作用が働いている。一方で、エネルギー革命や経済の合理化、はたまた高度な都市化などは環境収容力を上げる力とも言える。今世界的に見れば、指数曲線になるようなロジスチック曲線を描いているのかもしれない。
マクロに見れば、このコロナも自殺者の増加も気候変動も増えすぎた人口を減らす因子のようにも思える。戦争だっていろんな要素があるけれど、結局は資源の奪い合いに根を発していることが多い。そう思うと人類は経済やエネルギーの増加に合わせて人口を増やしてきたけれど、同時に様々な減少因子を働かせて不毛な戦いを挑んでいるようにも思える。
持続可能な世界というのは、ある意味環境収容力のある世界と言い換えられるかもしれない。そこには感染症も災害も餓死などもあるかもしれないけれど、それを受け入れながら、子供が生まれ、経済が発展し、文化が受け継がれていくような世界ではないか。
テクノロジーインパクト
ここまでをまとめると、勝手にしていると基本的には経済は肥大化する方向に大きな力が働くが、一方で日本のように極端な人口減少を迎える可能性もある。おそらくその過程の中で第6次エネルギー革命が生まれるだろう。それは、現状の様々な課題を解決するだろう。二酸化炭素の排出、高レベル放射線廃棄物の問題、化石燃料の枯渇etc.しかし、産業革命のようにまた次世代に新たな禍根を残すかもしれない。特にAIやサイボーグ的な存在との向き合いかたは人類のアイデンティティも含めて、考え直す必要性を求められる。
そうした禍根を残しながらも私たちは持続可能な世界への道筋を探し続けなければならない。ここではこれから起こるテクノロジーとテクノロジーとの向き合い方について考察していきたい。
ざっと、注目されているテクノロジーをあげてみる。
ようやく5Gが導入されつつあるという時代ではあるが、すでに世界は6G、7Gという世界観を描いている。ブロックチェーンやAIも馴染み深い言葉になってきているが、それぞれが引き起こす変化はこれから期待される部分が多い。私は一応機械工学が専攻ということもあり、多少なり技術的な話は関心を持ってきた。特に量子分野は核融合発電や量子コンピューティングという強力な変化を生み出す研究し甲斐のある分野に思う。
単体の技術でもそれぞれ破壊的なインパクトがあるので、細かく説明してみたいというところもあるが、多くのビジネス書でこれらの技術に言及されているように思うので、それはそちらに譲ろうと思う。
これからはそれぞれの技術が融合し、新たなビジネスとして成り立つことでより加速度的な変化が生まれることが予想される。その融合した技術が生み出す変化、それは利便性に限らず、ビジネスのあり方、社会動態、個々の価値観の変化まで大きなうねりを持つことが考えられる。そうした俯瞰的なテクノロジー論として本章をまとめていく。
空間革命
まず空間に対して起きる変化を考えてみよう。私たちはすでに空間、距離というものに対して大きな変化を受けてきた。おそらく最初の空間的な革命はモールス信号になるのだろうか?光の点滅によって物理的に伝達不可能な距離を突破して、メッセージを伝えることに成功している。
おそらく次は「電話」だろうか。電話のことを英語で「telephone」というが、もちろんこれは新たにつくられた言葉である。その由来は「遠くの音」という意味を持つギリシャ語で、ドイツの物理学者ヨハン・フィリップ・ライスにより名づけられた。
それ以前からテレグラフや糸電話など伝達システムもあったようだが、「導線で電気的に声を遠くへ伝送する」という「telephone」によって、単なる暗号の伝達というものから音声の伝達というものが可能になった。
それに続くようにラジオ、テレビ、インターネットの発達があり、単なる音声の相互な伝送から1toN,NtoNといつでも、誰とでも情報をやりとりすることができる時代にきた。そして、コロナ渦もありテレワーク「telework」が発達することになった。音声や視覚的な情報だけでなく仕事もまたいつでも、どこでもできるような時代である。
これがなぜ空間革命かというと、自分の物理的な範囲、すなわち声に出したり、移動したりということを介さずに様々な情報を送ることが可能だからである。電話が起こしたインパクトなどを考えてみるとわかりやすい気がするが、それまで直接対面しないと伝わらなかったことが、電話という技術を通して、遠く離れていても音声という情報を相互にやりとりすることができるようになった。
今まで馬車を走らせて、なんとか情報を届けていたものが、電話という一つの革命を通して一瞬で、情報を伝達できるようになったのだから物理的な空間を超えていくということで空間革命である。
それでは、これからの技術でどのような空間的な変化が生まれるだろうか。まず近年やっと導入された5Gから考えてみよう。
5Gの特徴が超高速、超低遅延、同時大量接続である。その中で期待されている一つがVRやARの世界である。首都圏を中心に5Gの導入が進んでいるが、ただ動画が快適に見れるようになるというだけでない大きな期待がある。他にも自動運転や遠隔医療、IoTの進化など様々な変化が期待されるが特にVRを中心とした空間的な変化について考察してみよう。
5Gで普及するVRで期待されているのが、ライブやスポーツ観戦での利用である。これまでは一流のカメラマンが様々な角度からボールやアーティストを追っていたのをVRで臨場感溢れるようにみることができる。
もちろんそれは会場にいながら楽しむこともできるし、動画配信のような形で自宅にいながらにしてライブの雰囲気を味わうことができる。これから感染症と共生しながら生きていく(withコロナ)という時代感を考えていくと、自宅にいながらにして楽しめるエンタメが進化していくという感じだろうか。
動画配信サービスも大きく変わっていくだろう。4Gが動画の時代だとしたら5GはVRの時代である。今も若干あるけどVR専用の動画というものが今後はどんどん普及してくるだろう。それはyoutubeやnetflixのようなところがそういった領域に手を伸ばしていくのか、新たなサービスが誕生するのかわからないが、そうなってくるとアニメや映画、ゲームの形もどんどん変わってくるのかもしれない。実際にソードアートオンライン(SAO)の世界に入るVR版SAOみたいな。
VRやARの拡張版として最近注目されているのが、メタバースである。直近の出来事では、2021年10月付で社名を「Facebook(フェイスブック)」から「Meta(メタ)」へ変更し、世界的に「メタバース」に対する大きな注目が集まってきている。
「Metaverse(メタバース)」とは、「超越した」という意味合いを持つ「Meta」と「宇宙」という意味合いを持つ「Universe」を合わせた造語である。実世界と異なる3次元の仮想空間上で人々がコミュニケーションを行うことのできる世界を意味する。
一言でメタバースを説明すると、ネット上に作られた仮想空間やそのサービスを意味する。メタバースでは、VRやARの技術を活用することで、仮想空間に自分がいるかのような感覚を人々と共有できるようになる。おそらくわかりやすいのが「サマーウォーズ」の世界だろうか。細田守監督が昨年出した「竜とそばかすの姫」も同じような世界観ではあるが。
メタバースにおけるバーチャル空間は3Dモデル、都市や建物などの空間モデルといったもので構築され、利用者はVRデバイスやPC、スマートデバイスなどを介して実世界からバーチャル空間に入り込む。バーチャル空間ではオリジナルのアバターや、ユーザーの容姿を模したリアルアバターなどを自身の分身とし、行動することができる。
そこでアバターを利用しながら、コミュニケーションをとることはもちろん様々な利用が期待されている。特にエンタメやビジネス分野で大きな開拓が期待されている。
「フォートナイト」に代表されるようなオンラインゲーム、メタバース空間内での音楽ライブやスポーツ観戦イベント、ショッピング体験。また、ブロックチェーン技術を用いたメタバース空間においては、NFT(非代替性トークン)の土地やアイテム、アート作品などを売買するといった経済活動が行われている。メタバース空間で自分の土地を買ったり、アバターに着せるための服を購入できたり、リアルと紐づいて、Amazonの商品をVRで閲覧できたりするだろう。
また、アバターを通して1つの同じ空間に集まり、複数の関係者が仕事の打ち合わせを行ったり、顧客と商談を行ったりするといった新たなweb会議システムの構築も考えられる。
これは、予想される世界ではなく、現実にすでに起きている事実であるということを忘れずに。ビジネスも学校教育もあらゆるものがこの変革の波に晒されるだろう。
それでは、このような空間革命の時代において6Gでは、さらにどのような変化が生まれるのだろうか。
5Gから通信速度が10倍程度、容量が100倍程度になり、通信速度が人間の脳の情報処理速度のレベルに近づくことで、単なる映像伝送(視覚・聴覚)だけではなく、現実の五感の情報伝送、さらには雰囲気や安心感などの感覚も含めた「多感通信」の実現も考えられる。
もはや通信は空気と同様あって当たり前のものとなり、かつ電力や水と同様もしくはそれ以上に重要なライフラインとなる。ゆえにユーザは通信の設定や通信サービスエリアを意識する必要がなくなる。通信環境は、人や物の活動領域の拡大に伴い、あらゆる場所で必要となる。高層ビル、ドローン、空飛ぶ車、飛行機、さらには宇宙までも当たり前の活動領域となり、地上だけでなく空や宇宙までも必須の通信エリアとなる。
また、海上、海中までも通信エリアにするニーズが高まる。各種センサネットワークや無人工場、無人建設現場などのニーズにより、人がいない環境での通信エリアの構築も必要となる。結果的に、地上、空、海のあらゆる場所が通信エリアとなる。
そうなってくるとメタバース空間のさらなる拡張が考えられる。五感をどうやって伝送していくのか技術的に理解が難しいがもし可能になれば、感覚や嗅覚といったものまで利用しながらサイバー空間でコミュニケーションが取れるようになるかもしれない。
そこからサイバー空間を通り越して、現実世界での意識の伝達も可能になるかもしれない。イメージで言えばアバターの世界だろうか。自分は自宅にいながら、分身体(おそらくロボットもしくはホログラム)で自由に移動できるような感じである。
そういうことが可能になると、農業や医療、工業などあらゆる手作業が必要になってくるものが、自宅にいながらにして作業可能になってくる。世界旅行も実際にその雰囲気をあらゆる五感を使いながら楽しめるようになる。
それでも、実際のリアルには叶わないのだろうけど…特に食体験やアウトドアなどの体験というものがおそらくオンライン上では不可能なので、そこら辺のエクスペリエンスとサイバー空間がどのようにデザインされていくのかが注目される。
味覚というものも伝達できるようになって、美食ツアーができるようになったり、ホログラムを使ったスポーツみたいなものができるようになったりするのだろうか。スプラトゥーンを実体験できるみたいな。おそらく私たちが想像できて、需要のある限り実現してしまうのだろう。
個人的にはFF10のブリッツボール(水球を水中でやるようなゲーム)がサイバー空間上で実現してほしいと思う。無限大の可能性があるだろう。
空間革命をまとめると、5Gさらには6Gの大幅な高速・大容量化によって「サイバー・フィジカル融合」の実現が可能になる。これまでのテレフォンやテレワークを超えて、コミュニケーションやビジネスのあり方を大きく変えていく。特に仮想現実の世界がより、リアルにも繋がってきて、五感を通じた遠隔でのコミュニケーションを可能にする。
エンタメを中心にフォーカスしたが、これにより交通や医療、社会システムが大幅に変わっていくことが予想される。次に交通革命について考えてみよう。
交通革命
交通とは、人又はモノが空間を移動することである。空間革命が現実とサイバー空間との接続であるとするならば、交通はリアル同士での人とモノの移動である。人間同士の交流、物流の発展は科学技術、豊かさに大きく寄与する。人にとって交通は、単なる移動手段にとどまらず、人が文化的に、また、創造的に生きていく活力の源泉と言える。
交通の歴史は古い。紀元前3000年頃、シュメール人により車輪が産まれ、紀元前2500年頃には馬・ロバ・牛等に引かせる荷車が用いられたと言われている。また、ローマ帝国時代には木製車輪の外側に鉄の輪を焼きばめた「鉄のタイヤ」が登場し、「すべての道はローマに通ず」という諺の由来にもなっているように、石畳の舗装による道路整備が行われた。政治、軍事、行政上の必要から、馬車が往来するための道として整備され、ヨーロッパの道路網の形成へとつながった。
日本では、江戸時代に代表的な街道を幹線とする五街道が作られたが、道が悪く狭かったことから馬車の出現は大変遅く、外国人が19世紀半ばに日本に持ち込んだことで初めて馬車が普及した。
交通は、歴史を見てみると長い間家畜が牛耳っていたが、日本では陸上移動はもっぱら徒歩が主流であった。その間に船舶の発達で水上移動も発達し続けてきた。昔から日本と中国が交易をしていたように船の利用も歴史は長いが、特に大航海時代はまさに資本主義社会の幕開けの時代でもあり、物流が人の移動が一気にグローバル化したことで、経済は飛躍的に躍進したと考えられる。
そして産業革命と言えば鉄道である。石炭を燃料とした蒸気機関車のイメージは強いだろう。日本における鉄道は、政府により1872年に最初の鉄道が新橋・横浜間に開通した。1889年には東海道本線が新橋・神戸間で開通した。
自動車の歴史も意外と古い。1769年に蒸気を原動力としたものが産まれてから、ガソリン、電気、ディーゼルの順に次々と発明された。19世紀後半には、ガソリン自動車、電気自動車、蒸気自動車がそれぞれ発達したが、1901年のテキサス油田の発見等により、ガソリンエンジンの普及に拍車がかかった。そして実用性を追求した量産車「T型フォード」が1908年に登場した。
鉄道や自動車による高速移動は、人々の行動範囲を広げ、様々な物資の移動を容易にした。移動の高速化に伴い観光やレジャーの大衆化が進んだ。また、物資の移動も活発になり、地方で生産される生鮮食品が都市住民の食卓に並ぶようになった。また、モータリゼーションの拡大以後は、自動車を中心として都市や社会が整備されるようになり、それに基づいたショッピングモールや道路網の整備など大きく社会のあり方が変化した。
また飛行機が大衆化していくことで、グローバル化に拍車がかかることになる。移動が国内にとどまらず、国の枠組みを超えていくことで海外旅行しかり、国際的な枠組みも広く作られていくことになった。
テクノロジーの話というより交通の歴史の話が中心になってしまったが、経済の発展とともに交通の歴史も大きく変化していった。特に船舶、鉄道、車両、航空という移動手段が生まれたことで大きく世の中の人、モノの流れが変化していった。
さて、交通も御多分に洩れず大きな革命を迎えることになる。キーワードは高速化、コンパクト化といったところだろうか。技術的には、自動運転、空飛ぶ車、ハイパーループ、ロケットでの高速移動、ウォーカブルなどがある。それぞれ見ていく。
わかりやすい動画があったので置いておく。全体的な未来の交通システムのイメージは湧きやすいはずだ。
自動運転
空間革命でも説明した5Gを中心とした技術、すなわち同時大量接続と超高速化、大容量によって自動運転の道は一気に花咲くことになる。自動運転はわずかな誤作動、遅延が許されないので正確に動いてもらう必要がある。その点5Gの技術はその基準をクリアするので、実現化に向けて大きな動きを見せている。
自動車で覚えておきたいコンセプトはCASEとMaaSである。
CASE(ケース)とは、Connected(接続性)、Autonomous(自動運転)、Shared & Service(シェアとサービス)、Electric(電動化)という、自動車をめぐる新しい技術・サービスを表す4つの英単語の頭文字を並べた造語。2016年のパリモーターショーでドイツのダイムラーが戦略の柱として発表して以来、自動車産業の変革期を示すキーワードとして注目を集めている。
MaaS(Mobility as a Service)とは、バス、電車、タクシーからライドシェア、シェアサイクルといったあらゆる公共交通機関を、ITを用いてシームレスに結びつけ、人々が効率よく、かつ便利に使えるようにするシステムのことである。
たとえば、サッカーを観戦するためにスタジアムへ行くとき。いまでもアプリを使えば自宅からスタジアムまでの最適経路と利用すべき交通機関、所要時間や料金などを簡単に知ることができるが、MaaSではこの検索機能にプラスして予約や支払いも、スマホなどの端末を使い、まとめてできるようになるということだ。しかも、MaaSの場合、前述したように鉄道やバスだけでなく、タクシー、シェアサイクル、カーシェア、ライドシェアなど、ありとあらゆる交通手段が対象となる。
これによって、一言でいうと自動車の未所有化が起きる。つまり、自動車はタクシーのように使われることになり、個人で持っているのは、どこかのコレクターか、大金持ちくらいになるということだ。自動運転が普及してくると、だんだんと手動で運転するのにも制限がかかってくるようになるだろう。当然運転免許証なんていうものもなくなるだろうし、既存のタクシー業界も絶滅するだろう。それと同時に脱炭素化の流れを汲んだEVもしくはFCVの誕生で、よりサステナブルな車が誕生してくる。
交通革命以前に空間革命によって、人の移動そのものの需要が大きく減少する可能性もあるが…
空飛ぶクルマ
空飛ぶクルマは電動で、垂直離着陸が可能なモビリティのこと。クルマのような手軽さ・快適さで“空を走る”新しい乗り物である。日本では2018年に初めて屋外飛行許可を取得し、飛行試験を実施。2025年の大阪・関西万博では、会場内の移動手段として活用される見込みである。
東京オリンピックでのお披露目を目標にやってきたようだが、そのようなパフォーマンスは記憶にないので、おそらく大阪万博が公に披露され、さらに利用される場面になるだろう。
空飛ぶクルマで期待されることは、スマートな移動の実現、災害対応などである。目的地に向かう際、電車やバス、タクシーなどを乗り継ぐ回数が減り、道路に依存していた経路もほぼ直線で結ぶことが可能になるため、航行距離や所要時間を大幅に短縮することが可能になる。
このほか、定期船などの往来が少なく、比較的本島と近距離に位置する離島への交通手段としての需要もありそうだ。タクシー感覚で少人数の渡航ができるため、地域住民や観光客などの日常の足として活用できる。
また、既存のヘリコプターに代わる存在として利用される可能性がある。ヘリは高価である上、着地地点が限られる。ドクターヘリと救急車の間にある存在もしくは土砂災害などで交通インフラが機能しなくなった時の足として迅速な救助や現状把握、調査活動などをスムーズに行うことも可能になるだろう。
その他、ヘリコプターに代わる観光資源、ドローンの代わりとしての過疎部への物流の拡大など利用は多岐にわたるだろう。
しかし、正直に言って空飛ぶクルマが市民権を得ることは考えづらい。田舎ならともかくおそらく都市部では高層ビルや複雑な架橋が立ち並ぶ中では、法律の整備などままならない可能性が高い。道路も渋滞やうねりがあるとはいえ、そこまで不便と言う訳でもない。価格もおそらく一般で買える値段になるまでは時間がかかるだろう。今年発売されるFlying Car(フライングカー)は価格は120万~150万ユーロ(約1億4,000万円〜1億8,000万円)程度だそうだ。
そもそもエネルギー的にみて、とんでもなく効率が悪い。欧州では、飛行機の利用に関してあまりに大量のエネルギーを使うために、一部路線が減ったり、積極的に飛行機を利用しない運動などが広がっている。それと同じように空を飛ぶと言うのは、とんでもなく効率が悪い。エネルギーの効率化を目指さないといけない時代に逆行した動きとなる。
なので、ヘリコプターや一部島嶼部のジェットホイルのようなものの代わりになる可能性は十分にあるが、日常的に空飛ぶクルマが利用される未来は個人的には想定できない。
ハイパーループ
ハイパーループとは、チューブ内をポッドやカプセルなどと呼ばれる車両が空中浮遊して高速移動する新しい輸送システム。チューブ内を減圧して真空にすることで摩擦抵抗や空気抵抗が抑えられ、時速1000kmを超える移動が可能になるという。音速旅客機並みの速さで移動できるだけでなく、車両自体はCO2を排出しないため、環境にも優しいとされる。
日本で建設を進めているリニアは時速500kmで営業運転するとされているためほぼ倍の速度となる。
これは世界を見ればかなり実現性の高い未来だろう。技術的にも自動運転などと比べるとそこまで高度でないだろう。ただし、リニアの建設に行き詰まっているところをみると、日本での実現はだいぶ先になるだろう。
ロケットでの高速移動
SpaceXのコードネーム「BFR」と呼ばれる宇宙旅行用ロケットで、最高飛行速度は2万7000km/hを計測、地球上全ての場所へ60分以内で到着可能。まさに「どこでもドア」の実現と言えそうだ。イーロン・マスクCEOによれば、国際線のように利用出来る、未来の超高速移動手段としての活用を計画しているという。NYから上海までを39分、東京-NY間を37分で移動することが可能なことであり、まさに交通革命と言える。
ウォーカブルな世界
さて、ここまで交通革命を代表とする技術をざっくばらんに挙げてきた。代表すべきは自動運転だろうが、それ以外にも現在の交通手段の多様性をさらに広げ、拡張するように技術が多数転がっている。
イノベーションとはまた違うものになるが、交通環境という意味で世界的にはウォーカブルな街づくりと言うものが進められいる。
ウォーカブルな街づくりというのは、まちなかを、車中心から人中心の空間へと転換することで、人々が集い、憩い、多様な活動を繰り広げられる場へと改変する取組のことである。
たとえばニューヨークでは、社会実験を経て2009年にタイムズ・スクエアが歩行者天国になった。それにより、ストリート自体が新たな観光地として賑わい、周辺の治安が良くなったばかりではなく、沿道の店舗の売り上げも数倍に。車中心の街から、人間中心の街へ、その象徴的な空間となっている。
国土交通省では、これらをひと中心の豊かな生活空間を実現させるだけでなく、地域消費や投資の拡大、観光客の増加や健康寿命の延伸、孤独・孤立の防止といった、様々な地域課題の解決や新たな価値の創造につながると位置付けた。
次章コンヴィヴィアルテクノロジーでも語るが、テクノロジーの台頭以降、特にデジタルテクノロジーはテクノロジーによる支配を許してしまった。すなわち価値観やまちづくりの中心が車だったり、SNSだったり、それを中心にして人の行動や価値観が決まってしまうという、いわばテクノロジーの罠にかかってしまっている。
車支配によって、人の健康が損なわれたり、排気ガスによって汚染が進んだり、交通渋滞によりストレスが増加したり様々な問題が広がっている。そうではなくて、改めて中心価値を”ヒト”に置こうというのがウォーカブルな街の根本的な目指す姿だろう。テクノロジーはあくまで道具であって、テクノロジーの行き過ぎは幸せにつながらない。あらゆるテクノロジーによるイノベーションが想定されるが、あくまで人類にとっての幸せを基軸としたデザインが必要になる。
さて、少し脱線したが交通革命に関してここまで説明してきた。交通革命は、やはり自動車や鉄道の誕生の方が圧倒的に大きなインパクトをもたらした。説明してきた新たな交通はどちらかというと既存の交通手段をさらに利便性をあげ、高速化し、多様化をもたらすという点で空間革命と比較すると交通革命は少し見劣りする。しかし、人とモノの移動が、経済活動を大きくしていくことを考えると、見逃せない変化でもある。
空間革命が現実化した世界では、人の移動がずっと少なくなることが想定できる。それは、コロナを含む感染症(家畜と動物、人の背失職の増加や気候変動などの影響による)リスクの増加によっても免れない未来だろう。それでも、リアルというのはどうしてもヴァーチャルに敵わないなと思う時がある。肌と肌が触れ合うようなコミュニケーション(体温や体の菌の交換、肌触りやその場の空気や音など)人はただ人同士でコミュニケーションをしているのではなくて、その見える世界全部をひっくるめてコミュニケーションをしているのだと思う。
だからコロナでどんなに外出が制限されて、zoomなどのアプリが活用されたとしても、リアルで飲み会に行きたくなるし、対面での仕事がなくならない。旅行にしても、VRやARがどんなに発達しても、その場所の光の感覚、空気の流れや道のでこぼこ感、もしくは自分の体の疲労感、疲れた時に食べる郷土料理など、リアルの体験にどうしても引けをとってしまう。
人との繋がりと言うのは、SNSを含めてさまざまな変遷を遂げてきた。今ではSNS、ゲーム上で親密なやりとりができるし、zoomなどのオンラインツールを使って距離に関係なくコミュニケーションも取れるし、そこで恋愛などが生まれることもあるだろう。むしろ人との繋がるきっかけはヴァーチャルの方が多くなってくるかもしれない。
これからはヴァーチャルが世界観を支配してくるだろう。それはビジネス、対人関係、エンタメあらゆるものに及んでくるだろう。それでほとんどのことは完結できるし、それで十分な場面は多いだろう。それでも、だからこそリアルというものが一層価値を発揮する時代にもなるだろう。
自分が本当に大切にしたいもの、家族や恋人、友達だったり、旅行、スポーツ、アウトドア、芸術鑑賞など、そういった自分の価値観に基づいてリアルでの世界とヴァーチャルな世界が区分されるといいのだろう。そういった時にリアル空間で高速な移動手段があると、リアルでの生活の幅がグッと広がるだろう。
ただ、今はリアルでもヴァーチャルでも時間が極端に加速された時代である。無限に仕事は降って沸くし、あいた時間はSNSが全力の自己主張をして、私たちを休ませてくれない。休日はショッピングや飲み会、もしくはゲーム、動画などゆっくりとした時間を取ることを許してくれない。
空間革命も交通革命もさらに時間を加速させる試みになる。そういう時代にこそ、鈍行でゆらゆらと揺られながら、流れる景色をゆったり見たり、そこで何でもない話を友人と楽しんだり、自分と丁寧に向き合ってみたり、そういう時間との向き合い方を大切にしていきたい。
e-コマース革命
ここまで、ヒトにフォーカスした空間、またはヒトの流れの変化にフォーカスしてきたが、物流の変化に関しても記述しておこう。
空間的な革命そして、材料科学などの発達により物流も大きく変化していくことが予想される。ショッピングなどもずいぶんと形が変わるのだろう。ここでもいくつか注目すべきテクノロジー(3Dプリンティング、ライブコマース、ドローン、無人決済)をピックアップして、どのような変化が生まれるかを想像してみよう。
3Dプリンティング
3Dプリンティングは近年大きな飛躍を遂げている分野の一つでもある。ご存知の通り、これまでの2Dのプリンターから変化して、3次元的なデジタル・モデルをもとにして物体をつくりだすことができる。
すでに活用されている例は広く、医療や自動車業界など多岐に渡る。例えば、補聴器の製造には既に3Dプリンターが広く活用されており、何百万人もがその恩恵を享受している。航空用エンジンの部品は複雑な形状が多いが生産量が少ないため3Dプリンタによって製造されているものも多い。
どんどんと扱える材料や大きさ、形状も増えてきており、価格も低下してきている。あらゆるものが3Dプリンターによって作られ、冷蔵庫のような新たな三種の神器になるかもしれない。一家に一台3Dプリンターが置かれるようなことも十分に考えられる。
3Dプリンターが進化するとどうなるか。まずその場で受注、生産することができるようになる。例えば、服など自分の形状にフィットさせるものであれば3Dスキャンをして、自分の体格にあった形が形成される。それを形に起こしてすぐに配達するというようなことが起きうる。
これのいいところはゴミがでない、在庫を抱えないという点である。その場ですぐに生産、発送という手段を選ぶことができるのでアパレルなどの大量生産、大量廃棄しているような業界、さらには大量の在庫を用意するのにかけていたお金など多くの課題解決ができる。根本的に物事のルールが変わる。
ただし、服は繊維、織り方、形状など複雑な作りをしているので、GORE-Texのような防水素材を作るとかそういったものは今の技術では難しいようだが、ロボティックスの技術の発展なども考えると本当にあらゆるものが自由自在に作れるようになるかもしれない。
シンプルな形状のもの(ネジや工具など)なら、3Dスキャンなどなくてもネットでデザイン書だけ購入して、自宅の3Dプリンターで生産ということもできるようになるだろう。
使われるプラスチックも一元化すれば、リサイクルなどもしやすくなり、環境問題への貢献も大幅に広がるだろう。
もっと、大きなものでいうと、仮説住宅などに3Dプリンティング技術が利用できる可能性もあるだろう。実際の家は強度や断熱設計など本当に細かい調整が必要になるので、簡単に代替できるとは考えにくい。
しかし、緊急事に材料とプリンターさえあればものが作れることを考えると仮設住宅だったり、災害時の物資などを調達することが容易になり、レジリエンスの向上にも一役買うだろう。
これからはDXと同じくらい、個人にとっても企業にとっても3Dプリンターの意義は増してくるだろう。
ライブコマース
技術的な話というより少しマーケティングの話に変わるが、購入などの仕方もまた少し変わってくるだろう。
ライブコマースとは、SNSなどでライブ配信をしながら視聴者と配信者がコミュニケーションできる、新しい対面型のコミュニケーションツールのことである。その配信の中で、購買や来店の促進を行う。
これまではブランドや流行といったものが中心の基軸にあったものが、より個別化の時代にきているので、トップインフルエンサーの「この人の発信なら信用できる」「この人が紹介するなら本物だ」という信頼の方が強くなってくる。
中国ではKOL(Key Opinion Leader)と呼ばれるインフルエンサーがSNSを使ったライブですでに1~2時間の配信で3億円近い売り上げを出した事例や、KOL一人で年間40億円以上を売り上げた例もある。
また、アマゾンやYouTubeなどでも見られるようなレコメンドの機能もさらに活用されるようになる。IoTの時代になると、その人がどこでどのような行動をしていて、どのような生活習慣を持っているかがわかるようになる。それに応じた食生活のサポートだったり、購入の促進だったり、より個人の趣味嗜好というものが尊重される時代でもある。
これまでの企業のマーケティング(CMなどの広告)というよりは、いかにインフルエンサーにキャッチアップしてもらえるか、個人のニーズに合わせて製品を提供できるかという視点が重要になってくるのではないか。
ドローン
3Dプリンターによって、自宅で作られるものもあるが、それ以外のものはどのように配送されるだろうか。もちろんドローンである。交通革命でも説明したように、これからますます交通も高速化する。
一瞬にしてものが作られ、それを一気に中継地点まで運び、最後はドローンで自宅まで配送する。というより位置情報さえあれば、個人のところまで運ぶことも容易にできるだろう。これまでもかなり配達がスマート化されて翌日配送なども可能になっていたが、さらに当日配送のようなスマートさが実現される。
また、島嶼部や過疎地においてもドローンはかなり有効だろう。空飛ぶクルマとも合わせると、ある程度の物資が相当な速度で偏狭な地でも送ることができる。ますます住む場所、いる場所を問わずモノの配達が可能になる。
さらにいうとメルカリなどの個人間での売買や配送でもドローンが有効的に利用できることが考えられる。最寄りのコンビニに行かずとも近くのドローンを呼び止めて、配送の指示だけすれば自動的にモノを送ることができるような仕組みも整ってくるだろう。
スムーズ、高速な配送サービスもコマース革命の一つの大きな要素となる。
無人決済
また、少し趣旨の違うものになるがここで言及しておきたいテクノロジーが無人決済である。
簡単に仕組みを説明すると、店内に設置されたカメラが、入店客が手に取った商品をリアルタイムで認識。これにより、出口付近のレジ前に立つと、専用タッチパネルに商品と金額が表示され、あとは来店客が支払いをするだけで買物ができる。支払いは現金払いのほか、クレジットカードもしくは交通系ICカードによるキャッシュレス決済にも対応している。
Amazon Goの場合はレジもなくそのままゲートでQRコードを読み込ませてお店を出れば買い物終了。AIによる3Dの認識とIT技術の進化で、製品を取って出るだけで決済が可能になる。
これがさらに進化していくと日々の購入履歴や、時間、利用層などで棚に並ぶ製品が変わり、コーヒーが飲みたいと思った時には、コーヒーが目の前にでてくるというようなこともあるかもしれない。
ただし、E-コマースが発達した時代には実店舗の意義というものがどんどん失われていく可能性がある。ほとんどのものは3Dプリンターで作り、複雑なものはサイバー空間やライブコマースを使って製品や使い方を確認して、それを高速化された物流で当日配送する。
IoTも発達しているので冷蔵庫の中身もわかっているので、生鮮食品ですらニーズに合わせて定期的に配送ということもあるだろう。そうなると実店舗の意義は失われていきそうだ。大型のショッピングモールより近くの個人のニーズを満たしてくれる無人コンビニの方が生き残りの戦略としては良い気がする。
通貨革命
2019年に経済産業省によるキャッシュレス推進事業が行われ、かなり広い事業でキャッシュレスが使われるようになった。(半分は増税に対する言い訳みたいなところではあるけれど)SUICAのような交通系ICは、私たちのようなZ世代だけでなく、おじいちゃんおばあちゃん世代(X世代と呼ぶらしい)でもかなり利用が進んでいる印象を受ける。
かくいう私もほとんどをキャッシュレスで済ませている。たまに現金のみのお店があるから現金は持っているがそれ以外では、カードやiD決済、割り勘をする時もpaypayを利用している。ただし、日本がキャッシュレスの推進で苦戦している間に世界ではすでに次のステップに進んでいる。デジタル通貨そして金融に及ぼす変化について記述していこう。
デジタル通貨は明確な定義はないが「デジタルデータに変換された、通貨として利用可能なもの」である。現金ではない電子マネーや仮想通貨といったものが、すべてデジタル通貨にあてはまる。
電子マネーは、「円」をデジタルで記録し、現金の代わりに使用するデジタル通貨のこと。また、ビットコインをはじめとした仮想通貨もデジタル通貨の一種である。さらに、国家の中央銀行が発行するCBDC(中央銀行発行デジタル通貨)の存在も注目されている。
電子マネーはお馴染みだと思うので、仮想通貨とデジタル通貨を中心に起きているテクノロジー(FinTech)とその未来について考察していきたい。
仮想通貨
仮想通貨とは、国家に依存せずに流通する、非中央集権的な通貨である。日本円にしろ米ドルにしろ、国家の中央銀行が発行する通貨は、その価値を国家が保証している。それゆえ国力があればあるだけ、すなわち価値が認められれば通貨の価値も上がっていく(円高のような状態)。
しかし、場合によっては国そのものが崩壊することもあり得る。ギリシャが2009年に財政破綻を起こしたのは記憶にある人も多いだろう。当時のギリシャは公務員が労働者人口の約4分の1を占め、年金受給開始年齢も55歳からという手厚い社会制度が負担になっていた。財政赤字はGDP比で13.6%に達していた。09年10月の政権交代によって実情が発覚、三大格付け会社による国債の格付け引き下げや、EUによる増税・年金改革などを含む緊縮財政要求を招いた。
そうでなくても、国家の金融政策にはどうしても三権分立があるとはいえ、国の意図が働く。このような国家の意図に縛られず、民主的なお金が求められた。そこで現れたのがビットコインである。
ビットコイン含む仮想通貨は、基本的にあらゆる国家や組織の管理を受けない通貨であり、需要と供給のバランスによってその価値が決まる。そこではブロックチェーンという技術を利用し、いくつかの仮想通貨の取引情報をブロックごとにまとめて暗号化し、そのブロックを鎖のようにつなげていくことで仮想通貨の信頼性を担保している。
仮想通貨は通貨なのか。
仮想通貨は、名前からお金(貨幣)の仲間のように思われるが、お金が満たすべき3大機能「価値尺度機能、交換手段機能、価値保存機能」の内、3つ目の価値保存機能だけが際だって機能している。前2つの機能を満たすべく、ビットコインを使って買い物ができるお店が昨今増えてきているが、まだまだ一般的な買い物の支払いに用いることはできない。
さらにその技術的仕様上、安定性を担保することが難しい。ブロックチェーンはマイニングという暗号の発掘によって、その価値を担保している。発掘量が決まっているので、その希少性ゆえに価値が決まってくる。なので、声質としては、金とかなり近くそれゆえ暗号資産と呼ばれるようになった。
暗号資産は価格が乱高下しがちで、その不安定さから実際の「通貨」としては機能しにくい。そこで、安定した価格を実現するように設計されたのが、ステーブルコインと呼ばれる暗号資産である。
ステーブルコインの価格を安定させる仕組みは大きく分けて、「担保型」と「無担保型」に分かれている。担保型では、米ドルなどの法定通貨、金などのコモディティ商品を担保にすることによって、ステーブルコインの価値を担保する。無担保型では、発行体が市場需要に応じて供給量を増減させることで、価格を安定させる。市場の需要は非常に早いスピードで変わるため、基本的にはアルゴリズムを使って自動的に供給量を調整している。
ただし、ステーブルコインは知名度も低く、なかなか利用者が現れない。これを流通させるには多大な苦労と時間がかかる。そこで現れたのがFacebook(現Meta)である。Facebookは30億人近い利用者数と知名度を生かしLibraというステーブルコインの流通を試みている。
Libraと他の仮想通貨の一番の違いは「発行目的」にある。現在、全人口のうち1/3の方が銀行口座を持っておらず、貧困によって金融インフラを享受できない人が少なからず存在している。そういった人は、海外に出稼ぎに行ってたりして本国の家族にお金を送金したかったりするが、銀行口座がなくて送金できなかったり、できても手数料がものすごく高かったりする。
Libraなどのサービスは銀行口座がなくてもスマートフォンなどの電子機器があれば物を売買したり、送金ができるようになるので、預金や入金の概念を大きく変える可能性を秘めている。
しかし、Libra計画は頓挫することになる。それは中央銀行との利権の争いの結果であった。
CBDC(中央銀行デジタル通貨)
通貨発行権というものは、ある意味国が独占的に持っている権力であり、その力で金融政策を行ったりする。民間企業がその権力に食い込んでくることが国にとっては面白くない。ということで国家でステーブルコインを作ってしまえというものがCBDC(中央銀行デジタル通貨)である。
租税貨幣論の観点から見ても、税金回収システムを持ち、その権力によって貨幣の信用を担保している国がデジタル通貨に関しても同じように担保し、発行するのは理にかなっているように思う。というよりその力がない限り、民間企業のデジタル通貨が通貨として機能することはないだろう。
そしてCBDCの先導を切っているのが、中国のデジタル人民元である。すでに各地で実証実験が始まり、全国で数百万口座の個人・企業向け「デジタル人民元ウォレット」が開設され、累計の取引額は1兆円を超えたと伝えられる。北京2022冬季オリンピックでは、会場内の支払いがすべてデジタル人民元化される予定で、政府はデジタル人民元普及の起爆剤にしたい考えだ。
CBDCがこれだけ注目されているのは、金融の手続きがデジタル化されて便利だったり、手数料がほとんどかからないなどのメリットがあることはもちろん、それ以上に産業のあり方、国家間や企業との派遣争いなど通貨という権力を争う戦いでもあるからだ。CBDCによる産業に起こる変化について考察してみよう。
CBDCは、国民が基本的に全員中央銀行に口座をもち、日銀からインターネットバンキングサービスを受け、アプリを入手することができるようになる。すると、CBDCを使おうとする人は、スマホにアプリをダウンロードし、ID、パスワード、送金先口座情報、送金額を入力して、別の人の口座に「送金」することができる。
そうなると、民間銀行に預けていたお金が中央銀行で一元管理されるようになる。すなわち、民間銀行の預金がなくなり、手数料でも稼げなくなるため倒産という未来が見える。実際は金融商品を作ったり、資本金で貸し借りしたり、資産運用をしたりと仕事が全くなくなるわけではないだろうが、これまでと同じような役割を担えなくなると言われている。
特に地方の銀行や信用公庫は、その役割が剥奪され民間同士でのデジタル通貨の発行なども難しいため、時代とともになくなる可能性は高い。
ただし、銀行にはお金を貸し出し(融資)して、経済を回すという大きな役割があることを考えるとそう簡単には無くならないかなとも考えている。銀行の本質は、預金することではなく、creditを生み出すこと。すなわち信用創造であると思う。その役割はデジタル化が進めど変わらないだろう。
そうなると民間銀行は日銀のサポート銀行のような役割が妥当な立ち位置として残るのではないか。預金は日銀が基本的には全て預かっている状態になるので、その預金をある意味またお借りしながら金融業務を民間銀行が行う。またデジタル通貨の発行にあたってサポート業務なども各地にある民間銀行が行うことになるだろう。日銀のお膝元に入るようなイメージで公務員のような存在になるかもしれない。
ここら辺は経済学や政治家などのお偉い人たちが真剣に考えていると思うので、そちらの方を参照してもらえればと思う。ちなみに日銀はデジタル通貨の発行を今のところ計画がないと言っている。それは、このような上記であげたような産業の破壊が起きることが大きな理由だろう。しかし、その圧力を持ってしてもデジタル化の波を乗り越えることはできないだろう。それが国際関係である。
国際経済
CBDCの先導を切っているのが中国ということは言及したが、実際に世界中でCBDCが広がるとどうなるか。CBDCは中央銀行が管理し、スマホで口座が開設できる優れものである。人は兎角便利で、安いものと流れがちであるので、世界中で同じようなサービスができれば国内に限らず優位なところに流れるだろう。
基準としては手数料が低い、送金上限額の設定、通貨としての安定性などになるのだろうが、ともかく市場の範囲がとてつもなく広くなる。これまでは通貨を持つのは、自国内の国民と為替取引をする一部の資産家だけであったが、これからはスマホを持つ世界中の人になる。
それに先駆けているのが中国であるということの意味は重い。思い返せば、ドルが派遣を握ったのは、第一次世界大戦で欧州諸国が疲弊しているなか、アメリカが十分な経済力を持ち、融資できるような余力があったからに他ならない。そしてここ100年ポンドからドルへと基軸通貨が移動し、アメリカが世界の覇権を握るようになった。
もちろん他にも様々な要素があっただろうが、通貨を制するものは世界を制する。そして中国は一帯一路構想を掲げ、超大国中国を作ろうとしているのはご存知だろう。そしてデジタル人民元がこの構想を現実にする最終兵器になりうるかもしれない。
元は今の所通貨としては、世界的にメジャーではなく、ドルが圧倒的にシェアを抱えている。しかし、多くの貧困層、そして富裕層、企業にとってもデジタル通貨はコストが低く、価値の高いものになる。そうなると、みんなが元に殺到するようになる。
預金は全て中央銀行に紐づくので、元が支配すればするだけ、さらに中国の経済力も増す事になる。おそらく元の支配は国際社会が許さないので、多くの規制やもしくは税制などがかけられるだろうが、それでもデジタル人民元が与えるインパクトはとてつもないものになるだろう。
先にも言ったように、日銀は今の所デジタル円を作るという計画はないと公言しているが、そうこうしているうちにいつのまにか円が暴落し、日本という国家が危うくなるという危機は目前に迫っているかもしれない。
その他のテクノロジーインパクト
ここまでは、世界の姿を一変させるような革命的な技術とその社会変化イメージについて自分なりに考察してきた。改めて見直すと空間、交通、e-コマース革命によって人とモノの流れが大きく変わる。人とモノの流れは経済の流れとも通づるので、市場経済が大きく揺れることは想像に難くない。
特にヴァーチャルな世界と現実世界の融合が進み、経済圏もそれによって大きく変わるし、人とモノがインターネットを通してつながってくるので個別最適化も行われ、サービスがさらに快適になるだろう。
一方でテクノロジーによって通貨というものも大きな影響を受け、国際的な覇権や企業の立ち位置が変わる可能性がある。Libraなどの民間デジタル通貨が台頭してきたが、CBDCという中央銀行発行のデジタル通貨が結局のところ大きな力を握ろうとしている。そして通貨は国力と直接つながってくるので、デジタル通貨の先陣を切っている中国がこれからの世界の覇権を握る可能性が高い。
ただ便利になるというだけでなく、各国の思惑や、企業の利益にもつながってくるのでその変化の兆しを見逃すことはできない。その他の産業においても見逃したくない変化について軽く言及しておこう。
エンタメ
VR, ARデバイス含むウェアラブルデバイスの高機能化、8Kやそれを超える高精細映像やホログラム、触覚含む新たな五感通信等が普及し、人と人、人とモノとの通信が超リアルでリッチなものとなる。これにより、ゲーム、スポーツ観戦などで革新的なエンターテイメントサービスやエンタープライズサービスが場所と時間の制約なく提供されることはすでに言及した。
さらに、データサイエンスの発展によりエンタメの個別最適化が起きる。すでにYouTubeやNetflixなどでもおすすめ機能が発達し、個人の視聴特性に合わせた形で動画が提供されている。それがさらに進むと物語のシナリオが個人の好みによって分岐してくる。すでにSNSなども自分好みの情報が中心に入ってくるようにデザインされているが、同じような状況がエンタメにおいても起きると思われる。
さらにデバイスも今までテレビのような集団で楽しむエンタメから、個別でスマートグラスのようなもので見たいものを見るような時代になると言われている。昔みたいに見たいテレビを家族で争うということはなくなるだろう。ただし、テレビはそもそも家族内でのネタ作り見たいなところがあるし、集団での共通体験というのは、集団内の帰属意識を高めることにつながるから全く消えるということはないだろう。むしろ、個別化の時代だからこそ集団体験というものが重要になるかもしれない。
医療
地方でも都市でも医者不足というのは大きな社会問題になっている。特にコロナ渦においては、医療従事者に大きな負担がかかり、病床も十分ではないことから医療崩壊なんというワードもちらほら聞こえてきた。
そんな中医療に対するテクノロジーの利用にはますます期待が高まっている。それは単純なコロナのワクチン技術みたいなものも含まれるが、ここではデジタルテクノロジーに注目する。
医療でやはり注目するべきは遠隔医療とAIによる病状認識だろう。そもそも今無駄に医者にかかる機会が多すぎる。半数以上の人は、風邪薬もしくは、定期的な治療薬をもらいに通院している人だろう。正直に言って薬だけもらえれば十分という人がほとんどだ。一方で本当に医療にかかりたい人が、医者が足りずに医療にかかれないということもある。
そこでAIと遠隔医療の出番である。大多数の人は、自宅で簡単なアンケートに答えて、病状を診察してもらい薬を作ってもらう。その薬は、ドローンで運ばれてくることもあるし、最寄りのコンビニですぐに受け取ることができるようになる。
AIでの診断に限界ができた場合は最寄りの診療所に向かう事になる。そこでは、ロボットが診断を請け合い、MRIなどの細かな診断をする。それによって、自宅での休養もしくは、入院のような手続きが踏まれるようになる。
入院して手術するとなったとき、その時遠隔医療の出番になる。都市部の一流の医者が遠隔操作によって、ロボットを操作する。5Gを使っているので、精度も人間の手より確実で、遅延もほとんどない。患者のデータはベッドが睡眠記録や食事の記録を随時取っており、それまでの診察ログも溜まっているのですぐに手術に入れるような状態になる。
ざっくりとしたイメージだが、そんなに間違った推測ではないだろう。AIや5G通信を使って、医療従事者の負担をずっと減らせるし、それによって効率化された分を投資に回して、新たな治療薬や機械の導入に回すことも可能だろう。その意味において、地方と都市の医療格差というものも大幅に削減できる可能性も十分にある。
デジタルテクノロジーと都市
5Gで期待されている多くの社会課題解決やニーズへの対応が2020年代中に実現されていると考えられる。地方創生、少子高齢化、労働力不足等の社会課題に対して、高速・低遅延な通信ネットワークにより、テレワーク、遠隔操作、遠隔医療、遠隔教育、車含む多様な機器の自律運転などの様々な解決策が2020年代中に提供されることが予想される。
2030年代には、6Gが誕生し、解決策のさらなる普及やより高度な対応により、完全なる課題解決と発展が求められる。国内外のどこにいても超リアルな体感であらゆる人、情報、物にアクセス可能となり、働く場所や時間の制約を完全に撤廃できる世界となることが期待される。これにより、地方と都市部の社会格差や文化的格差が劇的になくなり、人々の都市集中を回避し、地方の発展が進むとともに、人々の暮らしをストレスのないより豊かなものにすることができる。
というわけで、テクノロジー論から見た地方を少し議論していきたいが、先に都市化とテクノロジーについて議論しておく。
先に結論を述べると、テクノロジーの本質は都市化もしくは生産余剰によって生み出された副産物である。例えば、果物や魚がたくさん取れる場所に住んでいたとして、技術を発展させる意味はあるだろうか。確かに、技術を発展させればもっとたくさん魚が取れたり、もっと楽に果物が取れるかもしれないが、すでに十分豊かであれば、それ以上発展する意味はほとんどない。
その意味において、政治も経済も生産の余剰から生まれるものであるが、テクノロジーはよりその傾向が高いように思う。すなわち、都市化して合理的な生産をし、生まれた余剰を投資や知識を1点に集中することでテクノロジーが生まれる。企業が投資して成長していくように、テクノロジーも施設の整備や技術者の育成をしていくことで発展していく。決してエジソンやアインシュタインのような天才が1人で作り上げる訳ではない。
都市化は経済を加速し、テクノロジーを生み出す力を生み出す。なのでスマートシティや、MaaSなどほとんどのテクノロジーは都市で生まれ、都市のためのテクノロジーになってくる。これがテクノロジーが陥る大きな罠である。すなわち、テクノロジーには一極集中的な要素が強くあり、これからの分散型社会、循環型社会の形成と混濁してしまい、都市のは恩恵をもたらすが、地方や過疎部で恩恵を得るまでには時間がかかったり、受けてもごく一部のものになってしまう可能性がある。
そこで、大都市と地方都市、過疎地域は分けて個別で議論していかないとなかなか全体の様子が見えてこない。(本当は地域の性質を反映させたテクノロジーの姿も見えた方がいいが今回の目的はあくまでマクロに物事を俯瞰することである)。そしてテクノロジーと社会動態の変化で経済圏も人口動態も大きく変わってくるだろう。持続可能な社会、自立共生的な社会に向けた形を後ほど記述するとして、テクノロジーが及ぼす都市へのインパクトを想定しておこう。
まず大都市は全てのテクノロジーが集まり、ますます強力な経済圏を生み出すようになる。これまでも人口も教育も科学も政治機能も全てが集中する場所になっているし、その傾向はおそらくこれからも続くだろう。
しかし、いくつかのテクノロジー的ポイントと社会情勢を踏まえる中で変化が起きつつある。テクノロジーとしては5Gなどのインターネット通信が一気に全国に広がっていくこと、デジタルテクノロジーが時間、場所を問わないこと。そして、コロナなどの感染症、災害のレジリエンスによる変化などが挙げられる。
これによって、大都市はいわゆるドーナツ化現象が起きるだろう。ドーナツ化現象とは、人口集中によって栄えた都心部から、しだいにその周辺へと、人々が移り住んでいく様子を表す。都心部には、オフィスビルや商業ビルが立ち並ぶが、そこで暮らす人口は決して多くはない。その人口分布に注目してみると、真んなかが開いたドーナツのような形になるため、このように表現されている。
ただし、これまでのドーナツよりさらに大きなドーナツになるだろう。つまりテレワークなどが定着し、東京まで週一ペースで通えるような距離、静岡、群馬、栃木あたりまで大都市圏が広がっていくような感じだ。その分、自然を楽しんだり、その地域の文化に触れたり、安い地価で安定した生活を送ったりすることができる。
それは、これまでの満員電車のような形が精神的な意味で大きなストレスであっただけでなく、クラスターの発生などのリスクが高まり、社会として持続可能な形であったことを示していた。また、今後増えると予想される台風や洪水などの影響、地震、火山などあらゆる災害リスクを考えると、機能が1点に集中しているより、広く分散している方がいい。
この意味で言うと、機能自体は東京にあり、人が外に分散しているような状態である。こうした人口動態の変化で懸念されるのがスプロール現象である。スプロール現象とは、都心部から郊外への移転の流れにおいて、無計画・無秩序に開発が進められていく様子を示しているが、一方で上手にとしを整備すれば地方都市の飛躍につながってくるだろう。
こうした状況で整備が期待されているのがコンパクトシティの実現である。コンパクトシティとは郊外に居住地域が広がるのを抑え、できるだけ生活圏を小さくした街を意味する。人口減少や高齢化が進む中、とくに地方都市においては、地域の活力を維持するとともに、医療や福祉、商業などの生活機能を確保し、高齢者が安心して暮らせるよう、地域公共交通と連携して、コンパクトなまちづくりを進める意味で非常に重要な概念になる。
このような都市を多数展開することで、暮らしやすく維持しやすい都市を整備できるだろう。都市化するとテクノロジーの恩恵も受けやすくなる。UberやMaasなどのサービスは都市だからこそ実現しやすいサービスでもある。地方都市はテクノロジーの恩恵も受けながら、文化や農業、商業など様々なものが交錯する世界になる。岸田首相が掲げているデジタル田園都市はまさにそれを代表する世界になるだろう。
都市とテクノロジーは非常に相性がいいので、より利便性も上がるし、快適な生活を送ることができるようになるだろうが過疎地域はなかなかテクノロジーの恩恵を受けることが難しいだろう。
6Gの世界までいくと国内外のどこにいても超リアルな体感であらゆる人、情報、物にアクセス可能となり、働く場所や時間の制約を完全に撤廃できる世界となる。これにより、地方と都市部の社会格差や文化的格差が劇的になくなり、人々の都市集中を回避し、地方の発展が進むと言われている。しかし、本当だろうか。
確かに空間革命において、時間と場所の制約は撤廃される。配送もドローンが普及すれば時間の問題だろう。教育、医療などの社会サービスもある程度十分に供給可能だろう。これまでよりも格段に地域に住むハードルは下がるかもしれない。
それでも、それ以上にコンパクトシティにおいてあらゆるデジタルサービスが利用可能だったり、エンタメも充実した場所と比べると見劣りする。そしてデジタルに格差がなくなるからこそリアルでの生活において差が際立ってしまう。
特に水道や電気、交通網の整備などインフラ機能が過疎地域と都市では大きな差が出てしまうことが懸念される。本来的な豊かな土地(水や太陽、土壌に恵まれているような土地)ならば、天然水や太陽光発電などでなんとでもなるかもしれないが、それ以外の土地では、ますます生活が困難になる危険性がある。
それでも自然の恵みを与えてくれることは地域であることを忘れてはいけない。極端な話大災害があった時、最後に生き残るのは都市ではなく、ベースの生活インフラがある地域である。農産物や水、エネルギーなども地域の力があってこそ成り立つものである。後半ではデジタル時代の都市と地方の関係性にも着目して議論していく。
経済の中心の移動
産業革命以前まで経済の中心は中国、インドの間で停滞していた。それが、産業革命以降ヨーロッパの方に引き寄せられ、最近中国の方にまた戻っていこうとしている。そして、それがどんどん南下しつつあるのが近年のトレンドだ。つまり、経済の中心が先進国の先進都市だったものが、どんどん新興国に市場が移動しているのである。
経済という要素を分解していくと、人口と高度な都市化に集約される。これだけ知っているだけでも、ずいぶんと世界はクリアに見えるようになる。
今は人口の多い中国とインドの力でアジアの勢いが急拡大している。実際に世界時価総額ランキングでもアメリカの独占だったものが、だんだんと中国企業も入りつつある。マイクロソフトのCEOはインド人である。
中国は急激な経済成長を迎えている。米中貿易戦争と呼ばれるくらい、米国と対等な存在になったし、一帯一路構想を掲げ、ユーラシア大陸の制圧に向かっているのも中国である。今でこそ、まだアメリカがドルの覇権を握り、金融市場も制圧しているが、そのルールがいつまで適用されるかは分からない。
そして中国も今でこそ、経済の拡大期であるが、一人っ子政策の影響による急激な少子高齢化が強く懸念されている。既に生産年齢人口は2013年の10億582万人をピークに減少に転じ、2017年には9億9829万人と10億人を割り込んだ。これからは人口オーナスに苦しむことも目に見えているのもまた事実だ。
そして、その中国を差し置いてこれから成長が期待されているのが、インドとアフリカである。人口分布を見ても、アフリカが勢いを増すことは明らかだし、インドもそれを先導するような形で経済を循環させることが予想されている。いつまでも、欧州や米国がルールを決めるということもない。
よく考えると、古代ローマ帝国では、イタリアが世界の中心だったが、元が世界を制圧したり、ゲルマン民族の大移動で経済の混乱があったり、大航海時代でスペイン、ポルトガルが支配権を握ったかと思えば、イギリスが産業革命で近代的な国家を作り、世界の覇者になる。そして第一次世界大戦を機に一気に勢力図が置き換わり、米国一強になる。
そうやって歴史は、常に勢力図を変えてきた。アフリカやオセアニアがその勢力図に乗らなかったのは、北の国よりもずっと潜在的な意味で資源が豊かで文明を発展させる必要がなかったからだろう。グローバル化した現代において、その勢力図が一気に変わったとしても何の不思議もない。いつまでも欧州と米国が世界を支配するなんてことはあり得ない。
そしてマーケットがルールメーカーになる。考えてみれば、当然商売はお客様のいる方に、そして、お客様が望むように商品を作っていく。そうなるとどうか、実は商品を作る側より、買う側の方に主権がある。これまでは主要な顧客が欧米だったが、経済発展し、購買意欲が湧いてくるとたちまち市場はそっちの方に流れるようになる。そのマーケットがどこか、そういうことは常に念頭に入れておく必要がある。
人口と同様に成長を可能にするのが都市化である。人口100万人を超えるような都市は世界各地であるし、特にアフリカはリープフロッグで、新たな技術、市場がどんどん参入している。それを可能にするだけの人口と都市としての力がある。
アフリカの主要都市だけ抑えておく、カイロ(エジプト)、ラゴス(ナイジェリア)、ナイロビ(ケニア)、ヨハネスブルグ(南アフリカ)これらの都市はすでに飛躍的な発展を遂げているし、今後もさらに発展していくことが予想されている。
経済は都市化することで人口密度をあげ、工業化における生産性を爆発的にあげ、その結果より価値が高いものを生産することでGDPを上げていく。企業もますます人手が欲しくなるし、市民も賃金の高い仕事を得られるので、経済が発展するループが回る。テクノロジーはこれまであった格差や障壁も飛び越えることができるので、アフリカなどの地域の経済発展を容易にした。
アフリカは日本のような利権も規制もないので、リープフロッグして最新の技術がどんどん導入されている。特にM-pesaはやばい。途上国ではまだ銀行口座を保有していない人が25億人いる一方で、携帯電話の普及は著しい。M-Pesaは銀行口座を持たなくとも、携帯からショートメッセージを送信することで、送金、預金・引き出し、支払いさらにはローンといった金融取引を行うことができる。銀行の窓口業務を一挙に引き受けている。
さらには、ドローンによる配達、遠隔診療、ライブコマースこういったものもすでに導入されている。日本が窓口に行って、銀行の支払いをしている中アフリカの先進都市では、手持ちの格安スマホで口座も持たずにさっと送金している。
こうした現状を見ると、日本がいかに遅れ、時代に取り残されているかもわかる。日本はレガシーが多すぎて、今の時代のスピード感についていけていない。さながら新幹線で各国が凌ぎを削って競争している中、馬で必死に追いつこうとしているようなものである。
お隣中国は一帯一路構想を掲げ、自分たちの技術や社会システムをガンガンアフリカに持ち込み、アフリカの味方をすることで国際世論も自分たちの立ち位置もさらに強固なものにしようとしている。
経済の中心はどんどん変わる。今アジアにある中心がだんだんと西に動き、いづれアフリカらへんにとって変わる日が来るかもしれない。時代の変化を適切に見極める目がますます必要になる。
コンヴィヴィアルな世界を描く
ここまで、地球史ともいうべき壮大な時間の流れから人新生とも呼ばれる人間至上主義の時代を遡り、その歴史をのぞいてきた。そして、幸せ、持続可能性というワードを改めて熟考し、その考えを深めていった。
そして、世界の課題、日本の課題をそれぞれ列挙し、テクノロジーを中心とした未来予想図も描いた。課題は複合的で、テクノロジーの進化も激しい。課題やテクノロジーを全て網羅することは難しくても俯瞰的に捉え、予測の裏で動くことで、この世界をよりよく生きる上での戦略が生まれる。
しかし、最初で歴史と哲学を示したのは、事実、予想よりビジョンを考えることが何より大切だと考えているからである。今起きている課題、予想される未来を念頭におきながらも、その課題を乗り越え、どんなビジョンを描けば、人類として、生命として、ガイアとして幸せな方向に向かっていけるのか。
そしてビジョンは一義的であることはあり得ない。1万人の人間がいれば1万人のビジョンがある。それは多様であるべきだし、その多様性は尊重され泣ければならない。
しかし、昨今のSDGsのような世界はある意味まとまりを見せ、目指すべき姿というものを共有している。SDGsは、「誰一人取り残さない」持続可能で多様性と包摂性のある社会の実現のため、2030年を年限とする17の国際目標である。包括的な目標だが、それでもある意味一つの目標に世界が目を向けたことは、人類としての大きな一歩だったであろう。
そしてここからは、まさにSDGsをさらに拡張したようなものとして、なるべく具体的に世界のありたい姿を模索していく。そして、それを解釈するためにコンヴィヴィアリティという概念を導入する。
イヴァン イリイチはコンヴィヴィアリティという概念を示した。コンヴィヴィアリティは聞き慣れない言葉だが、自立共生的という訳語で示される。イリイチは行き過ぎた産業文明によって、人間が自ら生み出したテクノロジーや制度に隷属させられていると考え、それを大変危惧した。そうではなく、そうしたテクノロジーも技術も一つの道具として、人間が自由で創造的な形になるように関係性を取り戻さないといけないと説いた。
イリイチは「二つの分水嶺」という言葉を使い、道具は二つの分水嶺を越え、初めはヒトの創造性を高め生産的なものになるが、第二の分水嶺を超えると道具に隷属され、逆生産的なものとなり、手段から目的に転じてしまうと論じた。
そしてコンヴィヴィアルテクノロジーでは、第二の分水嶺を越えていないか次の問いを提示している。
イリイチはコンヴィヴィアルな道具の例として、自転車を取り上げている。確かに自転車は精巧な素材と工学技術の組み合わせから成り立つ一方、けがを生じさせない程度のスピードで走り、しかも公共空間を安全で、静かで、清潔な状態に保つ。主体的でありながら、人の移動速度をエンパワーする力を持つ。
こうした概念が後々大きな影響を与えたと言われる有名な道具がある、それがパーソナルコンピューターである。確かにそれまでは国家や軍事機密として使われていたものが、あらゆる個人にまで提供され、個人はそれを利用し、主体性を保ちながら最大限の創造性を発揮できる。
しかし、インターネットやパソコンが飛躍的な進化を遂げ、SNSなどが発達する現代では、第二の分水嶺を越えている。知らず知らずのうちにSNSの虜になってしまったり、いつの間にかスマホを触っている。一日のうちほとんどをパソコンと向き合っているなど、人間が道具に隷属させられている状況が起こっている。
そうした状況からテクノロジーが人間とともに、もしくは自然も含めて自立共生的に生き生きとしたものに変わっていけるのか。それぞれの主体性を損なうことなく、関係性を再構築していけるのか。これが大きな命題である。まさにこれから深く探っていきたいテーマであるが、その一旦を一緒に考えていきたい。
テクノロジーとの共生を考える
テクノロジーとの共生という点で考えるといくつか面白い作品がある。
私たちの生きる時代は、テクノロジーが自然や他者とともに生きるのをエンパワーするだけでなく、自立共生的なものになると言われている。それはAIやIoTなど、より自立的なテクノロジーへと変化しており、その共存がまさにコンヴィヴィアルテクノロジーである。
ラブロックは、このコンヴィヴィアルテクノロジーの生きる時代をこの地球の新しい地質年代として「Novacene(ノヴァセン)」と名付けている。ノヴァセンという時代は、テクノロジーがわたしたちのコントロールを超えて、わたしたちよりも遥かに優れた知能を生み出す時代となる。
ノヴァセンの世界線を端的に表現しているのが、トランセンデンスである。意識をAIに接続して、ラブロックのいうサイボーグが生まれる。
人間を遥かに凌駕したAIは量子力学などの超ミクロな世界を自在に駆使して、超マクロな地球環境やそれぞれの個々の意識の接続を試みる。多くのSFが示唆するように、AIと人間の共生を図り、多くがAIによって支配される未来がくるのではないかと恐れている。
ラブロックは人間が植物を必要とするように、地球環境の維持のためにサイボーグが人間との共生を図ろうとするという。さらにいえば、ジオエンニアリングなどの超高度な技術を用いて、地球環境の温度などを維持しようと試みるという。
気候変動などの問題はおそらくジオエンジニアリングの世界によって解決されるだろう。現実的に世界を変革しようと考えると人々はこれまで肥大し続けてきたエネルギーの世界を切り捨てて低エントロピーの世界へ向かわないといけない。
手放せるテクノロジー
さて、今のビジネスも社会も道具に依存させることが目的になっているのではないだろうか。あらゆるマーケティングが激しい購買意欲を掻き立てるようにできているし、サブスクリプションもスマホやインターネットも、ユーザーが常に利用するように脳をハックしにかかっている。
これは、ビジネスという目的を考えれば非常に合理的な手段ではあるが、そのビジネスの代償として、人との関係性や幸福というものまで刈り取られる危険性を孕んでいる。
自立共生的な未来を考えるならば、どうやって使い続けてもらえるかではなく、いかに手放せる道具になるかを考えないといけない。
MaaSなどはそうしたテクノロジーの代表的な例となるかもしれない。これまでは車は社会の一部として溶け込み、人間を支配してきた。人は運動不足になり、都市計画は車を中心に組み立てられ、排気ガスで地球を汚してきた。
MaaSでは、車の利用を自分の交通手段の一つとして選択することができる。他にもバスや電車、自転車など様々な手段を用いながら、自分の主体性を維持し、自分の目的のためにテクノロジーを利用することができる。
AmazonやNetflixのような個人最適化したおすすめ機能は、個人で選択させているように思わせて、選択させられていることに気づかなければならない。確かにそうしたテクノロジーは便利ではあるが、自分の視野を狭め、主体性を刈り取られることになってしまう。
この道具として手放すというのは、なかなか個人の意思だけでは難しい。だからこそ、テクノロジーや政治による反転というのが大切になってくる。例えば、車を手放そうと思っても、すでに社会インフラとして機能していることや、特に田舎では車がないと何もできない依存状態に陥っている。だからこそテクノロジーを含む社会全体で、手放せる状態にまで持っていく必要がある。
手放せる状態は全てを手放すこととはまた違うし、完全に手放すことも不可能である。私たちは1人で生きていくことができないし、常に自然や他者、もしくはテクノロジーという存在を必要とする。
気候危機や人間社会の分断など、様々な社会課題がある中で、テクノロジーがそれを引き起こした側面もあるが、それを解決できるのもまたテクノロジーである。私たちが自らの意思で飛行機を使わない、ヴィーガンになることは選択できるが、決断には途方もない勇気がいるし、意思だけで社会全体がそういう方向に向かうことはやはり難しい。
意思決定にテクノロジーがアシストするような形も必要になってくるし、課題解決自体をテクノロジーが行っていくようなものも必要になってくるだろう。
例えば、スマートウォッチは自分の健康状態を管理することに有効的に利用できる。ランニングの記録や深呼吸を進めたりする。人間の意思は弱く、認知にもバイアスがかかるからこうした機能はかなり役立つ。
課題解決でいえば、電気自動車や大豆ミートなど様々な技術が開発されている。これらは、気候危機における時代において解決策の一旦として期待されているわけだが、第二の分水嶺を越えないように気をつけておく必要がある。それは電気自動車に必要なレアアースが乱開発されたり、大豆の需要が高騰して手に負えなくなるなどの危険性だ。どんな技術も道具もこうしたリスクを孕んでいることを理解しないといけない。
つくれるテクノロジー
テクノロジーは手放せることが大切になってくるし、共生しながらも自らの主体性をアシストするような形が望まれる。さらにいうと自らの創造性を生み出すものがこれからの社会として期待される。
その一つがcivic techと呼ばれるものだ。市民自らがテクノロジーを利用して自治体サービスの改善や地域社会の課題解決に向けたソリューションを開発・提供していこうという動きが拡大しつつある。
代表的なものがCode for Japanの活動である。
市民・企業・自治体(行政)の三者が、それぞれの立場を超えて、様々な人たちと「ともに考え、ともにつくる」社会を実現するために多種多様なサービスやイベントを展開している。
それが可能になったのがオープンソースという世界にシェアされたコードがあり、それを利用することで、または個人の意見を反映させることで、行政サービスに携わりやすくなった。
これまで、行政は役人もしくは政治家の独占するものになっていた。それが、テクノロジーの力で市民の元に戻ってきて、自らが主体的に関わり、共創することができるようになってきた。
これは行政に限らず、医療や教育などもこうした動きに揺り動かされるだろう。独占というものがテクノロジーによって破壊された時に、自らの主体性と創造性を解放させることが可能になるだろう。
同時にアートや文化がテクノロジーによって再構築されてほしい。
以前、チームラボやハウステンボスの作品を見に行ったが、大変興味深かった。デジタルテクノロジーを利用して、自然の力をエンパワーしていくような感覚だろうか。特に御船山楽園にある作品のコンセプトが非常に素晴らしいので紹介したい。
ガイアの歴史で見たような生命の移り変わりの延長上に私という個人がいること、それを日常で感じることが難しいが、まさにテクノロジーで自然の価値観をアシストすることで、私たちが「生きる意味」や「時間」というものを雄大に語りかけてくる。
アートも文化も時代とともにうつろうものではあるが、伝統的な価値観を残しながらも、現代に根付くような形に変換していくことが可能ではないだろうか。そしてアートや文化などを一人一人の創造性が発揮されながら、それが異なる他者や自然などと相互に影響を与えながら新しい時代を築き上げるような、そんな形をテクノロジーが生み出せるのではないか。そんな期待を持ち続けている。
コンヴィヴィアルテクノロジー
テクノロジーが自然や他者の関係性を再構築し、手放せるテクノロジー、つくれるテクノロジーへと進化していく必要性を説いてきた。そして、その動きはすでに拡大しているし、それが現代におけるダイバーシティやインクリュージョン、サステナビリティの価値観とも繋がってくる。
しかし、ノヴァセンという時代区分においては、テクノロジーがより自立的になり、まさに他者としての存在にまで存在感を示すようになる。だから私たちは今からコンヴィヴィアルのためのテクノロジーだけはなく、コンヴィヴィアルテクノロジーを考えていかないといけない。
これまでのように隷属的にテクノロジーを利用していくことは許されなくなる。昔の奴隷制度が撤廃されたように、テクノロジー自体の倫理や、存在を認めていくことが必要になってくる。
それはまさに持続可能性というものを考えた時に世代を超えた「自由の相互承認」が重要になること。それが、地球のためにもなり、自分のためにもなっていくことと同様である。
テクノロジーとの「自由の相互承認」を考えていくことが、まさに自立した他者としてのテクノロジーとして、新たな関係性を再構築することに至る。そうでないと結局のところ、テクノロジーによって世界が制圧される未来が待ち受けるかもしれない。
コンヴィヴィアルテクノロジーの世界観では、テクノロジーに使われてしまうのではなく、主体性を持って自ら使い、創り上げ、時には頼り頼られ、そして手放せるというような自立と他律のバランスが求められる。そうした共生的な世界観をテクノロジーを含めて考えていかないといけないのである。
自然との共生を考える
持続可能性とは自分のため、未来のために、そして地球のための「自由の相互承認」をしていくこと。自分が幸せになることが目的になり、自分の幸せのために、他者や地球の幸せになることをしていくことと述べた。
日本は縄文の昔から、自然と共生しながら、いかにも美しく持続可能な暮らしをしてきた。人間の生きるそばには美しい里山があり、人々の暮らしを支えてきた。そうでなければ、私たちは稲という黄金の絨毯を見て、こんなに心が動かないし、日本文化も発達してこなかった。
しかし、現代はどうだろうか。人類は自分たちの利益しか考えず、生態系を破壊し、他の生物を絶滅させ、人類の存続の危機にまで瀕している。改めて共生のプロセスを見直し、価値観を改める必要がありそうだ。
共生というのは、相利の関係のことをいう。そうやって発展していくことを共進化と呼ぶ。共進化の例で有名なのは、ミトコンドリアだろう。ミトコンドリアは、もともとは原核生物の一つの好気性の細菌(酸素を好み酸素を使って活動する細菌)だったが、真核生物に取り込まれたとされている。
そうやって、真核生物と細菌が共進化することで莫大なエネルギーを生み出すことができるようになり、魚から両生類、そして哺乳類へと複雑な進化を遂げることができたのだ。
そして植物もミトコンドリアを体内に持っているだけでなく、真核生物が藍色細菌(シアノバクテリア)の一種を、ミトコンドリアの後に新たに取り込み葉緑体となったという事も定説になっている。植物のアイデンティティでもある光合成をする器官である葉緑体は、共進化の結果生まれた。
この時、動物と植物は歩む道を変えたわけだが、驚くことにほとんどの生命は共進化の元にたどり着いている。
もう一つ、共進化の例として「ファインディング・ニモ」でおなじみの、クマノミとイソギンチャクの関係をあげておく。クマノミはイソギンチャクの毒のある触手にかくれて敵から身をまもることができ、イソギンチャクはクマノミの食べこぼしの餌などを頂戴し、お互いに得をするような関係といわれている。
他にも花と蜜蜂や、どんぐりとリスなどお互いが相利を考えて、直接的な行動をしているわけではなさそうだが、間接的でも、リスがどんぐりの繁殖を促し、リスはどんぐりを食べることで食事を得ることができるという相利の関係がある。
生物の価値を何で測るかにもよるが、種の多さで見た時、生物史の中で一番種が多い昆虫は、「生態系王者」であって、彼らは樹木を代表とするもっとも地球上で物量の多い植物と「相利」の関係を築くことで、成功者となった。
実は私たちがイメージするような弱肉強食の世界、競争の世界で生物の多様性は生まれたのではなく、お互いの利益のために動いた結果として、多様性を生み出し、種としての繁栄を勝ち取っている。
お互いの利益という面で考えると、植物の貢献は忘れてはならない。なぜ葉っぱは緑なのか分かるだろうか。太陽から受ける波長の中で、緑が最もエネルギー量が高いことが知られている。葉っぱが緑に見えるということは、緑の部分を反射しているということだ。植物は、一番非効率的な緑色を選び、動物への愚直とも思える一方的な奉仕をし続けてくれている。
植物はどちらかといえば「自家栄養生物」である。CO2とH20という無機物で自分自身の身体をつくれるからだ。一方、動物は「付属栄養生物」もしくは「寄生栄養生物」であり、自分自身で空気や水から自分の身体をつくれる訳ではない。その意味で動物は「パラサイト」で、一方的に利益を貪る要素が強い。
しかし、昆虫のように植物との相利の関係を築き多様性を築きあげる種もいる。動物はそういう共生の道に進むこともできたし、一部はそういう関係も築いているが、人間はひたすらに自分たちの利益だけを考え、利益を貪るだけの存在になってしまった。
ここで、生物学者の稲本 正さんの定義を借りるならば、「共進化」は「相利の関係」が明確なことを指し、「共生進化」は意識的に「相利」の関係を選択することである。
日本は縄文の昔から、自然と共生しながら、いかにも美しく持続可能な暮らしをしてきた。里山は適度に人の手が入り、さまざまな環境に恵まれ、植物や動物にとっても豊かな環境を作ってきた。その結果、人類と生物との共生進化を生み出していた。今は里山を担う人がいなくなり、荒れ放題な状況だが私たちは今一度、自然そして里山の価値を見直さなければならない。
実は里山は"satoyama"として、世界に認知されつつある。日本のこうした生物との共生の姿は世界にいても、お手本になるのだ。
里山では限られた資源を有効に使い、循環している。落ち葉はたい肥にして畑や田んぼへ。お米を収穫した後の稲わらは、草履や縄、畑のマルチングへ。これも古くなればたい肥になる。
さらに里山では自然の再生力を超えない範囲で伐採・再生を繰り返すしくみがある。適度に人が手を加えることで、森には光が入り、生きものに様々なすみかを提供する。長年培われた「使いすぎない知恵」が育まれている。
こうした有効的に資源を使う姿勢、じっくりと森とともに成長していく時間の流れがある。大量生産、大量廃棄、同質化の時代において、こうしたライフスタイルやサステナビリティとともに世界に認められいる。ミニマリズムとスローライフである。
こうした素晴らしき文化や自然を持つのに、日本人はそれをほとんど理解していないし、忘れてしまっている。もう少し里山や森と関わる機会を増やさないといけない。
森にいる生物の共生の仕方とか、里山によって人間と生物がどのように共存してきたか。話を聞くのと実体験では、価値が全然異なってくる。そうすると環境問題の問題意識がもっとはっきりしてくるし、幸福という価値観にも結びついてくる。
人間至上主義的資本主義経済を批判してきたが、この問題の根底には、森と人が分断されすぎてしまったことにあると思う。都市生活では、利便性が追求される中で、人も文化も自然も大きく分断している。どこで育ったか分からない食品を食べ、隣の部屋は知らない人が住み、森と呼ぶには程遠いような環境しかなく、仕事に追われる日々。
こうやって社会が分断されすぎてしまうと、問題の繋がりが見えにくくなってしまう。例えば、経済を回すことが、余剰な経済を生み、それが大量廃棄に繋がり、生態系を壊すというようなシンプルな問題が、細かく分断されることによって、複雑な問題となってしまう。
気候変動の問題にしても、田舎や自然にいれば、もっと感覚が研ぎ澄まされていて、ちょっとした温度の変化、湿度の変化、天気の変わり目などすぐに気づけるが、都市にいると同質化された世界なので、なんとなく問題は理解できても肌感覚でそれを感じることが難しい。だから気候変動の問題を伝えることは田舎にいる人にはごく当然に認識できても、都市にいる人に伝えるのは難しい。
私は、自然と人、人と人同士の繋がりを取り戻す必要があるのではないかとたびたび考えてきた。
人は少し疎遠になりすぎた。人と人との関係性が文化を築き、新たな社会が生み出されるのに、合理的になりすぎることで結局のところ文化が育たない均質な世界へと移行してしまっている。
地方は百姓を見る。百姓というくらいだからなんでもやる。家のことも、畑もその他生活に必要なことを大概全部こなしてしまう。だけどそれでは不安定だからご近所付き合いが生まれる。すなわちお節介がある。孤独というのは間違いなく現代病で、SNSがこれだけ発達して、誰とでも繋がっているのに、心の距離は縮まってこない。
都市と地方の関係性も以前はもう少しスッキリしていたように思う。都市は交易や経済の出入り口で、様々な情報や商品が交換されていた。地方は生活のインフラとなる作物や衣類などを提供していた。それが都市に人口を吸収されすぎて、だんだんと以前のようなシステムが機能されなくなってきた。
だからこそ、里山を見返す価値があると思う。森や里山から共生の生き方を学ぶこと、人と自然との繋がりを揺り戻すこと。それは、持続可能な社会を築き上げていく上でも重要だし、四季折々の花鳥風月を愛でるような美しき生き方を尊重することでもある。
このような日本人的美意識は、世界でもっと評価されるべきだし、人類の平和の根底に置いてしかるべきものといえる。日本の文化は持続可能な社会を考える上でも必須だし、日本の再興を考える上でも大きなヒントを与えてくれる。
日本文化の再興
失われた30年、日本は落ちぶれたという話を聞くことが多い。特に私の親世代、バブル期を経験した世代である。
私は、失われてからの世代なので、過去に繁栄の時期があったという風な認識しかしていないし、周りも日本のプレゼンスにこだわっている人は多くないと思う。
しかし、比較的日本の将来に関して悲観視している人は多いように思う。悪く言えば自国愛がない人が多い。明らかに少子高齢化社会で、社会保障システムの持続性には全くと言っていいほど信頼していないし、財政問題、災害対応、デフレ、働きにくさ、子育てのしにくさ、こういった負の側面にスポットライトが当たり、将来日本という国が存在し続けるのかということさえ不安視されている。
なので、私たちの世代の少し賢い人ならば海外移住してしまう人もいるし、いつでも逃げられるようにと英語を学んでおく人も少なくない。日本にいながら、そういったディストピア的世界線しか目が向かないのは、正直にいうと寂しい気持ちになるし、優秀な人材がどんどん外に流れ出てしまうことになる。
私はたびたび、日本がここから世界で勝つまでいかなくても、持続可能な形で存続し続けるためには、”日本らしさ”、すなわち日本のアイデンティティを取り戻すことが大切なのではないかと考えてきた。
ナショナリズムの扇動という訳ではなく、日本人が日本について知らなさすぎるのではないかということだ。私自身もまだまだ勉強中であるが、日本神話から始まり、日本の文字の興り、稲作との関係性、神仏習合できるエディティングリミックスの価値観、茶や書道に見れる、影や静と動の色使いや動き、こうした日本文化、歴史的側面を考察しないと日本人としてのアイデンティティを掘り下げることができない。
決して画一的な民族とか、絆があるとか、権威主義、寿司、ラーメンなどの食文化、アイドルや漫画などのサブカルだけでは済ませられないほどに日本は多様さを持っていると思う。
私の浅はかな知識ではあんまり語れないので、ぜひ触れて欲しい、または私自身も触れていきたいと思っているものを紹介していく。まず日本の興りを知るには古事記しかない。古事記は日本最古の本であるが、日本の始まりを説明している、もちろん原書ではなく、漫画や解説だけでもいいので、日本がどうやってできたのかを知ることは、まさに日本の文化の始まりと言ってもいいので、現代にも流れるイデオロギーの源流を知ることができる。
渋沢栄一の論語と算盤は、道徳経済習合論であるが、兎角今のビジネスマンには読んでもらいたい書籍である。日本人的道徳意識とビジネスの両立が今のSDGs的世界観と非常にマッチする。
岡倉天心の茶の本、新渡戸稲造の武士道、谷崎潤一郎の陰翳礼讃あたりもぜひ読んでおきたい。特に日本の精神性や美意識を強く主張しているし、前者2つは外国人向けに出版していることもあり、比較的読みやすいし、理解しやすい。
ルース・ベネディクトが書いた「菊と刀」も一読に値する。戦時中に外国人から見た日本人の行動規範を研究した書物で、視野がグッと広がる感じがある。
松岡正剛の日本文化の核心、司馬遼太郎のこの国の形は、日本文化や歴史を統合的にまとめているので、網羅的な学ぶことができる。司馬作品は長編で読むのに時間がかかるが…平成、令和に入ってあんまりこうした著者が見られなくなったような気がする。ビジネス書とラノベばかりが売れているような気がするが、もっと日本の文化を考察し、その上で日本の未来を語れる人が出てほしいと思う。
宮本武蔵の五輪書、世阿弥の風姿花伝あたりも古き良き日本の精神性、当時の生き方、道徳感を知ることができるので余裕があれば読んでおきたい。
他にも様々な書籍があるのだろうが、メジャーどころでいうとここら辺ではないだろうか、いくつか紹介した中で少し話をピックアップして、日本論を語っていきたい。
エディティングリミックス
さまざまなものを編集する。これが日本人が持つ一つの大きな能力だろう。
これは和光同塵という四字熟語でも示されるように「ここ」の考えや現象と「むこう」の考えや現象をさまざまにまじった「塵」として同じくしていくということ。そういう編集力を持った力を持つ民族なのである。
私たち日本人にとって、不可解な神道と仏教もそうした背景を持つ。八百万の神という日本古来の神様と中国から輸入されてきた仏教がうまく組み込まれ、形になった。
蘇我氏が仏教という宗教から統治体制も一緒に輸入することで当時の近代国家を築きあげようとした。しかし、仏教だけではなく、神社と融合されるように入っていった。
だから新年のお参りに、神社にもお寺にも行くし、おみくじもどちらにもある。お守りもどちらでももらえるし、御朱印もどちらでももらえる。明治政府が明治天皇を持ち上げ、仏教の弾圧をするまでは、神道も仏教も同じように崇拝されてきたし、明治をのぞいて今でもその名残がある。
あまりに交わりすぎて、何がどう違うのかを理解するのがとても難しくなってしまったが、この神仏習合はかなり大胆な日本特有の編集力によっておこった。
そう考えていくと近代日本もこのリミックスという力は十分に発揮されている。シンニホンでいうところのイノベーションにおける「応用」の部分にあたる。
日本は新しい技術や仕組みの開発というのが非常に苦手だ。今でこそ、特許数で世界一ということを自慢するようになったが、私から見ると、時代遅れの技術で世界一をとっているようにしか見えない。古代で言えば、文字や紙、統治体制、現代でも車や鉄道、食文化、インターネット、パソコン。日本はほとんどのものを海外から輸入することで、自国を成り立たせてきた。
それも自ら学んで文化を得るというより、ペリーの開国通告の時のように外的圧力に負けていやいやと決断させられることの方が多い気がする。
しかし、そんな時日本は大きな底力を見せてきた。開国騒ぎで日本が混沌としながらも近代国家の統治体制を築き、日本流に仕上げて言った。海外の工業を真似て、車や家電を作り、日本流の低燃費、高品質で世界に名乗りを上げた。たらこスパゲッティやラーメン、カレーライスなど異国の食をジャパンスタイルに仕上げて、日本の代表する食に仕上げてしまった。
こうした編集力は、やはり日本人が得意とするところなのだろう。それが良いか悪いかはともかく、海外から輸入し、日本的な形に落とし込むこと。日本人の「恥」の文化だったり、おもかげやうつろいといった感覚、こうしたハイコンテクストを武器にやってきた。
今でもその文脈は脈々と受け継がれているのだろうが、どうも明治維新以降、そのコンテクストが無視されているような気がしてならない。産業革命で一気に西洋文化が輸入されすぎてしまったせいで、リミックスがあまり起きなかった。むしろリミックスが起きないように調整されていた気がする。
ファストカルチャーだけが色濃く根付き、欧州のような古き街並みを残すというような文化まで導入されなかったから、ほとんどが画一的なビルとショッピングモールとチェーン店が並ぶような世界になっている。教育も真面目で従順な人を育てるような教育システムで工業化時代にはまだしも、現代の個別化し、複雑な世界ではとても対応できない。
日本の一途で多様な文化を捨てては、勝てる戦にも勝てなくなってしまう。
「静」と「動」のデュアル
日本文化には、茶の湯や生け花や地歌舞のようにとても静かなものと、ナマハゲや山伏の修行やダンジリ祭りのように荒々しいものが共存している。
日本の一つの価値感覚として世界にも知られているものに「ワビ、サビ」がある。このうちのサビは、荒々しさ、荒び(すさび)からきていて、これが遊び(すさび)になってくる。この「寂び」はもともとスサビの状態をあらわしている言葉で、何か別のことに夢中になっていることを指している。
サビの感覚は「もののあはれ」につながり、武家社会では「あっぱれ」に変わっていった。武士道の心を持つこと。そうした武士的なエモさが「あっぱれ」であり、趣深いという言葉では表現できないエモさを「あはれ」と表現したのだろう。
また、文芸や遊芸や武芸や芸能の場面でスサビに徹していくことを、またそのスサビの表現や気分を鑑賞して互いに遊べる感覚のことを、総称して「数寄」とか「数寄の心」という。数寄とは、「好き」であり、「髪を梳く」「風が透く」「木を剝く」「心を空く」というような数寄でもある。
一つのことに熱中して、それが究極的な状態になること、磨かれ、削られ、全が一になっていくような感覚だろうか、現代で言えば、アップルのデザインに見られるような光原石を磨き上げた究極的なシンプルさ、そこに宿る美意識が数寄である。
こうした態度が昔から大切にされ、言葉になっていった。遊びに徹すること、一つのことに執着していく姿勢、熱中すること。こうした姿勢は現代に欠けている姿勢にも感じる。「出る杭は打たれる」ではなく、「出る杭を磨き上げる」姿勢というものが必要だろう。
一方で「ワビ」は、不如意を「お詫び」して、数寄の心の一端を差し出すこと。侘しい暮らしのなかで、あたかも不如意を詫びるかのように、心ばかりのもてなしをする。これが「侘び」である。
この侘びる気持ちが非常に大切にされてきた。だからお土産をあげる時に「大したものではない」と詫びるし、それが尊いとされてきた。
荒ぶ心がこうした「わび、さび」の美意識を生んできた訳だが、それが、静寂と共存する。それが日本の良さだろう。
松尾芭蕉のこの作品のすごいところは、古池という静寂の中に、蛙が飛びこむという弾んだ躍動感や高揚感がある反面、静寂の中に生まれる一瞬の荒々しさが見事に表現されているところである。
このデュアルというのが、日本人的美意識の中に刷り込まれているということは抑えておく必要がある。一見正反対に見えるものが、同じところに存在する。ダブルではなくデュアルであること。それはコインの裏表、まさに表裏一体となって存在する意識である。
そして、それがまさに世界的に重要になるときがきている。それが環境と経済である。環境を守ることと経済を推し進めることは一般に正反対のように捉えられるが、SDGsに見られるように共存していかなければならない。そしてその一見正反対に見えるものを一色単にして捉えることができるのが日本人古来の考え方である。こういう日本人的文化感を捉えることで、日本の勝ち筋が見えてくるのではないかと思えてならない。
日本のデュアルは性格にも表れていた。日本人は普段は温和で、同調的であるのに、戦時中の時のようにいきなり人が変わったように、荒々しくなる時がある。それが海外の人から見るととても不可解であり、アメリカは戦時中、この特徴を捉えない限り日本に勝てないと考えた。
そこでルース・ベネディクトらは日本人研究に励み、「菊と刀」という一つの本を生み出す事になる。
恩と恥の文化
菊と刀では、日本人の思考・言動を2つの視点を中心に体系化している。それが他人から受けた施しをどう返すかという「恩」と他人からどう見られるかという「恥」である。
つまり、行動規範に常に他人が存在する故に、その他人によって言動が相対的に変化するのである。西洋が絶対的な神や理性を信じるのに対し、日本は相対的、虚いの中に言動の軸がある。
日本人は2種類の「恩」が行動規範になっている。一つが天皇陛下や両親に対する恩であり、もう一つが金銭の貸し借りのような恩である。それをいかに返すかが大切である。
GHQによって天皇崇拝が強制的に規律されたので、天皇への恩は現代では分かりにくいが、両親への恩はイメージしやすい。西洋は恩ではなく、愛を感じるのに対し、日本は両親から恩を感じる。
愛は主体的な動作であるので、そこに束縛するものは存在しないが、恩には御恩と奉公に見られるように恩への借りが発生する。なので親孝行をしないといけないと感じるし、御恩を受けた人が殺されたら敵討ちをすることが美徳とされてきた。
だから鶴の恩返しとか、忠犬ハチ公のストーリーに深く共感するし、そういう尊敬すべき他者に良くも悪くも服従するのが日本人的気質であり、その受けた恩を返せるようにと行動の規範が決まっていく。
そして日本人の行動を律するものは「恥の意識」である。日本人にとって、煩悩を制御するのは、「他人からどう見られるか」という相対的な「恥の意識」である。対照的に、西洋人は聖書のような「○○することは悪いことである」という絶対的・普遍的な罪の意識により行動が規定される。
恥の中でも、日本人は名前とか家柄が傷付けられることを特に嫌った。自分が侮辱されることは許せても、自分の家のことや故郷のことを侮辱された瞬間に怒りが湧くというのは想像できるだろう。
だから「名折れ」にならないようにと努力するし、恥をかいてしまったら汚名返上をしていくことになる。戦時中も軍人として捕虜になって生き恥を晒すくらいならと、集団自決することが美徳とされたし、天皇万歳と言って死ぬこともあった。
余談だが、こういうことを考えると結婚における夫婦別姓が困難になる一旦がわかる。長男が家を継ぎ、その名を守っていくという習慣がいまだに残っているわけだ。
そういうわけで恩をいかに返していくのかということと恥を晒さないことが日本人の行動規範として現代でも成り立っている。
行動規範が相対的な他者の目で決まるというのは現代でも如実に表れている。例えば、環境問題は外国という他者の目をとにかく気にして外的な圧力によって、その態度すなわち法律やビジネスが決まっている。
同調圧力が強いのも恥という一つの価値指標が支配しているからであり、この同調的価値基準をひっくり返すことは大変難しく、尊敬すべき他者からの目線を変えていくことがこの基準を変えていくには手っ取り早い。
ちょっと前の日本は天皇の言うことが全てだった、だから天皇が終戦を宣言したとき、徹底抗戦を唱えていた国民がすぐに武力を手放した。今では、アメリカが天皇の代わりを担っていると言ってもいい。日本はアメリカの機嫌を損ねないようにと常に行動している。
同調圧力が強い代わりに、価値観が一気に変わってしまっても柔軟に対応できる気質も持っている。元々絶対的な価値基準を持っていない国民だから、相対的な価値基準が変わればそれに合わせることができる。アメリカが新しい教育や価値を輸入してきた時もそんなに違和感なく受け入れることができた。そういう柔軟性も実は兼ね備えている。
本気で日本を変えようと思うと難しいが、変えたいものがあるなら他者の目線を意識させることが重要かもしれない。自分の絶対軸を持てというのが、言葉としては綺麗な気がするが、日本人なら自分の心の中にあらゆる他者の目を介在させるという方が、スッキリと軸が定まっていくのかもしれない。
いづれにしろ行動基準を知ることで、日本人としてのこれからの行動を決めていくきっかけを作ることができるだろう、
和食文化
和食は日本のリミックスの能力を存分に駆使した最たる例で、自然のめぐみを尊重しつつ、暮らしの中で伝えられてきたくふうの上に、海外の食材や料理をじょうずに取り入れて、1つの文化をはぐくんできた。これが、和食の文化として評価され、無形文化遺産に指定されている。
旬の野菜を使った一汁三菜の文化は健康的にも文化的にも持続性にも優れている。こうした日本の食文化を読み解くことは日本の未来にも繋がってくるだろうし、持続可能な社会を描く上でも大切になってくる。
和食は一汁三菜が基本であり、平安時代から引き継がれてきた文化だが、海外から伝わった料理を時間をかけて独自のものに変化させた料理がある。それがカレーライスやカレーうどん、ラーメン、コロッケ、オムライス、とんかつ、スパゲティナポリタン、あんパンなど。海外の食材や料理を日本の食習慣に合うようにくふうして作られた和食である。
こうした海外のものを日本風に仕上げるのが得意だった。ひたすらに応用させるのが得意な国民とも言える。
さらには季節性、地域性というものを大切にしてきた。旬の野菜を使い、また南北に細長く、海や山に囲かこまれた地形から、各地にその土地ならではの伝統的食材や伝統料理が生まれた。それを「郷土食」または「郷土料理」という。
食だけでなく、日本人の気質としてこの季節性、地域性というものを大切にしてきた。それは季節が「うつろう」ことにあはれを感じてきたこともあるし、台風や地震などの災害が頻発することで都がうつろうことも頻繁にあった。そうしたうつろうことに歴史や人生の価値観も重ねてきた。
なので昔の東下りもそうだし、今でも路線バスの旅のように地方にスポットライトが当たることが多い。中世には聖地巡礼のようにパワースポット巡りが流行った。こうしたネットワーカーこそ「楽」や「公界」や「別所」や「無縁」といった特別な地点や区域をつくって、独自の生活商業文化をきずいていた。
地方とか辺境というものが、長らく大切にされてきたし、そうした辺境にある料理というものが文化を作りあげることにも繋がってきた。今の東京一極集中という状態がかなり歴史的に見ると異質な存在でもある。
お米の文化
日本人は昔から、生活にめぐみをあたえてくれる自然をとてもたいせつにし、敬いながら暮らしてきた。ミノリ(稔り・実り)を願って、イノリ(祈り・禱り)の文化をつくりあげてきたし、そのアイデンティティの一つにお米がある。
米のミノリが満ち足りていること、稲穂のミノリを見ることによる精神的な安らぎ、五穀豊穣のイノリを捧げる米信仰。人々は自然の中に神様を感じ、その神様に豊作や大漁をいのり、収穫のよろこびと感謝を表すために、季節の節目に祭りをとりおこなってきた。みこしを担かついだり、つな引きをしたり、音楽を奏でておどったりと、盛大に祝う祭りは今も各地域に根付いている。
祭りとは「間釣り」であり、「待つ理」である。日本人は、この間というものを大切にしてきた。それが一瞬の静寂の間であるし、隙間など空間的にも時間的にもこの間を大切にしていた。
この米のミノリを祈ること、そうした祭りの文化が日本の独特の文化を築いてきたし、神様の文化「柱」を立てること、稲作のための農機具から鉄を作る文化にも繋がってくる。
お米は日本人の心であり、その意味で瑞穂(みずほ)の国であり、米を抜きに日本文化を語ることができないのである。
米と同じくらい発酵食品も大切にされてきた。微生物が食品を分解する働きにより作られた食品のことをさすが、伝統的な和食の調味料のしょうゆ、みそ、かつお節、納豆、つけ物など、ジャパンを代表する食品として発酵食品が挙げられる。
発酵食品の特徴は、「保存がきく」、「栄養価が高まる」、「独特の風味や香が付き、おいしくなる」などがあげられるが、何より健康という側面を考えた時に抜群に栄養価が高く、腸に優しい。
腸は第二の脳と呼ばれるくらい大切な器官であるが、麹カビや酵母、細菌などの微生物の働きによって原料成分の栄養素が分解され、消化吸収しやすい状態になる。さらには乳酸菌や麹菌、納豆菌、酵母菌、酢酸菌などの善玉菌が豊富に含まれているため、腸内環境が整い、栄養をスムーズに吸収して体内に巡らせることができる。
他にも免疫力を高めたり、生活習慣病の予防などにも効果的と言われている現代のスーパーフードともいうべき存在がごくみじかに存在する。
私たちの人生の幸福というものを考えた時に健康寿命を伸ばし、生き生きと生活できることはこの上なく大切なことである。そういった健康の面から見ても日本食の文化というものは改めて見つめ直す必要がある。
持続可能な社会を描く
いよいよ最終章に入る。ここでは、これまで読み解いてきた歴史や課題をもとにこれからのビジョンを提示していきたい。それは未来予測ではなく、もっと願望めいたもの、こういう社会になってほしいという願いである。理想郷(イデア)を描いていくことだ。
振り返り
まずこの章の本題に入る前にここまでのおさらいをしておく。はじめにガイアと人類史を読み解いてきた。ガイアは50億年というとてつもない壮大な時間の流れに身をおいている。そこから15億年ほど経った35億年前に生命が生まれ、25億年ほど前にシアノバクテリアという酸素を生み出す生命が生まれた。そこからスノーボールアースなどの時代を乗り越え、5億年ほど前にカンブリア大爆発が起き、生命の多様性が一気に進化した。その5億年の間に生命の絶滅が5度も起き、その度に生命のリセットが行われ、ニッチを探し、種としての多様性を保ってきた生命が生き残ってきた。
サピエンスの誕生は約20万年前で、地球の道のりを5kmとすると、たったの20cmしかない。しかし、その中でサピエンスは火の利用から始まり、認知革命を経て、生命の頂点に君臨することになる。
サピエンスはその中で5度のエネルギー革命を起こす事になる。第一次エネルギー革命での火の利用は、「料理」という形で食べ物の咀嚼にかかる時間を劇的に減らし、消化にかかるエネルギーを脳に回し、時間を有効に使えるようになった。第二の革命での農業では余剰食糧を生み出し、支配層や職人層を生み、文化が生まれ、社会がより複雑になる契機になった。第三の革命での蒸気機関の発明では産業革命の原動力になり、蒸気機関の発明など、人の何十倍もの仕事をし、移動速度を劇的に早めることに成功した。第四の革命での電気の利用によって、距離の壁が壊され、電気通信や情報ネットワークも生み出す契機になった。第五の革命での人口肥料の発明により、農業の生産力は劇的に高まり、結果的に相対的な時間を生み出し、人口爆発にも繋がった。
こうしたエネルギー革命とともにフィクションの力で貨幣や資本主義、民主主義、国家などのイデオロギーや便利な道具を生み出し、人類がこの世界を征服することをさらに加速させることになった。
「現代を俯瞰的に捉える」では幸せと持続可能な社会について議論した。幸せを示す概念として「生命の欲求」「アイデンティティの欲求」「創造性の欲求」という大枠の中で、この世界を覆う幸せとは何か議論した。
「生命の欲求」は要は誰もが健康でいられる状態を作ること、生命というものに執着するのではなく、よりよく生きること。今の時間の流れや食べていることに感謝していくことが幸福につながってくるということを説明した。
「アイデンティティの欲求」は古来から承認を求める闘争となるが、そうした承認欲求から抜け出し、本来の人や自然との繋がりを取り戻していくことの重要性を示した。
そして「創造性の欲求」は自分の自己実現に繋がり、それが創造性の欲求を生み出す事になる。こうした遊びをしていくことが結局のところ文化やアートを生み出し、次世代に残してく遺産にもなる。そうした幸せを存続させるために仏教の「慈悲喜捨」の概念を打ち出し、それを元にしたマインドフルネスが有効的な一つの方法として提唱した。
持続可能な社会も捉え所がなく、抽象的な概念ではあるが、その根底に世代を超えた「自由の相互承認」を考え、種を超えたガイアとしての「自由の相互承認」があるとした。
すなわち、今の人間至上主義から世代やガイア全体としての自由を考えていくことが結局のところ種の存続に繋がり、私たち自身の幸せにもつながってくるということだ。SDGsやESG投資など気候変動を目の前にし、持続可能性が重要な指標になっているが、そうした根底に流れるイデオロギーを検討した。こうした全体のイデオロギーを掴みながら問題を捉えていくとその背景が見えやすくなると考えた。
世界の課題を考えるでは、気候変動、エネルギー問題、金融危機、格差問題の4つを取り上げた。もちろん、これ以外にも多くの問題があるが、世界の課題を捉える上で最重要となってくるものとしてこれらの問題を捉えている。
特に気候変動は人類が抱えている最大の問題として警鐘を鳴らした。生命の絶滅の歴史を見ても気候変動が多くの原因であったし、それは自然現象というより生命の傲慢からもたらされたものも多い。
さらに言えば、コロナ以上のウイルスや食物、海面上昇、難民の発生などあげればキリがないほどに連鎖的に問題が発生する。それくらい気候というのは精密なシステムであり、そこに影響を及ぼすほどに人の力が増大している。
エネルギー問題は、気候変動に付属するような問題であるが、枯渇というのがこれまでの大きな問題だったが、現代ではこのCO2排出というのがとりあえずの問題になっている。そこで再生可能エネルギーの課題や原子力発電にまつわる課題を捉え直してきた。
金融危機も大きな問題である。「金利なき時代」と「バブルの懸念」があるが、金融は結局のところ格差を広げ、失業をもたらすリスクがあり、経済的な危機に及ぶ可能性がある。
格差問題もまた文明というものが誕生してから常に存在し、そしてその格差が広がるとき必ず暴力的な歴史が繰り返されてきた。現代では相対的貧困も増えているし、一方で極端なお金持ちも増えている。そうした現状は革命の因子を落ち、世界が混乱に陥るリスクを孕んでいる。
日本の課題を考えるでは、日本経済、日本財政、少子高齢化、災害に備えるということについて議論してきた。
日本の経済は1970年の成長率を最盛期に、バブル崩壊なども迎え、失われた30年という時代を歩むことになる。インターネットというものが出てから負けに負け続けた時期でもある。そこでMMT理論を持ち出し、日本経済の現状について議論した。
日本財政も大きな課題である。特に現在の社会保障システムと税制が大きな課題であり、格差を生み出す要因にもなっている。ここら辺のシステムを変えていかないと根本的な改善はありえない。
少子高齢化は日本が抱える課題の最大の原因と言ってもいい。人口が減るから経済全体も成長しないし、国内需要も減っていく。同時に都市と地方の関係性も複雑になってしまった。地方は人口の自然減少も課題だが、何より社会減少が激しくインフラの整備など基本的なところからほつれが出てきている。人口がめまぐるしく改善されることは考えられないし、これからは人口に頼った量ではなく質が大事になってくる。そこらへんの都市論も含めて考えていく必要がある。
災害リスクは日本は常につきまとう。特に阿蘇山の噴火と南海トラフの地震は気をつけないといけない。本気で日本が沈没する危機になり下手すると世界が滅ぶまでに大袈裟な事態になりかねない。とにかく備えあれば憂なしで、今から想定されるパターンを弾き出し、レジリエンスを高めた政策を行っていく必要がある。
未来を予測するでは、経済の動き、人口動態、テクノロジー、経済の中心などに絞ってその予測されている未来を述べてきた。経済はほとんどの確率でエントロピー(煩雑さ)が増大する方向に動くだろうし、気候変動や様々な影響で人口の移動、拡大もしていく。ただし、人口は経済の発展でおそらく100億人程度で平衡していくと予想されているが、一部の国では日本のように少子高齢化で苦しむことにはなるだろう。
テクノロジーの発展は著しい。注目されているものの一部だけを抜粋したがそれだけでもいかに世界のルールが大きく変革していくことがわかるだろう。
経済の中心の移動も描いた。市場によってルールが決まる以上、必然的にこれからはインド、アフリカが時代を築き上げていく。その動向を読み間違えるとビジネスとしても大きなミスを犯してしまう。
コンヴィヴィアルな世界を描くでは、テクノロジーとの共生を考える、自然との共生を考える、日本文化の再興と論じてきた。コンヴィヴィアリティをキーワードに自立共生的な生き方を探ってきた。テクノロジーの時代、気候危機の時代にいて、テクノロジーを使って人と自然との関係性をより戻していくことはもちろん、これからはテクノロジー自体との共生が必要になってくる。
自然との共生では、昆虫や森などから相利の生き方を学び、これからは共生進化を目指していく必要性を説いた。それはつまり今でいうサステナビリティとを真剣に考えていくこと、「自由の相互承認」を世代、種を超えて行っていくことである。
そして、改めて日本の文化を振り返り、日本人としてのアイデンティティを掘り起こした。恩と恥の文化だったり、エディティングリミックスという手法や、侘び寂びの感覚など日本文化から学ぶ側面は大きい。それを思い出してこそこれからの日本を語れると思った。
こうしてここまで展開してきたテーマを振り返ると途方もない幅広い分野から視点から見てきたことがわかる。経済、教育、金融、歴史、文化、社会学、工学、テクノロジー、医学、生態学などあらゆる学問の垣根を超えて私なりに編集して、形に起こしてきた。そしてここまで基づいてきた考えをもとに持続可能な社会を描いていこう。
価値基準を幸せにおく
持続可能な社会を描く上で、何より価値基準を定めていくことが大切だ。7つの習慣で個人としてミッションステートメントを掲げていくように、人類としてのミッション、価値基準を捉えなおすことが必要になる。
SDGsはその意味で人類の目標を17個に振り分け、誰1人取り残されない持続可能な社会を掲げたという点では素晴らしかった。ただしこれは2030年までに人類が達成したい目標であり、私たちは確固たる理念が必要である。
こうした目標も虚しく、中東の緊張関係は和らぐ気配もないし、中国は一帯一路を構想しながら、世界の制圧に動いている。もちろん欧州もアメリカも様々な経済規制やルールメイキングを通して、こうした動きに敏感に対処している。人類全体が共同幻想を持って、統一的な目標を持つことは計り知れないほど難しいが、SDGsの動き、金融セクターの動きなどは光明がある。
人類として何より大切にしていきたいことは幸せを中心に据えるということである。これまで人間中心主義でホモサピエンスが誕生してからわずか20万年で世界を制圧するに至ったが、本当に人類は幸せになったのか問い直さないといけない。経済や権威を求める闘争に明け暮れ、大きな戦争も経験し、様々な疫病の危機も迎えた。しかし、その度にテクノロジーとサピエンス(賢さ)を武器に危機を乗り越えてきた。
しかし今では一瞬で世界を滅ぼせるほどの核爆弾を持ち、あんなに戦争が馬鹿げているといいながら武力による抑止力を高めている。本当にサピエンス(賢き人)なのか疑いたくなる。
言ってしまえば、これまで競争の中で自分自身の能力を高めてきた。それはホモ族としてネアンデルタール人と激突し、勝利してきたこと、サピエンスとして、世界の派遣を争い、文明を築き上げてきたこと。その中心も度々変わってきた。ローマ帝国が最強だった時もあるし、モンゴル帝国元が最強になったり、アメリカに覇権が渡ったり、日本も大日本帝国時代は強大な覇権を握っていたこともある。
そうした覇権争いの中にテクノロジーを高めてきた。皮肉なことに、今の技術はほとんどが軍事力の強化の中で生まれてきた。航空技術やインターネットはその代表的な例である。しかし、それを民間に落とし込み、市民のために利用するという動きもあった。そういった技術の独占ではなく、オープンソースな技術がこれからの持続可能性には必要になってくる。
どうもサピエンスという種族は競争が大好きな種族らしいのだが、持続可能性の章で考えてきたように、種を超えたガイアとしての「自由の相互承認」を真剣に考えていかないといけない。すなわちこれからは競争進化ではなく共生進化を果たさなければならない。
これまでは、人類同士で争うこと、他の生物を淘汰していくことで人類としての立ち位置を確固たるものにしてきたが、そうした世界の先に気候変動やその他の様々な課題を抱えるようになってしまった。そうしたシステムを作り上げたことで、人はフィクションを勘違いするようになってしまい、お金や権威が物事の全てだと思うようになってしまった。
そうしたシステムの先に結局のところ歪みが生まれ、格差や環境問題を生み、持続不可能な状態にまで陥ってしまった。こうしたシステムの歪みを修正していくことは容易ではないが、それを正していかないと本当に絶滅の危機に瀕してしまう。
一つはフィクションを捉えなおすことだ。それが幸せを価値基準の中心におくことである。資本主義も民主主義も現代が生み出したフィクションの一つにすぎず、その力を持って人類は世界を制圧することができた。そうしたサピエンス(賢き人)だからこそ、価値基準を置き換えて、また新たな価値基準を据えることができる。
そして競争ではなく共創していくこと。生命の尊い命から学び、生態系という複雑でこの世界の基準ともなるシステムから学び、人類が共同幻想を打ち立て創造していくことが必要になる。他の生物のためになること、ガイアのためになることを考えていくことが結局人類の種としての存続につながる、これがサステナビリティである。
その中でホモサピエンスとしてのアイデンティティも問われることになるだろう。特に遺伝子工学やサイボーグ工学、AIなどが発達する中で私たち人類は何かということを強く意識させられることになる。このヒントは一つはサピエンス(賢き人)ということであろう。そして意識というものを他の共同体や生態にまで回していくことで、やはり私たちとは何かという問いに答えていかなければならない。
ちなみにノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの「クララとおひさま」はAIと少女の関係性を絶妙に描いているが、個のアイデンティティという点で、それらしいものを記述している。私の心が特に揺さぶられた部分を引用したい。
日本の社会システムを再興する
さて、人類の新たなフィクションとして幸せを中心軸におくということを語ってきたが、やはり現実の課題も考えていかないといけない。気候変動やコロナなどのパンデミックは間前の問題であり、やはり解決に向かって動いていかないといけないが、ここでは世界としてというよりは日本として取り組むことを少し述べていくことにする。
日本の課題としては、とにかく少子高齢化にまつわる課題である。経済も財政も地方創生も全ての問題が凝縮している。そしてそれは日本が抱える最大の課題でありながら、世界に先駆けた課題でもある。ジャパンスタイルの解決策を見せることができれば、それは世界でも大きな評価を得ることができるし、それを実現できるだけの能力が日本にはあると考える。
テクノロジーの利用
AIの発達により、問題視されていることの一つが現代の労働力の代わりになること。すなわち雇用問題である。これは、歴史的に見てもしばしば起こってきた。特に第3次エネルギー革命にみる産業革命は機械が労働力の代わりになり、実際に労働力を奪ってきたし、それが大きな問題となり、大騒動も起きた。
しかし、現代の少子高齢化社会においては非常に都合のいい側面がある。やはり、社会というものを考えると、経済が全てではないが、経済を回していくことが、賃金をあげ、豊かさに繋がってくる側面もある。そうなった時に少子高齢化社会では労働力の拡大が見込めないので質を上げていく必要がある。しかし、労働力という側面ではAIやロボットはますます大きな要素を担うことになるだろう。
現代において、労働力不足が言われている一つが農業である。農業の就労人数は減っていく一方であるが、人々の生活の根本であるので、なくすわけにはいかない。ここらへんは大いにテクノロジーの導入を進めていく必要がある。高齢者が中心で、伝統に縛られがちな側面があるので、思ったようにテクノロジーの導入が進んでいない印象があるが、それでもスマート農業、アグリテック、農業機械など様々な技術が出始めている。
日本のような限られた土地で、最大の生産性を生むには技術の利用は必要不可欠だろう。ただ、難しいのがテクノロジーとのコンヴィヴィアリティである。AIは言ってしまえば論理の塊である。全ての農産物や畜産などあらゆるものを機械的に管理する。人間は機械のもとに働く奴隷となってしまい、そこに創造性というものが働かない。
AIが水をやれといった場所に機械を用いて水をまくというような単純作業化してしまい、クリエーションが起きない。テクノロジーが人間の創造性を奪ってしまいかねない。第二次エネルギー革命から農業は人間をその土地に縛り付け、生産物の面倒をみる奴隷に仕立て上げてしまったが、その呪縛から抜け出すことはなかなか難しい。
この問題への答えは今の所出せそうにないので、保留にしておくが、おそらく生態系から学ぶことなどが鍵になるのだろう。いづれにしろテクノロジーが自然や他者の関係性を再構築し、手放せるテクノロジー、つくれるテクノロジーへと進化していく必要性がある。AIの管理体制が人間の創造性を抑制しないか、こうしたことは常に気を配っておかなければならない。
一方で単一労働をAIが代替することもあるだろう。コンビニなどの仕事、受付業務をはじめ、ロジックではすでにAIに勝てる要素はない。もちろんどれだけ技術が発展しても機械では代替しきれない、人でなければできない仕事がある。機械にできないこと、苦手なこととして「判断」「臨機応変な対応」「共感」「0→1を生み出す」などがある。医者や看護師などの責任ある倫理的な仕事、接客など人とのコミニュケーションに関わる仕事など、こうした仕事はなくならないと言われているが、逆にいうとこれ以外の仕事はなくなる危険性がある。
そういうわけで人はよりクリエイティブなもの、マネジメント、コミュニケーションなどの分野に仕事が移行していく必要がある。幸せの章でも述べた通り、創造性が至高の領域である。やはり生きていく限り、自己実現のために仕事をしていくべきだし、それがしやすい環境に変化しつつある。当然、仕事のマッチがうまくいかないと失業者で溢れるわけだが、ここら辺の社会システムをうまく変化させていくことで対応はできるだろう。
社会システムの変革
AIによって仕事が奪われることは、確実に予想ができることだし、今のタクシー業界のように雇用を守るだけでは対応できない。日本は攻めの一手を打たないといけないと思う。
社会システムの変革として上げておきたいのはMMTの「就業保証プログラム」と「ベーシックインカム」である。
「就業保証プログラム」は政府自らが一定の賃金を支払ってすべての就業希望者を雇い入れるものである。政府支出は、不況期に拡大して好況期に縮小することによって、強力な自動安定装置として機能するとされている。
ベーシックインカムとは社会保障制度等が議論される際に出てくる政策・制度のことで、簡単に言うと最低限の所得を保障する仕組みである。
ここらへんの保証の仕組みは説明が厄介であり、複雑な理論に基づいているので説明を省くが、大胆な変革を行っていくにはこのような制度が必要になってくるだろう。これの第一のメリットはインフレが起きやすくなること、第二は職種の転換がしやすくなること、第三は格差の是正につながることである。
憲法にもあるように必用最低限度の生活は保障されなければならない。例えば一人当たり月10万円程度保障されれば、かなり生活の在り方が変わるだろう。その10万円を使って特に仕事はせず、ゆったりとした時間を過ごす人もいれば、保障された10万円を使って起業や新たなチャレンジにお金を使う余裕が出てくる。
10万円が貯蓄に回ると経済が回らないので、インフレは発生しにくいが最低限が保証されることでやはり消費や投資にお金を回しやすくなるだろう。そうすると新たにビジネスを起こしたり、何かに挑戦することにお金を使って見たり、新たに自分で語学を勉強したりと好循環を回すことができるのではないだろうか。
こうやって経済を回していく中で賃金の上昇が生まれ、インフレの状態に持っていくことも可能だろう。金融政策だけでインフレに持っていくのは無理がある。
当然、ベーシックインカムや就業の保証があれば、職種の転換もしやすくなる。思い切って仕事をやめても最低限の生活は保証されているし、自分の自己実現のためにお金を使いやすい。全く違った分野の仕事に進み、新たなスキルを得ることもできるだろう。
第三の格差是正は税制に関わってくることである。ベーシックインカムも就業保証も想定される中では多くの税金を使うことになる。これを消費税で賄っていたらほとんど意味がない。(MMTで言えば、積極的に財政出動することが大きな目的の一つではあるが)
重要なポイントは累進課税である所得や金融、相続税の税負担をあげること、炭素税のような環境を害するものを取り締まるものに税負担をかけていくことである。政治というのは要は国民から集めたお金の配分を決めていくことが仕事であり、それはやはり民間セクターではなく、政治セクターだからこそできることである。そうしたシステムの変換がこれからは重要になっていく。
さらに言えば、AIが仕事を代替していく中でAI自身がお金を稼いでいくような形にも変化していくだろう。そうして生まれた産業や所得をどうやって使っていくかということをきちんと議論していきたい。
都市・地方都市・里山の関係性
地方分散型社会への流れ
地方の人口減少、限界集落が全国的な問題となり、地方創生が叫ばれているわけだが、コロナウイルスにより、地方の価値が見直されたし、実際に地方で働けるようにテクノロジーが進化した。
満員電車と田舎とを比較したとき感染リスクは比較にならないだろう。さらには、不況の中高い家賃を払うことができずに、郊外に出るもしくは、地元に帰省するような人も増えるだろう。人的移動のメリットが大きかった都市型社会において、それが制限され、さらにはリモートワークの普及によりどこにいても仕事ができるようになった現状では、都会にいるメリットは限りなく少なくなっている。
こうした地方へのメリットが高まりつつある今、地方創生に向けて新たなシステムを築く必要があるが、一方でテクノロジーの観点から見ると都市化は避けられない。
大都市東京
AIもUberも5Gもなかなか地方では普及しない。なぜか?それは、需要が小さいからである。必要度で言えば、地方ほど医者もいないし、交通手段が少ないし、人手も足りない。そこに本当は、テクノロジーを導入したいのに経済合理性から地方はあと回しになる。そういう合理性が働くことによってますます都市人口は増えていく。
そういうわけで私はこれからの世界は、都市と地方都市、里山の3つの区分で生き方ごとに担う役割が代わり、どれも必要な存在として台頭してくると考えている。
都市は東京のような都市ではあるが、やはりこれからの時代は東京一極集中はやめた方がいい。経済的に合理的でもレジリエンスに欠ける。特に首都直下型地震がきた時、政治機能も経済機能も止まってしまうとどうしようもない。京都や他の地方都市がその役割を担えるかというと現実的には今は難しいだろうし、早いうちに手を打っておく必要がある。
行政と政治、裁判所それぞれを違う都市に移してもいいし、行政機能を文化庁のようにそれぞれ各地の都市に分割してコンパクトにするのもいいかもしれない。いづれにしても東京に集まりすぎて、文化も経済もごちゃごちゃになってしまっているのが現状だろう。
都市部は高度経済成長期に建物を多く建てたので、多くが築50年、60年を迎え、インフラも少しずつボロボロになってきている。人の高齢化だけでなくモノの高齢化も起きている。そこで人口流出がはじまると大きなインフラの混乱が想定される。
ここで都市の緑化は欠かせないだろう。使わなくなったビルや空き家を中心にリフォーム、リノベーションを行い、コミュニティーが活性化するようなスペースにしていく。稲本さんは「自給遊園」という概念を提唱していたが、ビルや空き地で農作業に取り組んだり、自然と触れ合う機会を作っていくのは有効だろう。それは、現代のつながりが希薄になった社会に新たな繋がりのきっかけを生むし、自然との繋がりは何より、この大地との繋がりを取り戻し、新たなコミュニティーを生み出すきっかけになる。
一部の都市ではすでに進んでいるがテクノロジーによって、コンパクトな街がもう少し広がることを期待している。自然と調和したウォーカブルな街、必要なものは揃いながら、そこにいくまでは乗り捨てできる自動運転。仕事はヴァーチャルな環境で週3,4くらいでテレワークをし、あとは街に行ってスポーツや文化を楽しんだり、農業をしたりする。
ただあくまで大都市の役割としては世界と日本を繋ぎ、経済や政治といった機能を果たしていくことにある。そこには生活という側面はどうしても希薄になるだろう。
テクノロジーの章でも述べたようにこの意味では、機能自体は東京にあり、スプロール現象が生まれることが予想されるが、上手に整備することで地方都市の飛躍につながってくるだろう。これからの時代は、地方都市に大きな配分が上がることが予想される。
地方都市への移動
コンパクトシティーについては先述しているので、詳しくは避けるができるだけ生活圏を小さくした街を意味する。インフラの整備など地方財政が緊縮する中で地域公共交通と連携して、コンパクトなまちづくりを進める意味で非常に重要な概念になっている。UberやMaasなどのサービスも入り、地方都市はテクノロジーの恩恵も受けながら、経済を生み出しながら文化や農業、商業など様々なものが交錯する世界になる。
コンパクトシティとしては富山市が成功事例としてよく取り上げられる。富山市は路面電車やバスなどの公共交通機関を活性化させ、その沿線に居住、商業、ビジネス、文化などの都市機能を集積させることにより、中心市街地の活性化を目指した。これは実際に成功し、ウォーカブルな街へと変化した。
コンパクトシティのコンセプトとして、街がコンパクトである以上にテクノロジーの恩恵を受けられることが重要になってくる。空間革命において、時間と場所の制約は撤廃される。配送もドローンが普及すれば時間の問題だろう。教育、医療などの社会サービスもある程度十分に供給可能だろう。
近くに自然があり、テクノロジーの恩恵を受けられ、さらには雇用や経済をきちんと回すことができるようになれば、地方都市として新たなモデルを築きあげることができる。大都市と里山の接点ともなり、基本的なものはミニマムにまとまっている。
こういう社会を分散型の社会と呼ぶが、環境省は地域循環共生圏としてその構造をまとめている。
「地域循環共生圏」とは、各地域が美しい自然景観等の地域資源を最大限活用しながら自立・分散型の社会を形成しつつ、地域の特性に応じて資源を補完し支え合うことにより、地域の活力が最大限に発揮されることを目指す考え方のことである。
地方の文化や資源を生かしながら、テクノロジーも利用し、利便性や多くの課題解決に向け動き、それがネットワークとして各地が繋がっていくようなシステムモデルをビジョンだけでなく、実際に作ることができれば、進む地域の過疎化に対して大きなインパクトを残せるだろう。
里山の価値
里山はsatoyamaとして世界に発信されているし、日本らしいジャパンカルチャーを育んできた土壌でもある。地方創生を考える上でも、共生進化を考える上でも里山の利用を促進していかないといけない。
里山は適度に人の手が入り、さまざまな環境に恵まれ、植物や動物にとっても豊かな環境を作ってきた。共生進化とは要は利他的であるということである。木々を育て森を作っていくこと、水源地を作って虫や動物が育ちやすい環境を作っていくこと、決して忌むべきものではなく、自然の循環や作用の中で生きていくことである。
だから農薬とか殺虫剤とかではなく、科学がもう少し自然の循環に目を向けて、どの動物となら共生しやすいかというものに目をつけた方がいい。合鴨農法などは参考になる。
テクノロジーの利用も推進していかなくてはいけない。木を切ったり、畑を耕すのは、大変な作業であるので、それをアシストするような道具があるといい。そういうテクノロジーがあると、もっと農作業する人や木を利用する人が増えるだろう。
里山は、自然の中に身をおきながら、テクノロジーで世界に繋がる場所にもなってくる。空間革命で場所の制約が大きく取り払われているから、里山の価値を発信しやすいし、里山にいても、様々な仕事にアクセスすることができるだろう。午前中はリモートワークして、午後は畑仕事みたいなライフスタイルが流行るかもしれない。
そうは言っても、里山で全ての生活を完結させることは難しいだろう。なので近くのコンパクトシティとのアクセスを改善させることは必要だろう。その媒体が車なのか、バスなのかはたまた違うものなのかわからないが、ちょっとしたレジャーや買い物、医療などのアクセスはこうしたところが中心にはなるだろう。とはいえ、医療も教育も遠隔で相当なレベルを受けれることは想定できる。
インバウンドなどで里山に来てもらうような仕組みも整えていけると良い。都会自体を緑化していくことも大事だが、都市と地域の繋がりを取り戻し、里山への関係人口を増やして、多くの人がその価値に気づくような仕組みが出来上がるとより一層、自然の循環を学べる機会が作れる。知識はオンラインでも得られるが、体験はやはり現場に適うものはない。
自然を敬う心が生まれれば、自然を守る心も生まれてくる。論理的に気候変動が大変というよりも、体験として知った上で気候変動問題に取り組めるとモチベーションも上がるし、情報の共有もしやすくなる。環境問題の解像度もずっと上がるだろう。
森にいる生物の共生の仕方とか、里山によって人間と生物がどのように共存してきたか。話を聞くのと実体験では、価値が全然異なってくる。そうすると環境問題の問題意識がもっとはっきりしてくるし、幸福という価値観にも結びついてくる。
日本人の気質としてこの季節性、地域性というものを大切にしたい。季節が「うつろう」ことへのあはれを感じる心や東下りにみる辺境に哀愁を感じる心、そうした辺境にある郷土料理や独自の文化、こうしたジャパンスタイルを刻みながら、地方創生を行うことで、日本人的少子高齢化を乗り越えることができるのではないか。
私は、それなりの数の国立公園を廻ってきた。行ってしまえば辺境巡りである。国立公園は自然の保護区でもあるが、一部は大変歴史的な土地でもある。
例えば、熊野那智大社は、熊野古道の一部となっている神社であり、ユネスコ世界遺産にも登録されている大変有名な神社である。近くには那智の滝と呼ばれる日本最長の高さを誇る滝がある。
昔の人は壮大な自然を眺めて、そこに神がいるのだと信じ、街を作り、神社を作って拝んだだろう。山があれば、水があり、水の恵あるところには農業が生まれる。そうやって人里と自然というのは混ざっていった。
人は木を間引き、水の流れを整えることで自然に対して貢献し、その自然から土壌や水、農作物といった恩恵を分けていただいた。多分そこは人工とも自然とも言えないもっと境界線の曖昧な世界だったと思う。
こうした自然と人、そして文化が融合した世界を生み出すこと、地域が文化と技術を融合させ、新たな価値を生み出すことができるようになれば、自然と東京一極集中も和らぐし、もう少し自然との共生が生まれ、人も自立分散的、コンヴィヴィアルな世界観になっていくだろう。
AI・生態系・人間の意識をつなげる
おそらく「自由の相互承認」だとか、「共生進化」だとか、「フィクション」、「テクノロジー」、「コンヴィヴィアリティ」など強烈な言葉を繰り返し使ってきた。一言で言うと持続可能な社会を築きあげる上では、様々な面での共生が必要だと言うことだ。共生というのが利他的であるし、利他的な行為、すなわち誰かのために何かをするというのは究極的な愛の形で、これほど純粋で美しいものもない。
テクノロジーの進化や生態系の偉大さ、人間のフィクションの能力なども上げてきたが、AI・生態系・人間の意識をつなげて、お互いが利他を考えた複合的な世界を描いていく必要がある。AIのディープラーニングの構造と森にみる生態系の複雑さ、そして人間の脳はなんとなく構造として似ているのではないだろうか。
そもそもAIに見る人工ニューラルネットワークを脳の構造を模したものであるし、それがIoTなど、様々なモノと複雑なネットワークで結びついている。
ガイアで見る生態系も似ている。やはり多様な生物ネットワークがあり、様々な生物が生態系の中で小さな役割を果たしながら、複合的なガイアとしての機能を果たしている。地球環境は、人間はもちろん、生物や有機物、それに無機物を含んでトータルな一つの循環になっている。
人間の脳の解析はだいぶ進んでいるようだ。脳と体が神経で繋がり瞬時に行動命令を出し、私たちは運動ができている。さらに脳というハイスペックマシンは人間にフィクションという力を与えた。
これらのそれぞれのネットワークと幻想の力が混ぜ合わさり、全体を共同幻想で包むことができれば、ガイアとして新たな進化を迎えることができるのではないか。
スマートウォッチなんかは、人とテクノロジーをつなぐ存在に近い。人のデータを測りながら、それを様々な機器と共有し、人の意識に訴えかけていく。それが例えば、自然の異常な状態とか、病気にかかった時への対処などが、生態系とテクノロジーと人で共有しあいながら解決していくこと。
気候変動という脅威に向かって、あらゆる意識を共有させた上でガイアの恒常性を保っていくこと。AIなどのテクノロジーと自然と人間がwinwinな状況を作り、意識の上で共有できれば、新たなステップに迎えるのではないかと信じている。AIのディープラーニングの構造と、生態系の複合的なシステムと人間の意識が共同幻想で繋がる社会である。
おわりに
文章を書くのは比較的好きで、時々取り止めもないことを記事にしていたが、大学生活の何かまとめになるものを書いてみたいということで書き始めた。書き始めたはいいけど、何から書き綴ればいいのか非常に混乱した。私自身の脳内にある抽象的なイメージを言語化していくには、大変な分野に跨るし、その点として存在しているものを線にそして面にしていくには改めて勉強することも多かった。
特に経済理論は関心を持ちながらも抽象的な理解で終わっていたので、ここら辺は改めて書籍を読み直し勉強しなおした。
持続可能な社会を描いていく上では、文理で分けていてはダメだというのが兼ねてからの想いで、文理だけでなく、産官学連携もそうだし、世界と手を取り合っていくことがやはり重要である。
とはいえ、COP25で私が見たのは分断の姿であった。各国はとにかく自分の主張を通したいし、NPOと企業、政府などが連携しているとはとても思えなかった。言ってしまえば協働ではなく対立の構造が生まれていた。
現実はなかなか甘くはないけれど、地球レベルの問題を抱えている私たちは今こそ共生への道を辿らなければいけないというのも本心からの想いである。それはもちろん、サピエンス同士での共生でもあるし、他の生命、そしてテクノロジーとしての共生の姿としても描いた。
日本は失われた30年と言われ、経済は低迷し、少子高齢化でまるで勢いはない。同世代では、日本という国に絶望し、将来に不安を持っている人も少なくはないし、見限って世界に飛び立つ人もいるが、私は悲観もしていないし、何より日本の自然や文化、食というものが大好きだった。
日本の里山のあり方はSDGsという世界には明らかにマッチしていたし、侘び寂びの心だけでなく、うつろうものや暗がりに心が奪われてしまう感覚の美しさは独特でやはり心が奪われるものだった。そうした日本だからこそ生み出したじねん(自然と融合する)の精神は、世界に誇れるものがあると思うし、そうした世界観を生かしながら、今ある課題に取り組むことでジャパンスタイルとしての解決法を導き出せるのではないかと思った。
この文章を書く上では多くの書物やサイトを参考にさせていただいた。多くの人の思想やアイデアに触れるたびに世界はまだまだ捨てたものではないと思わされたし、昔と比べて世界はずっと良いものに変わってきているだろう。
この記事を読んだ人に少しでもヒントが提示でき、読む人の心が少しでも晴れ、希望が沸くものになっていたらこの記事は大成功だろう。改めてここまで読んでいただいたことに感謝の意を述べ、本記事を締めようと思う。ここまでお読みいただきありがとうございました。
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