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【詩の感想】古今和歌集 仮名序

当noteでは、美しい日本語について独自の定義をしています。
そのため、仮名序の古文も、あえて「詩」として捉えています。

やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける

『古今和歌集 仮名序』紀貫之

読んでまず思ったのは、「心」について。

「心」というと、浮かびやすいのは
「~したい、したくない」「私はこう感じる」
といった主観的な心か、

主観的な心を分析した
客観的な心かなと思うんですよね。

でも、ここで言われている心は
そのいずれでもないような。

自然の情景にうっとりしたり、
人知を越えた自然に大切な人を重ねて
想ったり。

そういった
自ずと湧き上がる想いをまっすぐに捉えた
「心もよう」のように思いました。

そんな心もようを種として
「よろづの言の葉とぞなれりける」
つまり、様々な言の葉になった。

この、「なった」は変化ではなく、
言の葉に「託した」というようにも
受け取れます。

そう捉えると、言の葉に込めた
奥行きのある想いが
お相手に届いてくれたら嬉しいけど、

届かなかったとしても構わないといった
諦念のようなものも感じます。

それは、
自然の姿に大切な人を重ねてみる
ありように象徴されるように、

私と自然
私とあなた

というように、自分を中心に世界を
分別(線引き)して見ておらず、

自分が薄いというか、
自らの想いへも執着していないから
かもしれません。

そんな言の葉だからこそ

時代や価値観を越え、
多くの人の心にしみ入るのでしょうし、

読み手が抱える様々な情動をも、
穏やかな何ものかに
昇華していくのかなとも思いました。

こういったことが起こるのは、
日本語自体が奥行きのある言葉であり、

助詞一字にも、様々な想いを込めることが
できるからかもしれません。

そのようなことを考えていると、
日本語だからこそ表現しうるものはある、
ということに気付かされますし、

言葉を磨くことの大切さを
示してくれているようでも
あります。

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