死にたいと生きたいは紙一重だけど、死にたいと消えたいはだいたい一緒

ふと消えたくなる。

時間も、タイミングも関係ない。

ここにいることへの違和感、生きていることへの違和感。

どこかズレている感覚。

ズレているものを正せる予感もない。

自分がここにいて、何かを目にして、自分の思考で受け取ることへの違和感。

きっと私が今ここで受け取るこの感覚は、誰かにはわかってもらえることもなく、経験をすればするほど、孤独であるという感覚は募っていくのだろうという予測。

簡単に近しい感覚を味わってもらえるものはもちろんある。

たとえば、夏の夜の匂いを嗅いで少し悲しくなるとか。金木犀の香りに、懐かしさを感じるとか。

よく聞くたぐいの感覚を持ち寄って、近いね〜って話して、浅瀬で共感をすることはできる。


でも、もっと深淵は、誰かに出せる気もしないし、わかってもらえる気もしない。
出し方もわからない。

こうやって、募っていく感覚が、何十年も積み重なって、人から慕われたり好かれるたびにどんどん自分を気持ち悪いと思って。

最後には、絶えられなくなって死ぬのかも知れない。

どうせ死ぬ人生、いつ死んでも変わらない。

でも、ね。

私が死ぬときですらも、この孤独は、結局わからない人なりのわかった解釈にまとまるんだよね。

どうせ、なにも残らないなら、誰にも、なにも語られず、忘れられた存在になって、そっと消えたい。


父親の死に方は、正しかったのかもしれない。

わたしは、あの人のような死に方をしてしまいたい。


消えたい。

この毎日は、続けていくには、あまりにも虚しい


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