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台所しごと

夕食にお弁当を買うことへの抵抗がなくなった今日このごろ、それでもキッチンに立つ機会が失くならないのは食べたいものがあるからだ。

そんな食べたいものを巡って息子と私、たった二人の家族のあいだに争いが勃発する、いや団結する。
外食では量が足りない、味が惜しい、野菜が足りない。おおむねそんな理由でスイッチが急に入る。

野菜を洗う切るなどの下準備をする私、合わせ調味料をボールで混ぜ鍋を温める息子。
二人とも普段のバイトや職場より良い動きをしているに違いない。
そこには生ぬるい親子間のてらいもなければ遠慮もない。あるのはただ料理人としてのプライドと、プライドのふりをした食い意地だ。

かくして出来上がった料理を机に並べつつ、録画のお笑い番組もしくはサッカーを映したテレビの前で、各々のスマホをいじりながら好きなようについばむ。

息子は中華の炒め物、パスタ、サラダなどが上手い。
一方、私は和食や昭和のお惣菜、デザートだ。
和食では勝ったと思っていたものの、息子が作ったカツ丼を食べて愕然とした。揚げたカツを更にこんがり焼いてから卵でとじていたのだ。美味かった。
そんな芸当、思いたとしてもめんどくさくてやらないだろう、つまり負けだ。

私は子どもの頃から台所に立つ母の横につまみ食いと甘える目的でくっついていた。
おかげでいろいろ作れるようにはなったのだが、夕飯の献立に茶碗蒸しを出すことはできなかった。
母は茶碗蒸し用の蓋付きの器に鶏肉や椎茸、ひとつひとつ材料を揃えていれてくれた。
なかでも銀杏は固い殻を割るところから準備していたから透き通ったヒスイ色が輝いていた。
もちろんメインのおかずは他のものだ。

そんな母には遠く及ばないが、食い道楽の父がうるさかったため、熱いものは熱々で、冷たいものは良く冷やして出すことくらいは面倒ながらも引き継いでいる。

義母からはとんかつを上手に揚げるコツを教わった。
中まで火が通っているかどうかは、菜箸でお肉を持ちあげて判断する。振動が箸から手に伝わるようなれば、それが火が通った合図なのだ。
お肉をひとつひとつ持ち上げる瞬間はとても楽しい。
とんかつを揚げていると、亡くなった義母のことを想い出す。ワイシャツのアイロンがけも教えてくれた、 ありがたい思い出だ。

娘は、働く私の代わりに夕飯を作ってくれた時期がある。
彼女が作るスジ肉を煮込んだユッケジャンは本格的で、私のなんちゃってユッケジャンより味に深みがある。
作り方を教えてもらうと、スジ肉を煮込む時の状態を韓流のアイドルとスターに例えてくれた。
やや柔らかいのはアイドルで、ほろほろと崩れるようになったのはスターということだった。柔らかくなったと思ってもまだまだこれからだという意味で、崩れるまで煮込みなさいという教えだった。
綺麗なうちはダメということだろうか、たまにスジ肉を煮込むとセットで娘の一風変わった例えを思い出す。

今までの台所の伴侶をひととおり書いたのには訳がある。
私は今、好きな人と台所に立つのが夢だからだ。
それは家族になるということではないだろうか。
息子と彼と3人で台所に立てたら楽しいだろうと思う。

本当のことをいうと台所に立つのは彼と息子で、わたしはのんびりと横になってテレビを見ている姿を想像している。

そうなったら台所に立つ男性2人には食器洗い機くらいは買ってあげようと思っている。



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