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心に残るnote作品集

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エッセイや日記、写真、漫画など、出会えてよかった、素敵なnoteを集めてみました。さまざまなジャンルのクリエイターの皆さんに感謝をこめて。マガジンをつくる前に読んだ素敵な作品もた…
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2019年12月の記事一覧

チェコの藍染め工房へゆく

10月のちょっと冷え込む日、「ストラージュニツェ」という街に降り立った。スロヴァキアとの国境にほど近い、チェコのモラヴィア地方の街だ。 もう、駅からして可愛すぎる。駅は改装の真っ最中で、この建物も新しくペイントされたばかり。 ホテルまで歩く道すがらに、駅と同じもようが入っているお店を発見した。 壁面にはモラヴィア地方の伝統紋様が描かれている。ちょっと可愛すぎるな…。 店名は"Vino Botur"だが、大きく書かれた"Vinoteka"の文字が目立つ。 Vinotekaは

行きたいところに自由に行ける喜び

社会人2年生の息子が、通勤に使っている自転車。 息子は肢体不自由なので普通の自転車は運転できません。そこで障害者用のものを、息子の障害に合わせて特注で作ってもらいました。 作って下さったのは、東京・足立区にある堀田製作所です。 今から10年ほど前、息子が中学生になった頃、この堀田製作所で息子の自転車を作ってもらいました。 この出会いには、とても不思議ないきさつがありました。 ある晩、夫の夢に知らないおじいさんが出てきて、「この子に自転車を買ってやってほしい。」と言わ

大切な人との永別を実感させてくれたのは距離だった

今年の夏、おばあちゃんが亡くなった。 血の繋がらない父方の祖母。昨年のちょうど今頃書いた「ハイカラおばあちゃんと紅茶」というエッセイに出てくる。 本当にハイカラさんだった。損得考えず思ったことをズバズバ言う性格には時々困らされたけど。 夫と娘に先立たれ、少しずつ弱っていったおばあちゃんは、父母が同居する自宅と病院と介護老人保健施設を行ったり来たりしていた。一人で歩けなくなってからは施設で過ごすことも多かった。 * 「お知らせしときます。おばあちゃん、いま病院です。今

先生、あのね。絶対にだれにも言わないで……

20年近く前になるが、わたしはあるまちの学童保育でアルバイトをしていた。バイトの同僚たちは、子育てを終えた4、50代の主婦か、大学生のどちらかで、当時20代後半だったわたしは珍しい、中途半端な年齢だった。しかも子育て経験はない。さらに、運動が大嫌い。鬼ごっこなんて絶対にやりたくない。当然サッカーも無理。 インドアな要員に徹しようとしても、将棋も囲碁もわからない。トランプとUNOとオセロは、なんとかなった。ただ、困ったことに、わたしは負けるのが嫌いだった。対戦相手がたとえ小学一

晴れて卒業。

ついに、リハビリを卒業することに決めた。 次回、12月17日が最後。 2018年11月に入院し、手術をして、後遺症で左腕が上がらなくなって、曲げることができなくなって、リハビリが始まった。2019年1月末までは、入院しながらリハビリに専念。2月からは仕事復帰して、通院しながらリハビリを続けた。 だらりと垂れ下がった左腕を、右手でパソコン前に連れてきて仕事をしていた。一週間に1、2回は病院でリハビリを受けた。病院も非を認め、これまでの医療費は今のところ請求されていない。と

あんまり読んでないと言った人。

普通はこういうことを書かないと思うんですが、私が心やられていてる感じの文章を投稿したときに「あんまり読んでないけど」のような言葉とともにコメントをくださったかたがおりまして。 不安定高めの私がnoteで心揺られる日々を送るようになり、おそらくとても危なっかしい空気を漂わせながら、しかもわりとストレートに寂しさを訴え、誰か助けてほしい、誰かの腕のなかで眠りたいとよく書いていました。 そんなことをそのまま書いてしまえるほど孤独で寂しくて苦しかった私を、noteで出会ったたくさ

わかっているけど、辛い~ネットからいなくなった人たち~

大好きな人たちが どんどんいなくなる 顔を出さなくなって 休むと言って 二度と見ないんじゃないかと不安になる そっとしておくのだけが思いやりなんだろうか 傷ついたとくたびれたあの人の、 アカウントごとない時もある しょせんネットなんだ わかっていても あの時の交わした言葉は 確かな気持ちだった 大好きだった人たちが何人もいる 大切な言葉を交わしたつもりだったけど 聞こえていなかったことになったのだろうか しょせんネット上の会話なんだ 二度と会えないだろう

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手のひら4つ分のキッチン。 #はじめて借りたあの部屋