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ゴジラの話がしたい #1 「孤児」というテーマ

『ゴジラ-1.0』の「-1.0」とはどういう意味か。

アカデミー賞視覚効果賞を受賞した 山崎貴監督『ゴジラ-1.0』


私の予想に反して、1947年;終戦から2年経って街並みがある程度できた頃の銀座をゴジラが破壊しにきた。

…というのも、題名の「-1.0」とは
焼け野原になった(ゼロになった)東京の街に
ゴジラが襲来する(更に破壊されてマイナスにやる)という事だと勝手に解釈してしまったのだ。
(イメージはNHKスペシャル 山田孝之の「戦後ゼロ年」シリーズ)


じゃあ「−1.0」ってなんなんだ?

ゼロじゃだめなの??



ポスターの悪意?

マイゴジの序盤で監督の意図を強く感じたシーンがある。

それは盗みをして追っ手から隠れていた典子(浜辺美波)と、典子の連れ子の明子を託された敷島(神木隆之介)が再会するシーンだ。

(美術の成績は5でした、異論は認めない。)


敷島と典子が会話しているちょうど後ろに「戦災孤児」についてのポスターが貼られているのだ。

ポスターが貼られているということは意図的にその小道具を作ったということであり、
スクリーン上で確認できると言うことは、
おそらく意図的に文字が読めるようにピントを調整してあるということ。

・戦争から帰ってきたら「生きて帰ってこい」と云った両親が亡くなっていた敷島
・空襲で両親を目の前で亡くした典子
・同じく空襲で親を亡くした明子

…なるほど、三人の孤児が出会ったわけだ。
しかしわざわざそれをわかるようにポスターまで入れる点に、私は引っ掛かりを覚えたのである。

喪失→再建→喪失と後悔

実は、孤児に関する表現はもう一つある。
この物語のターニングポイントになる大切なシーンだ

敷島が明子と共に留守番をするシーンの(銀座にゴジラが現れる直前)ラジオでかかっている「とんがり帽子」の歌に気づいただろうか

「とんがり帽子」とは1947年に放送されたラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌である。
このラジオドラマは戦災孤児救済のためのキャンペーンであり、復員してきた主人公と孤児の共同生活を描いた大ヒット作品だ。

作曲は朝ドラ『エール』で主人公のモデルになった古関裕而先生であり、実際にドラマの中でもこの曲に関するシーンが登場する。(若干史実と異なるとも言われる)

なぜそんな念押しするように孤児というテーマをいれるんだ??

Youtubeチャンネル「ホイチョイ的映画生活」のインタビューで山﨑監督は、キャスティングなどは朝ドラに影響を受けていると語っており、朝ドラネタの可能性は否めない。


しかし、このシーンは映画全体の転換点ではないだろうか。なぜなら、このの映画の中での「ゼロ」だからだ。

この映画の構造はこのようになっている。

A 特攻拒否
親の「生きて帰ってこい」という教えを守り、特攻を拒否して大戸島に不時着

B 「マイナス」 喪失
・ゴジラによる大戸島襲撃 仲間を救う勇気が出なかった自分
・空襲による家族の死
・「生きて帰ってきた」ことへの批判
敷島は自分の選択ではどうにもならないものによって全てを失う

C 「ゼロ」(疑似再建)
・たまたま明子と典子に出会う
・明子の健康という必要に駆られて仕事を始める
・成り行きで疑似家族を作っていく
敷島は生活を再建しているように見えるが、全て彼自身の望んだ選択ではない

D 「マイナス」 喪失
・またも自分の選択ではどうにもならないゴジラによって典子を失う敷島

E  「ゼロからプラスへ」 自ら再建
・自分の過去と自ら向き合い、橘と和解
・自らの意思でゴジラに立ち向かう問題を解決する敷島

AからCまでの敷島は、親の教え、ゴジラの襲来、時代の流れ、なぜか住み着いた典子
全て自分の選択ではなく、ただ受け身で状況が悪化、好転していく

しかし、Dでまたゴジラという不条理に出会うことで、その受け身によるツケ
(例えば、自分の戦争が終わっていないから典子を嫁にできなかったことなど)を自覚し、敷島は初めて真に自らの意思で行動をすることになるのだ。

『鐘の鳴る丘』のストーリーに出てくる、復員してきた主人公と孤児というのはまさに敷島と明子のことであり、
この平和な疑似親子のシーンはゴジラ襲来の速報によってまるで戦時下に引き戻される。つまり再び「マイナス」になる決定的なシーンである。
(この温度差は風邪ひいちゃうよ監督!!)
「ただ受動的に不条理に従うこと」と「自分の選択で未来を変えること」のちょうど転換点にもう一度孤児のメタファーを入れることで、この映画の意味を示しているのではないだろうか。



不条理なホームの喪失

思えばこの映画の主要登場人物は全員が「孤児」だった

それは額面通りに肉親を失ったということだけではない。
『この世界の片隅に』で玉音放送をきいたすずさんが「最後の1人まで戦うんじゃなかったんかね」と泣くシーンを思い出していただきたいのだが、
戦争と終戦によって「信じさせられてきたホーム、ネーション」を不条理に失ったということだ。

例えば、教育によって「軍国少年」というアイデンティティを確立したにもかかわらず、戦場に行くことのないまま戦争が終わり、その気持ちの置き所がなくなった水島

敵の米軍ではなく、正体不明のゴジラによって整備士の仲間を失い、ひとり生き残った橘

自分の開発した兵器によって仲間を犠牲にすることになったため「戦争の頃を思うと、眠れなくなる時があります」と語る学者こと野田
(パンフレット 吉岡秀隆さんのインタビューに記述あり)

または三人の子供を失った近所のおばちゃんの澄子や恐らく家族や仲間を失っている秋津
(パンフレット 佐々木蔵之介さんのインタビューより)

元駆逐艦「雪風」艦長という職を追われた堀田も作戦中はいきいきとしているし技術者として作戦に参加する東洋バルーンの板垣も「我々だって戦争帰りですよ」と終戦の「やり直し」を仄めかす。

家族、居場所、職業、アイデンティティ…終戦という自分の都合ではない国全体の出来事によって個人としての生き方の指針を失い、1人で歩くほかなくなった「孤児」たちの「やり直し」こそがこの映画の主題ではないだろうか

またある意味では、政府からも米軍からも支援が受けられない国民も 孤児 である

つまり「-1.0」とは「孤児」であること
即ち「心理的、物理的にホームから突き放された状態」を意味しているのでは無いだろうか

敷かれたレールから急に追い出されたとも言える

それを「ゼロ」ではなく「マイナス」として表現することに意味があったのだろう

情報統制、動きの遅い事案対応
何も変わらない国の犠牲者である我々は、もう一度心理的な終戦を迎えて整理をつけようというストーリー。

そのマイナスを自分の選択によって0にするのか、成り行きで0に無理やり戻すのか。
そこが問題なのだ。

例えば神山健治監督の『東のエデン』でも、1度日本を破壊することで戦後をやり直し、平和を取り戻すというかなり手荒な手法を使っているが、セオリーは似ている。

核の脅威や災害など、日本に平和を脅かす事件や不条理が起きるとゴジラ映画は必ずリメイクされる。ゴジラは不条理な変化によって受動的に自分たちの生き方を変えざるを得なくなった私たちに、不条理に甘えず、ラッキーに甘んじず、自分の力で変えてみせろという鼻向けの試練を与える存在なのだ。
ゴジラはある種の来訪神的な存在であり、もっと平たく言うと「叱ってくれる大事なひと」である。

「-1.0」とはそんなゴジラの本質をついた表現なのかもしれない

いやしかし、
やっぱり人間は二度マイナスに戻ってみないと、自分の力で手に入れる0の価値がわからないのか。愚かな生き物よ。

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