教養について
不思議なことに、我が国ではリベラルアーツがかなり軽視されているような気がしてならない。
この意見を表明するにあたって何点か予め弁明する必要がある。まず私は、日本以外の国に行ったことが1回しかない。それもすぐお隣の台湾だ。だから日本以外の国の高等教育がどんな風なのか見たことがないし、知識もない。
それはそれ、これはこれ。アヒルはアヒル、フ〇ックはファ〇ク。仮に諸外国がリベラルアーツを弾圧していたとしても、日本までそれに倣う必要はない。肌の白い人間のすることを崇める必要はない。
文学部にいる、と言う人間に対してのお決まりの返しがある。これは長年にわたる侮蔑的態度のあくなき研究と、生来生まれ持った下品な性根、そして恥ずべき無知の産物だ。すなわち「小説家にでもなるの?」という、お決まりのアレだ。
私は少なくとも10名からこの愚かな質問を受けた。いや、これは本当の意味での質問ではない。なぜなら回答が求められていないからだ。少なからず不快な思いをしたとか、回答に詰まってしまったとか、そういうところを見せればこういった手合いはの8割は満足してどこかに行く。あとの2割はもっと有害で、クソのような説教をしてくる。むなしいむなしい。
リベラルアーツというのは、悪名高いWikipediaによればこのような学問だ。「幅広い教養を身につけ、将来さまざまな分野で活躍できるような高い教養を有するバランスの取れた人間の育成」
実に素晴らしい。要するに、個別の専門技能に特化するのではなく、これから様々の能力を発揮するための素地をつけるのがこの学問の主たる目的なのだ。決しておとぎ話のご本を膝に置いて紅茶を啜ることが目的というわけではない。
ここで学ばれる内容は修辞学、論理学、クリティカルシンキング、道徳のほか、教養としての各学問などがある。これを学んだとて、明日から自活していくことは難しい。実にその通りだ。でも他の学問だってそうじゃないか。熱力学の博士号を取ったところで、いきなり社会に放り込んで翌日からバリバリ働けなどと期待はできない。
これ以後は、私の思い込みと偏見に満ちた内容だ。それがお嫌いであればすぐにこのページを閉じて、忌まわしい記憶を消し去ることをお勧めする。
日本社会は縦割りだということが、時折メディアによって喧伝されている。たぶん、これは本当だ。大学時代には学際的活動というものを見たことがなかったし、社会に出てからだって、部署間の連絡不足はJRの遅延並みに発生している。戦時中は陸軍と海軍で無駄な勢力争いがおこり、今では検察とマトリが余計なつば迫り合いをしている。
なぜこういうことが起こるのかと言うと、簡単に言えばこういうことだ。物理学者は物理学の言葉で話し、数学者は数式で話し、文学者は詩的言語で語り、官僚はお役所で定められたことだけを話し、政治家は見栄えのいい嘘を話し、大阪人は関西弁で話す。誰もその中を取り持たず、いわば同じ国のなかにあって、我々は同胞を理解しないようにして、お互いの間の溝を深く掘り進めることに熱心になっているのだ。
これが、専門的ですぐに役立つ学問を推し進めた結果だ。研究したことを、専門外の人間にも受け入れやすいように話すという技術がないために、専門技術は埒外の人間にとってはブラックボックスと化した。専門屋は大衆の無理解と無知さに苛立ち、研究費をうまくせしめることに情熱を燃やし、学内政治で余計な労力を費やすことになった。
誤解を恐れずに言えば、すべての人間関係は政治だ。
我々は自分が過ごしやすくするために、周囲の人の理解を必要とする。人の感情を自分の意図した方向へと向かわせ味方につけることができれば、集団の中で自然と有利な立場を得ることができ、発言力を増すことができる。
人間の感情に作用を及ぼす、ということを取り上げた特に古い文献として、アリストテレスが物語の作り方について著した『詩学』があげられる。この本の中でアリストテレスは、どんな登場人物が物語の主役にふさわしいか、どんな展開が受け手の心を動かすかを論じている。
これを応用すれば、自分が進めたいプロジェクトをどんなふうにプレゼンテーションすればいいか、といった作戦に役立つ。
そういうことを体系的に学べるというのも、リベラルアーツなのだと思う。悲しいかな、私はリベラルアーツといえるような包括的な教養を身に着けていない。私は文学と呼ばれるなかの、辺境の小径をつまづきながら通過しただけだ。
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