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非効率の縄文土器から学ぶ、効率より重視するものとは

やきものの展示会に行ってきた。


そこには新潟県内で作られていた陶器の数々が展示されていた。


色彩豊かな水彩画が描かれている壺があったり、逆にシンプルになにも描いてないと思いきや、少し凹凸をつけてセンスを出してきてる徳利があったり、派手なものからシンプルなものまで様々だった。いまやかつての焼き場のほとんどは消滅してしまった。


各地で作られ、その土地土地で特徴なり、精神性が見えるのは面白いと思った。


それらの焼き物のルーツは縄文土器に由来するだろう。もちろん土器の展示もあった。


先ほど、精神性というワードを出したがその点、縄文土器は圧倒的な精神性を誇る土器であることは間違いない。

筆者と縄文土器

火焔土器を見てみるとその紋様には度肝を抜かれる。だが、その土器の使いやすさ、効率は非常に悪い。だが、それ以上に土器を作った人物やその集落が精神性に重きを置いていたということは、その個人または集落の豊かな生活を象徴していたのではないだろうか。


壺や徳利、その他の食器なんかは完成品を買うのが当たり前になってきている。その全ては持ちやすい、握りやすい、運びやすいなど効率を重視したものばかり、もちろん便利で使い勝手はいいのだが、そこに豊かさはないと言えるのではないだろうか。


自分の皿は自分で作れとまではさすがに言わないが、陶芸や茶道などでその心を学ぶことができるはずである。故にそういったことに興じてみるのも良いのではないだろうか。


さぁて陶芸教室はどこにあるかなぁ〜

「HEY! Siri! 陶芸教室を探して!」

「・・・・」

「よし、ひとまず歴博へ通い詰めだな。」

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