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NOPE

ポップコーンは買わない。vol.129

消費することされること

我々の生活は経済活動、消費に支えられている

求められる仕事をして、お金を稼ぎ、生きるために必要なアメニティは外部化されているため、それを貨幣と交換して手にする。

それらのアメニティを我々は自分で作ろうとしなくなった。
料理が簡単な例だろう。外食、中食とも呼ばれ、家庭で料理をする頻度は全体で見れば減ってきているはずである。

娯楽においてもそうだろう。
かつては自分たちで賄ってきた部分があると思う。
例を挙げるなら祭りだろうか。
村の住民が自ら面を被り、舞い、他の住民を喜ばせる。それは特殊な人がやっていたわけでもないだろう。

そんな娯楽も、時間を経るにつれて、オフラインの存在から、カメラの中へ、スクリーンの中へ、そしてテレビの中へ、今はスマホの中へ集約されていった。

集約されていくと、コンテンツはものすごい膨大な数になる。
そういった中で、倍速再生なんかは現象として現れてくるのだろう。

ファスト映画という言葉は昨今よく聞くようになったが、まさに映画も鑑賞するのではなく、消費するという動詞に置き換わってくるのか?と思うと、違和感を覚える。

本作に登場する未確認の飛行怪物は視聴者やソーシャルメディアなど、消費する側の立場の比喩であると言われている。

目があう、つまり互いに認識しあった途端消費が始まり、食っては捨てられる。それもすごい早さで。タイパで生きている大衆の化身。

それを主人公の兄妹は撮影して、バズろうとしている。

手回しのIMAXカメラで撮ろうとするのだが、最終的にそれとは真逆の手法で撮影に成功するのはアイロニカルな感じがした。

商業的成功と表現したい世界観

ジョーダン・ピール氏が今回のNOPEを作ることができたのは、「ゲットアウト」の成功があったからと言われている。

NOPEは商業的な成功を求めて作られたかと言われるとそうでもないような気がしている。なぜなら、監督の好きをやりたい放題に詰め込んでいるから。

ゲットアウトでの商業的な成功を納めたが故に、作品の資金調達も可能にし、なおかつ、注目度も上がるからある程度の収入も見込めるとなれば、自分が表現したいことをさらに出すことができるのは、日本でいうところの宮崎駿氏にも近いところがあるんじゃないかと思う。

宮崎氏の作品の中に「風の谷のナウシカ」がある。これは、アニメージュでの連載があって、映画化、公開後も連載が続けられた。映画になった部分は7巻あるうちの2巻の途中まで。

実はそれから先の方が、テーマとしては重要で、宮崎氏の真髄がある。

映画になっている部分は正直、序盤も序盤で物語のほんの表面しか触れることができていない。

ジョーダン・ピール氏にも作家性があって、それは作品に通底しているテーマがある。

作品を通して貫徹する価値は映画の中だけに収める必要もないと思っている。もちろん、収まるならそれでいいと思うが、そうでなかったら、文章なり、別撮りスピンオフだったり、違う形で表現してもいいのかなって思ったりする。手段によって受け取られ方が違ってしまうのも悲しいのでなんともいえないけれどね。

最後に

我々もこういった作品群を消費するばかりではなく、どうやって受け取った時の気持ちを表現したらいいかを考えるべきである。

消費は経済を、物質を、豊かにすることもあるが、逆に精神的な部分、道徳的な部分を無視してしまうことも出てくる。そうであってはいけない。
外見の装備ばかりが充実して、結局精神的な装備は丸腰だったら、恥ずかしい気もするしね。

ただ筋を受け取るだけのファスト視聴はやめて、まずは画面の隅から隅まで、自分が好きだと思えるシーンを一つ見るところからはじめてみる。そしてそのシーンを深堀していくのもいいかもしれない。


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