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コミュ障はうまく手段を使いこなせていない証拠〜コーダあいのうた〜

ポップコーンは買わない。vol.117

コーダ あいのうた


はじめに

耳の聴こえない両親と兄貴、健常者で歌が大好きの主人公ルビー。

その才能を教師に見出され、音楽大学への進学を勧められ、それに向けたレッスンを開始する。

しかし、ルビーの家族はルビーの手話と言葉による翻訳がなければルビー以外の健常者とのコミュニケーションを取ることができない。家族を置いて、大学を目指すことなんてできないと思いつつも自分の可能性、やりたいことに全力で取り組みたいという気持ちの葛藤が描かれる。

家族は当然ルビーの歌声を聴くことができない。ルビーは大学に進学することができるのか、もし合格したら家族はどうなってしまうのか。

健常者にとっては、声が出せること、耳が聞こえること、相手の目や雰囲気を見たり感じたりすることでコミュニケーションが成り立っていると思い込んでいる。それは間違いなのかもしれない。
なにも口から発する言語を覚えることが全てではないのだ。むしろコミュニケーションにおいては言語の以外の要素の方が多いことがわかる。

ろう者にとっては、耳が聴こえない、話すことができない、コミュニケーションの手段は手話をはじめとしたボディランゲージと目、あとは雰囲気と限られた手段で相手に気持ちを伝えなくてはいけないのだ。

限られた手段の中で、手話や目、気持ちという術をフルの力で活用すればその壁は乗り越えられるのだ。

我々は手段があるが故に意識しないと、どのパーツにコミュニケーション力を注力していいのかわからず、結果として弱いコミュニケーション、コミュ障という現象が生まれてしまうのではないだろうか。。

それは受け取る側のリテラシー、心構えも重要で、これからの時代、手話は健常者にとっても重要な要素になってくるかもしれない。


クライマッチョの手話シーンは性愛に溢れている

前回紹介したクライ・マッチョでは言及してないかもしれないが、この作品でも耳の聞こえない女児が登場する。イーストウッドはなんなく手話を使いこなし、容易にコミュニケーションを図ることができた。
その姿をみた相手役の女性はイーストウッドにちょっとずつ心を引き寄せられていくのだ。

これは性愛だ。
いやらしい気持ちのみではなく、身分や年齢、障がいの有無に関係なくその人とすんなりとコミュニケーションをとることができるのは、性愛能力の高さを意味すると思う。

ルビーも生まれながらにして性愛能力が高いのだと思う。
幼少の頃から、手話と言語を駆使したコミュニケーションをおこなってきたために相手をおもんばかる力は長けているのだ。


おもんばかる力の不均衡が生んだ恥ずかしい事件

相手役のフェルディア・ウォルシュ=ピーロ演じるマイルズが歌の練習でルビーの自宅で練習している最中に、両親が、激しく求め合っている時に、(両親は耳が聞こえないからマイルズが来ていることは知る由もない。)その営みに気づいてしまい、ルビーはめちゃくちゃ恥ずかしい思いをしてしまう一方で、そんな滅多にない状況を目の当たりにしてしまったマイルズはとくダネのごとく友人にそのエピソードを話してしまったのだ。

クラスメイトに秘密がバレた時、ルビーはマイルズを強く突き放してしまう。これは完全にマイルズが悪い。私だったら少し意識している女性の自宅でそのようなことになったら嫌われたくないからむしろ保っておくことを選択するはずである。

そんなマイルズの無神経なところに疑問を感じてしまわざるを得ないが、あれはルビーの性愛力の高さゆえの事件だったのだろうか。他の人物にとっては非常識な家庭構造であるから、想像することの難しさがあるのかもしれない。そう捉えないと納得はできないかもなぁ。


秀逸な楽曲たち

本作の魅力を語る上で触れておきたいのが、いくつも登場する名曲の数々。

マイルズとルビーがデュエットで歌唱するのが、
マーヴィン・ゲイとタミー・テレルの
「You're All I Need To Get By」

そしてもう一つ、
ジョニ・ミッチェルの
「Both Side Now」

この曲は後半部分で重要な立ち位置を占めている。

他にも、クラッシュやシャッグス、dale chafinなど、甘い曲以外にもパンクやブルースなどが登場したのはググッと掴まれる要素の一つだった。

最後に

後半から終盤に従って、コメディでありつつも涙をさそってくるのはまんまとハマってしまったと思ってしまいましたが、これは感動せざるを得ない。

この構造ってあんまり良くないよね。

障がいと、健常の隔たりがあるという前提で成り立つ構造だから。

コーダという言葉にはろう者の親を持つ子供という意味の他に、
楽曲において独立してつくられた終結部分をいい、しばしば主題部とは違う主題により別につくられているものを指す。日本語では「結尾部」「結尾句」「終結部」などとも記されるらしい。

これで終わってしまってはならないだろう。

フィジカルのバリアフリーとは対照のこととして、精神的なバリアフリーも考えなくてはいけないのかも。

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